煌月の鎮魂歌4

 

 

 

33 煌月の鎮魂歌4 1/162015/05/23() 18:18:20

U  一九九九年  一月 (承前)

            1


 おおまかに言って、最悪な旅だった。ほぼ誰にとっても。
 ニューヨークの最底辺から着の身着のままで連れ出されてぴかぴかのリンカーン・
コンチネンタルにつめこまれ、本物の牛革のシートの上に尻を下ろさせられた。身体に
まつわりつくようなしっとりとしたシート、車内に備えられたバーに並ぶグラスとシャ
ンパン、ワイン、コニャックにブランデー。足の下の敷物でさえ特注品の緋色の毛足の
長い絨毯だ。
 生まれてこの方地獄の彼方に幻のように見るだけだった贅沢品の数々が、今は手を
伸ばせばどれでも取れるところにある。上等な酒の全部をつかみ取り、窓からばらま
いてやりたくてうずうずした。だが、身じろぎしたとたん、サルーン・シートの向か
い側に座っているアルカードの静かな目にぶつかって動けなくなった。
「飲み物を?」
 穏やかにアルカードが言った。ユリウスはわめきちらす寸前であやうく踏みとど
まり、「ブランデー」と不機嫌に言った。アルカードはちょっと動きを止めていたが、
他の者がだれも動かないと、自分で身を乗り出してバーから琥珀色の液体のたたえら
れた優美な瓶をとった。
 ユリウスはグラスに注ぐ暇を与えず、アルカードの手から瓶ごとひったくると、
これ見よがしにラッパ飲みした。はっと息をのむ声が聞こえた。アルカード自身は
当然のような顔で黙っているが、お上品なSPどもにとってはかなりのショック
だったようだ。
 ダウンタウンの安ウイスキーとは似ても似つかない、神の小便のような味だった。
瓶に半分ほどあったナポレオンの最高級グレードを三口ほどで飲み干してしまうと、
瓶を床に放り出して唇を嘗めた。
 アルカードが彼を連れて街を出てきたときの、黒服のSPどもの顔は確かに見もの
だった。

34 煌月の鎮魂歌4 2/162015/05/23() 18:19:07

「アルカード様!」「よくぞご無事で──」と我勝ちに駆け寄りかけた奴らが、後ろ
に佇む半裸に革のジャケットとパンツだけをひっかけた、どう見てもストリート・
ギャングのユリウスを見たとたん、蒼白になって足を止めたのだ。
「彼がユリウス・ベルモンドだ」
 アルカードが言った。
「彼は私の要請を受け入れてくれた。すぐに本家に戻り、ラファエルとの対面と鞭の
授受に入る。ドアを開けてやってくれ」
 運転手がぎくしゃくした動きでリムジンの扉に手をかけた。ユリウスはすばやく
そいつよりも先に取っ手をつかみ、大きくドアを引き開けた。
「おっと失礼」
 蒼白に加えてひきつっている相手の顔に牙をむく笑いを返してやる。
「上流のマナーって奴には慣れてなくてね。赤ん坊じゃないんだ、車のドアくらい
自分で開けるよ。気分を悪くしたんなら謝るぜ?」
「ユリウス」
 穏やかな叱責が飛んだ。自分に対するものか、それとも立ったままわなわな震えて
いる運転手の気を静めるためかどちらかはわからなかったが。
 なんとか気を取り直した運転手はアルカードのためにドアを開け、貴公子はそうさ
れることに慣れきった動作で滑り込んできた。ユリウスの腹の奥でまた黒い何かが
うごめいた。ほとんど振動を感じさせることなくリムジンが夜の街を走り始めても、
その何かは消えることなくユリウスのはらわたをつついていた。
 目の前のアルカードはあの暴行の跡すらとどめていない。黒いスーツも白いシャツ
も、ぴったりと身に沿った新品そのものだ。
 ユリウスは彼が、それらを闇の中から呼び出して纏うのを目の当たりにした。壁に
身を寄せ、肩で息をしている青年の身体に甘えるように闇がまつわりつき、みるみる
うちに、部屋に入ってきたときとまったく変わらない衣装ひとそろいを織り上げた。
乱れた髪さえも見えない手で整えられ、もつれて汚れた髪はみるみるうちに輝きと艶
を取り戻した。顔をあげたときのアルカードは、すでに、ユリウスの前に現れたとき
とまったく変わらない、遠く輝く虚空の月に戻っていた。

