煌月の鎮魂歌5
67 :煌月の鎮魂歌5 1/22:2015/07/19(日) 09:47:55
2
見るからにおびえた顔のメイドが先に立ち、強面のSP二人があとに続いた。
ユリウスはのんびりとベルモンド家本邸の広い廊下を歩き、配された美術品や調度、
複雑な細工の羽目板、彫刻、ドアノブや窓枠ひとつにもある時代の積み重なった
貴重さを、慣れた盗賊の目で吟味した。
あれをポケットに押し込めればブロンクスじゅうの女どもを買いきりにできるな、
と壁の小龕に配された掌ほどの大理石像を見て思う。いや、ブロンクスどころか、
ニューヨークじゅうの女を買っても山ほどお釣りがくるかもしれない。あるいは
アメリカじゅうでも。
贅沢な紋織りの壁にかけられた小さなイコンや絹のように薄い東洋の壷、明らかに
著名な画家の手になるものと思われる絵画の数々、〈赤い毒蛇〉にとってはよだれの
出そうなものばかりだ。びくびくと後ろを振り返ってばかりのメイドと、怪しい動き
をすればすぐにも掴みかかろうと身構えているのが伝わってくる屈強な男二人に
はさまれて歩きながら、ユリウスはレザーパンツのポケットに指をかけ、口笛を
吹いていた。
恐怖も敵意も毒蛇にはおなじみだ。刺激があっていい。こちらを伺うメイドに
歯をみせてにやりとしてやると、彼女は飛び上がらんばかりに縮みあがり、小走りに
先へ進みだした。ユリウスは笑いをかみ殺した。
案内されたのは浴室のついた客用寝室らしきひと間だった。この一部屋だけでも、
ブロンクスの標準的な住民の住処からすればインドのマハラジャの宮殿に相当する。
飾り気のない家具はすべてアンティーク、天蓋つきの古風なベッドに糊のきいた白い
シーツがかかり、絨毯はアラベスク模様の壁布とよく調和する冴えた青のやわらかな
中東風だった。
68 :煌月の鎮魂歌5 2/22:2015/07/19(日) 09:48:41
さりげない歴史と富、贅沢ではあるが上品な趣味の中で、アルコールの臭いの
しみついたレザーパンツとジャケットのユリウスはいかにもな異物だった。浴室へ
送り込まれ、すでに満々と湯のたたえられた広いバスタブに入るように言われた。
身体を隅々までよく洗い、それから用意された服に着替えて出てくるようにと。
何か愉快なことを言って挑発してやろうとしたが、涙目でおびえきっているメイド
と、今にも銃を抜きかねない様子で懐に手を入れかけているSP二人を見て、ここで
騒ぎを起こすのはあまりおもしろくないと考えた。泣き出しそうな小娘ひとりと、
頭から湯気を立てている筋肉男二人程度では観客が足りない。サーカスには大勢の
お客が必要だ。ユリウスは肩をすくめて両手をあげた。
「オーケイ、わかったよ、おとなしくする。そのへんのものをちょいと失敬したりも
しない。だから出てってくれないか。ガキじゃねえんだ、着替えくらいひとりで
できる。それとも俺がちんぽを洗うのを手伝いたいかい、そこのお二人さんよ?」
SP二人の黒いスーツが弾け飛びそうに膨らんだが、ユリウスが騒がない限り
手出しはしないように命じられているらしい。太い首まで赤黒くしながら、青くなって
震えているメイドを先に立てて二人は出て行った。無言の怒りを示すようにドアが
叩きつけられる。ユリウスはにやりとし、でたらめな口笛の続きを吹きながら、
服を脱ぎはじめた。
率直に言えば、べとつくビールとジュースの混合物の臭いには少々うんざりして
きていたところだった。裸になり、香りのいい浴用塩の入った湯に身を沈めると自然
とため息が漏れた。
ブロンクスでは入浴は最高の贅沢だった。少なくとも、〈毒蛇〉と呼ばれるように
なるまでは。あの寂れた教会跡に巣を作り、暴力と恐怖で君臨するようになってから
はほとんど手には入らないものなどなかったが、設備の整った浴室や快適な温度の
湯の出る蛇口など、そもそもあの地獄の鍋底には存在しない。
69 :煌月の鎮魂歌5 3/22:2015/07/19(日) 09:49:20
ほとんど身体を洗わない者も多い中で、ユリウスは例外的によくシャワーを浴び、
身なりにもそれなりに気を使っていたが、それもまた、力の誇示の一つだった。髪を
清潔に整え、血の臭いをコロンで消すこともまた、毒蛇の鱗を輝かせる。むさ苦しい
ならず者は素人を怯えさせるかもしれないが、本当に危険なのは、紳士の身なりに
爬虫類の心を宿している奴らのほうだとユリウスは知っていた。
熱い湯と冷水を交互に浴び、バスブラシとタオルですみずみまで身体をこするのは
実際気分のいいものだった。しばらく嫌がらせのことも忘れて、ユリウスは長年の
スラム暮らしでしみついた根深い汚れをこすり落とすことに専念した。赤い髪はいよ
いよ炎のように真紅に冴え、筋肉を覆う皮膚には若さのしるしの艶と張りが戻って
きた。バスタブの湯を何度か張り替え、きれいな湯に浸って芯まで温まるころには、
人の心を裂くような鋭い目つきのほかは、すらりとした長身の、かなり人目を引く
精悍な顔立ちの青年ができあがっていた。
髪を乾かし、用意されていたバスローブをひっかけてぶらぶらと出ていってみると、
ベッドの上に新しい服が一式広げられていた。脱ぎ捨てた元の服を探したが、なく
なっている。おそらく持ち去られたのだろう。ユリウスは肩をすくめて、またあの
ビール臭い服を着て出て行ってやる計画を放棄した。服がないのでは仕方がない。
それに、せっかくさっぱりした身体にまたべとつく汚れた服を着るのもぞっとしない。
服を調べてみたが、ここにある調度品と同様、どれもこれも一級品のテイラーメイド
だった。ブランド物などという俗な名では呼ばれもしない、ほんの一握りの人間だけが
手にすることのできる本物の高級店のタグが、控えめながら誇らしげに刻まれている。
つややかな生地のディナージャケットを手にとって、鼻を鳴らす。あいつらは
本当に、俺がこんなものをいい子に身につけていくもんだと思ってるのか? あきれた
話だ。
70 :煌月の鎮魂歌5 4/22:2015/07/19(日) 09:49:55
いっそのこと全裸で出て行けばいい気味だとも思ったが、さすがにそれは自尊心が
許さなかった。結局、下履きとスラックスに靴を履き、上半身は裸にシャツだけを
はおって、前は開けたままにした。ご丁寧に蝶結びのボウタイまでつけてあるのを
手にとってにやりとする。あいつらは本当に俺がこんなばかげたものをくっつけた
ウサちゃんになると思ってるのか?
