煌月の鎮魂歌1

 

 

1 煌月の鎮魂歌 prologue 1/22015/02/25() 09:03:07

PROLOGUE 一九九九年 七月


 白い部屋だった。
 彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
 ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、
それらはみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、
遠ざかり、近づいてはまた離れていった。
 自分は誰なのか、あるいは、何なのか。
 生きているのか、死んでいるのか。
 ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわから
なかった。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらは
すべて彼の知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど
変わりのない単なる事実でしかなかった。
 ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
 そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、
暗黒の中を駆け抜けていった。
 そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり
哀しげな蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
 夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、
小さなひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのか
どうかあやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
 何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。

2 煌月の鎮魂歌 prologue 2/22015/02/25() 09:04:02

 ……光がさした。
 白い空虚の中に、一筋の、銀色の光が射し込んできた。
 彼はまばたき、自分に、目があったことに気がついた。まぶたがあり、顔があって、
顔には頬があり、その頬に、冷たく柔らかい銀色の月光が流れ落ちていた。
 夢の中の月が、自分を見下ろしていた。
 彼は口を開けた。
 何かが喉のすぐ下まで上がってきて、つかむ前に消滅した。苦痛と、それに倍する
どうしようもない胸の痛みが突き刺さってきて、彼は思わずうめき声をあげた。
「動かない方がいい」
 ごく低い声で、月は言った。その髪と同じく、やわらかく、ひやりとした、透き通る
ような銀色の声だった。
「お前はひどい傷を負った。命を取り留めたのが奇跡だと言っていい。自分の名は
わかるか? 言ってみろ」
 もう一度口を開けようとしたが、声は出なかった。彼の中には空虚しかなく、答えに
なるような何物も、そこには残っていなかった。
――わ、から、ない」
 ようやく、そう言った。
 月の白い顔に、かすかな翳が走ったようだった。
「本当に、わからないのか」
 しばしの間をおいて、思い切ったように月は言った。
──私の、名も?」
 わかる、と叫びたかった。わかる、あんたは月だ、夢の中でずっと俺のそばにいた。
 だがそれもまた、言葉になる前にこなごなにくだけて白い闇の中にのまれていった。
彼はただ弱々しく首を振った。
……そうか」
 銀の月はつと視線を外した。
 長い髪からのぞく肩がかすかに震えているように思えて、彼は思わず手を伸ばそうと
したが、やはり身体は動かないままだった。全身が包帯に包まれ、ベッドに縛りつけ
られていることに、彼は突然気がついた。
 ここは病院だ。俺は生きている。そして怪我をしている。
 だが、何故だ。
 俺は、誰だ。
「あんた…………誰だ」
 ようやく声を絞り出して、彼は言った。
 銀の月は目を上げ、彼を見た。その蒼い瞳に、夢の中と同じ哀しみが浮かんでいる
のを見て、彼の胸は貫かれるように痛んだ。
「そのことはあとで話そう」
 低い声でそれだけ言って、月の髪をした青年は立ち上がった。
「今はまだ眠れ。傷が酷い。考えるのは、身体が治ってからでも遅くはない。ゆっくり
養生しろ」
 違う。待ってくれ。
 そう声にしようとしたが、その前に、全身が砕けるような痛みが走った。白い闇から
あわてたように影が一つ走ってきて、肩を押さえてベッドに押し戻そうとする。
(だめですようごかないであなたはなんどもしにかけたんですよだれかちんせいざいを)
 うるさい。うるさい。
 俺はあいつを知ってる。俺はあいつを知ってるんだ。
 言わなければ。ちゃんと言わなければ。忘れたりなんかしていない、と。約束した、
俺はおまえを、おまえを、おまえ、を。
 腕に注射針が突きささり、流し込まれる薬液が視界に霞をかけていく。伸ばそうと
した手は無理やり下ろされ、点滴の管が突き立てられる。
 銀の月は哀しい目をして立ちつくし、闇のむこうから自分を見ている。
……ア、ル、)
 引きずり込まれるように意識が暗闇に包まれる。
 ──最後まで見えていたのは、仄かに輝く銀色の月と、哀しみをたたえた、二つの
青い瞳。