35 煌月の鎮魂歌4 3/162015/05/23() 18:19:44

 ナポレオンを片づけたあとは、カットクリスタルのカラフェに入ったヴィンテージ
・ワインを、グラスに注ぐ手間は抜きにしてちびちび啜った。なめらかで冷たいガラス
の感触は何かを思い出させた。
 あの臭い地下室であったことを、ユリウスは目の前の麗人にあてはめようとしてみ
た。何もかもが夢だったような気がした。すぐ手を伸ばせば届くところにいるのに
触れることもできない存在、あれだけ喰らい、血を啜り、身体の奥の奥まで蹂躙して
やったというのに、その痕跡すら見えないことがたまらなく苛立たしかった。
 いっそあのボロボロの状態でここへ連れてこられたら、と夢想した。生々しい噛み傷
も腿を伝う血と精液もそのままの状態で、青年に心服しているらしいSPどもに、
こいつをこんな風にしたのは俺だと見せつけてやれたら。こいつが俺に身を投げ出し
た、だから好きなだけ犯してやった、何度でもまたやってやるとあざ笑ってやれたら。
 年月に熟成された赤ワインは血のように甘く渋みがあり、時間によって醸し出された
えもいえぬ芳香が一口ごとに広がる。だが俺はこれより美味いワインを知ってる、と
ユリウスはひそかに思った。向かいの席で微動だにせず目を閉じているアルカードの
細い白い首筋を見つめる。あの首に歯をたてて、にじみ出る血を嘗めたときの目くる
めくような感覚はこの瓶詰めの偽の血にはない。
 衝動的にカラフェをさかさにし、貴重な赤い滴をみな床にぶちまけた。周囲に座って
いたSPたちが一瞬腰を上げた。からになった器を放り投げると、繊細なクリスタルは
ふかふかの絨毯の上に転がって、切られた花のように横倒しになった。
「静かに」
 誰かが怒鳴り出す前に、アルカードが制止した。
「しかし、アルカード様。こいつはあまりに」
「ワインは換えがある。鞭の使い手に代わりはない。好きにさせてやるがいい。床を
片づけてくれ」
 SPたちが床を這い回り、ワインでシャツを汚しながら絨毯を畳み、バーの紋章入り
ナプキンや自分たちのぴしっとした白いハンカチなどで必死に床をこするのを、薄笑い
をうかべてユリウスは見ていた。全身に浴びる敵意が心地よかった。慣れた感覚だ。ブ
ロンクスではもっと酷い敵意、むしろ殺意が空気のようにそこらじゅうを漂っていた。

36 煌月の鎮魂歌4 4/162015/05/23() 18:20:22

(そら、お前もだ)
 目の前で黙しているアルカードに向かって、声に出さずに呟いた。
(調子に乗った愚か者だと思ってみろ。自分を犯したあげくに好き勝手な馬鹿騒ぎを
やらかす思い上がった奴だ。怒れ。軽蔑しろ)
 しかしアルカードはまた目を閉じ、自分一人の世界に沈み込んでいるようだった。
組んだ腕がかすかに動き、胸元をさぐったように思えたが、すぐにまた彫像のように
動かなくなった。
 ユリウスは低声で呪いの言葉を吐き、すぐに大声でわめき始めた。ブロンクス仕込み
の聞くに余る下品な言葉が次から次へと連発される。SPたちが耐えかねたように口々
に騒ぎ始めた。
「うるさい、黙れ、こいつ──
「下品にもほどがある! こんな男が鞭の使い手になど」
「アルカード様、こんな男が本当に正統なベルモンドの血を継いでいるのですか!?
 アルカードはやはり無言だった。
 ユリウスはますます声を張り上げ、より抜きの汚い言葉を吐き、仲間内でさんざん
歌った卑猥な替え歌を声を張り上げて歌って、床をどんどんと踏みならした。視線は
アルカードに据え、その呼吸の一つまでも見逃さないよう感覚のすべてをとがらせて
いた。彼が不快の表情のひとつ、苛立ちの兆候のかけらでも見せればと願った。
 こんな黒服どもはゴミだ。塵だ。俺が見たいのは月だ。月が俺自身を見ているという
証だ。遠い遠い月、だれの手にも触れられない、触れたと思えば消えてしまう、幻の
ようなあの月だ──
 だがいくら騒ぎ立ててもアルカードの静かな顔は動かず、その口も最後まで開か
なかった。空港に到着したときようやく「降りろ」という事務的な言葉が発せられた
だけだった。
「ここからは飛行機だ。ベルモンド家所有の自家用機がスタンバイしている。税関を
通る必要はない。そのままゲートへ進めばいい。ついてこい」