だったら見せてやろう。
真新しい革靴に裸足をつっこみ、踵を履きつぶしてぶらぶらと出ていく。わざと
足をひきずって騒々しい音をたててやると、部屋の前で待っていた筋肉男二人が瞬間
息をのみ、それから全身を怒りに膨れあがらせた。
「戻れ」
語気するどく一人が言った。
「服を着るくらい自分でできると言ったな。その格好はなんだ。もっとまともな格好
を……」
ユリウスはその鼻先に指を突きだし、ひっかけたボウタイをくるくると回してみせる
と、肩にかけていたディナージャケットを持ち上げた。上等な生地が張りつめ、糸が
はじけた。丁寧な職人仕事の結晶はあえなく二つに引きちぎられ、黒い布の塊になって
だらりと垂れ下がった。
「すまんな。どうも不器用で」
明るくユリウスは言った。
「ごらんの通りのスラムの鼠なもんでな。こういうしゃれた衣装には慣れてないんだ。
まあ勘弁してくれよ。で、お待ちかねの皆さんはどこだい?」
二人は視線を交わしあうと、一人が脇に寄って携帯端末を取り出し、怒った口調で
何か囁きはじめた。ユリウスの態度に関して、誰か権限を持つ相手に対処を仰いでいる
らしい。ユリウスはうす笑いを浮かべて指先でボウタイを回し、踵を潰した靴をきしま
せながら待った。また新しい服が持ち込まれてきたとしても、同じことをしてやる
つもりだった。
71 :煌月の鎮魂歌5 5/22:2015/07/19(日) 09:50:27
この服は奇妙なくらいぴったりとユリウスの身体に合っている。つまり彼らとして
は、実際に接触する前からユリウスについて調べ上げ、文字通りスリーサイズから
尻の毛の数まで詳細に数えていたということだ。最初から特定の人物のサイズに調整
して作られていなければ、これほど身体に合ったものはできない。自分がベルモンド
家から無視されていると思いこんでいた長い間、彼らは一瞬たりとも目を離さずに
血族の物を監視していたのだ。ご丁寧にありがとうよ、クソ野郎ども。
端末を切り、乱暴にポケットに押し込みながら男が戻ってきた。怒りと不満で今にも
はちきれそうになっている。
「ついてこい」
「このままでかい?」
大げさにユリウスは驚いてみせた。
「こういう格好が上流の方々にゃ流行なのかい? そいつは驚きだね」
「いらん口をきくな。黙ってついてこい」
二人は巨大な壁のような背中を向け、ぐんぐん廊下を進みだした。その膝を後ろから
蹴ってやる誘惑に屈しそうになったが、そんなことよりもサーカスを早いところ楽しむ
ことだと思い直して、ユリウスはことさら足を引きずって歩き、痛めつけられた子牛革
の靴が文句を言うように軋みながらバタバタ音を立てるのを楽しんだ。一方がちらっと
肩越しに睨みつけてきたが、それ以上構うなと指示されたらしい。ぐっと唇を引き
締め、意地のように前だけを見て、大股にさっさと進む。ユリウスは指先でくるくる
回る絹製の蝶のようなボウタイをもてあそびながら、調子外れな口笛を吹いてついて
いった。
いくつもの扉を左右に見ながらかなりの距離を歩いた。少しばかりユリウスが退屈
しだしたころに、ひときわ壮麗な大扉の前で、二人は立ち止まった。
扉の前には白い髪をきつくひっつめ、十八世紀の小説から抜け出してきたような
喪服めいた黒いドレスを着た老女がいた。相当な年齢のようだったが、その姿勢は
鉄棒のようにまっすぐで、あまりにもぴんとした背中は折り曲げることができるのか
どうか、ユリウスにも判断しかねるほどだった。皺だらけの顔の中で、二つの氷の
かけらのような目が、なんの感情も浮かべずに一行を見回した。
72 :煌月の鎮魂歌5 6/22:2015/07/19(日) 09:51:01
「ご苦労でした」
たるんだ喉から出る声は木の葉のこすれる音に似ていた。
「お前たちは下がりなさい。わたくしはこちらのお屋敷の家政婦を任せられており
ます、ボウルガードと申します。皆様がお待ちです、ユリウス・ベルモンド様。
どうぞこちらへ」
「へっ、そいつはどうも」
ユリウスは老女の鼻先でボウタイを振り回してみせたが、灰色の睫にとりかこまれ
た目はまばたきひとつしなかった。ぴんとした身体はきしみ一つあげずになめらかに
回り、ひそやかに扉を叩いた。
「皆様。ユリウス・ベルモンド様がご到着です」
「中へ」
誰のものともわからないくぐもった声が返った。老女はすべるように動いて扉を
開いて横に回り、頭を下げた。頭を下げてもまだ鋼鉄のガーゴイルのような存在感を
発する彼女をあえて無視して、ユリウスはゆっくりと扉の中に踏みいった。
息苦しいほどの沈黙があり、それから、小さな生き物が騒ぎ出すように声を殺した
囁きとうめき声が四方からわきあがってきた。
ユリウスは裸の胸にあたるシャツの襟をはじいて、歯を全部むいた最高に愛想のいい
笑みを見せてやった。ブロンクスではこれを見た人間で震え上がらない者はなかった
し、ほとんどの者は生き残りもしなかった。
「よう、ご一党」
機嫌よくユリウスは言ってやった。
「はるばる来たってのにご挨拶もなしかい? 拍手の一つでもして迎えてくれても