 

 

3 煌月の鎮魂歌 & cog2T/Z1mk2015/02/25() 09:13:48

 T   一九九九年  一月

          1

 黒いリムジンは油のようになめらかに素早く、音もなく、ごみだらけの路地に
滑りこんできて停止した。
 ドラム缶に焚かれた火に集まった汚れはてた集団がわずかに身じろぎし、その場
で口を開けた。磨き上げられた車体が、ビル群の向こうで燃え尽きかけている陽光を
鈍く照り返していた。ちりひとつないスモークガラスの窓に、いくつかの黒い顔、
汚れた顔、なにもかもに疲れ果て荒みきった人々の、度肝を抜かれた顔が亡霊のように
映っていた。冬のさなかの寒風が切れた電線をかすかに揺らしていた。
 ドアが開いた。光があふれ出したようだった。
 魅入られたように固まっている住人たちの口から声にならないためいきが漏れた。
 曇天の下でも自ら光を放つような月の色の銀髪だった。氷河の底の青の瞳と抜ける
ように白い顔、通った鼻筋、小さく形のよい唇。
 それらが造化の神が自ら丹念に手を下したとしか思えない完璧さで、細面のなめら
かな顔に収まっていた。あわい睫毛が氷青の瞳の色をわずかに煙らせ、非人間的なまで
の美貌の近寄りがたさをかろうじてやわらげている。ゆるく波打った長い銀髪は上質な
黒いスーツの肩に背に散りかかり、均整のとれた長身が動くたびに霞のようになびく。
息の止まるほどの美貌はともすれば女性的とさえ見えるものだったが、おだやかな、
だが強い意志が結ばれた口もとと伏せた瞳に現れ、そのしなやかな体にはあなどり
がたい力が秘められていることを告げていた。
 青年は大型の猫のように優雅な一動作で路肩に降り立ち、振り向きもせずに低く
告げた。
「ここから先は一人で行く。お前たちはここで待て」
「しかし」
 運転席の男は困惑したように体をねじ向けていた。ほかにも数名の黒いスーツの男
たちがリムジンの座席に並び、困惑したように目と目を見交わしていた。
「ラファエル様からは、けっしてお一人にしないようにと──
「彼には私だけで会う」
 青年ははっきりと言った。他人に命令することに慣れた者の口調で、ただ口にすれば
相手が従うことを知っている声だった。運転手は口をなかば開けたままの状態で
固まった。
「私は自分の身は自分で守れる。知っているはずだ。それに」
 ひと息おいて彼は言った。
「会わねばならない相手は、おそらく護衛をぞろぞろ連れた使者など信用しないだろう。
彼は私ひとりが対せねばならない相手だ。心配ない。私のことより、彼がこの要請を
受けてくれるかどうかを心配するといい」
「アルカード様、しかし」
 だがすでに会話は打ち切られており、青年はリムジンを離れて、ごみと汚物にまみれた
穴だらけの街路をすべるように歩き始めていた。

