煌月の鎮魂歌 

 

 

89 :煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:29:23 

 Ⅱ   1999年 2月

           1

「触れ、だと?」
 ユリウスの声にはすでに危険なほどの怒気がこもっていた。
「そうだ」平然とアルカードは返した。
「どこでもいいから私に触ってみろ。指先をかすめるだけでいい」
「てめえ……俺をコケにしてんのか?」
 アルカードは平静な顔だった。冗談を言っている顔でもなかった。
 ベルモンド家の広大な敷地の一隅に設けられた訓練場は古く、広大で、石で張られた
床と壁はこれまで幾代ものベルモンド家の者の血と汗を吸い込んで黒光りしていた。壁
には鞭をはじめ剣や斧、短刀、鎖のついた鉄球、棍棒や杖、弓矢などあらゆる武器が
かけられ、そのどれもが使い込まれた道具の独特の精気を放っている。
 アルカードとユリウスはそこで向かい合って立っていた。両者とも武器は持ってい
ない。から手である。てっきり武器の訓練を始めるものだと思っていたユリウスは
不審に思い、そして、今は怒り狂っていた。
 アルカードは黒ずくめのスーツから妙に時代のかった、白い綿のシャツと膝丈の
スパッツに着替えていた。ぴったりした長い白靴下に、これまた博物館から持って
きたのかと思うような古風な短い革靴を履いている。シャツはひかえめに言っても
身体にあっておらず、もともと大きすぎるシャツを乱暴に着丈と袖丈だけひっつめた
ような妙なしろものだったが、アルカードはまったく気にしていないようだった。
だぶだぶのシャツにくるまれ、小さな短靴をはいたアルカードは、スーツ姿の時とは
うってかわってほんの少年のように、壊れやすくか細く見えた。
「俺がブロンクスで何をしてたか知ってんだろうが。その俺に、ガキの鬼ごっこを
やれってのか? ぶち殺すぞ、おい」
「それはまず、私に触れるようになってからやることだ」 

90 :煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:30:10 

 平然としたアルカードの返事に、一気に頭に血がのぼった。
「それじゃあお望み通り、そこに這いつくばらせてやるよ!」
 両足に力を込めて、ユリウスはまさに襲いかかる毒蛇の素早さでアルカードに突進
した。
 手は勢いよく空を切った。
 ユリウスはたたらを踏み、止まり、なんの手応えもなかった手を見下ろし、背後に
いるアルカードを呆然と振り返った。アルカードは何が起こったのかも知らぬ風で、
遠い目をどこかに向けている。
 ユリウスは唸り、わめき、猛然ともう一度つかみかかった。
 またもや空振り。そしてまた。三度。四度。
 よろめいて地面にぶつかり、ユリウスは唖然とアルカードを見上げた。
 彼は訓練開始からほとんど動いていない。立つ位置すら動かしていないのに、手は影
のようにそこを通り抜けてしまう。
「無駄な動きが多すぎる」
 四つんばいになったユリウスを見下ろして、あくまで淡々とアルカードは言った。
「勢いだけでとらえられるほど敵は甘くはない。相手の動きを予測し、必要最小限の
動きで正確に位置を定めるのだ。私に指一本ふれられないようでは、この先、魔物との
戦いはおぼつかない」
「この……」
 一気に跳ね起き、相手の腹にむかって突進したユリウスは、またも何もつかむことが
できずにバランスを崩して鼻から床に激突した。
「相手をよく見ろと言っているだろう」
 後ろからアルカードが言う。確かにそのどてっぱらにタックルする勢いで突っ込んだ
というのに、銀色の姿は幻のように通り過ぎて、前と変わらない位置に髪一本乱さず
立っている。
「力任せに動くだけでは無駄に体力を消耗するばかりだ。魔物との戦いは人間相手とは
わけが違う。素早く、正確に、相手の急所を一撃しなければそれはそのまま死につながる」 

91 :煌月の鎮魂歌6 3/29:2015/08/27(木) 00:30:53 

 ずきずき痛む鼻を押さえてユリウスはやっと起きあがった。鼻の頭を手ひどく擦り
むき、指の間からは血が垂れている。〈毒蛇〉が他人に血を流させられるなど言語道断
だ。ましてやスカったあげくの鼻血などと──
 野獣のような咆吼をあげてユリウスは突進した。両腕を振り回し、足を蹴り出し、
ブロンクスで身につけたなりふりかまわぬ喧嘩のあららゆる手を使ってゆらめく銀の
髪をつかまえようとする。
 そのたびにきらめきは影のようにすり抜け、何一つ動かず変わりもせずそこに立って
いる。ほんのすぐ指先にあるというのに、どうしてもその髪の先にすら触れることが
できない。まるで水に映った月をつかまえようとしているかのようだ。
 わめき声と罵りと荒い呼吸と派手な衝突音が二時間、三時間と続いた。
 身体じゅう擦り傷と埃と(自分の)血にまみれ、ついにユリウスは立ち上がる力も
なくしてその場に崩れ落ちた。動こうとして必死に唸るが、頭を持ち上げる力さえもう
どこにも残っていない。アルカードは訓練を始めたときとまったく変わらず、同じ場所
に静かに立っている。
「今日はここまでだ」
 起きあがろうと無様にもがいているユリウスを見下ろして、アルカードは穏やかに告げた。
「ボウルガード夫人が来る。彼女に着替えと昼食をさせてもらって、休憩のあとは東翼
の読書室に来い。午後からは魔物の種類とその対処法に関する座学を始める。まずは
魔物の名前を覚えるところからだ」 
 そのまましばらく──なんとも無様なことに──気が遠くなっていたらしい。我に
返るとアルカードの姿はなく、あの喪服めいた黒いドレスの老女、ボウルガード夫人が
古風な気付け薬の瓶の蓋をしめるところだった。鼻のまわりに強烈なアンモニアの刺す
ような臭いが漂っている。
「お立ちなさい」
 老女は仮面のような顔で告げた。 

92 :煌月の鎮魂歌6 4/29:2015/08/27(木) 00:31:26 

「アルカード様からのご命令です。離れの小食堂に昼食がご用意してごさざいます。
二時に迎えに参ります。そのあと、読書室へご案内します」
 ユリウスに言うことを聞かせられるものはほとんどいない。これまでいた少数の者は
いずれもユリウス自身の手で死んでいる。
 しかしこの鶏がらのような老女はいったいどういう手管を使ったのか、ふらふらの
ユリウスを起こし、浴室に放り込んで着替えさせ、食事をとらせ、時間通りに読書室に
送り込んだ。そこでは汗をかいた様子もないアルカードが、大きな分厚い樫材のテー
ブルの向こうで待っていた。
「来たか」
 ボウルガード夫人が一礼して下がると、アルカードは立ち上がり、テーブルを回って
ユリウスのそばに立った。白い指がそっと顎に触れ、魂までのぞき込むような瞳がまっ
すぐのぞき込んでくる。心臓が突き刺されたように震えた。
 だがそれも一瞬のことで、アルカードはつと視線をそらし、テーブルの向こうの椅子
にもどった。
「まずこちらの書物を暗記してもらう。本来なら一項目ずつ講義していきたいところ
だが、時間がない。暗記した上で、理解は訓練と実践の中でしてもらうしかない」
「おい、本気か?」
 ユリウスは思わず声を上げた。目の前に積み上げられた書物はどれも恐ろしく古く
分厚く、中にはばらばらになったページが紐で綴じられているだけの古文書とでも
呼ぶべきものもある。表紙に刻印されたかすれた金箔押しの表題は、古風すぎで判読
さえ困難だ。
「こいつをみんな暗記しろだって? 全部食っちまえと言われたほうがまだましだぜ」
「食べて覚えられるのなら、それでもいい」
 アルカードは動じなかった。
「ほとんどは羊皮紙だから動物性蛋白質ではある。しかし消化には悪いだろうし、効果
があるとは思えない。古英語や古典外国語の部分は私が書き直して現代英語の注を
入れておいた。読むのに支障はないはずだ。読み書きはいちおうできると聞いている。
質問は?」 

