煌月の鎮魂歌2

 

 

13 煌月の鎮魂歌 2 1/132015/03/11() 02:03:31

             2
 
 空虚な部屋だった。
 外のけばけばしさや騒々しさからは想像もつかないほど厳しいまでに簡素で、
本一冊、色のあるもの一つおかれていない。外の喧噪も地下へ下ったここからは遠い。
もとは石炭置き場だった名残が、天井や壁の隅に残った燃え殻やこびりついた煤に
感じられた。
 真四角なそっけないコンクリート造りの箱のような地下室。あるのは鉄製の枠の
シングルベッドと古びたマットレス、寝乱れたシーツと枕、どこかから拾われてきた
らしい小さなテーブルと、教会の備品だったらしい背もたれのまっすぐな木製の椅子
ひとつ。
 ユリウスがアルカードを導いたのはそんな部屋だった。裸電球が天井の片隅で
ぼんやりと灯っている。テーブルの上には三分の一ほどに減った安ウイスキーの瓶と
曇ったグラスが一つ。狭くて急な階段が地上との唯一の通路だ。むっつりとベッドに
腰をおろすユリウスに、左右を見回したアルカードは呟くように言った。
「こんなところに住んでいるのか」
「こんなところで悪かったな」ユリウスは歯を剥いた。
「あんたから見りゃ、そりゃ、薄汚れたあばらやだろうがよ」
 アルカードは黙ってユリウスを見返した。そのどこまでも静かな視線に出会うと、
続けようとしていたユリウスは口ごもり、逡巡し、忌々しげに舌を鳴らして再びベッド
に腰を沈めた。
 地面に転がったままうめいている手下どもの中に立って、銀髪の来訪者は平然とした
口調でユリウスとの二人だけの会談を望んだ。一瞬、屈辱が鋭く胸を噛んだ。だが
ユリウスも、必殺の鞭を片手で止められた以上、手下どもの前でこれ以上無様な様を
さらすわけにはいかなかった。
 本気で戦えば圧倒できるのではないかという気が頭をよぎりはしたが、危険は
犯さないほうがいいと貧民街を生き抜いてきた者の勘が告げた。

14 煌月の鎮魂歌 2 2/132015/03/11() 02:04:34

 今はユリウスに従っている男たちも、もしユリウスが絶対の強者ではないと知れば、
たちまち反抗の牙を研ぎ出すだろう。競合する別のギャング、ベンベヌート一味や
マカヴォイ兄弟のもとに走る者も出るかもしれない。ユリウスとしてはあくまで威厳を
保ったまま、手下どもに手当と後始末をしておくように言いつけ、相手を内に請じ
入れるしかなかった。
 煤色に染まったコンクリートの壁に背をもたせ、顎をしゃくって座るようにうながす。アルカードはなんでもなさそうに粗末な、クッション一つついていない堅い椅子を引き
寄せて、腰を下ろした。服が汚れることも気にしていないようだった。
 アルカードの言葉の意味は悟っていた。「こんなところ」とは見下して言ったわけ
ではなく、「こんなに寂しいところにひとり住んでいるのか」という問いかけを含んで
いたのだった。
 哀れみは〈赤い毒蛇〉のもっとも嫌うところだ。それらは人を甘くする。苛立ちに
歯を噛み鳴らしながら、ユリウスは顎を胸につけ、刺すような青い眼でじっと銀髪の
麗人を眺めた。
 ベルモンド。ベルモンドとその〈組織〉。
 裏社会のみならず、表社会の権力者たちの中でもその名前は一種の禁忌であり、畏怖
とある種の恐怖をもってささやかれる存在だった。
 力を持つ者ほど迷信にすがりたがるのは今も昔も同じことだ。ギャングの大ボスたち
はそれぞれの特別な護符や習慣を身を守るためのまじないとして手放さないし、まつげ
を動かすだけで人を殺せるマフィアのグランドファーザーでさえ、毎週の礼拝出席と
教会への巨額の献金はかかさない。現米国大統領がお抱えの占星術師を頼ってスケ
ジュールを決めていることは周知の事実だし、験力が強いと評判の祈祷師のもとに、
政治家ややくざの組長が門前列をなすのは公然の秘密だ。
 だが、ベルモンド一族とその〈組織〉は違う。
 彼らは闇に属しながら、その中でもさらに深い闇にまぎれ、どんな権力にも従う
ことなく、ことあらば不意に姿を現して去っていく。時に世間を騒がせることがある
謎の殺人や奇妙な出来事、表に出ることのない怪異、それらの近くでは必ずベルモンド
の名がささやかれる。
 