37 煌月の鎮魂歌4 5/162015/05/23() 18:20:53

 居並ぶ空港職員の最敬礼と怪訝そうな顔を同時に向けられながら、目立たない片隅に
止められた航空機へと導かれる。
 外見はそう大きくはなかったが、内部はリムジンと同じく、最高級品に満ちたラウン
ジになっていた。こちらにもSPと、加えてそろいの制服を着たスチュワードが揃って
いて、アルカードが連れて乗り込んできた場違いもいいところなブロンクスの不良に
そろって目をむいた。
 自家用機はほとんど振動も何も感じさせることもなく大地を離れた。離陸するが早い
か、ユリウスはリムジンでもやっていた馬鹿騒ぎを再会した。シートベルトを放り投
げ、救命具を片端から放り出して床に散らかし、いくつかは風船のように膨らまして
からナイフを突き刺して、ぺちゃんこになるのを見て声を上げて笑った。いろいろ
いじくり回したあげく、お上品な天井に収納されていた酸素マスクが飛び出してきて、
不格好な海草のようにシャンデリアの隣でぶらぶらするのをあざけった。困惑している
スチュワードに次から次へと用事を言いつけ、無理難題を吹きかけた。
 手の届く限りの酒とソフトドリンクを全部要求し、半分ほどは飲み、あとは床や座席
や人にひっかけて回った。頭からコカ・コーラとシャンパンをかけられても、黒服の
SPたちはよく訓練された犬らしくじっと身動きもしなかったが、相手の感情を読む
すべに長けたブロンクスの蛇には、ロボットのようなかたい顔の奥で彼らがどんなに
怒り狂っているか手に取るようにわかった。ユリウスは笑って、オレンジ・ジュース
をもう一杯、おまけとして追加してやった。
 空飛ぶラウンジには怒りと苛立ちが充満していたが、ここでもそれと無関係な者が
いた。アルカードだった。
 彼は彼のために用意された席にじっと座り、膝に手を組んで窓の外に視線を向けて
いた。機内のことにはまるで注意を払っておらず、ユリウスがたてる騒音にも気づい
ていないかのようだった。

38 煌月の鎮魂歌4 6/162015/05/23() 18:21:25

 ユリウスもまた、彼などいないかのようにふるまっていた。酸素マスクはアルカー
ドの頭上にだけはぶら下がらず、所構わずひっかけられるジュースやビールはアルカ
ードだけは注意深く避けられた。
 混乱の渦の機内で、アルカードの周りだけが静謐だった。野卑な言葉をわめき、下品
なジョークをとばして馬鹿笑いしながら脇を通り抜けるときも、ユリウスは彼を無視
した。その存在を痛いほどに意識していたにもかかわらず。
「ユリウス」
 とうとう客席でやることが尽きて、ユリウスが操縦席へつながるドアをこじ開けよう
としはじめたその時、ようやくアルカードが口を開いた。
「子供っぽい真似はよせ。あと三時間ほどで到着する。それまでは座って、おとなしく
していろ」
 まるで手足から骨を抜かれたように、ユリウスはその場に座り込みそうになった。
 そのまま、操られるようにふらふらと席へ戻って、豪華なソファめいた座席に転げ
込んだ。席は彼自身がぶちまけたジュースとビールでべとべとになっており、アルコー
ルと柑橘類の入り交じった匂いがした。尻の下から台無しにされた飲み物がじわりと
にじみ出てくる。
 見るからにほっとした顔のスチュワードがそそくさと動き回り、ぐしょぬれになった
床を拭き、散らかった救命具や酸素マスクをもとに戻し、使い物にならないものは
どこかに運び去った。
 濡れた座席には応急処置としてビニールのクロスが敷かれた(ユリウスの所には
敷かれなかった。ささやかな抵抗というやつなのだろう)。配られた濡れタオルで
SPたちが頭や髪を腹立たしげにこすり、二度と着られそうにないスーツの上着と
シャツを換えているのを、ユリウスは黙って眺めた。頭にあるのは、アルカードの
冷静な一言だけだった。
『子供っぽい真似はよせ』。