93 :煌月の鎮魂歌6 5/29:2015/08/27(木) 00:31:59 

 とっさに返事ができないでいるうちに、アルカードが最初の書物の一冊をとり、明瞭
な発音で読み始めた。
 授業は午後いっぱい、日が沈むまで休憩なしで行われた。途中でボウルガード夫人が
何か軽食を運んできたようだが、ユリウスはそれどころではなかった。アルカードが
読み上げる、ホラー映画や三文小説でしか聞いたことのない──または、それですら
目にしたことのない、異様な名前の魔物どもについての記述を復唱し、続いて自分でも
読み、与えられた紙に書きつづる作業で死にそうだったのだ。
「発音と綴りが違う」
 ちょっとした間違いでもアルカードは見逃さなかった。ユリウスの手元から紙を取り
上げ、さらさらと綴りと発音の間違いを美しい筆跡で書き込んで押し戻す。
「魔物は多かれ少なかれその真の名と本質に縛られる。彼らの名は彼ら自身でもある。
名の発音を誤っただけでも致命的な危地に陥る場合がある。いかなる場合でも正しい
名前を、正しい発音で口にせねばならない。魔物狩人としての基本だ」
「やかましい、くそっ、俺を誰だと思ってる」
 ペン軸(また古風なことにインクにつけて使用する羽ペンだった)を折れんばかりに
握りしめながら、ユリウスは歯ぎしりした。
「名前がなんだ。危地がどうした。俺はブロンクスで成り上がってきた赤い毒蛇だぞ。
致命的なんて言葉は本当に死んでから言えばいい。こんなものいちいち覚えなくても、
奴らが襲いかかってくる前にまとめてぶっ倒してやりゃそれで解決だ。イタリアの
パスタ食いとチャイニーズのオカマどもをまとめて相手にしてた俺をなめるな。こんな
蟻の行列なんぞ、奴らに比べりゃ朝飯前だ、くそっ、畜生」
 そう口にしたとたん、ユリウスは妙な空気を感じてふと手をとめた。アルカードが
手を本にのばしかけたまま、まじまじとこちらを見ている。
 これまでとはまったく違った目つきだった。ただ透明で美しく、冷たく澄み渡って
いた氷の青の瞳に、なにか別の色が現れていた。
 五百年を閲したその目の奥に見えたものは、およそ言語を絶するなにかだった。
終わりのない苦痛と悲しみ、それらに属するあらゆる感情の流す血が、凝縮された
ナイフのようになってユリウスの胸を切り裂いた。目まぐるしく変わるその色はときに
追憶、悲傷、哀惜、孤独──それらがとれるもっとも痛々しい姿がそこにすべてあった。 

94 :煌月の鎮魂歌6 6/29:2015/08/27(木) 00:32:32 

 片手が痙攣するように胸元にあがりかけ、力なく垂れた。一瞬にして瞳の色は消え失せた。
「……次はこちらだ」
 アルカードは目を伏せ、別の古文書を取り上げた。
「城に出没する中でも特に強力な混沌の一族について記されている。ただ徘徊するだけ
の下級の魔物どもとはわけが違う地獄の貴族たちだ。これらについては特に注意が必要
だ。私の発音をよく聞いて真似をしろ。くれぐれも綴りを間違えるな、いいな」

               2

「ユリウス・ベルモンドって、あんた?」
 寝椅子の上で怠惰に身じろぎし、ユリウスはうっすらと目を開けた。
 ガラスの天井からふりそそぐ陽光がまぶしい。ベルモンド家の広いサンルームは、
もっぱら滞在客たちの休息とレクリエーションの場とされていた。
 ユリウスがやってきた時も、数人の男女がテーブルを囲んで談笑したり、窓辺に
寄って何か秘密めいた話にふけったりしていたが、ユリウスが姿を見せるが早いか
全員が溶けるようにどこかへ消えていき、あっという間に誰もいなくなった。
 いつものように、ユリウスは気にもしなかった。ああいう連中はいちいち気にする
ときりがない。手近にあった寝椅子に寝転がって、置きっぱなしになっていたワインを
瓶ごと失敬し、ちびちびやりながら昼寝をきめこんでいたのだ。
 だらりとクッションに寄りかかりながら目の前のものをじっくりと観察する。
 見事なアンティーク・ドールが動き出したような少女だった。
 せいぜい十一、二歳といったところか。ほんの小娘だ。白い肌は陶器のように
なめらかで健康的なミルク色、波打つ髪はふさふさとした金髪。猫のようなつり上がり
気味の緑の瞳が目を引く。つんと上を向いた鼻先がちょっと生意気そうだが、小さく
ふっくらとしたかわいい唇は、咲き初めたばかりの薔薇のつぼみを思わせる。 

95 :煌月の鎮魂歌6 7/29:2015/08/27(木) 00:33:10 

 ワインカラーのベルベットにふんだんにフリルとレースをあしらったドレス、数える
のがいやになるほどのボタンとリボンと何枚ものペティコート、ぴかぴかの赤い革の
ブーツ。手にはいっぱしの貴婦人らしく、日除けの役にはたちそうにないレースと絹の
きゃしゃなパラソル。
 肩からはドレスとお揃いのちっぽけなポシェット。こちらもふんだんなレースと
ビーズで飾られ、肩紐は金の鎖と赤い革が交互に編みあげられた凝った細工、細い手首
には青いサファイアの輝きを放つ、シンプルなブレスレットがきらめきを放つ。
 肩の上には見たことのないインコほどの大きさの赤い小鳥。火のひとひらが羽に
なったような真紅の胸をつくろい、足もとには、白に黒の縞のはいっためずらしい柄の
子猫が金色の目でこちらを見つめている。どれもこれもが凝っていて、うんざりする
ほど愛らしい。
「ちょっと。人が話してるのに、返事しなさいよ」
 反応するほどの相手ではないと判断して目を閉じかけたとたん、ぐいとパラソルで足
をつつかれた。
 さすがにむかっ腹をたてて身を起こす。少女は気後れした風もなくまじまじと
ユリウスを見つめ、「ふうん」と鼻を鳴らして肩をすくめた。
「まあ悪くはないわね。とりあえずはだけど。アルカードが直接教えてるってことは、
なんとかものになりそうな素質はあるってことだし。ベルモンドの力は確かにある
みたいだから、あとは努力と、十分な精神力がそろってるかどうかってとこかしら」
「ひっぱたかれたいのか、クソガキ」
 ユリウスはうなった。
 この一週間ほど、アルカードはベルモンド家を離れている。
 何か理解できない理由で、世界の別のところに行く用事ができたらしい。出発の前日
に淡々とそのことを告げてから、自分の留守の間も訓練は続くと付け加え、山のような
課題図書と古風な字体でつづられた手製の問題集を押してよこした。さらに帰ったら
きちんと課題をこなしたかどうか口頭試験をすると宣言した。ユリウスはたっぷりと
文句と悪罵を並べたが、もちろんアルカードは聞く耳を持たなかった。 