いいんじゃないのかね」
「アルカード!」
年老いた震え声が憤然と叫んだ。
「これが本当にミカエルの落とし胤なのか? 間違いなく?」
73 :煌月の鎮魂歌5 7/22:2015/07/19(日) 09:51:36
「間違いない」
耳をそっと撫でるようなやわらかい声が答えて、ユリウスの注意はいやおうなく
そちらに引きつけられた。
ホッケーでもできそうなおそろしく広い部屋は何十人もの老若男女で埋まり、
ほとんどの顔が当惑や怒り、反感、困惑、嫌悪といった色に塗りつぶされていた。
その中心に、廷臣を従える幼王のように、車椅子に座したラファエル・ベルモンドが
青い瞳を憤怒に燃やしていた。
そしてその隣に、銀色に輝く人型の月の影が、重みを持たない者であるかのように
静かに佇んでいた。
「彼がミカエルの息子であることは、この事態に彼を呼び寄せるにあたって徹底的に
再調査され、再検証された」
淡々とアルカードは続けた。
「彼は確かにミカエルの息子であり、ベルモンドの血と能力を受け継いでいる。その
ことは、私自身も確かめた。ヴァンパイア・キラーの使い手となれる人間は、彼しか
いない」
「こんな……不良が、あの聖鞭の使い手になるだと?」
『不良』の代わりにもう少し不穏当な言葉を口に出しそうになったようだが、あやうく
踏みとどまったらしい。ユリウスは哀れみをこめて鼻を鳴らしてやった。お上品な奴ら
というのは面倒くさいものだ。もっとバリエーションのある呼び方を、ユリウスなら
いくつも知っているのだが。
「素質はある」
アルカードの返答は動かなかった。
「むろん、未熟な部分はある。正式な訓練を受けていないし、人間相手はともかく、
人外の者との戦いは未経験だ。しかし、それはこれから習熟させればすむことだ。
私がやる」
74 :煌月の鎮魂歌5 8/22:2015/07/19(日) 09:52:10
「あなたが!?」
ラファエル・ベルモンドが、殴られたようにぐらりと身体を傾かせて身をよじった。
かたわらのアルカードを見上げた顔は、衝撃で凍りついていた。
「あなたがあの……あの、野良犬の相手をするの? 訓練を? そんなことさせない、
僕は許さないよ! ベルモンドの当主として、あなたにそんなことはさせない、僕が
命令する!」
「われわれには時間がない、ラファエル」
車椅子の少年を見下ろして、アルカードはさとすように言った。
「お前には師となる父がいた。だがミカエルはもういない。お前はまだ正式な鞭の
使い手ではない。私は五百年の昔から、代々のベルモンド達のそばにいた。彼らの
動きは熟知している。私がやるしかないのだ」
それにそいつはそもそも立つことすらできない、とユリウスは声に出さずつけ加え
た。アルカードがあえてそれを口に出さなかったのはわかっていた。少年自身が、
そのことについて一番傷ついているのだから。ラファエルは豪華な革張りの車椅子の
肘掛けに爪を食い込ませ、身をこわばらせてただうつむいている。
「ここに集まっている者はみなわかっているはずだ。最後の戦いが近いことを」
アルカードは一同を見回して少し声を張った。それだけでざわめきは静まり、人々の
視線は自然にこの銀の麗人に集まった。この座の本当の主人がラファエルではなく、
彼であることは一目でわかった。
王者として生まれついた者の自然な威厳とオーラを彼はまとっていた。なかば吸血鬼
の血を引くだけではなく、人間離れしたその美貌や挙措の美しさだけでもなく、ただ
そこにいるだけでいやおうなく人々の魂をからめとってしまう、魔術にも、あるいは
呪いにすら似た力。ユリウスはふたたび月を思い、あのブロンクスの地下室で床に
広がっていた銀髪のきらめきを思った。自然に下腹に熱が集まり、呼吸が速くなった。
75 :煌月の鎮魂歌5 9/22:2015/07/19(日) 09:52:45
「あと半年で世界は終わる。われわれが何もしなければ」
穏やかにアルカードは続けた。
「魔王の再臨。それだけは阻止せねばならない。そのためにわれわれは血を継ぎ、命を
重ねてこの時に備えていたはずだ。ヴァンパイア・キラーはこの計画の要だ。あの鞭
でなければ魔王を滅ぼすことはできない。鞭の使い手は、どんなことがあろうと存在
せねばならない。ほかならぬ彼が、魔王討伐の中心とならねばならないのだから」
「しかし、だからといってこんな──」
「選択の余地はない」
弱々しくあがった抗議を、一言でアルカードは切って捨てた。
「われわれは最後の戦いに備えねばならない。そして必ず勝たねばならない。勝たねば
人間の世界は終わる。開けることのない夜と地獄が昼の世界に取って代わる。われわれ
には鞭の使い手が必要だ。ヴァンパイア・キラーを振るう人間が」
「ちょっと待ってほしいんだがな」
アルカードの言葉にかぶせるようにユリウスは手を挙げた。氷河の蒼の瞳がゆらりと
こちらを向く。へその辺りがむずむずした。授業中にふざける生徒のように、ユリウス
はひらひらと手を振った。
「その選択の余地ってのは、俺にもあるのかい? 鞭の使い手ってのは」