39 煌月の鎮魂歌4 7/162015/05/23() 18:21:56

 つまり、すべてお見通しだったというわけだ。俺がさんざんわめき散らし、飲み物を
四方にひっかけ、下品か卑猥かあるいはその両方の(たいていは両方だった)馬鹿話で
騒ぎ立てていたのは、全部、この月色の貴公子から、なんらかの反応を引き出すため
だけだったということを。
 アルカードは相変わらず窓から外の雲海と、その上にさす陽光を眺めている。夜が
開けかけていた。昇ってきた太陽が雲の上にまばゆい光をそそぎかけ、空を半透明の
蛋白石の青に染め変えようとしている。
 アルカードの横顔も金色に縁取られ、月の髪もうっすらと黄金の靄をまとっていた。
ふと、かつては大学教授だったという酔っぱらいに教えられたいくつかの詩句が、
ユリウスの記憶の底から浮かび上がってきた。長い間思い出しもしなかった言葉だった。

  アポロンよ、あなたへの祈りから歌を初めて古の武士たちの勲しを
  思い起こそう、王ペリアスの命により黄金の羊毛を求めて
  黒海の入り口からキュネアイの岩礁を通り抜け
  みごとな造りのアルゴ船を彼らは漕ぎ進めていった。

 その老いた酔っぱらいは母が殺された直後、まだ街での生き方を知らなかったユリウ
スの面倒を見、食事と寝る場所をくれ、読み書きと簡単な計算を教えてくれた。だが
ある日、ひと瓶のジンを盗もうとして撃ち殺されてしまった。殺した奴らが部屋まで
押し掛けてこないうちに、ユリウスは数冊の本とありったけの金を持ってその場を逃げ
出した。
 本はその後しばらく手元を離さなかったが、ギャングの使い走りをするようになって
からは手に取ることも少なくなり、やがてどこかに行ってしまった。本など読むのは男
らしくない行為だというのが新しい同僚たちの意見だった。ポルノ雑誌や三流ゴシップ
誌、品のないカートゥーン、人殺しや強姦が満載のダイム・ノヴェルならまあいい。
しかし文学、特に古典や詩などという女々しいものはもってのほかだ。

40 煌月の鎮魂歌4 8/162015/05/23() 18:22:30

 金羊毛。黄金の羊を求めたアルゴ号の英雄たち。あの部屋にあったのは酒と、それか
らぼろぼろになった古典のペイパーバックの山だった。古代ギリシャの原文を老人は
驚くほど流暢に暗唱してみせ、それに該当する英語部分を震える指先で指し示した。
まだ人を殺したことのなかったユリウスはじっとそのかすれた声に聞き入り、遠い昔、
遠い場所で、神話の英雄たちが繰り広げる冒険譚に耳をすました。

  さあ今度はあなた方ご自身が、金羊毛をヘラスへ持ち帰ろうと望む
  われわれに力を貸していただたきたい。
  わたしがこの旅をするのも、アイオロスの裔に対する
  ゼウスの怒りの元、プリクソスの生贄をつぐなうためであるから。 