15 煌月の鎮魂歌 2 3/132015/03/11() 02:05:30

〈闇の狩人〉、それがベルモンド家の血筋につらなる者の異名であり、彼らが
どのようなまじない師とも祈祷師とも区別される点だった。彼らのみが抗しうる存在
がこの世の皮一枚の裏側にうごめいており、それが這い出てきたとき、彼らは現れて
それを狩るのだ。
 いっさいの区別が彼らには存在しない。権力におもねることもなければ金に従うこと
もなく、暴力ではなおさら彼らを従わせることなどできない。彼らは彼らのみの規範と
意志によって動く者たちであり、その前ではどんな国家権力もマフィアの最高ボスも
ひとしく無力だ。
 ベルモンドを頂く〈組織〉は影のような根をあらゆる場所にのばし、見えない網で
世界を囲い込んでいる。彼らのほんとうの目的は誰も知らず、正確なその姿を知るもの
もほとんどいない。知ろうとした者は例外なく影に飲み込まれ、永遠にこの世から
消え去ると囁かれている。同じことを数限りなくやってきたであろうギャングの元締め
たちさえ、ベルモンドの名を耳にしたときには、そのガラス玉のような眼にわずかな
動揺と畏怖を走らせるのだ。
「あんたのことは聞いてる」
 吐き捨てるようにユリウスは言った。
「ベルモンドのふたつの至宝。ひとつは聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉。そとてもう
ひとつは〈アルカード〉。裏社会じゃ知られた話だ。もっとも、鞭のほうも〈アルカ
ード〉のほうも、見た奴はほぼいやしない。特に、〈アルカード〉が人なのか物
なのか、なにかの象徴なのかさえ、知ってるやつには会ったことがない。それが今」
 ぐっと眉をひそめてユリウスは美しい青年の静かな面差しを視線で突き刺した。
「俺はじきじきにそのご当人と対面してるわけだ。光栄だね。〈アルカード〉がこんな
べっぴんのお嬢ちゃんだと知りゃ、欲しがる奴は星の数ほどいるだろうよ。ベルモンド
が隠したがるわけだ」

16 煌月の鎮魂歌 2 4/132015/03/11() 02:06:13

「私は存在を秘匿されているが、お前が言うような理由からではない」
 アルカードは声音を変えずに穏やかに続けた。
「人は異質な者を怖れ、排除する。それだけのことだ。人の世では私は異端者だ。永遠
に生きる半吸血鬼の存在を受け入れる準備は、闇の存在に触れたことのない人間には
できていない」
「半吸血鬼……あんたが?」
 ユリウスは思わず問い返していた。
「私は吸血鬼であり魔王である父と人間である母の間に生まれた」
 なんでもないことのようにアルカードは言った。
 ほかの人間が口にすればたわごとにしか聞こえない言葉が、この青年の唇から漏れる
と異様な重みを帯びた。気の遠くなるような年月の積み重ねと、沈滞し凍りついて
しまった永い孤独が、短い言葉に真実の響きを与えていた。
「もう五百年も昔のことだ。私は父に反抗し、当時ベルモンドの当主でありヴァンパイ
ア・キラーの使い手であった男と協力して、父を討った」
 まるでおとぎ話か伝説のような内容が、この青年の静かな口調が語ると異様な真実味
を帯びた。
「その後私は眠りについたが、事情があって目覚め、再びベルモンド家に身を寄せる
ことになった。今のベルモンド家の血筋は、最初に父と戦った時のベルモンドの当主と
、その戦いの友であった女魔法使いのものだ。私は彼らの子孫を守り、彼らの使命
である闇の血の最終的、かつ完全な封印に手を貸すため、この二百年間を生きている」
 しばしユリウスは返す言葉を失って青年を見つめた。
 穏やかに見返してくる月輪のような顔にはしわ一つ、しみひとつなく、薄暗い裸電球
の光の下でも自ら光を放つように白い。雲のような銀髪が細い肩に散りかかり、聖者の
像を取り囲む光輪のように輝いている。
 閲してきた長い年月をうかがわせるのは、ただその瞳だった。氷河の底の青の瞳に、
ユリウスは五つの世紀を越えて生き続けてきた者の、もはや動かしがたいものとなって
いる孤独の堅い殻を見た。