4 煌月の鎮魂歌 2/102015/02/25() 09:15:25

 ──アメリカ、ニューヨーク、一九九九年。
 新しい千年紀を控えて、世界一の超大国は目に見えない経済と策謀、富と貧困の
高楼の上で揺れていた。
 陰謀好きの人々は古来から取りざたされる『一九九九年の魔王』に恐怖と期待の胸
をときめかせ、コンピュータ・エンジニアは迫る二○○○年問題に頭を悩ませ、信心
深い人々は祈り、そしてほとんどの人々はなにも気にかけることなく、普段通りの
生活を楽しんでいた。
 だが、この街には世紀の終わりなど関わりのないことだった。
 住人にとってはここが世界の始まりであり、終わりであった。
 ハドスン川を挟んだ対岸には、世界の経済と富を吸い込み吐き出す心臓であるマン
ハッタンがうずくまる。世界の冨の象徴であるツイン・タワーの影に見下ろされながら、
だが、ここにあるのは赤色砂岩の崩れかけた共同住宅、失敗したドミノ倒しのように
傾いたバラックの山、度重なる放火のために黒こげになったなにかの残骸だけだ。
 灰色のコンクリートやへこんだシャッターにはスプレーで卑猥な言葉や髑髏やスト
リート・ギャングの名前が殴り書きされ、下地などほとんど見えない。アスファルトは
ひび割れ穴があき、下水と糞尿の臭いが常に漂っている。ときおり姿を見せる住人
たちの目は一様にどろりと濁り、光を失っているか、逆に肉食動物のように飢えに
ぎらつき、油断なくあたりをうかがっている。
 赤黒い血だまりがまだ乾ききらずに、壁や地面に残っていることなど日常の一部に
すぎない。殺されたばかりの死体すらも例外ではない。そうした死体はすぐに衣服を
含めたすべてのものを身ぐるみはぎ取られ、時には死体そのものすらもどこかへ
運ばれて消え失せる。ここは都会の中のジャングルであり、住んでいるのはただ肉食の
獣と、その餌食となる者だった。弱肉強食がここでは法律の代理だった。光り輝く
高層ビルや、ネオンきらめくブロードウェイの夢とは、ここは無縁の別世界だった。
 ニューヨーク、サウス・ブロンクス。数あるニューヨークのスラムの中でも最悪の
ひとつに数えられる危険な一角。
 住民の多くは夜行性の生き物のように昼間は姿を隠しているが、夜の闇とともに、
街はゆっくりと目を覚ます。消えかける陽光に呼ばれるように、すでにいくつかの
バーやいかがわしい店にはけばけばしいピンクや蛍光イエローのネオンがまたたき
はじめていた。
 ヤンキースの帽子をまぶかに引き下ろした男たちが、だぶだぶのズボンのポケットに
手をつっこんで、所在ない様子を装いつつ客を待っている。ズボンのあらゆる場所には
粗悪な各種の薬物が隠されている。騒々しい音楽の流れてくるバーの入り口には、
すでに泥酔した男が陸揚げされた魚のように長々と延びている。街灯の下で落ちつき
なく身を揺すり、ブツブツとなにかを呟きつづける男の指には、カチャカチャと音を
たてる折りたたみナイフがせわしなく弄ばれている。