96 :煌月の鎮魂歌6 8/29:2015/08/27(木) 00:33:44 

 初日には指をかすめることすらできなかったユリウスだったが、この半月で、
ようやくアルカードの衣服の端をつかむことに成功するようになっていた。ほんの
一瞬、それも十数回に一度という程度だったが、進歩は進歩だ。
 アルカードはそれを認め、戻ってきたら鞭の扱い方を初歩から再訓練すると言って
いた。から手での体術訓練も変わらず続ける。服だけでなく、中身にも触れられるよう
にならなければ魔物との組み討ちはままならない、ときれいな顔で言われた時には殴り
倒したくなったが、どうせ殴りかかってもまた空振りして無様にひっくりかえるだけだ
ともう理解していたので、我慢した。ブロンクスの連中が聞いたらツイン・タワーと
マンハッタンがまるごと崩れ落ちてくるかと思うことだろう。
 アルカードの代わりには、魔術と錬金術と科学の合体の産物らしい、金色に輝く奇妙
な球形の物体が相手をした。蜂の羽音のようなかすかな作動音をたてながら目にも
とまらぬ速度でユリウスの周囲を飛び交い、隙をねらって電撃や衝撃波、小さな矢や
自在に形を変える水銀のような刃で攻撃してくる。ユリウスは与えられた木剣で延々と
そいつらを払いのけ、はじき飛ばし、たたき落とした。
 アルカードの幻のような動きに比べたら、そいつらは実に退屈なしろものだった。
胸にこもった苛立ちをぶつけるように力任せに木剣をぶつけるとそいつらはほんの
しばらく停止して床に転がり、すぐに息を吹き返して浮かび上がる。金色の表面には
傷一つつかず、その球面に反射した自分の引き延ばされた顔を見ると、さらに苛立ちが
つのった。
 アルカードのことを思うと、また腹の底で欲望がうずいた。
 はじめの一週間はさすがに疲れ果ててそれどころではなかった。だが、訓練に慣れ、
ユリウスの若さと旺盛な体力が徐々に目を覚ましはじめると、ユリウスはアルカードに
約束を実行するよう要求した。自分の牝犬たること。呼べばすぐ這いつくばる自分の
ペットたること。
 アルカードは来た。
 来ないのではないかと半ば疑っていたユリウスの部屋の扉が真夜中、そっと叩かれ、
そこに、月光の精のような玲瓏とした美貌があった。 

97 :煌月の鎮魂歌6 9/29:2015/08/27(木) 00:34:18 

 昼間はいくらつかもうとしても幻めいて指先から逃げていった身体は、あまりにも
簡単に腕の中に倒れ込んできた。乱暴に引き寄せられ、唇をふさがれても抵抗はなかっ
た。ベッドに突き倒され、脱げと命令されても、アルカードは従順にそれに従った。
 どんな恥ずかしい姿態、淫らな格好をさせられても、彼は黙って言われたとおりに
した。猥褻な言葉を言えといわれればそうした。屈辱的な姿勢で犯され、どんな娼婦
でも泣いて許しを請うか、生命の恐怖を感じて逃げ出すほどの残虐な責め苦を受けて
も、悲鳴一つもらさなかった。
 半ヴァンパイアの肉体はどんな人間よりも強靱でしなやかだ。酷い傷をきざんでも
すぐに癒え、爪や歯で引き裂かれた皮膚は見るまに跡形もなく塞がる。普通の人間なら
骨が折れるか関節が外れるほどの無理な姿勢をとらせても、かすかに苦痛に眉をひそ
めるだけで抵抗はない。
 だがおそらくその気になればどの瞬間にでも、アルカードはユリウスを殺せるのだ。
象牙細工のように繊細な指先には、ヴァンパイア王の超自然の力が秘められている。
おそらくユリウスの身体のどこにでも指を当て、軽く押しつけるだけで、ユリウスの
骨は枯れ木よりももろく砕けるだろう。それなのにアルカードは何一つ抵抗せず、
牝犬になると言った自分の言葉を、忠実に守り続けている。
 なぜかその事実が、ユリウスの怒りをかき立てた。アルカードが従順であればある
ほど、苛立ちは膨れ上がり、行為は苛烈さを増した。
 幼い頃に、ホームレスの暗い部屋で低い声で語られたある物語を思い出した。その
男は自分の息子を殺して神々の食卓に肉として供した罪のために、顎まで水につけら
れているというのに、喉が渇いて飲もうとすると、水はたちまち引いてしまうのだ。
どんなに欲しても一滴の水も口にはいることはなく、満々とたたえられた清らかな水を
目の前にしながら、永遠の渇きに苦しまねばならない。
 あれはただの古ぼけた淫売だ、と数え切れないほど自分に言い聞かせもした。どんな
に美しくとも清純そうに見えても、彼が五百年生きているヴァンパイアであり、過去の
いつかどこかで、誰か男に愛されたことがあるのは明白だ。 

98 :煌月の鎮魂歌6 10/29:2015/08/27(木) 00:34:55 

 何をしようがほとんど反応を見せないアルカードだが、身体に刻まれた悦びの記憶は
そう簡単に消えるものではないようだ。ことに、その男を今でも想っているのなら。
教え込まれた反応を、身体は従順に思い出す。たとえ快楽自体は呼び起こすことが
なくとも、受け入れる側にかかる負担を減らしたり、手荒く突き上げられている最中に
なんとか息を継ぐ仕草のそこここに、かつて愛され、おそらくはアルカードも愛した
のであろう相手の痕跡が感じられる。その痕跡の一つ一つが、棘のようにユリウスの
心をひっかいていつまでもじくじくと痛む傷を残す。
(くそ)
 話によれば、アルカードがいつ帰ってくるかはまだはっきりしないらしい。最終決戦
が迫っている今、一年や半年というほどではないだろうが、無機質な球体相手の訓練を
終え、自室で唸りながら書物を読んでアルカードの古風な書体の質問に対する答えを
暗記していると、どうしようもない焦燥感に下からあぶられているような心地になる。
 俺のものになると誓ったくせになぜここにいないのかとわめき散らしたくなる。紙
の上の流れるような書体からアルカードの涼しい声がはっきりと聞こえてきて、あの
なめらかな月光の髪に、指をすべらせたくて身体中が震える──
 ぐい、とまたパラソルでつつかれた。今度は腹を。思い切り。
「レディが話をしてるときは、ちゃんと座ってきくものよ」
 憤怒の表情で飛び起きたユリウスに、少女は小さな女王のようにつんと顎をあげた。
「もう一度きくけど、あなた、アルカードにひどいこと言ったそうね? 中身はだれも
教えてくれないんだけど。まあ細かいことはいいわ、でも、アルカードをいじめる人は
あたし、許さないわよ。あの子はあたしの、大事な弟分なんだから。いいこと?」
「……へえ、そうかよ」
 十歳そこらの小娘が、五百歳のヴァンパイアにむかって弟分とは大した言いぐさだ。
 相手をするのも馬鹿らしくなって、ユリウスはだらっと寝椅子の背にもたれ、
ポケットから煙草を取り出した。一本くわえてライターを手探りする。
 ポシュッと音がして目の前が明るくなり、すぐ消えた。 

99 :煌月の鎮魂歌6 11/29:2015/08/27(木) 00:35:29 

 ユリウスは唖然として口先からぱらぱらとこぼれ落ちる、煙草だったものの残骸を
見下ろした。少女の肩にとまっている赤い小鳥が、まだちらちらと火の名残がゆれる
嘴を閉じたところだった。
「バーディーは煙草が嫌いなの。あたしも」
 少女は冷たく言った。
「少なくとも、あたしのいるところでその臭いものを振り回すのはやめなさい。禁煙
するのがいちばんいいわ。いったいみんな、なんだってそんな臭い上に身体に悪いもの
を吸いたがるのか、理解できないけど」
「鳥が火を噴いた」
 やっとユリウスは言った。
 言ってしまってからなんて間抜けな台詞だと自分の唇を縫い合わせたくなったが、
少女は意に介していなかった。
「そうよ」
 小鳥の真紅の喉をくすぐってやりながら、何でもないように彼女は言った。
「バーディーはスザクですもの。火はこの子の身体そのものだわ。火を噴いたくらいで
何を驚くことがあるの」
「スザク……?」
「東洋の四聖獣のひとつですよ」
 新たな声がかかった。ユリウスはぎょっとして振り向いた。誰かが入ってきた気配
などまったくなかったのだ。
 閉めてあったドアはいつのまにか開いており、そこに、穏やかな笑みを浮かべた
東洋系の男と、後ろに、ティーワゴンを押したボウルガード夫人が付き従っていた。
 男は長身で若く、せいぜい二十歳半ばに見えたが、東洋人の年齢はよくわからない。
丸眼鏡をかけ、細い目が見えなくなるほどの微笑をうかべているが、かえってユリウス
は警戒心を抱いた。まっすぐな黒い長髪を後ろへ流し、スタンドカラーの白いシャツと
くたびれたジーンズ姿はまるで高校生だ。焼きたての菓子と紅茶の香りが漂ってくる。 