「どういう意味だ」
アルカードの視線がまっすぐこちらを見ている。心地よかった。腹の底の疼きが胸
まであがってきた。ユリウスははだけたシャツの前で腕を組んだ。
「つまり、俺が鞭を使いたくなかったらどうなるか、ってことさ」
静まりかえっていた部屋がとつぜん息を吹き返した。「なんと不遜な──」「だから
雑種など迎えるべきではなかった」「本当にこの男しかいないのか? ほかに候補
は?」という囁きが矢のように周囲を回転した。ユリウスは片頬をゆがめて、アル
カードだけをまっすぐ見つめていた。
76 :煌月の鎮魂歌5 10/22:2015/07/19(日) 09:54:03
「俺があんたに了承したのは、ブロンクスを出てここまでいっしょに来ることだけだ。
鞭を使うかどうかはまだ訊かれてないぜ。俺の意見は聞いてもらえるのか? 鞭なんぞ
使いたくない、魔王なんぞくそくらえって、俺が言う権利も認めてもらえるのかい?」
「お前はヴァンパイア・キラーの持つ意味をわかっていない!」
車椅子の上で、ラファエルが頬を紅潮させて身を乗り出した。
「あれがどれほど重要なものか、あれの使い手たることがどんなに──」
「静かに、ラファエル」
アルカードが囁き、手を軽く叩くと、少年は悔しげに顔をゆがめたまま背もたれに
身を沈めた。足が動きさえすれば、椅子から飛び出してこの野良犬に思い知らせてやる
のにと思っているのがあまりに明白すぎて、ユリウスは思わず忍び笑いをもらした。
「ヴァンパイア・キラーは、自ら望んで手に取る者の手でしか力を発揮しない」
歯ぎしりするラファエルをなだめるように肩を撫でながら、アルカードは言った。
「あれには意志がある。使い手を選び、鞭が認めた者にしか自らを振るうことを許さ
ない。使い手が自らの意志で鞭を手にすることはその第一条件だ。使い手たることを
望まない人間を、そもそも鞭は受け入れない。お前が鞭の使い手になることを選ばない
ならば、それまでだ。われわれに打てる手はなにもない」
「へえ、そうかい? ここにゃ色んなお歴々が集まってるんだろ、なんだか知らんが」
ユリウスは肩をすくめて部屋を見回した。顔、顔、顔。どれもブロンクスでは天上で
仰ぎ見てきた人種の顔だ。裕福さと選ばれた人間の傲慢さが毛穴という毛穴からにじみ
出している輩だ。金と権力をちらつかせればなんでも思い通りになると思っている
やつらの顔だ。
「このご大層なお屋敷も、なにかの術で人目から隠してるんだろう。そんな力がある
んだったら、なんで俺を……そうだな、催眠術にかけるか、それともなにかその手の
魔法でも使って、言うことを聞かせないんだ? ご丁寧に迎えまでよこして」
「言ったはずだ。使い手は自らの意志で鞭を手に取る者でなければならない」
77 :煌月の鎮魂歌5 11/22:2015/07/19(日) 09:54:43
アルカードがこちらを見ている。銀色に揺れる月の影だ。そうだ、彼は違う。彼
だけはこの世界から離れて、遠い天空に輝いている。汚れなく、孤高の空で、誰の手
にも触れられることなく。
「魔法や催眠術で意志を縛ったところで意味はない。心を持たない人形は鞭に触れる
こともできない。鞭の使い手はベルモンドの血を継ぐ者でなければならない。そして
その者は、あくまで自ら使い手たることを選んで鞭をとらなければならない。それが
ヴァンパイア・キラーの使い手に必要な、ただ二つの条件だ」
「で、俺はそんなものにかかわりたくないと言ったら?」
息が苦しい。ユリウスは腕の下で早鐘のように拍つ自分の心臓の轟きを感じた。
部屋の広さが無性にいらだたしい。ほかのものはみなユリウスの視界から消え失せ、
見えているのはただ、有象無象の雲にかこまれて静かに立っている月の瞳だけだった。
「世界がどうなろうと俺には関係ない、ベルモンドの血なんぞ俺は知らん、鞭なんぞ
豚の餌にくれてやれ、と、そう言ったら?」
「──……どうも、しない」
氷蒼の目が静かに伏せられる。
「私はお前をここへ連れてきた。しかし、それ以上のことを強制することはできない。
鞭の使い手は自らの意志で鞭を執らねばならない。お前があくまで拒否するのであれ
ば、もう手はない。鞭の使い手はもはや存在せず、魔王は復活し、この世は永遠の
闇に沈む」
ふたたび周囲がさわがしくなった。とるに足らない顔どもの群れが何事かわめいて
いる。ふりそそぐ怒りと憎悪と軽蔑を快い雨のように感じながら、ユリウスの目は
ゆらめく銀色の髪と白い月の顔にしっかりと据えられて離れなかった。
「つまり、俺がうんと言わなければ世界が滅亡するってことだな?」
「そうだ」
「俺が自分の意志で頷かなければ駄目だと? 強制しても騙しても、操ろうとしても
無意味だと?」
「そうだ」
78 :煌月の鎮魂歌5 12/22:2015/07/19(日) 09:55:18
大波のように笑いが込みあげてきた。身体を折って、吐き出すようにユリウスは
笑った。身体中が燃えるように熱い。どんなドラッグをやったときよりも意識が高揚
し、両耳から血を噴きそうなほど興奮していた。