5 煌月の鎮魂歌 3/102015/02/25() 09:16:04

 ゆっくりと降りてくる夕闇と同じように、青年は足音もたてずにこの夜のジャングル
へと踏み込んでいった。
 たちまち街が身じろぎし、数十の視線がいっせいに向けられた。
 ここでは侵入者は敵か、あるいは犠牲者のいずれかだ。この怖い者知らずはどちら
なのか、警戒の、あるいは貪欲な捕食者の目を向けようとした彼らは、次の瞬間、
まぶしすぎる光をあびた鳥のように凍りついた。
 崩れかけた戸口にもたれた飲んだくれは、安いジンの瓶を口まであげかけたまま
動きをとめた。ポケットの小型拳銃をさぐっていたストリート・ギャングはいつも
のように値踏みすることすら忘れて、ただぽかんと突っ立っていた。ぼろにくるまって
暗がりに寝転がっていた麻薬中毒者は、薬の夢に迷い込んできた光り輝く幻影にただ
恍惚とした。段ボールをかぶったホームレスは垢まみれの手をふるわせ、胸をさぐって、
ひび割れた唇で、長年忘れていた神の名を呟いた。
 派手な看板のポルノ・ショップや、割れた街灯の下で手ぐすね引いていた娼婦たちは
湯を浴びたように真っ赤になり、それから紙のように青ざめた。荒れた生活と薬物に
痛めつけられた顔を化粧でぬりこめた彼女たちにはとうてい太刀打ちできない、足もと
にすら寄れない美貌に、誘惑どころか嫉妬すら許されないことを知ったからだった。
 青年は静かに、美しい影のように街路を進んでいった。
 躓くことも、よろめくこともなく、アスファルトがはがれ凹み穴だらけの汚れきった
街路も、彼の歩みを邪魔することを恐れるかのようだった。
 黒人とヒスパニックとイタリア系移民がせめぎ合うこの地区で、まばゆいばかりに
白い彼の肌と輝く銀髪はそれだけで異質だった。一目で高級品とわかるスーツや靴も、
身ごなしにそなわる優雅さも、すべてが彼をこの世界から浮き立たせていた。またその
美貌も。
おそらくヨーロッパ系であろうとだけは思えても、それ以上はどことも見当のつけよう
がない。人間離れしたとさえいえる、あたりを圧倒するばかりの純粋な美だった。
 彼の周りだけは別世界のように、空気すら変わった。充満している腐ったごみの
悪臭や強烈な安酒の臭い、酔っぱらいの吐瀉物の酸っぱい臭気、汚れた人間の体や排泄物
がつまった、一息吸っただけで息の詰まりそうな空気も、彼には道をあけた。人間世界
のどんな汚穢も、この美しい生き物には指一本触れられないように思われた。晴れた日
の快い草原を進むかのように、彼の足は軽やかで着実だった。
 半壊し、錆びて煤けた鉄骨をさらした廃墟の前で、彼はふと思いついたかのように
足をとめた。
 氷青の瞳があたりを見回し、道の向かい側で、膝にビールがこぼれるのも気がつかずに
唖然としている老人の上で止まった。
 軽い一歩で陥没した道路をのりこえ、次の一瞬には老人の前に立っていた。歯も抜け、
ほとんど毛髪を失った頭をぼろぼろの毛糸の帽子で覆った老人は、いきなり天使の訪問
を受けた放蕩息子のように、のどの奥で息を吸う音を立てて身を引いた。
「訊きたいのだが」
 やわらかな、心地よい声音で天使は言った。
「ユリウス・ベルモンドという男を捜している。どこに行けば会えるか、知っていれば、
教えてほしい」

6 煌月の鎮魂歌 4/102015/02/25() 09:16:53

「ユ、ユリウス・ベルモンド? ジェイ──あの〈赤い毒蛇〉の?」
 老人はあえいだ。
 その名を聞きつけた周囲からざわめきが波のように広がり、明らかな動揺と恐れが
確実にあたりに浸透していった。青年の美しさに対する畏怖にも似た沈黙ではなく、
あからさまな嫌悪と、それに倍する恐怖の輪が色を失った顔や身震いする肩となって
現れた。
「あ、あんた、あんたが何者かは知らんが、あの男には近づいちゃいかん」
 老人はしぼんだ風船のような顔をまじりけのない恐怖にこわばらせ、わななく手で
青年の袖をつかもうとした。手から放れたビール缶が転がりながら階段を落ちていく。
そちらへは目を向けもせず、すがるように、
「あいつは悪魔だ。本物の、地獄から這い出てきた悪魔なんだ。あんたみたいなよそ者
が会えるような相手じゃないし、会っちゃあいかん。もし会えたとしても、そいつは
悪魔の口に自分から頭を突っ込みにいくようなもんだ。あんたみたいないい服を着た、
金持ちの美人は特にだ。あっという間もなく一口に食われちまう。五体満足でここから
歩いて出て行きたかったら、あいつにだけは、会っちゃあいかん」
「どこにいる?」
 震える声で告げられた警告を風のように受け流して、青年は繰り返した。長い睫毛
の下の瞳が光の加減か、わずかな金色をおびてきらめいたと見えた。
 老人はびくっと身をひきつらせ、「聖クリストバル教会」と、何者かに背を押された
かのように答えた。
「四十一丁目の真ん中あたりにある、というか、あった。最後の司祭が逃げ出してから
もう何年も経つ。今じゃ見る影もない。その教会跡を根城にしてるんだ。神の家だった
ところが、最悪の悪魔の棲処になっちまってる。行っちゃあいかんよ、あんた、行っ
ちゃあいかん。自殺しに行くようなもんだ。あの男にはかかわらんほうがいい、本気で
言ってるんだ。あいつは悪魔なんだよ、あんた」
「悪魔の相手には慣れている」
 青年は老人が思わずびくっと背筋をのばしたほど、優美な笑みを片頬に浮かべて
すぐに消した。
「邪魔をした。感謝する。聖クリストバル教会、だな」
 いつのまにか手にしていた新しいビール缶をそっと老人の手に握らせ、青年は身を
ひるがえした。長い銀髪が翼のように宙に躍った。
 缶をにぎらされたことにも気づかないまま、老人は何か異世界の者に触れられた
ような魂の抜けた顔で、しなやかな背中を見送った。
「行っちゃあいかんよ、あんた!」
 ようやく我に返って、老人はしわがれた声をあげた。
 だがその時にはもはや青年の姿はなく、いつも通りの腐りはてた街の、悪臭と汚濁に
満ちた街路が怠惰に広がっているばかりだった。