100 :煌月の鎮魂歌6 12/29:2015/08/27(木) 00:36:05 

「スザクは赤い鳥の姿の神で、南方を守護し、火を象します。北方のゲンブは蛇を従え
た黒い亀で、土を象徴します。東方のセイリュウは青い竜で水の守護、西方のビャッコ
は白い虎で風を司ります。西欧人には、あまりなじみのない概念かもしれませんね」
「誰だ、あんたは」
 ユリウスは身構えながらゆっくりと寝椅子から立ち上がった。たとえ眠っていても、
髪の毛一本落ちる気配でもすればたちまち目を覚ますのが毒蛇の性だ。それをこの男
は、少女に気を取られていたとはいえいつドアを開けて入ってきたのか、まったく
気取らせずにいつのまにか部屋にいた。
「ああ、申し遅れました。僕はハクバ・タカミツと申します。ハクバが姓、タカミツが
名です。日本人です。こちらをどうぞ」
 シャツの胸ポケットから取り出されたネームカードは厚みのある上質の紙で、雲の
ような銀色の筋と艶のある表面に、『白馬崇光』と漢字が並んでいる。日本語の読め
ないユリウスにはただの模様にしか見えない。
「どうぞスウコウ、とお呼びください。こちらの方々には、僕の名前はどうやら発音
しづらいようですから」
「こういう時はレディの紹介を先にするものよ、スーコゥ」
 脇に立ってとんとんと靴を鳴らしていた少女がとがった声をたてた。崇光は「おや、
これは失礼」とのんびりと言って一礼し、
「こちらは、イリーナ・ヴェルナンデス嬢。僕やあなたと同じく、七月の最終決戦に
備えて集められた戦士のひとりですよ。あなたはユリウス・ベルモンド、そうでしょ
う? ラファエルは気の毒なことをしました。あなたは彼の異母兄に当たられると
聞いていますが」
「よくしゃべる野郎だな」
 ユリウスは唸り、用心しながらまた腰を下ろした。ネームカードを投げ捨てようと
したが、「あ、そのまま」と止められた。
「それは護符の力もこめてありますから、そのまま身におつけください。このベルモン
ド家の屋敷内で何かあるとは思えませんが、万が一の時の保険になります。あなたまで
魔物に襲われては困る」 

101 :煌月の鎮魂歌6 13/29:2015/08/27(木) 00:36:42 

 ユリウスは眉をひそめ、漢字が書いてあるほかはなんの変哲もない紙切れに見えるカ
ードをにらみつけたが、肩をすくめてポケットに入れた。あとで部屋に戻ってから捨て
ればいいことだ。
「ボウルガード夫人、今日のお茶はなに?」
 ティーワゴンに駆け寄った少女が明るい声で尋ねている。暖かな陽光に金髪が揺れ、
そこにチイチイと赤い小鳥がまとわりついて、まったくあきれるほどにかわいらしい。
「ダージリンとウバ、セイロン、それにラプサン・スーチョンをご用意してございます」
「すてき。じゃあラプサン・スーチョンを、濃いめでね。スコーンにはスグリのジャム
を。スーコゥもそれでいい?」
「いやだといっても聞かないでしょう、あなたは」
 苦笑しながら崇光は窓際のテーブルに向かい、「どうぞ、こちらへ」とユリウスを
手招きした。
「われわれはいずれチームを組んで戦うことになる三人です。ひとつここで、親交を
深めておこうじゃありませんか。今日はアルカードがいなくて、お暇でいらっしゃる
でしょう。それになんといっても、ボウルガード夫人の淹れるお茶は最高ですよ」
 イリーナと紹介された少女は崇光が引いてやった椅子にちょんと腰掛け、レディ
らしくおすまし顔でレースの襞をととのえている。赤い小鳥はちょんちょんとテーブル
の上を跳ねて歩き、白い虎猫は椅子の足もとできちんと前足をそろえて上を見上げて
いる。桃色の舌でぺろりと舌なめずりした顔が、大きさに見合わずひどく獰猛そうに
見えた。
「いい子ね、ティガー。トトとニニーもいらっしゃい、いい匂いよ」
 ポシェットからのっそりと黒いものが首を出し、少女の手に支えられて、のそのそと
テーブルに這いだした。艶のある甲羅の、全身真っ黒な小さな亀だった。
 亀をおろした手首から、サファイアの細いブレスレットが流れるようにするりと
外れる。テーブルの上でそれは鎌首をもたげ、金色の稲妻のような目でユリウスを
見ると、シュッと音を立てて二股の舌を吐いた。 

102 :煌月の鎮魂歌6 14/29:2015/08/27(木) 00:37:19 

「彼女は当代最高の召還士なんですよ」
 呆然としているユリウスを、どうやったのか崇光はいつのまにかテーブルにつかせて
いた。前に紙のように薄い白磁のティーカップが置かれ、茶が注がれる。ユリウスが
知っているいわゆる『紅茶』とは、まるで違う色と香りがした。陽光のもとで金色の
輪がカップに広がる。
「四聖獣に愛された初代であるマリア・ラーネッドでも、聖獣の力を喚べるのはほんの
一瞬、それも時間をおいてでした。ましてや聖獣を常に実体化させてペット扱いできる
ほどの霊力など、前代未聞です。彼女、イリーナは、ラーネッドの血筋がヴェルナン
デスの血筋と合わされることによって生まれた、奇跡のような能力者なのですよ」
 お人形のような少女を、ユリウスはまじまじと見た。
 言われただけではとうてい信じがたいが、確かに先ほど、あの赤い小鳥が火を噴いて
一瞬で煙草を焼きつくすのを見た。見間違いとは思えない。小鳥が本当に火の化身と
いうスザクであるとしたら、ほかの三匹もまたやはり、ただの動物ではないのだろう。
「無駄話をしてるとお茶が冷めるわよ。はい、ティガー。あなたたちの分も、トト、
ニニー」
 ボウルガード夫人がボウルに入れたクリームを床の上に置いてやる。虎猫は待ってま
したとばかりに鼻先をつっこみ、威勢よく飲み始めた。
 指ぬきほどの小さなカップにも茶が注がれ、蛇と亀の前にも置かれた。蛇はさっそく
首を伸ばし、ちろちろと裂けた舌で茶を嘗めはじめたが、亀のほうはそれより銀器に
盛り上げられたスコーンとクッキーのほうが気になるようすで、皿のまわりを跳ね
回っている鳥と同じく、訴えるような目を主人に向けている。
「……で、あんたは?」
「はい?」
 いそいそとサンドウィッチを皿にとりわけている崇光に、ユリウスはうさんくさい目
をむけた。崇光は手を止めてきょとんとする。
「僕が、なんですか?」
「あんたはこのサーカスの中で、どんな役割をするのかってことだよ」
 とんとんとユリウスは真っ白なテーブルクロスを叩いた。 