なんてこった。この偉そうな奴ら、俺を野良犬、雑種、混血と見下している阿呆ども
が、いずれにせよこの野良犬に頼るしかないとは。
この全身に感じる怒りも憎悪も侮蔑も、すべてが快くてたまらない。この偉ぶった
奴らは、俺に頼らなくてはいずれ全員死ぬのだ。みんなそれを知っている。そして
怯えている。半年後には、どうしようもなく、みじめに魔王とやらの前に、下る闇に
呑み込まれてみじめに死ぬ、自分たちの運命に恐怖している。
そしてその恐怖を打ち払う唯一の頼りが、ここにいる野良犬なのだ。
「──だから我々は、お前に頼むしかない」
爆笑するユリウスをアルカードは静かに見つめていた。ひきつるような声であえぎ
ながらようやく顔をあげたユリウスに、月光の青年は変わらぬ静かな声で続けた。
「どうかヴァンパイア・キラーの新たな使い手として、最後の戦いに立ってほしい。
あの鞭でなければ、魔王を本当に封印することはできない。
これまでベルモンド家の者は幾度となく魔王を封じてきたが、その度に封印は
破られ、繰り返し魔王は復活してきた。しかし、今回の降臨は違う。魔王は完全復活
をとげるが、同時に、完全にその闇の血脈を砕く機会も訪れる。この機会を逃せば、
二度目はない。人の世が滅びるか、それとも魔王を完全に滅して世界を闇から解放
するか、二つに一つだ。そのすべてがおまえの意志にかかっている、ユリウス・
ベルモンド」
「頼んでるんだな。この、俺に」
アルカードは口を開かず、顎をひいてただユリウスを見つめた。
「ブロンクスの蛇は何か見返りがないかぎり動かない。それをわかって言ってるんだな?」
やはり無言。暗い地下室と荒い呼吸の音が耳の奥にこだまする。
79 :煌月の鎮魂歌5 13/22:2015/07/19(日) 09:55:56
「よし、わかった。それじゃあ──」
ユリウスはずっともてあそんでいたばかげたボウタイを放り捨て、大股に部屋を
横切った。周囲があわてて誰も動くこともできずにいる間に、手を伸ばし、ぐいと
アルカードの手首をつかんで引きずり出した。車椅子の少年が顔色をなくして身を
乗り出した。
「アルカード!?」
「『こいつ』が、俺の条件だ、ご一同」
手首をつかまれ、片腕に乱暴に抱き込まれたのアルカードをさらに引き寄せて、
ユリウスは勝ち誇った顔であたりを睥睨した。
「こいつを俺専用の牝犬にしてもらう。それが鞭を使う条件だ」
おそろしく長く、肌に刺さるほどの沈黙があった。
「きさま……!」
車椅子でラファエルが身震いして叫び、そのとたん火がついた。
一気に急降下した部屋の温度は瞬時に沸騰した。椅子が倒れ、高価な酒や茶器が
あちこちで揺れてこぼれた。ガラスや陶器の割れる音があちこちで響いた。いたる
ところで人が立ち上がり、拳を振り回し、怒鳴り、わめいていた。
「なんということを……」「身の程を知れ、この雑種が!」「ベルモンドの名を継ぐ
者が、恥を──」「アルカード殿が何者なのか知っていて言っているのか、狂人
めが!」「汚らわしい──」
「言っとくが、ほかの提案なんぞ聞く耳もたないぜ」
こいつらに俺が今まで聞いてきた罵声のひとつも聞かせてやりたいもんだ、と楽しみ
ながらユリウスは思った。お上品なこいつらの心臓はユリウスがため込んできたヴァラ
エティ豊かな罵りのかけらでも聞かせてやったら、その場で喉から飛び出して、心肺
停止の主人を後目にぴょんぴょん地球の果てまで青くなって逃げていくだろう。
「あんたらは俺を野良犬だと思ってるかもしれんが、俺は食い物は選ぶ主義なんだ。
投げられたものをガツガツ食うだけってのは気に入らない。それは蛇のやり方じゃ
ない。蛇は待って、飛びかかり、獲物を手に入れる。確実に。蛇に頼みごとをする
なら気をつけろ。思ってもいないことを要求されることがある。今みたいにな」
80 :煌月の鎮魂歌5 14/22:2015/07/19(日) 09:56:27
「アルカードから離れろ、この──雑種!」
怒りのあまり、ラファエルは我を忘れて息を切らしていた。左右に控えていた
使用人が必死になって引き留めているが、そうしなければ今にも椅子から転げ落ち
そうになっている。
足さえ動けば、と少年が焦げるほどに念じているのが脳味噌に突き刺さるほど
伝わってきて、ユリウスは笑った。足さえ動けば、この無礼な野良犬に当然の罰を
下してやるのに。そもそもこんな場所に、足を踏み入れさせることもしなかったのに。
アルカードに触れるなんて、そんな ──無礼な、汚らしい、そんなこと──
ユリウスはそちらに牙をむいて笑うと、胸によりかからせたアルカードの顎を
つかんで上向かせた。氷蒼の瞳が驚いたように見開かれる。
「ユリウス? 何を──」
有無を言わせず、ユリウスはその唇を塞いだ。
腕の中でしなやかな身体が反射的に抗いかけたが、やがてだらりと力が抜けた。
抵抗しない甘く柔らかい舌を思う存分むさぼり、最後に濡れた唇に舌先を見せつける
ように走らせて、音を立てて離した。
「こいつは最高の牝だ。少なくとも、俺が見てきた中じゃな」