 数十分後、青年はすっかり暮れた街角の影の中に、ひそやかに佇んでいた。
 通りの向かいには発狂した神の家があった。少なくとも、中にいる者はそう装ってい
た。焦げ崩れた石壁には隙間なく、これまで見た中でもっともひどい涜神と冒涜と卑猥の

7 煌月の鎮魂歌 5/102015/02/25() 09:17:27

かぎりをつくした言葉がスプレーされ、骸骨や死神や尖った尻尾の悪魔が炎の中で踊り狂っていた。
 頭が割れんばかりの音量でラップ音楽が鳴り響いている。ちかちか光るLEDライトが崩
れ落ちた屋根から壁、外れたままの扉、地面のそこここにまで這い回って、あたり一帯
を狂人が飾りつけたクリスマス・ツリーのように極彩色に染めている。明滅する影の中
にひときわ大きく、念入りに縁取られた文字、〈RED VIPER〉が揺らめいた。
 かろうじて残った尖塔のてっぺんには、もぎとられたキリストの磔刑像がさかさまに
くくりつけられていた。同じくLEDライトにぐるぐる巻きにされた逆さまのキリストは、
蛍光ピンクに輝くLEDの冠を茨のかわりに頭に巻き、白目をむいて舌をつきだした嘲笑の
顔をさらしていた。腰布にはピンクの冠と同じく蛍光するピンクのディルドがとりつけら
れ、地面に向かってそそり立ったまま、うねうねと卑猥な動きを繰り返している。まるで
このキリストの戯画が、腰を動かして誘いをかけているかのように。
 にたにた笑いに裂けた口をゆがめる悪魔の、三つ叉フォークに突き刺された人間の稚拙
な絵を眺めて、青年はかすかに口もとをゆるめた。がんぜない子供の落書きを見るかのよ
うな、かすかな呆れと諦観のないまぜになった微笑だった。影から歩み出て、青年は最後
の通りを越えた。
 それまで息を殺していた者たちの間にたちまち緊張が走った。黒人、ヒスパニック、ニ
キビ面のイタリア系。おそらくざっと三十人。
 無関心を装って壁にもたれていたもの、階段に腰掛けて煙草をふかしていたもの、トラ
ンプ博打に精を出しているように見せかけていたもの、それら人の形の獣たちが、いっせ
いに警戒の牙をむいて立ち上がった。
「あんた、道をまちがえてるぜ。どこへ行くつもりだったんだか知らねえが」
 煙草を吸っていた男が痰といっしょに吸い殻を吐き捨てて言った。
「どこのもんだ? トニー・マーカスの奴か、〈ブラックシェイド〉のくそがきどもか、
それとも使命感に燃えた新米ソーシャルワーカーが、深夜のブロンクス訪問てとこか」
 一分の隙もないスーツとなんの動揺も浮かべていない美貌をなめるように見上げる。
「いや、違うな。あんたはどうもここに属するような人間じゃない。何しに来た? ここ
が〈赤い毒蛇〉のシマだとわかって来たんだろうな」
「それとも、俺たちのお楽しみに混ぜてもらいに来たのかい?」
 汚れた作業ズボンに片手をつっこんだ男が荒い息を吐いた。青年が近づいてきたときか
ら、男の目はその驚くべき美貌に釘付けだった。ズボンにつっこんだ手が股間のあたりで
せわしなく動いている。
「そんなら歓迎するぜ。あんたとなら楽しそうだ、いろいろとな」
 下卑た笑いが重なった。「べっぴんさんだ」トランプのカードを叩きつけた小男が黄色
い声を張り上げた。