17 煌月の鎮魂歌 2 5/132015/03/11() 02:06:58

 この青年が見送ってきた人間たちの数の多さを知った。いつまでも若く美しいままの
彼の前で、どれほどの人間が生まれ、育ち、年老いて死んでいったことだろう。彼に
とって人の一生は蜻蛉にも似てはかなく、やるせないものだったに違いない。
「やめておくことだ」
 不意にアルカードが言った。
「なに?」
「人を哀れむことは」
 なめらかに彼は続けた。
「軽率に他人を哀れんだりするものではない。自分が哀れまれたくないのであれば、
ことに」
 ユリウスは動揺した。それから腹を立てた。自分の心を読まれたことと、ことも
あろうに自分が哀れみなどという感情を抱きかけたことを指摘されたこと両方に。
「誰が」
 ユリウスは乱暴に立ち上がるとテーブルからウイスキーの瓶をつかみ取り、歯で蓋を
開けて吐きとばした。ラッパ飲みで中身を飲み下す。焼けるような酒精が喉を下って
いき、怒りをさらにあおった。
「で?」
 ひと飲みで底が見えるほどに減った瓶を提げたまま口をぬぐい、脅すような視線で
銀髪の青年をねめつける。
「こんなところまでベルモンドの至宝の片割れがしゃしゃり出てきたのは、いったい
何の用だ。俺をわざわざあの名で呼んだ以上は、あんたは俺の名に用があるってわけ
だ。今まで放りっぱなしにしておいた私生児に、今さら何の意味がある」
「決戦の刻が迫っている」
 とげとげしい視線に貫かれながら、青年の顔は遠い月のように静かだった。
「一九九九年、七月。ベルモンド家が待ち望んだ、完全に魔王とその闇の血を封印
できる合の刻だ。魔王は現世に降臨し、すべてを破壊するだろう。その前にわれわれは
それを阻止し、永遠に彼を封じねばならない」

18 煌月の鎮魂歌 2 6/132015/03/11() 02:07:40

 鼻を鳴らしただけでユリウスは横を向いた。
……だが、鞭の使い手がいない」
 わずかに声のトーンが落ちた。長い髪が揺れ、けむるような睫毛が氷青の瞳に影を
落とした。
「現当主ラファエル・ベルモンドは先日、魔物の襲撃を受け、撃退には成功した
ものの、脊髄を損傷して下半身不随となった。もはや鞭を振るうことはできない。
前当主ミカエル・ベルモンドが急死し、当主を継いですぐのことだった。魔王封印には
〈ヴァンパイア・キラー〉、最初の戦いの時より魔王と闇を封じるために存在する
あの鞭と、その使い手が不可欠だ」
 ユリウスの眼が危険な色を帯びはじめていた。歯が牙のようにむき出され、薄い唇が
笑いににた形にひきつっている。ストリートの住人たちや、彼の手下どもが一目見た
とたんに震え上がる悪魔の微笑だ。
「それであんたが、俺を拾いに来たってわけだ」
 ほとんど陽気にすら聞こえる声でユリウスは言った。
「そうだ」
「使いもんにならなくなっちまったベルモンドの代わりに新しいベルモント、そういう
ことか? くそったれな魔王を封じるためにくそったれな鞭を使える別の人間が
必要だ、だからこのくそったれな街に放り出しておいたくそったれなあばずれに
生ませたガキを迎えに来たって?」
「そうだ」
 ユリウスは大きく腕を振りかぶると、ウイスキーの瓶をアルカードの白い顔めがけて
投げつけた。
 アルカードはまばたきもしなかった。瓶はぎりぎり彼の銀髪の先をかすめて飛び、
壁にぶち当たって砕けた。
 安いアルコールの臭いが立ちのぼった。飛び散ったかけらがアルカードのなめらかな
頬に赤い筋を一本つけていた。怒りに肩を上下させるユリウスの目の前で、その小さな
傷は溶けるように薄くなり、三秒とかからずに完全に消えてしまった。