呼吸も許されないほど手荒く口づけられたせいで息を乱しているアルカードを抱き、
朗らかにユリウスは宣言した。
「こいつを俺専用の牝犬にする。いつでもどこでも、俺の言うことならなんでも聞く
ペットだ。見た目もそう悪くない。まあ、しばらくは楽しめそうだ。味見もさせて
もらったしな。首輪と鎖は遠慮しといてやるよ。お上品なここじゃ、ちょいと場違い
だろうからな」
車椅子の中でラファエルは身悶えしていた。
「アルカードを離せ、雑種! 出て行け、汚らわしい、こんな──」
81 :煌月の鎮魂歌5 15/22:2015/07/19(日) 09:57:01
「おいおい、お兄ちゃんにそんな言い方はないんじゃないか、兄弟」
悲しげな顔をつくろい、ユリウスはラファエルに口をへの字に曲げてみせた。
「お前はずっとここで、この牝犬と遊んできたんだろうに。ちょっとくらい、
お兄ちゃんにわけてくれてもいいだろ?」
「アルカードをそんな風に言うな、犬はお前だ、雑種、野良犬!」
本当に床に前のめりになりかけたラファエルを、使用人があわてて引っ張り上げる。
血の気をなくした顔の中で、ベルモンドの濃い青の瞳が憤怒のあまり鬼火のように
爛々と燃えていた。
「お前なんか兄じゃない、お前なんか認めない、兄弟だなんて、絶対に!
アルカード、お願いだ、なんとか言ってよ」
訴えるようにラファエルはアルカードに呼びかけた。
「こんな奴に好きなようにされるなんて許せない、あなたはベルモンドの宝なんだ、
ずっと僕たちを導いて輝いてきた至高の存在なんだ、なのに、こんな雑種の汚い手に
どうして捕まってるの、アルカード、お願いだからなんとか言ってよ、ねえ──」
アルカードは聞いていたのかもしれないが、それに注意を払っているようすは
なかった。すでにあの澄んだ泉のような平静さを取り戻し、なめらかな白い顔で
じっとユリウスを見上げている。まだ濡れている唇が艶めいて光り、ユリウスは
もう一度ここで彼の服を引きはがして犯してやりたい衝動にかられた。青く澄んだ
瞳の奥に、わずかな金のきらめきが揺れる。
「……それがお前の条件か」
ささやくように彼は言った。ブロンクスの地下室でと同じように。
ユリウスの口の中が一気に干上がった。
「そうだ」
口蓋に張りつく舌を動かしてやっと言った。周囲の喧噪も車椅子の少年も今はみな
遠かった。存在するのは自分と月、腕の中で長い銀髪を揺らし、遠い視線を送る白く
まばゆい月の顔だけだった。
82 :煌月の鎮魂歌5 16/22:2015/07/19(日) 09:57:36
「あんたを俺の物にする。それだけだ。ほかの条件は受けつけない」
「そうか」ユリウスの胸に手をつき、アルカードは視線を下げた。
「わかった」
「アルカード!」
「──ラファエル。そして皆」
ユリウスに腰を抱かれたまま、アルカードは頭を上げて周囲を見渡した。
「私は、ユリウスの要求を了承する」
室内の者がいっせいに息をのんだ。
「アルカード! いけない、そんなこと」
ラファエルの声は今にも泣き出しそうな子供の金切り声だった。
「あなたがそんなことするなんていけない! そんなこと、あなたにさせられるわけ
ない、あなたがそんな奴に、そんな──」
「これは必要なことだ、ラファエル。皆も」
人形のようにユリウスに抱かれながら、アルカードの言葉はなおも指導者の、王者
の気高い血を引く者のそれだった。
「われわれは魔王を封滅する。そのためには鞭の使い手が必要だ。そのためにはどの
ようなことであろうとせねばならない。彼の要求が私であるのならば、私がそれを
する。疑問の余地はない。鞭の使い手は存在しなければならない。彼が、その唯一
の者なのだ」
視線をもどしてアルカードはひたとユリウスを見つめた。あまりにも深く強く遠い
まなざしにユリウスはめまいを感じた。それと同時に、自分がおそろしく間違った
選択をしてしまったような気がした。遠い昔に、街角で何一つ持たずに、母親の死体
を見下ろしていたときの空虚な感じ。
「私はお前のものだ」
単なる事実を述べるように淡々とアルカードは言った。
83 :煌月の鎮魂歌5 17/22:2015/07/19(日) 09:58:15
「そしてお前には鞭の継承者としての教育を受けてもらう。ヴァンパイア・キラーの
使い手となるにはまず、人間の想像を超える相手に立ち向かうための手腕と、聖鞭
それ自身に認められるだけの精神が必要だ。私がそれを教える」
これは違う、という言葉が喉元まであがってきたが、声に出すことはできなかった。
望んでいたのはこんなものではない。望んでいたのは、本当に欲しかったのは──
「魔王の城は魔物や悪魔の巣だ。そういったものへの対処法も学ばねばならない。
時間がない。お前は半年間ですべてを身につけ、その上で鞭に使い手として認めら
れねばならない」
衆目の中で人形のように抱かれながら、アルカードは澄んだ泉のようだった。さざ
波一つ立たず、鏡のようになめらかな水面。ユリウスはいつかその氷青の瞳に映る
自分自身と目をあわせていることに気づき、ぎくりとして目をそらした。