8 煌月の鎮魂歌 6/102015/02/25() 09:18:13

「べっぴんさんのお金持ちだ。お嬢ちゃん、ここはお散歩に向いてる場所じゃねえぜ。俺
たちと遊ぶ気がないんなら、早いとこ後ろを向いて逃げだしな。まあ、間に合うかどうか
は保証しねえがな」
 どっとまた笑いがあがった。LEDのまたたく光にちらつく暗闇から、じりじりといくつ
もの人影が近づきつつあった。どれも荒い息を吐き、手にナイフやメリケンサックをちゃ
らつかせ、飛び込んできた『お楽しみ』を隅から隅まで味わい尽くそうと手ぐすねひいて
いる。
「ここにユリウス・ベルモンドがいると聞いてきた」
 青年は澄んだ声で言った。水晶を叩いたように、揺らぎも曇りもない声だった。
 ちんぴらどもの動きが凍りついたように止まった。
「用のあるのは彼だけだ。彼と話がしたい。ここにいるのなら、会わせてほしい」
……てめえ、死にてえのか」
 気圧されたような沈黙を破って、ようやく一言、顔面に傷のある黒人男がうめくように
言葉を吐き出した。
「ここじゃその名前は口にしねえことになってんだ。ジェイの野郎に聞こえてたら、てめ
え、どうなるかわかってんだろうな」
「ジェイ。ユリウスのことか」
 青年は氷河の青の瞳を相手に向けた。
 麻薬と酒で血走ったちんぴらは理由のわからぬ突然の恐怖におそわれ、息をのんで一歩
後ずさった。
「ここにいるのか、ユリウス・ベルモンドは?」
……そ、その名前を、口に出すんじゃねえ、クソ野郎が!」
 男たちがいっせいに動いた。LEDライトにナイフがきらめき、懐から拳銃が次々と現れ
た。メリケンサックを両手にはめた男がわけのわからぬ叫び声をあげながら突進してきた。
 青年はそよ風を受けるようにそれを受け流した。ほとんど動いたとも見えなかったの
に、メリケンサック男は空を切った拳の勢いのまま、とっとっとよろめき、信じられぬ
ように後ろを振り返った。
 青年はさきほどとほとんど変わらない位置に、変わらない姿勢で立っている。冷たく整
った顔には、髪の毛一筋の変化もない。
「こ、コケにしやがって──
 四、五人の男がいっせいにナイフを抜いて飛びかかった。背後でさらに拳銃を持った者
が引き金をひいた。連続する銃声とナイフの鈍い光が交錯した。硝煙がさかさまのキリス
ト像にまで立ち上った。