 物語の中では世界は輝いていた。天には神々が君臨し、怪物がそこらじゅうを闊歩
し、魔法と苦難が英雄たちに襲いかかったが、彼らは知恵と勇気でそれらを乗り越え、
ついには目的を果たして国へと凱旋する。
 そんなことはしょせんあり得ないのだと、それからの数年間で嫌というほど叩き込
まれたはずだった。天に神などおらず、怪物とは人間そのものだ。知恵と勇気など
なんの役にもたたない。必要なのはただ用心深さと狡猾さ、益不益をすばやく見定める
獣の嗅覚と、敵を殺すためのナイフか拳銃、それだけだ。
〈蛇〉と呼ばれるようになって少しして自分の姓と、それが他人の目にそそぎ込む恐怖
──
あるいは畏怖の意味を知ったが、その当時には何の意味もなかった。魔王? 
怪物? 英雄? ディズニー映画じゃあるまいし、と彼は嘲ったはずだった。そんな
ものがこの世にいてたまるか。歴代続く魔狩人の家系? 愉快だ、まったく滑稽だ。
楽しいおとぎ話だ。スピルバーグにでも話してやれば、大喜びで十本か二十本のばか
ばかしい映画を作って大当たりをとるだろうよ。

41 煌月の鎮魂歌4 9/162015/05/23() 18:23:07

 しかし今はいつの間にかそのおとぎ話に巻き込まれ、身動きがとれなくなっている。
何を言われても聞く耳を持たない蛇、言うことを聞かせようとすれば毒の牙ですばやく
相手を殺すブロンクスの赤い蛇が、何かに操られるように自ら巣を歩み出て、こんな
豪華な飛行機のビール浸しの座席に腰を下ろして、見も知らない場所へ運ばれている。
一生行くことも、見ることもないと思っていた、父親の血筋が生きている場所へ。
 ななめ後ろに座っているはずの人物のことは考えずにおこうと努力していたが、難し
かった。どんなに頭をほかのことに向けようとしても、揺れる銀髪と氷河の青の瞳が
思考に割り込んできた。彼こそは魔法の使者であり、文字通り伝説の中の存在であり、
一千年近くを存在し続けている半吸血鬼なのだった。
 他はどうあれ、ユリウスはそのことだけは疑っていなかった。これほど強烈に人の心
を呪縛するものがただの人間であるはずはない。暗い地下室で無心に奉仕を続けていた
白い顔と、小さな舌の動きがふいに鮮明に脳裏をよぎった。それから乱暴に貫かれて
のけぞる背のしなやかな曲線と、何かを必死に握りしめていた傷ついた拳。
 下腹に急激にこみあげてきた熱を、ユリウスはむりやり押し戻した。立ち上がって
相手につかみかかり、床にねじ伏せてもう一度とことんまで犯しぬいてやりたい衝動
と彼は格闘した。
 アルコールの匂いのする座席に背中を押しつけて、むりやり目を閉じた。瞼をすか
してくる陽光が眩しい。疼く手足を折り曲げて、無意識の奥へ逃げ込もうと身を縮め
る。たちこめる匂いが記憶を誘った。すえたビールとジンの臭いに満ちた屋根裏部屋
で、幼い自分が必死に唇を動かしながら指で文字を追っている。耳の奥であのアル中
の老人のしわがれた声が、古代の詩人による黄金の詩句を静かに呟いていた。

  冷酷な愛よ、人間の大きな禍、大きな呪いよ、
  あなたゆえ、呪わしい争い、呻きと嘆きが
  さらにかぎりなく多くの他の苦しみがはげしく起こるのだ。
  神よ、われわれの敵の子らに武器をとって起ちたまえ、
  メデイアの胸にいとわしい狂気を投げ入れたときのように!