「さっそく指図か」
いつものような声が出せたのが不思議だった。口の中は砂漠を歩いていたように
乾ききっている。
「本当に俺がそんなことに我慢してつきあうと思うのか? 俺はあんたで遊びたい
だけで、ほかのことには興味なんかないかもしれないぜ」
白い貝のような耳朶に囁き、腰から背を粘りつくようになで上げてやる。シャツの
裾から手を滑り込ませようとしたとき、初めてアルカードは身じろぎして抵抗する
素振りを見せた。
「ここでは──駄目だ」
「なに?」
「……あの子が見ている」
ラファエル。
少年は車椅子の上で石と化したようにかっと目を見開いていた。少女めいた甘さの
残る顔立ちは苦悶と焦燥にゆがんでいる。きっと俺を今すぐ殺したがっているだろうと
ユリウスは思い、心底愉快になった。
84 :煌月の鎮魂歌5 18/22:2015/07/19(日) 09:58:55
「ここじゃなければいいんだな?」
素早く囁き、アルカードの手首をつかんで扉へ向かった。自分の中にうずくまる
正体のわからない逡巡から逃れたかった。いつの間にか背後にも回り込んでいた
人々が、悪臭を放つ獣にでも近づかれたようにいっせいに割れた。
「じゃあな」うなだれたまま後に従うアルカードをがっちりつかんで、ユリウスは
陽気に手を振ってみせた。
「まあ、せいぜい楽しませてもらうぜ、クズども。お前らが見下してる雑種の野良犬
にどんなことができるか、じっくりそこで見てな」
最後の一言は奥で動かないラファエルに向かって投げつけられた。高らかにユリウス
は笑った。
手の中のアルカードの手首は頼りないほどに細い。げらげら笑いながらユリウスは
アルカードを部屋から引きずり出した。黒い影のように立っていた家政婦の老女
ボウルガードが、何も見ていないかのようになめらかに頭を下げる。部屋から
噴き出してくる棘のような悪意と軽蔑と憎悪を快く感じながら、ユリウスは大股に
廊下を進み出した。
世話係の手で部屋へ運ばれ、一人になるまでラファエルは泣かなかった。人前で
泣くというのは、誇り高いベルモンド家の当主としてあってはならないことだ。
「ご苦労」部屋着に着替えさせられ、ベッドの上に寝かされて羽布団をかけられて
から、尊大にラファエルは言った。
「時間になったら、ボウルガード夫人に食事を運ばせてくれ。今日は……食堂へ降りて
いかないから。少し疲れた。しばらく本を読むから、一人にしてくれ。用事があれば、
ベルを鳴らす」
85 :煌月の鎮魂歌5 19/22:2015/07/19(日) 09:59:31
いかつい世話係の男は頭を下げ、顔をラファエルから隠すようにして出て行った。
そこに浮かんだ哀れみの表情を見られなくなかったのだろう。ラファエルはベッド
サイドに積み上げた本の一冊を手に取り、いいかげんに開いて読むふりをした。
ドアがしまり、世話係の足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、少年は本を
投げ出し、枕の上にうつ伏した。
枕に顔を押しつけて、声が漏れないように泣きじゃくる。足が動かなくなってから、
覚えたやり方だった。これまでにも深夜に、こっそり涙を流すことはあった。だが
今回は酷すぎた。あまりにも。
アルカード。
小さいころから、彼はラファエルにとって神のような存在だった。神以上だったかも
しれない。力を引き出す象徴として神のシンボルを利用するとはいえ、ラファエルは
真の信仰心を抱いたことなどなかった。そういった感情はすべて、五百年をこえて
老いることなく生きる、幻のような美貌の青年に捧げられていた。
崇拝していた。アルカードは〈組織〉のために世界を飛び回ることが多く、ここに
戻ってくることはあまりなかったが、たまに戻ってきたときは全世界が光り輝くよう
だった。幼いラファエルの頭に手を乗せ、わずかに微笑するその顔ほど美しいものは
なかった。いつか彼の隣で鞭の使い手として、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
して魔王を封じる、それが自分の運命であり、使命だと信じていた。
ある幸せな夏の日を思い出す。しばらく屋敷に帰ってきたアルカードが図書室にいる
と聞いて、取るものもとりあえずに飛んでいった。まだ十にもならないころだった。
アルカードは図書室のフランス窓のそばに腰を下ろし、何事か書類に目を通していた
が、おずおずと入っていったラファエルを微笑して迎えてくれた。
大きくなったなと言ってくれた。アルカードはお世辞は言わない。彼は思ったとおり
のことを言う。誇らしかった。書類を仕上げるアルカードの足もとに座って仕事が
終わるのを待った。やがて仕上がったものを脇に置くと、勉強や修行の様子を尋ねて
くれた。懸命になって答えた。鞭の使い手として恥ずかしくないように。あなたの隣に
立つ者としてふさわしくなれるように。
86 :煌月の鎮魂歌5 20/22:2015/07/19(日) 10:00:16
微笑しながら聞いていたアルカードは、それでもあまり根を詰めすぎるのはよくない