103 :煌月の鎮魂歌6 15/29:2015/08/27(木) 00:37:54 

「俺は鞭を使って魔王を倒す。このお嬢ちゃんは聖獣だかなんだか知らんが、その
けだものどもで戦うんだろう……いてっ」
「けだものだなんて呼ばないでちょうだい。失礼ね」
 そしらぬ顔で言って、イリーナは品よくカップを口に運んだ。見かけより堅いブーツ
の先が、蹴飛ばしたユリウスの臑からすいと離れる。
「この子たちはバーディー、トト、ニニーにティガーよ。ちゃんと名前があるの。
あたしの大事なおともだちなんだから、ちゃんと名前で呼んでちょうだい」
「このクソガ……!」
 飛びあがりかけたユリウスに、いきなり冷たい風が吹きつけた。一瞬にしてエベレス
トの山頂に運ばれたような寒気。指がしびれて感覚がなくなる。見下ろすと、手の中の
カップの紅茶は凍りつき、指は紫色に革って白い霜で覆われていた。
 クリームをなめていた白い虎猫が顔を上げ、じっとこちらを見ている。
 金色にぎらつく双眸から、不可視の強烈な圧力が押し寄せてくるのがはっきりと
わかる。長い尾がゆっくりと左右に振られ、ユリウスの出方を伺ってでもいるよう
だった。
 鳥も、亀も、蛇も、スコーンのかけらやサンドイッチの端切れや茶のカップから
頭をもたげて、じっとユリウスを見ている。四組の視線はすさまじい重圧で、骨の
髄から少しずつユリウスを凍らせていくようだった。
「やめなさい、ティガー。カップをこわしちゃいけないわ」
 その一言で、寒気はみるみる去った。虎猫は横を向いてそしらぬ体でひげを洗い
始め、イリーナはすまし顔ですぐりのジャムを新しいスコーンにたっぷりと乗せた。
 鳥と亀と蛇も、またスコーンのかけらを転がしたりハムをつついたり茶に首を
つっこんだりと、それぞれにくつろぎ始める。霜は少しずつ溶けてしたたり落ち、
冷えた紅茶と、濡れて真っ赤になった手が残った。
「……まあ、そういうことで」
 崇光がため息をついて首を振った。 

104 :煌月の鎮魂歌6 16/29:2015/08/27(木) 00:38:32 

「彼女も大きな戦力です。あなたと、彼女と、アルカード。聖鞭〈ヴァンパイア・
ハンター〉は魔王討伐の要ですが、今回の最終復活では、鞭だけではとうてい追い
つかないほどの魔物や悪魔と戦うことになるでしょう。で、僕については、まあ、
その──」
「その?」
 冷え切った指を無意識に揉みながら、ユリウスはとがった目で東洋の青年を睨みつけた。
「──まあ、僕なりの役割があるということで」
 柔和に微笑んだが、ユリウスにはそれが内心を隠す仮面のようにしか見えなかった。
アジア人は年齢と同じように、内心までもあいまいな笑みにまぎらしてしまう。
「その、僕の家系は〈組織〉の中ではちょっと特別でして」
 ちょっと肩をすくめて、崇光は新しく注がれたカップを手に取った。
「ベルモンド家やヴェルナンデス家のような戦闘能力はありません。もともと、日本の
地に生まれた霊力というのはいささか特殊でしてね。祓い清め、なだめ封ずるという
のがミタマの基本なんです。日本の精神風土は、善や悪を西欧のように峻別しません。
善きも悪しきも、ひとつの存在の両面にすぎないという思想です。怒り狂い祟りをなす
アラミタマ、穏やかで人に恵みを与えるニギミタマが、同じひとつの存在の両面
であり、祓い清め、祈り鎮めることによって変化するとされているんです」
 いつのまにかユリウスの前にも、湯気を立てる新しいティーカップが置かれている。
冷たさにしびれた指が溶けるように暖まる。
 崇光のうまそうな顔につられるように啜ってみると、最高級の葉巻を精製して液化
したかのような、濃厚な香りが口から鼻腔いっぱいに広がった。驚いて口を離すと、
白馬のいたずらっぽい視線があった。
「いかがです? 煙草よりずっといいでしょう」
 肺癌の危険もありませんし、とつけ加えてまた一口崇光は茶を啜った。
「一九九九年七の月、皆既日食が起こります。これは単なる天体現象ではなく、闇の
世界、魔界と人間界の間のゲートの大規模な解放のために起こる現象です。この瞬間、
魔界はほんの一時ですが、人間界に大きく突出します。魔王ドラキュラはそれを機に、
一気に人間界を制圧し、すべてを闇の支配下に置くことを企んでいます」 

105 :煌月の鎮魂歌6 17/29:2015/08/27(木) 00:39:03 

「で、あんたはそいつにお祈りして、鎮まってもらうように説得する係だっていうのか」
「……いえ。残念ながら、そういうわけにはね」
 崇光は息をついた。
「魔王ドラキュラは混沌と闇そのものです。はじめは残っていた人間性も、滅びと復活
を繰り返すうちにすっかり摩滅して、今ではもはや人間への憎悪と破壊衝動しか残って
いません。説得も祈りも、するだけ無駄ですよ。僕にできるのはただ──封印です」
「封印?」
「皆既日食の、その黒い闇の太陽の中に、城ごと魔王を封じます」
 そう言われてももうひとつぴんとこない。これまでそういうオカルトじみたことには
縁のなかったユリウスだ。妙な顔をしているのに気づいたのか、崇光は苦笑して、
「どうやって、とか、なぜ太陽なのか、というのは、くだくだしい上にわかりにくい話
なのでやめておきましょう。とりあえず肝要なのは、僕は戦闘要員ではなく、あくまで
封印の術の遂行のために魔王の城の最深部まで同行すること、そのためにはあなたや
イリーナのような腕の立つ戦士が必要なこと、というわけです。ご満足いただけましたか?」
「アルカードは──」
 そう口にしたとき、崇光がぴくりと身を固くしたように見えたのはなぜだろう。
「あいつも同行するんだよな? 俺とこのお嬢ちゃんはわかったが、あいつはなんで
行くんだ。親父なんだろう? 魔王は」
 他人を思いやったことなど一度もないユリウスだが、あの銀色の青年が実の父親を
二度、この世からわが手で追い払わねばならなかったことを考えると、なぜかひどく
理不尽な気がした。
「親父を永遠にこの世から追っ払うことに荷担するってのに、あいつはそれでもいい
のか。聖鞭ってのはまだよくわからんが、魔王とやらを滅ぼすことができるのはその
鞭だけなんだろう。だったら今回も、鞭で魔王を滅ぼしちまえばそれですむ話じゃな
いのか。あいつは大事なベルモンドの宝だっていうじゃないか。行く必要がどこに
ある」
「……あの方は、人間の域をはるかに超越する戦士ですからね」 

106 :煌月の鎮魂歌6 18/29:2015/08/27(木) 00:39:42 

 崇光はすでに落ち着きを取り戻していた。しかし動揺の色は手にしたカップに浮かぶ
さざ波に残っており、ユリウスはそれを見逃さなかった。
「単純に、戦力は多い方がいいというだけのことですよ。あの方はこれまでに二度、
魔王ドラキュラを倒してこられた。一度は仲間と、もう一度は独力で。それだけの力を
お持ちの方に、戦列に加わっていただかない法はないでしょう」
 いちおう、話としてはわかる。だがどうしても、何か割り切れないものが残った。
 自分ならば顔を見たこともない父親の一人や二人、鼻で笑ってナイフを突き立てる
だろうが、アルカードの白くなめらかな両手が、父殺しの血に二度染まり、三度目にも
また染められようとしていると思うと、そんな痛ましいことがこの世にあっていいの
かという気がする。二度までも父親を殺すことになったアルカードに、三度目の父殺し
を強要しようというこの男に、無性に腹がたってきた。
「あいつが来る必要なんてない」
 ぶっきらぼうにユリウスは吐き捨てた。
「魔王は俺が倒す。吸血鬼殺しの聖鞭を使うのは俺なんだろう。それなら俺が魔王を
完全にぶち殺してしまえばいい。あいつは関係ない」
 イリーナが手を止め、カップの縁ごしに上目遣いに崇光を見た。
「この人、まだ聞いてないの? スーコゥ」
 崇光が少しあわてたように手真似をする。
「あー、イリーナ、その点についてはきっとアルカードがおいおい──」
「あのね、〈ヴァンパイア・ハンター〉の使い手として正式に選ばれるには、鞭その
ものに認められなければならないの」
 崇光の必死のジェスチャーにもかまわず、イリーナは先を続けた。
「ラファエルだってまだ鞭に認められるまでには行ってなかったのよ、だからあくまで
使い手候補というだけでしかなかったわ。あなただってそう。どんなに武勇に優れて
いても、強い力を持っていても、ベルモンドの血だけでは〈ヴァンパイア・キラー〉の
使い手ではない。あなたは戦いの技術を磨いた上で、鞭に宿るベルモンド家代々の
英霊に認められなければ、正式な使い手にはなれないの。そして正式な使い手以外の
手では、聖鞭は力を発揮しない。アルカードは言ってなかったの? あなたはまだ、
使い手『候補』の身なのよ、残念ながら」
 すまし顔でイリーナはさくりとクッキーをかじった。
 崇光は額に手を当てて天を仰いでいる。ユリウスはただ呆然として、小鳥にパンの
かけらをつつかせている少女の無邪気な横顔を眺めた。 