42 煌月の鎮魂歌4 10/162015/05/23() 18:23:42




「ユリウス」
 いつのまにか、本当に眠っていたらしかった。
 軽く肩に手をおかれて、彼はまさに驚いた蛇のようにとびあがった。反射的に
身構え、いつも腰につけていたはずのナイフと鞭を手探りする。
「到着した」
 相手は平然としていた。ユリウスが目を覚ましたことを確かめると体を起こし、
席から立つようにうながした。
「ここから屋敷まではまた車だ。半時間ほどでつく。もう連絡は行っている。お前の
来るのを待っているはずだ」
「へえ、そいつはありがたいな」
 声がかすれる。舌が乾いて口蓋に貼りついているようだ。二、三度咳払いして、
ユリウスはなんとか嘲笑するような口調を保った。
「歓迎パーティでもしてくれるってのかい? なんだったらもっと芸をしてやるぜ。
おまわりか? お手か? ちんちんか? あんたも手伝ってくれるんだろうな」
 アルカードが聞いたようすはなかった。彼はすでに席を離れ、おろされたタラップの
方へラウンジの出口をくぐっていた。呪いの言葉を吐いて、ユリウスは後を追った。
 深い森林の中にまっすぐ延びた滑走路に、飛行機は停止していた。小さな管制施設が
隅にある以外は、建物らしきものはなにも見えない。あたりは静かで、鳥の声さえ
聞こえなかった。タラップを降りたすぐ先に、ニューヨークを出る時に乗ったリムジン
よりほんの少し小型なだけの高級車が止まり、ドアを開けて乗客を待っている。
「おいおい、なんにもねえじゃねえか。ベルモンドの本家に俺をつれてくんじゃなかっ
たのかよ」
「ここはすでにベルモンド家の土地だ」

43 煌月の鎮魂歌4 11/162015/05/23() 18:24:14

 先にするりと乗り込んだアルカードが言った。あまりに自然な動きだったので、
ユリウスも思わず後に続いていた。バーがないだけでほとんど豪華さは変わらない車の
内装を見てから、こんなに素直に乗ってやるのではなかったと悔やんだが、もうその時
には運転手が扉を閉め、車はゆっくりと滑走路を出て森の中の道路を走り始めていた。
「正確に言うならば〈組織〉が所有している土地の一部だ。この一帯は闇の種族の侵入
を許さない結界と精霊の加護に守られている。闇の者のみならず、ベルモンド家の
人間、あるいは〈組織〉の中でもごく限られた人間でなければ、ここに入ることも
発見することもできない」
「ご大層なこった。よく俺なんぞが入れたもんだな」
「お前はベルモンドの血を継ぐものだ」
 あっさりとアルカードは言った。
「それでなければ飛行機はこの滑走路に降りることはできなかったし、そもそもこの森
を見つけることもなかったはずだ。ここは地上の一部ではあるが、なかばは異世界に
隔離されている。〈組織〉の全貌が誰にも知られず、構成員のほとんどさえ自分が何に
属しているのか知らないのはそのためだ。〈組織〉は異界と現界のはざまにあり、ベル
モンド家はその架け橋であり、門番として存在する」
「あんたはどうなんだ。ベルモンド家が架け橋であり、門なら、あんたは何だ──
人か?」
 アルカードは答えなかった。
 車は木々の間に切り開かれた舗装路を抜けていった。まっすぐではなく、わざと曲げ
てあるかのようにカーヴの多いその道路をたどるうちに、うなじの毛を引っ張られてい
るような妙な感覚をユリウスは覚えだした。
「やはり、わかるようだな」
 うるさそうに手をあげて首をこすっているユリウスを見て、蒼氷の目がわずかに笑った。