19 煌月の鎮魂歌 2 7/132015/03/11() 02:08:25

「ふざけるんじゃねえ」
 絞り出すようにユリウスは言った。
「今さら俺がベルモンドに何の用事があるってんだ。俺はこの街で一人で生きてきた、
いいか、一人でだ。おふくろは俺が三つの時に通りすがりのヤク中にめった刺しに
されて死んだ。誰も俺を助けちゃくれなかったし、頼るものなんぞ何もなかった。
泥水と腐った野菜で生き延びてたガキを、当主が使いもんにならなくなったからって
いきなり本家に迎える? お笑いだ。冗談もたいがいにしやがれ」
「おまえのことはいつも捕捉していた」
 壁際で砕けた瓶に、アルカードは目を向けもしなかった。
「母上のことも、境遇のこともミカエルは把握していた。何度かは迎えをやろうとした
こともあった。だが、彼の妻が拒否した。胎違いの兄弟の存在など、争いの元だと
言って」
 燃えるようなユリウスの視線を、揺るぐことなくアルカードは受け止めた。
「ラファエルは有能な使い手だった。十五歳の時にはすでに父親を凌駕する技量を
見せていた。彼がいれば決戦の刻も安泰だと誰もが言った。今さら後継者どうしの
内紛を招くような真似は不要だと」
「だから放っておいたと?」
 歯ぎしりの隙間からユリウスは問うた。
「そうではない」
 アルカードはゆっくりかぶりを振った。
「若い日とおまえの母上のことはミカエルも忘れたことなどない。おまえのことは
いつも把握していたと言ったはずだ。ベルモンドと〈組織〉は自ら表に出ることは
ない、それでも……できることはいくつかある」
 ユリウスの奥歯が大きくぎりっと鳴った。

20 煌月の鎮魂歌 2 8/132015/03/11() 02:09:05

「つまり俺が生き延びてこれたのはベルモンドのおかげだってのか?」
 押し殺した声でユリウスは再び問いかけた。
「おふくろが挽き肉みたいになって道に倒れてたのもベルモンドのおかげか? 俺が
壁にかくれてそれを見てるしかなかったのも? 地面を這いずり回ってかじりかけの
ハンバーガーや泥みたいなジャガイモを拾い集めてたのも? 初めて武器を手に入れて
人を殺した時も? 全部あんたらの、ベルモンドの手の内だった、そういうこと
なのか?」
……ミカエルは忘れてはいなかった」
 ただそう繰り返し、アルカードは目を伏せた。
「だが、彼は一私人である前に、ベルモンドの当主であり、〈組織〉の頂点に立つ
ものとして指揮を執らねばならなかった。彼にはなすべきことがあまりに多すぎた。
おまえの母上の死の直後に、すぐにおまえを引き取ろうとしたのだ。だがその時には
もうラファエルが産まれており、彼の妻とその一族が、こぞって反対した。〈組織〉
の分裂を防ぐために、彼は断念するしかなかった。彼にできることは、幼いおまえが
本当に危険な目にあわないよう、陰から守りつづけることしかなかったのだ」
 一瞬、目もくらむばかりの怒りと屈辱に、ユリウスは口もきけなくなった。
 これまで彼は、この弱肉強食の都市でたった一人で生き延び、道を切り開いてきた
のだと思っていた。汚辱の街で蛇と呼ばれ、悪魔と怖れられる彼の、それが誇りであり
矜持でもあった。
 だがそれが、実は顔も知らぬ父親の手がまわされており、憎み続けたベルモンドの
名によって庇護されていたのだと知らされた今、はらわたが怒りで痛みを感じる
ほどによじれた。
「そいつを聞いて俺にどうしろと?」
 声の震えを抑えられなかった。
「膝をついて感謝して、亡きクソ親父に祈りでもささげろってのか? それで言う
とおりにくそったれベルモンドの一員になって、魔王だかなんだか知らんがわけの
わからんたわごとに手を貸せと?」