9 煌月の鎮魂歌 7/102015/02/25() 09:18:47

「おう……!?
 夢中で弾を撃ち尽くした男は、マガジンを手探りしようとして背筋に走った戦慄にはっ
と顔を上げた。
 天空の月の貌が間近にあった。かすかに金のきらめきを宿した瞳に見つめられ、男は自
分がはげしく勃起するのを感じた。白い指が手に添えられ、拳銃ごと指をつかむ。繊細な
指先の感触を夢のように感じた次の瞬間、すさまじい激痛が脳天を貫いた。
 女のような泣き声をあげて男はその場を転がり回った。拳銃ごと握りつぶされた手を胸
に抱き、恥も外聞もなく涙と鼻水を垂らしながらのたうちまわる。股間からじわりとアン
モニア臭のする染みが広がる。
 背後からやみくもに突きかかってきたナイフの嵐の前で、銀髪が優雅に翻った。
 目標を見失ったナイフ使いはお互い同士でぶつかり合い、相手の肩やら腕を突き刺すこ
とになってもつれ合って倒れ、呪いの声を上げた。
「う、撃て撃て! 撃ち殺せ! 蜂の巣にするんだよ!」
 やけになったような声が響いた。
 呆然としていた残りの男たちは、あわてて内懐をまさぐった。火線が集中してゆらめく
月の影をねらった。
 夢のように影は解けた。長い銀髪を光の靄のように一瞬まぼろしに残して、鉛弾の雨を
すり抜けた。
 男たちがぎょっとして息を吸い込む一瞬に、輝く姿は頭上にあった。ゆったりと、人魚
が泳ぐように身を翻して、軽く手を打ち払ったように見えた。あるいは指をひとつ曲げた
だけだったのか。
 正確なことは誰にもわからなかった。ただ、わかったのは次の瞬間に、その場にいた人
間の持っていた武器はすべて払い落とされ、ある者は腹部、別の者は頭部、頸部、背中、
手足とそれぞれ動きを封じる部分を痛打されて、その場に崩れ落ちていたことだけだった。
 青年はふたたびもとの場所に静かに立っていた。その場を動いたことも、襲われたこと
もなかったかのように。周囲に崩れ落ちて苦鳴をもらしている男たちだけが先と変わった
部分だった。
「ユリウス・ベルモンドに会いたい」
 穏やかに青年は繰り返した。
「それが私がここに来た目的だ。邪魔をしなければ何もしない。用があるのは、彼にだけだ」
「ジ、ジェイ! ジェーイ!」
 だらしなく四肢を広げてひっくりかえった男がわめいた。ぼさぼさの頭を狂ったように
振り立てて、
「ジェイ、来てくれ、ジェーイ! よそもんがお前を──
「うるせえな。聞こえてるよ」
 崩れかけた教会の戸口で、うなるような声がした。
 もがいていてた男はぴたり動きを止めた。銀髪の青年はゆっくりと首をめぐらせてそち
らを見た。ゆるくウェーヴのかかった髪が雲のように広がる。