44 煌月の鎮魂歌4 12/162015/05/23() 18:24:48

「この森にほどこされた結界は非常に強い。〈ヴァンパイア・キラー〉の使い手が事実
上不在な今はことに強化されている。闇の者の侵攻がもしこの中心部にまで及んだ
場合、〈組織〉の心臓部は壊滅する」
「中心、というのが、ベルモンド家か」
「そうだ。あれだ」
 ようやく、緑が切れた。
 手と手を組み合わせて空間を遮っているようだった黒みを帯びた木々の枝がとつぜん
途絶え、広々とした芝生の中を車は走っていた。真正面におそろしく古風な、まるで
中世の城か砦のような巨大な石の門がそびえている。
 鉄の箍と鋲で補強された木製の扉は見るからに時代を帯びていたが、多少の攻撃程度
では傷もつけられないことは明白だった。でなければ風雨にさらされた木が、一目で
わかるほどの精気を帯びて傷なくそそり立っているわけはない。
 扉は車が近づくとゆっくりと開いた。周囲に杭を植えた空堀と落とし格子のないのが
不思議なほどの石の城門を通り抜けると、そこには美しく整えられた広大な前庭と、
白い砂利の敷かれた車回し、冬支度をして丁寧に世話をされた、花壇の広がる庭があっ
た。今は真冬でなにもないが、季節になればここは天国の花園になるのだろう。
 黒みを帯びた緑の木々を背景に、城郭と呼ぶにふさわしい、広壮な石造りの館が
そびえ立っていた。
 左右の翼が前庭を抱くように広がり、数多くの窓がたくさんの目のように陽光を
反射している。隅々にツタや蔓薔薇が絡みつき、冬だというのにちらほらと白い花を
咲かせている。巨大な獣が眠りながら意識は醒ましているかのように、どこか異様な
力と、畏怖を否応なく感じさせる屋敷だった。後方の森はさらに深く、暗く、その前
に建つゴシック様式の多くの尖塔を持つ館は、まさに闇と光の間にうずくまる番犬の
風格だった。
 白い砂利と芝生が広がる前庭から優美な曲線を描くスロープが登り、重厚な玄関の
大扉につながっている。扉が大きく開き、屋敷から誰かが飛び出してきた。一人の
少年が、モーター音を響かせながら、猛スピードでこちらへ向かってくるところだった。

45 煌月の鎮魂歌4 13/162015/05/23() 18:25:19

「アルカード!」
 声変わりの終わりきっていない、高くかすれた声だった。ふさふさした金の巻き毛を
汗で額に貼りつけた彼は、乗っている電動車椅子から飛び出さんばかりの勢いで突進
してきて、車から降りたばかりのアルカードに体当たりするようにしがみついた。
「ラファエル」
 アルカードの声は甘えん坊の子供への愛情と困惑とを半々にしたものだった。彼は
無意識のように手をあげ、少年の髪をなでた。
「ベルモンドの若当主のすることではないな。礼儀はどこへいった」
「そんなもの、どうでもいい」
 つんと鼻をあげた少年は実に整った顔立ちだった。
 むろん、アルカードの人ならぬ美には及ばないものの、美少年と呼んでさしつかえ
ないだろう。長年にわたって注意深く混ぜ合わされてきたさまざまな血統が、この
少年には最良の形で現れていた。
 大人びて見えたが、おそらく二十歳にはまだなっていまい。ベルモンドの者によく
現れる濃いブルーの目、白い肌、貴族的な鼻筋と高い額、泡立つような金髪としっかり
とした肩と腕、広い胸。
 だが、そこまでだった。電動の大きなソファのような車椅子が、彼の腰から下を
支えていた。
 膝の上にかけられた毛布で、下半身はほとんど隠れてしまっている。車椅子の足乗せ
に乗った足はいくら上半身が動こうともぴくりともせず、贅沢なムートンと紋織りの
部屋履きで、完全に人目から覆われていた。
「ぼくは最後まで反対したんだよ、なのに、黙って行っちゃうなんてひどい」
 アルカードの袖をひっぱりながら、少年は頬を膨らませた。
「急いであとを追わせて間に合ったからよかったけど、もしそうじゃなかったら、
あなた、また一人で行ってしまうつもりだったんでしょう」
「私は一人でするべき仕事は一人でこなす。知っていると思うが」
「だって心配だったんだもの」