107 :煌月の鎮魂歌6 19/29:2015/08/27(木) 00:40:19 

             3

 アルカードが帰ってきたのはさらにその一週間後だった。
 半月の間、ユリウスはひたすら苛々して過ごした。苛立ちの正体が自分でもはっきり
つかめないのがまた苛立ちの種だった。表だっての意識では、自分が単に『候補』で
しかないことをアルカードが黙っていたことに腹を立てていたが、もっと深い部分
では、それだけではない何かがちくちくと胸を責め立ててやまなかった。
 鬱屈はひたすら訓練と課題を消化してやり過ごした。どうせ途中で放り出すと
ユリウスを冷眼視していた、屋敷に滞在する〈組織〉一同も目をむくほどの狂気じみた
熱心さだった。
 正確さを増した一撃で生命のない標的は次々とたたき落とされ、ほぼすべて破壊
されて交換しなければならない羽目になった。夜ともなれば深夜までデスクライトを
つけて、かび臭い書物と流れるようなアルカードの筆跡を交互に追った。
 酒と煙草はほとんど忘れられた。もともと酒は食事の時に添えられるグラス一杯の
ワインとブランデー程度に制限されていたが、煙草はイリーナに出会って以来、火を
つけようとしたとたんに指先で発火して灰と化すことが連続したあげく、指先にやけど
を負うこと数度に至ってあきらめた。どうやってかはわからないが、あの火の化身
であるむかつく鳥は、ユリウスが煙草を吸おうとするとどこにいようがすぐさま察知
して、強制的に禁煙させることにしたらしい。腹は立ったが、手の打ちようがない。
 あれ以来、白馬崇光とは会っていない。
 イリーナの発言でしばらく呆然としていたユリウスが気を取り直して質問を浴びせ
かけようとすると、「そういえばこの間、こんなことがありましてね」とまったく
関係のない話を明るい顔で始めた。
 あまりに白々しいやりくちに思わず椅子を蹴って胸ぐらを掴みそうになったが、
崇光の細い眼の奥の光がユリウスの手を止めさせた。
 その目は、笑っていなかった。 

108 :煌月の鎮魂歌6 20/29:2015/08/27(木) 00:40:54 

 ブロンクスの顔役と呼ばれる男たちの顔に何度も見たものに似ていたが、それより
はるかに得体の知れない何かを秘めていた。東洋人の表情はもともと読みにくい。
チャイニーズマフィアのボスたちの、慇懃で物静かな態度の裏に隠されたすさまじい
凶悪無慙をユリウスは骨の髄まで知り抜いている。
 この若い日本人はまだユリウスに対してこれといった悪意は抱いていないと思われ
るが、それでも、油断はできない。見かけはハイスクールの学生のようでも、魔王を
封印するために選ばれた稀代の術士なのだ。こちらの出方を見定めた上で、態度を
決めようとしているところかもしれない。それをイリーナにばらされるような具合に
なって、ごまかしにかかったというところだろう。
 イリーナとはその後も午後のサンルームで数度顔を合わせる機会があったが、そし
らぬ顔で、「どう、勉強はちゃんと進んでいるかしら?」と年上ぶった口調で訊かれた
だけだった。どうやらこの小娘は、アルカードを大きな弟扱いするのと同様、ユリウス
のことも弟分扱いすることに決めたらしい。けだものどもも知らん顔で、主人のまわり
で転がりまわって戯れている。
 ユリウスが無視して、長椅子の上で昼寝を決め込むポーズを取っていると、ティガー
と呼ばれている白黒の虎猫がひょいと腹の上に乗ってきて、同じように昼寝を始める
気配をみせた。
 むかっ腹をたてて払い落とそうとすると、猫は金色の目を光らせ、尖った爪をシャツ
に食い込ませて、獰猛そうな牙と桃色の舌を見せつけるように舌なめずりした。逆らえ
ば食い殺すという明確な意志に、あきらめて猫のベッドになるしかなかった。見かけ
よりぐっと重い猫が機嫌よくのどを鳴らして昼寝する下で、ユリウスは眠るどころでは
なく、イリーナがボウルガード夫人の給仕で、品よく午後のお茶をたしなむところを
見守るしかなかった。
 アルカードが帰ってきたと知らされたのもイリーナの口からだった。
 猫のベッド扱いされるのは癪だったが、あちこち行ってみても落ち着かず、
アルカードのいない読書室にひとり座っていても手持ちぶさたなばかりだ。かといって
自室にいても息苦しいだけなので、結局サンルームに足を向けることになるのだった
が、そこで、いつものように茶の給仕を待っていたイリーナが嬉しそうに言ったのだ。 

109 :煌月の鎮魂歌6 21/29:2015/08/27(木) 00:41:27 

「ついさっき、アルカードが帰ってきたわよ。玄関ホールで会ったわ。あなた、ちゃん
と課題を片づけたか確かめた方がいいわよ。彼、帰ったら試験をするって言ってたん
でしょう?」
 ユリウスがものすごい勢いで跳ね起きたので、ふっ飛ばされた虎猫がなりに合わない
怒りの咆吼を放った。イリーナはナプキンを片手に目を丸くしている。
「どこだ」
 テーブルまで数歩で歩みよってユリウスはイリーナの細い腕をつかんだ。四匹の聖獣
たちが肌を焼かんばかりの殺気を発しているが、今の彼にとってはそんなものは空中の
埃と同じことだった。
「あいつはどこにいる?」
「し、知らないわよ」
 さすがのイリーナが口ごもった。それから腹を立てたように早口で、
「玄関ホールではまだスーツのままだったから、着替えて一休みでもしてるんじゃない
の。本館のどこかでも探してみなさいよ。あ、言っておくけど、彼の部屋へ入ろう
なんて考えるんじゃないわよ。あそこは聖域で、彼以外の人間は誰も入れないん
だから──」
 それだけ聞けば十分だった。ユリウスは投げ出すようにイリーナを離すと、大股に
サンルームを出て本館へ向かった。後ろから猫の甲高い鳴き声と鳥の鼓膜を引き裂く
ような鳴き声に、ペットたちをなだめる少女のあわてたような言葉が重なって聞こえて
きた。

 ベルモンド家の屋敷は広い。中世から現代まで、長年の間〈組織〉の中枢として
増築と改築を繰り返してきた結果、城塞を思わせる石造りの屋敷の中は、古代式と
現代式、機能性と魔術的機能の複雑にまじりあった、迷路の様相を呈している。
 その中をユリウスはぐんぐん歩き抜けていった。普段ならば迷いかねないところ
だったが、今の彼には、たったひとつ闇に輝く月が、魔法のような磁力を発して
道しるべとなっていた。
 アルカード。 