と諭して、蔵書の中では子供向きであると判断したらしい古い騎士物語を読んでくれ
た。彼自身がその物語の中から歩み出てきた者のようなのに。
それ自体が音楽のような声が古雅な韻文を朗唱する。雄々しい騎士が数々の勲功を
あげ、竜を退治し、塔にとらわれた乙女を救い出す……それらはみないずれ、自分の
身に起こることの予言に感じられた。このたぐいなく美しい青年の隣で、伝説となる
べき戦いに身を投じるよう、運命づけられているのだと。歓喜に身が震えた。
それなのに、あの野良犬が奪っていった。すべてを。
兄だなどと呼びたくもない。考えるのもいやだ。あんな男の汚い手に、アルカードが
触れられると思っただけでも耐えられない。今はもういない父を呪った。なぜあんな
──もの──を生かしておいたのかと、胸ぐらをつかんでなじりたい気持ちだった。
ぴくりとも動かない足など切り落としてしまいたい。どうしてこの足は動かないの
だろう。足さえ動けば、あの男が我が物顔にベルモンド家に踏み込んでくることは
なかった。聖鞭も、アルカードも、奪い去られることはなかった。腫れ物に触るように
接される日々はうんざりだ。誰もが自分はもうベルモンドとしては役立たずだと
知っていて、それでいて、必死にそう思っていることを隠そうとする。
でもアルカードだけは離れてはいかないと、なぜか信じていた。それほどに、彼は
絶対の存在だった。
なのにその彼さえも、あの男の薄汚い手にさらわれてしまった。
守れなかった。ベルモンドの家長として、彼だけはどんなことがあっても守るべき
だった。守りたかった。
──守って、あげたかったのに。
涙も声も白いリネンが吸い取っていく。力の入らない下半身を呪いながら、身を
よじって少年はむせび泣いた。握りしめた指がシーツに醜い皺を作っていく。カーテン
を締めきった部屋は薄暗い。
家具の作る複雑な影の奥底で、何か小さなものが、ちらりと動いた。
87 :煌月の鎮魂歌5 21/22:2015/07/19(日) 10:00:51
「脱げ」
屋敷から引きずり出して庭園の一隅までひっぱっていき、ユリウスは命じた。古い
屋敷の石壁に背を預けて、アルカードは動かなかった。
じれて下の衣服だけをはぎ取り、壁にむかって手をつかせた。なめらかな臀が
あらわになる。ろくに慣らしもせずに突き入れると、白い背が一瞬弓のように反った。
喉の奥でかすかにうめき声をたてたようだったが、あまりに小さかったのでユリウス
の荒い息とベルトの音にかき消されてしまった。細い肩を砕かんばかりに掴んで、
ユリウスはきつく相手を壁に貼りつけた。
「あそこじゃ嫌だと言ったな。なら、ここでならいいだろう」
激しく腰を使いながら、ユリウスは吐き捨てた。
「忘れるな。あんたは俺の牝犬になるんだ。そう言ったんだからな。俺がそう言えば
どこでも尻を差し出せ。ひざまずいてブツを嘗めろ。そういうことが大好きなん
だろう、え、この淫売、牝犬。何度もここに男をくわえ込んでるくせしやがって」
ひときわ深く手荒く抉ると、シャツに包まれた肩がわずかにこわばった。
蔦と苔におおわれた石壁に頬を押しつけ、強く目をつぶっている横顔からは、苦痛
に耐える以上のなんの表情も読みとれない。体だけが従順にユリウスに応え、熱く
狭く柔らかい肉で気の遠くなるほどの快楽をユリウスに返してくる。
闇雲な怒りのままに、腰を動かしながら髪をつかんで顔を上げさせ、無理やり唇を
奪った。わずかな抵抗があったが、それも、すぐあきらめたように力が抜けた。その
無抵抗さがますます怒りを煽った。手を伸ばして、片手でへし折れそうな細い首を
つかむ。
88 :煌月の鎮魂歌5 22/22:2015/07/19(日) 10:01:21
締めつけると、苦しげに身をよじり、むせた。
開いた目がわずかに濡れていたが、涙ではなかった。瞳はあくまでも冷たく澄み渡
り、ユリウスの中に理由のわからない恐怖に似た何かをかきたてた。
こいつは俺のものだ、とユリウスは繰り返した。
俺のものだ。俺のものになった。俺だけの牝犬になることを承諾したんだ。
なのに、なぜこれほど不安なのだ?
さまざまなものが入り交じった感情が駆け抜け、ユリウスは呻いた。下腹部に疼いて
いた溶岩のようなものが一気に押し上げてきて、達した。
脳天を雷に貫かれたような、目の前が白くなるほどの快楽だった。体内にぶちまけ
られたアルカードは小さく息を呑んで拳を握りしめたが、それ以外の反応は示さなか
った。溢れた精液が内股を汚して流れ落ちていく。
俺の物だ。俺の物なんだ。
手の届かない月。いや違う、そうじゃない、こいつはただの肉だ。俺をくわえこむ
牝犬だ。そら、こうして、俺のものをくわえ込んで喘いでいる。ああ、白い月の顔、
どんなに手を伸ばしても届かない、つかまえられない天空の月──
二度三度と達しても、ユリウスに萎える気配はなかった。強姦は延々と続いた。
半身を血と精液で汚し、膝を震わせて壁にすがりながら、長く手酷い扱いの間、アル
カードは一言の声もあげなかった。悲鳴すら。