46 煌月の鎮魂歌4 14/162015/05/23() 18:25:54

 すねたように少年は唇をとがらせた。ふっくらとした薔薇の花びらのような唇に、
純粋ゆえの幼い脆さがかいま見えた。
「あなたはベルモンドの大切な宝物なんだよ、それを忘れないで。あなたがいなくなっ
たら、〈組織〉も、ベルモンドも、きっとどうしていいかわからなくなっちゃうよ」
「私はそれほどたいしたものではないよ、ラファエル。──ああ」
 車を降りたユリウスにむかって、アルカードは振り返った。
「紹介しよう。こちらはユリウス・ベルモンド、母違いの君の兄だ。ユリウス、これが
君の義弟、ラファエル・ベルモンドだ」
 ラファエルはしゅっと息を吸う音をたてて口を閉じた。
 空気が張りつめた。二対の青い瞳が出会った。確かに同じ血を引いていると一目で
わかる、鏡に映したような濃いブルーの目だった。
 魔狩人ベルモンド家の瞳、聖なる鞭の使い手として連綿と受け継がれてきた血の証。
ユリウスは一瞬何もかも忘れ、自分と同じ力を帯びた、同じ血を継ぐブルーの瞳に見
入った。
──ぼくに兄なんていない」
 沈黙を先に破ったのはラファエルのほうだった。
 赤らんでいた頬が徐々に青ざめていき、笑みの形の唇は凍りついてひきつった。彼は
アルカードから手を離して、あとずさるかのように車椅子の上で背を反らせた。
「ラファエル──
「ぼくには、兄なんかいな
い!」
 喉を絞って叫ぶと、ラファエルはアルカードの手を振り払った。車椅子のタイヤをきし
ませて向きを変え、砂利を弾き飛ばしながら来たとき以上の勢いで屋敷へ向かって走っ
ていってしまった。
 正面扉がすさまじい勢いで閉まった。まだ少年の頭の位置に手を泳がせたままのア
ルカードは沈んだ表情で立ち、かき乱された砂利と屋敷から続くタイヤの轍を見ていた。

47 煌月の鎮魂歌4 15/162015/05/23() 18:26:28

……ハハ」
 はじめあっけにとられていたユリウスの喉に、急激に笑いがこみ上げてきた。彼は額
に手を当て、車によりかかって、心ゆくまで笑った。
「ハハハ。ハ、ハ、ハハハ、ハ」
 こいつはいい。あのお坊ちゃんが俺の弟か。あのお綺麗な金髪と女の子みたいにすべ
すべの頬の。この世の苦労や汚穢や本物の世界のどん底がどんなところか知りもしない
だろう、あのかわいらしい坊やが。
 吐き気がする。
「ユリウス」
 笑い続けて息を切らしているユリウスに、アルカードが声をかけた。
「到着してすぐで悪いが、〈組織〉の上層部が君に会いたがっている。疲れているだろ
うが、案内させるから身なりを整えて、本館の大広間に来てもらいたい」
「そいつは強制か、それともお願いか?」
 まだ止まらない笑いに息を詰まらせつつ、ユリウスは鼻を鳴らした。
「身なりと来たね。その上層部ってのが今の坊やみたいなお歴々ばっかりだとすりゃ、
ずいぶん陽気なパーティになりそうじゃねえか。なあ、兄なんていないんだとよ、
聞いたか?」
 くく、と喉を鳴らして、ユリウスはアルカードの胸をつついた。
 それから一転して野獣の形相になり、しわ一つないシャツの襟をわしづかみにして
引き寄せた。いっせいにSPたちが動きかけたが、アルカードの一瞬の視線で止められた。

48 煌月の鎮魂歌4 16/162015/05/23() 18:27:10

「後悔させてやるぜ。てめえら全員な」
 ブロンクスの毒蛇と呼ばれた牙をむき出しにして、ユリウスは囁いた。
「どうこう言ったって俺にすがらなきゃならない能なしどもに思い知らせてやるよ、
てめえらがいったい何を引っばりこんじまったのかをな。ああ、鞭なら使ってやるよ、
だがその代わりに俺が何をしようが何を欲しがろうが文句はつけられねえってことを
忘れるな。あの坊やが使いもんにならねえ以上、俺がいなきゃ、〈組織〉とやらが何
百年もかけて組み立ててきた計画はいっさいがっさいおじゃんになる、そうだろうが?
だとしたらあんたたちみんな、目的を果たすためなら、這いつくばって俺のケツを
嘗めろと言われてもしょうがないってことになる」
 アルカードは無表情のまま見返していた。蒼く輝く、ふたつの遠い月の瞳。
 ふいに締めつけられるような胸苦しさを覚えて、ユリウスは乱暴にアルカードを突き
放した。
「さ、やれよ、とっとと」
 いまいましげに唾を吐いて、ユリウスは腕を組んだ。
「ケツを嘗めるのはまた別の機会だ。とりあえずはあんたたちの言うとおりにしてやる
さ。案内しな。ついてってやるよ」