110 :煌月の鎮魂歌6 22/29:2015/08/27(木) 00:42:00 

 本館はこれまでほとんど足を向けたことがなかった。初日に〈組織〉の一同と
ラファエル・ベルモンドに対面させられた時以来だ。それ以来一度も行ったことが
ないし、行く気にもならない。本館はベルモンド家直系の者とその従僕が行き来する
場だ。それだけでも敬遠する理由になるし、なにより、足を踏み入れて、あの車椅子
の子供に出くわしでもしたら、いらぬ騒ぎになるのはわかりきっている。
 だが今はそんなことは頭になかった。見えない糸がユリウスを引っ張っていた。
人間の狂気は月に影響されるという。なら人の姿をした月は、やはり人を狂わせるの
だろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、ユリウスは知らない廊下を、まるで
通い慣れた道のように次々と通り抜けた。
 銀のひらめきが見えた。
 角を曲がりかけて、ユリウスは打たれたように足を止めた。
 アルカードがいた。
 まだ旅装を解いておらず、ユリウスが最初に会ったときに来ていたのと同じ黒ずくめ
のスーツに身を包み、壁によりかかってぼんやりと視線を上に投げている。片手が
無意識のように、上着の下のシャツの胸もとをまさぐっていた。
 玲瓏たる横顔に、深い疲労の色が見えた。数日の旅行でたまるものではない。五百年
にわたる生と戦いが積み重ねてきた、凝り固まった澱のような疲れと悲哀の殻だ。
 アルカードはユリウスに気づいていないようだった。視線は向かい側の壁にずらりと
かかった肖像画の一枚に向けられている。長い廊下には壁を覆うほどに隙間なく肖像画
がかけ並べられていた。いちばん手前に見えている肖像の銘板を読んでみる。
『Michael Belmond』。
 知らない男の肖像を、さしたる感慨もなくユリウスは見上げた。どうやらこの廊下
には、代々のベルモンド家当主の肖像が掲げられているらしい。つまりこの男が
ユリウスの父というわけだ。なるほど。
「アルカード」
 声をかけたユリウスが驚いたほど、アルカードは身を震わせた。
 びくりと肩を跳ねさせ、何者かから身を守るように肩を抱いてこちらを見た。
 大きく見開かれた氷青の目に、めったに見たことのない怯えを見て取ったように
ユリウスは思った。 

111 :煌月の鎮魂歌6 23/29:2015/08/27(木) 00:42:31 

「帰ってきたんだな。こんなところで何をぼうっとしてる? あんたのことだから、
帰ったその足でまっすぐ俺のところへ来て、間違いなくあの本の山を片づけたかどうか
チェックにかかるもんだと思ってたぜ」
 アルカードが動けずにいるところなど見たことがなかったが、今がそうだった。突然
自動車のライトを浴びた猫のように、アルカードはすくみ上がっていた。完全にふいを
つかれ、どこか遠くにさまよっていた意識を無理やり引き戻されたことで、かすかに
口をひらいた驚愕の表情のまま、どこにも逃げられずに立ちすくんでいる。
 ユリウスが近づいて手首をひねりあげても、びくっと身をすくませただけだった。
これまでにも増して激しい苛立ちと、心臓を絞り上げられるような焦燥を感じた。
「どうした? 何をそんなにびくついてる? いつもみたいに張りつけたみたいな顔で
俺を無視しないのか? こんなに簡単に俺に捕まるなんざ、あんたらしくない」
 アルカードは捕まった子供のように弱々しくもがき、捕まれた手を離そうとして
いた。視線が助けを求めるように壁の肖像へ流れるのを追って、ユリウスは脳天に
雷が落ちたような衝撃を受けた。
 その画はかなり古いものだった。丁寧に修復され、埃を払われているが、年月を
重ねた色彩は褪色し、うす闇の中に浮かび上がっているような人物はわずかにくすんで
背景の闇色にとけ込んでいるかに思える。
 大柄な、壮年の男性だった。中世の郷士が着るような簡素だが合理的な衣装を身に
つけ、あせた色彩の中から、いまだ鮮やかなベルモンドの濃いブルーの瞳が射るように
こちらを見つめている。
 男性的なしっかりとした顔立ちで、鍛え上げられた体躯はまさに戦士というに
ふさわしい。開いたシャツの胸もとに横に流れる大きな傷跡が見え、左目を縦に
かすめるようにこれも傷跡が残っている。椅子にかけ、片手を肘掛けに置いているが、
ことあらばすぐに戦闘態勢に移れる猟犬の緊張感が画面に満ちていた。もう一方の手は
膝の上に置き、何かを握り込んでいるかのようなゆるい握り拳になっている。
 銘板にはこうあった。
『Ralph.C.Belmond』 

112 :煌月の鎮魂歌6 24/29:2015/08/27(木) 00:43:03 

「離せ!」
 アルカードが低い声で叫び、ようやく身をもぎ離した。
 つかまれた手首を押さえ、壁際にちぢこまった彼は、いつもの氷の無表情で淡々と
言葉を発する彼とはまるで別人だった。苦しげに胸を──違う、シャツの下の何かを
押さえ、色を失った唇を震わせている。
 わかった。理屈ではなく、ユリウスは悟った。
 読まされていた書物の中に、この男の名を何度も見ていた。なぜ気づかなかったの
だろう。アルカードと最初に出会い、ともに戦ったベルモンドの男。アルカードが
いまもベルモンド家に身を置き、彼らともに、彼らのために、働いている理由を
作った男。
 鋭いナイフのように言葉が口から飛び出た。
「こいつがあんたを抱いた男なんだな」
「やめろ──」
「こいつがあんたを仕込んだ。自分のものにして、毎晩さんざん可愛がって、あんたに
男の味を覚えさせたんだ」
「黙れ!」
 猛然とアルカードがつかみかかってきた。冷静さも何もない、ただの激情にかられた
子供の突進だった。
 ユリウスは簡単に身をかわし、細い手首をとらえてひねりあげた。そらした喉から
かすかな悲鳴があがるのを耳にし、暗い嗜虐の炎が燃え上がるのを感じた。
「半月も留守にして忘れちまったか? あんたは俺の牝犬なんだぜ。今はな」
 アルカードはかたく目をつぶって顔をそむけている。長い睫が震え、白い肌は血の気
をなくしてほとんど透き通りそうに青ざめていた。
「五百年も前の男がいまだに忘れられないってか? 大したもんだ、泣かせるよ。だが
こいつはとっくに土の下だ、骨だってもう残っちゃいねえ。そいつがわかってて、まだ
操立てか? こいつ以外の男じゃ、身体は開いても心は許しゃしないってか? よく
言うぜ、この淫売が」 

113 :煌月の鎮魂歌6 25/29:2015/08/27(木) 00:43:36 

「……やめてくれ」
 顔をそむけたまま、アルカードは呟いた。木の葉のこすれるようなかぼそい声だった。
「他でならいい──だが、ここでは……頼む──」
「そんな贅沢が言えると思ってんのか?」
 乱暴にユリウスはアルカードの腰を引き寄せた。
「忘れるな、あんたは俺に買われたんだ。あの、むかつく聖鞭とやらと引き替えにな。
しかも俺が、ちゃんとその鞭の使い手になるかどうかはまだわからないらしいじゃ
ねえか。鞭に認められなきゃ正式な使い手にはなれないんだって? じゃあ、俺がもし
鞭に認められなくて、使い手になれなかったら、あんたはどうする? 俺を放り出す
のか? 鞭を使えない男じゃあんたの役には立たないから? ふざけるなよ、牝犬」
「お前は──使い手になる──私が、そうする」
 もがきながらもアルカードは弱々しく反論した。
「でなければ、世界は終わる──〈ヴァンパイア・キラー〉を使う者がいなければ、
魔王の討伐は叶わない──お前が最後の希望なのだ、ユリウス・ベルモンド──お前が
鞭を使わなければ、世界は」
「世界なんぞ知ったこっちゃないと、前にあんたに言ったはずだよなあ、俺は」
 必死にそらそうとする顔をぐいとつかんで自分のほうへねじ向けさせ、ユリウスは
囁いた。
「俺が出した条件はたったひとつ、あんたが俺のものになること、それだけだ。なのに
他の男の、それも何百年も前に死んだ男の絵の前でぼうっとしてるのは気にくわない。
どうだ、ここで一発やらかしてやるか?」
 つかんだ肩がはっきりと恐怖にこわばったのを、戦慄とともにユリウスは酔いしれ
愉しんだ。
「やめてくれ、嫌だ、ここでは──ここでだけは……」
「相手はどうせ死人だ、気にすることがあるもんか。死んだ人間は生きた人間に文句を
つけられない、そいつが世の中の摂理ってもんだ。脱げよ、でなきゃ、無理にも脱がせ
てやるぜ。来いよ、ご主人様の命令だ」
「離せ……!」 