21 煌月の鎮魂歌 2 9/132015/03/11() 02:09:54

 アルカードは黙ってユリウスを見つめた。そこには何も映ってはおらず、どんな
意図も浮かんではいなかった。彼はただ真実を述べただけであり、それをユリウスに
対する担保として使おうとはしていないことが、ユリウスの鍛えられた目にはすぐに
理解できた。
 だが、感情は許さなかった。全身をめった刺しにされた母の死骸の上でジグを踊っ
ていたヤク中のぽっかり開いた口と、垢と母の血にまみれた裸足が目の前を行き来
した。異臭のするフライドチキンの骨からわずかな肉をかじりとった時の舌をさす味
をはっきりと感じた。
 ひとりスラムに放り出された幼い子供がたどる多くはない運命──狼どもの手で
さんざんおもちゃにされたあげく首をひねられるか、紳士面の変態趣味の奴らに
供される人肉になり果てるか、豚のように殺されて腑分けされ、あらゆるパーツを
金にするためばらばらにされて冷凍庫に納められるか──確かにそのどれも、
ユリウスには起こらなかった。だがそれ以上の幸運も起こらなかった。
 四歳で他人の懐を狙うことを覚え、六歳ではじめて自分のナイフを手にし、
七歳の時に最初の殺人を犯した。その時にはすでに当時一帯を支配するギャングの
使い走りとして働いており、殺人も日常の退屈な出来事のひとつにすぎなかった。
子供の手に正確に心臓をひと突きされ、何が起こったのかわからないまま死んでいく
相手の目を無感動に見つめていた。特別な感慨も衝撃もなく、ただわずかに手を
汚した返り血がわずらわしい感触を残した。相手が誰で、どういう理由で殺したのか
さえ覚えていない。たぶん密輸かヤク絡みの何かだろう。
 それから一年の間にさらに五人、二年目には八人殺していた。得物はナイフから
ロープに、そして自分で工夫した革をよりあわせた鞭に変わった。十五歳の時に
その鞭で、女を抱えてたるんだ体を震わせているボスを、女もろとも手下どもの
前で殺した。〈赤い毒蛇〉、生きているような鞭扱いで犠牲者をいたぶる、赤毛の
悪魔が誕生した瞬間だった。

22 煌月の鎮魂歌 2 10/132015/03/11() 02:10:44

 ベルモンドという名前の持つ意味と影響力も知ってはいたが、自分には関係の
ないことだと思っていた。周囲とはまた別の意味で、その名前はユリウスにとって
禁忌だった。顔も知らない父親がつけたという名も、その姓も、ユリウスにとっては
吐き気をもよおすものでしかなかった。
 うっかり口にしたばかりに命を落とした者が十人を数えた時点で、誰もその名を
出さなくなった。ときおり抗争相手でこちらを怒らせるためにあえてその名を呼ぶ者
もいたが、彼らは例外なく自らの考え違いを呪いながら、じっくりと時間をかけて
地獄に送り込まれた。
 ただジェイとだけ呼ばれること、そう呼ぶことさえただならぬ恐怖を伴わせる
ことが、ユリウスの満足だった。〈赤い毒蛇〉。ブロンクスの悪魔。口にするだけで
凶運を呼び込む存在。
 遠い日、母親の死体を踏みにじっていた汚い裸足のかわりに、ユリウスはブロンクス
の汚辱の上で踊っていた。すべてを血まみれのブーツの下に踏みにじり、毒蛇の
ひと噛みのように一瞬で死を与える鞭を手にして、自分がくぐり抜けてきた暗黒を
足下に従えること。それがユリウスがやってきたことであり、これまでもやりつづける
だろうことだった。
 この銀髪の異邦人がやってくるまでは。
「魔王はたわごとなどではない」
 アルカードははっきりと言った。
「お前が信じるか信じないかは自由だ。だが魔王の降臨を止めないかぎり、人の世は
魔界に飲み込まれる。人は地獄を目の当たりにするだろう。生きたまま悪魔にむさぼり
食われ、玩具として扱われるだろう。人の築いてきた文明は崩れ去り、ただ血と殺戮が
大地と世界を覆いつくす」
「悪魔ならここにいる。地獄もここにある」
 毒々しい笑い声をユリウスはあげた。

23 煌月の鎮魂歌 2 11/132015/03/11() 02:11:28

「悪魔は俺だ。地獄はここだ。魔王だと? 好きなようにすりゃあいい、構うもんか、
どうなろうと。くだらねえ、どいつもこいつもくだらねえ、めんどくせえ腰抜けの阿呆
ばっかりだ。文明なんてお綺麗な題目なんぞ最初から嘘の皮だ、ここで暮らしてる奴ら
なら全員そんなこと百も承知さ。食われる相手が同じ人間から本物の悪魔に変わるから
って、今さら何がどうなるってんだ」
「世界はここだけではない。ほかの場所で闇とも恐怖ともかかわりなく、穏やかに
暮らしている大勢の罪もない人々がいる」
「だからってなんで俺がそんな豚どものために力を貸してやるんだ?」
 牙のように歯をむいてユリウスは冷笑し、唾を吐いた。
「嫌なこった。そいつらは俺のためになにもしてくれなかった。だったら俺がそいつら
のためになにかしてやる義理はあるのか? なにもねえな。お生憎だ、俺は自分に関係
のない奴らのために動くほどお人好しでも暇でもねえ。帰んな、ベルモンドの犬」
 脇に置いていた鞭をとって突きつけ、ユリウスは目を細めた。
「ラファなんとかいう当主に言ってやれ、やりたきゃ自分でなんとかしろ、俺には関係
ねえってな。当主争いは起こしたくないってんだろ? 俺もそんなもんに関わる気は
ない。滅ぶなら勝手に滅びゃいい、自分が死ぬときだって俺は大声で笑ってやるさ。
このうんざりな世の中が本物の地獄に覆われるってんなら、その方がよほどさっぱりする」
 短い沈黙があった。
 青年は彫像のごとく静止し、自分が引き起こした静けさにもかかわらずユリウスは
ひどくいたたまれない心地になった。そんな自分にまた腹を立てた。もう一つ、酷い
罵声のひとつも浴びせかけてやろうと口を開きかけたとき、彫像の唇がかすかに動いて
か細い言葉をはいた。
……私に、なにかできることはないか?」
 表情は変わらないまま、そこには変えられない壁を前にした嘆願と、ほとんど哀訴の
響きさえ込められていた。