10 煌月の鎮魂歌 8/102015/02/25() 09:19:23

 ひび割れた戸がまちに肘をよせかけて、若い男がだらしない格好でよりかかっていた。
 半裸で、ひきしまった上半身には何もまとっておらず、細いレザーパンツをはいているだけだった。ごついコンバット・ブーツを半分ずりさげるようにしてひっかけており、腰
の後ろに、たばねた縄のような輪が見えた。うんざりしたように髪をかきあげて、地面に
這った手下どもをあきれ果てた顔で見下した。
「せっかくいい気持ちで寝てたのに、バンバンドカドカ騒ぎ立てやがって。ぶちのめして
やろうと思ってたらこの始末だ。せめて俺が出てくるまで待てなかったのか、え、犬ども」
 そげた頬ととがった顎をした、剃刀めいた印象の顔だった。高い鼻の両側の目は青く冷
たく、深く落ちくぼんで燐光を放つように見えた。長い髪は赤く、まっすぐで、寝ていた
ことを明かすようにばらばらに肩から腰へと乱れかかかっている。
 やせていたが、むきだしの上半身は無駄のない筋肉にきっちりと覆われていた。穏やか
な表情であれば整った顔立ちといえただろうが、夜の中でも燃えているような、両目の冷
たい火がそれを裏切っていた。
「ご、ごめんよ、ジェイ、ごめんよ」
「さわるんじゃねえよ、クソ犬が」
 足もとへ這っていって手を伸ばそうとした男を蹴り飛ばし、無造作にコンバットブーツ
を踏みおろした。枯れ木を砕くような音がして、男はかぼそい悲鳴をあげた。
 踏み砕かれた手を抱えて苦悶する手下を見もせずに、ジェイと呼ばれた赤毛の男はさら
に一歩踏み出してすかすように前を見た。視線の先にはかわらず静かな、月色の銀髪の青
年が佇んでいた。
「ずいぶん毛艶のいいおぼっちゃんだな」
 あざけるように彼は言った。
「その格好で誰にも身ぐるみはがされずにここまで来たとは見上げたもんだ。しかし、あ
んたみたいな細っこいのに足もとすくわれてちゃ、こいつらも大したことはねえな。まあ
いいさ、こいつら腰抜けのことはあとで始末する。で」
 冷ややかな青い瞳がきつく細まった。
「あんた。何者だ」
──おまえが、ユリウス・ベルモンドか」
 問いには答えず、青年は静かに言った。
 息のつまったような沈黙が落ちた。
 強い恐怖があたりにみなぎり、倒れて傷の痛みに悶えていた男たちも、一瞬苦痛を忘れ
て動きをとめた。
 赤毛の男はしばらく沈黙していた。垂れた前髪が表情を隠していた。薄い唇が笑みに似
てはいるが、それとはまったく違った何かを浮かべた。
「なあ、知ってるか、あんた」
 陽気と言っていい声で彼は言った。
「俺の耳にはいるところでその名を口にした奴は死ぬんだ。俺が特別、機嫌のいいときに
はな」
「では、悪いときには?」

11 煌月の鎮魂歌 9/102015/02/25() 09:19:59

 あくまで静かに銀髪の青年は問い返した。
──死んだ方がましだって目にあうんだよ!」
 悪魔の咆吼といっていい恫喝がとどろいた。
 とびかかる毒蛇のすばやさで赤毛の男は身をかがめ、腰の後ろに手をやった。常人の目
にはとまらない動きで、一筋の黒い影が飛んだ。
 空気を切る音はあとから響いたようだった。影は身じろぎもしない銀髪の青年をめがけ
てまっすぐ飛んだ。
 なにかが弾けるような音がした。
 息をのむ音が波のようにあたりに広がった。赤毛の男は、はじめて見る光景に愕然と目
を見開いた。
「悪くはない」
 青年の声はあくまで静かだった。姿勢もほとんど変わらない。
 ただ、あげた右の前腕に、ぎりぎりと巻き付いた鞭を素手でつかみ止めていた。まとも
に受ければ皮も肉も深々と裂く一撃を、子供が投げた縄のように、手袋もはめない手で受
け止めていたのだ。
「だが、やはり訓練ができていない。いらぬ動作が多い。それによけいなこけ脅しも」
 手を一振りして鞭を離した。鞭は生き物のようにはね戻って、赤毛の男の手に吸い込まれた。
 戻った鞭を輪にして、男は信じられぬ思いで鞭とほっそりした青年を見比べた。彼に
〈赤い毒蛇〉の異名を与えた鞭、これまで幾多の拳銃やナイフや、時には火炎瓶やダイ
ナマイトまでも使った出入りをこれ一つでくぐり抜けてきた無二の武器を、片手であし
らえる人間などこの世にいるとは思ってもいなかったのだ。
「私はお前を迎えに来た、ユリウス・ベルモンド」
 銀髪の青年はまっすぐに彼を見た。氷青色の双眸に鮮やかな金の炎が走り、ユリウス・
ベルモンドは背筋に、恍惚と畏怖の入り交じる衝撃が走るのを感じた。
「私は、アルカード」
 青年の澄んだ声は過去からの遠い鐘の音のように響いた。
「はるか昔からベルモンドと共に在った者。決戦の刻が近い。聖鞭ヴァンパイア・キラー
の使い手として、運命がお前を欲している。ユリウス・ベルモンド、ベルモンド家の血を
継ぐものとして、私と来てもらいたい」