24 煌月の鎮魂歌 2 12/132015/03/11() 02:12:17

「ああ、そうだな」
 相手が沈黙を破ってくれたことに内心強烈な安堵を覚えつつ、ユリウスはベルトの
ないレザーパンツに手をあてて卑猥な仕草をしてみせた。
「あんたがそこに這いつくばって、俺のブツでもしゃぶってくれりゃ、少しは考えて
やってもいいかもな」
 アルカードはまばたきひとつせず、その言葉を受け止めた。
 青年が、その気になれば思いのままに人を従わせる能力を持っていることをユリウス
は本能的に察知していた。半吸血鬼という生まれが本当であることも。弱い者は
たちまち食い殺される場所で生きぬいてきた者は、強い者、異質な者、自分を
従わせることのできる者を一瞬で見分けるようになる。アルカードという青年は
そのすべてに該当した。
 地面に転がって呻いている手下どもの中に立つすらりとした立ち姿を見た瞬間から、
わかっていたのだ。鞭の一撃をとばしたのも、思い返せば禁忌の名で呼ばれたその事
より、自分よりもはるかに強力な者が現れたことに対する反射的な自衛のようなもの
だった。抵抗したところで効果などないことも、すでに知っていたように思う。
 だがアルカード、ベルモンドの至宝たる彼はそれをしないのだ。力で従わせることを
是とせず、あくまでユリウス自身の意志で、ベルモンドへの帰還と鞭の主となることを
求めている。
 苛立たしくてたまらなかった。他人を従わせる力を持つために、この腐りきった場所
でユリウスが積み上げてきた血と泥の足跡の一つ一つをかるく凌駕するだけの力を
持ちながら、それをふるおうとしない彼が。
 力で他人の意志を曲げさせるにはあまりに誇り高すぎる、とユリウスは思い、
まばゆいばかりの青年の姿を呪おうとした。他人を力で意のままにするという卑しい
行為には、自分は高貴すぎるとでもいうのか?
 だができなかった。青年はあまりに美しく汚れなく、どんな怒りも呪いもその大理石
のような肌に触れることもなくすべり落ちていくかのようだった。

25 煌月の鎮魂歌 2 13/132015/03/11() 02:13:02

 人間の手には触れられない月、とユリウスは思った。天の高みで冴えざえと輝き、
こぼれるほどの光で冷たく青く地上を照らしながら、その面には誰も近寄せず、
どんなに手を伸ばしても届くことのない。
 さあ怒れ、とユリウスはわずかに目を伏せて動かないアルカードに向かって心で
叫んだ。
 無礼を怒って椅子を蹴れ、その綺麗な口から罵りの言葉を吐いてみせろ、遠い月の
顔の中にも触れられる感情があると見せてみろ。
 俺にも動かせる場所が、お前の中にあることを見せてくれ。
……それが、お前の条件か」
 長い間に感じたが、おそらくほんの十数秒にすぎなかったのだろう。アルカードの
唇が動き、前と同じく澄み切った水晶のような声をこぼした。
「わかった。そうしよう」
 アルカードは立ち上がった。長い銀髪が雲のようにたなびいた。
 すべるように彼がきて足もとに膝をつく間、ユリウスは動けなかった。自分自身の
発した言葉に縛られ、声さえ立てられなかった。
 汚れた床にためらいもせず彼は這った。麻痺したようなユリウスの腰に手が伸ばさ
れ、レザーパンツの上を冷たい細い指がすべった。
 白く輝く顔が近づいてきた。夢の中の月のように。