114 :煌月の鎮魂歌6 26/29:2015/08/27(木) 00:44:10 

 無理な姿勢から身体をひねったとたん、上着とシャツのボタンが弾けとんだ。前が
開いて白いなだらかな胸があらわになった。なめらかな素肌の上に、ごつい金色の、
ペンダントには多少大きすぎる何かが金の鎖でぶら下がっていた。
 ユリウスはそれが、ブロンクスのあの地下で一瞬目にしたものだと感じ取った。反射
的に手を伸ばして触れようとする。
『触るな!』
 その一喝は雷鳴のようにとどろき、ユリウスの頭上に墜ちてきた。
 人外の魔性の声、魔王の血を継ぐ闇の公子の声だった。一瞬あたりの景色がゆがみ、
ユリウスはふらついてあとずさりした。
 姿勢をくずして膝をついたまま、アルカードは肩で息をしている。
 端正な顔は怒りに凶暴にゆがみ、唇のはしから真珠のような牙が覗いている。氷青の
目はすでに人の色を失い、爛々と燃える暗黒の黄金に染まっていた。同じ人の形をして
いながら、それは『違う』者だった。
 半ヴァンパイア、魔王の血を引く者という真の意味を、ユリウスは眼前にしていた。
理屈ではなく、身体が動かなかった。黄金の双眸が傲然と人間を睨みすえている。
それは圧倒的な『上位者』の目、主人が家畜を見るのと同等、否、それ以下の力の差を
見せつけるものだった。
 おそらくそれほど長い間ではなかったのだろう。アルカードははっとしたように顔を
そむけ、同時にユリウスの呪縛もとけた。
 自分が呼吸を止めていたことに、ユリウスはようやく気づいた。全身が石になった
ように固まっている。長々と息を吐き、喉から飛び出しそうに早鐘を打つ心臓を
抑える。アルカードはこちらに背を向け、胸に下げたものを抱くようにして、身を
丸めて震えている。
「こっちを向け」
 からからの口を無理に動かして、ユリウスは命じた。
「俺に鞭を使わせたいなら、こちらを向け。顔を見せろ」
 アルカードはのろのろと従った。
 髪が乱れて額に散りかかり、青ざめた顔をヴェールのように覆っていた。眸にまだ
黄金の光は残っていたが、先ほどのすさまじい怒りの閃きはすでに失われていた。 

115 :煌月の鎮魂歌6 27/29:2015/08/27(木) 00:44:46 

「その胸に下げたものを渡せ」
「……それは」
「渡せ」
 かすかに唇を震わせたあと、アルカードはうつむき、ゆっくりと首から鎖をはずし
て、ユリウスの手のひらにそれを乗せた。
 ずしりと重い、大型の指輪だった。かなり古いものらしく傷だらけで、刻まれた紋章
も摩滅して薄くなっている。かろうじてそれがもともと、ベルモンド家の紋章の刻まれ
たものであることは読みとれた。
「こいつは俺がもらっておく」
 うなだれたアルカードにむかって、ユリウスは宣言した。
「俺のペットが俺以外の人間の首輪をつけているのは気にくわない。あんたは俺のもの
だ、それを忘れるな。あんたが俺のものでいる限り、俺は鞭を使う。少なくとも、
使い手として努力してやる。帰ったら試験をすると言ってたな。いいよ。やれよ。
俺がどこまでやれたか見せてやる」
 返事はなかった。うちひしがれた様子のアルカードに背を向けて、急ぎ足でユリウス
は歩き出した。ずらりと並んだベルモンド家歴代の肖像の目が、自分一人に集められて
いるように感じる。
 ラルフ・C・ベルモンドの肖像が、心に焦げるような痛みを焼きつけていた。
 アルカードがあの男に向けていた、五百年にわたる別離にも曇らされない、魂を
こめた思慕と愛情の視線が。


「アルカード」
 服を裂かれたまま、その場で立ち尽くしていたアルカードに声がかかった。
 のろのろと振り向く。丸い眼鏡の奥に沈痛な色をにじませた、白馬崇光がそこにいた。
「崇光……」 

116 :煌月の鎮魂歌6 28/29:2015/08/27(木) 00:45:23 




「本当に、あなたは彼が鞭に認められると思っているんですか?」
 口先では非難するような言葉をとりながら、崇光はつかつかとアルカードに近づき、
ちぎられたシャツの前をあわせて肌を隠してやった。アルカードは光のない目でされる
がまま立っている。
「彼は確かに優秀な戦士の素質を持っている。しかし、鞭に認められなければ使い手
にはなり得ないのですよ。あなたにこんなことをする人間を、鞭が認めるとは僕には
思えません」
「だが、認められなければ世界は滅ぶ」
 か細いが、断固とした言葉だった。
 崇光は膝をついてボタンを下まできちんと留め終え、立ち上がってアルカードに
相対した。表情の読めない丸眼鏡が、東洋人の青年の内心を完璧に隠していた。
 アルカードは小さく咳をして、いくらか声を強めた。
「彼は使い手になる。その力が彼にはあると私は信じている。信じなければこんなこと
はしていない。私がどれだけ長い間、たった一つの目的、ただ一日の決戦のために
生きてきたか、あなたは知っているだろう、崇光」
「知っているとも。その日を定めたのは僕なんだから」
 苦いものでも吐き捨てるように崇光は言った。
「そして魔王封印の方法も。ああ、そうとも、その点で僕はあの男と同罪なのかも
しれないな、少なくとも間接的には。選択の余地さえあれば、もっと別の道を考えて
いたとも。そうとも、ほかにもっと方法が──」
「時間がない」
 有無をいわせぬ調子でアルカードは遮った。
「そしてほかに方法などないのは、あなたが一番よく知っているはずだ、白馬崇光。
当代において最高の封印術士」
 崇光は心臓を突き刺されたような表情を一瞬うかべた。
「……心配しなくていい。私はすべてを受け入れている」 

117 :煌月の鎮魂歌6 29/29:2015/08/27(木) 00:45:56 

 アルカードはふらりと足を踏み出し、思いがけずしっかりした仕草で崇光の肩に
触れた。「指輪のことなら、もういい。あれはすでに私の持つべきものではなくなって
いた。この計画が動き出したときから、もう」
 動作も口調も落ち着いていたが、狂おしい色にきらめく瞳がすべてを裏切っていた。
「闇の血脈は断たれなくてはならない。今度こそ、完全に。地上に一滴すら残さず、
すべてを、闇のむこうに還さねばならないのだ」
 崇光がなにも言わず見つめ返すと、アルカードは耐えかねたように顔をそむけ、
「では」と低く呟いて、崇光をそっと押しのけ、ふらりと歩き出した。しおれた髪も
落ちた肩も、数歩離れたときにはもういつものすらりと背筋を伸ばした、沈着な
半吸血鬼のものに戻っていた。
 アルカードが廊下を曲がり、見えなくなるまで黙って見送っていてから、耐えかねた
ように崇光は向き直り、壁の肖像を見上げた。
「ラルフ・C・ベルモンド」
 痛みをこらえる者の、しぼりだすような声で彼は言った。歳月をへた肖像は壁の上に
静止し、その青い瞳は静かに前を見つめていた。
「なぜあんたはここにいない。なぜ彼のそばにいてやらないんだ。彼を本当の意味で
守れるのはあんただけなのに。どうしてそんなところで、黙って見ているんだ。
どうして──」
 言葉が続かず、しばらくはげしい呼吸をして、崇光は思いきり肖像の横に拳を
打ちつけた。
 鈍い音がして、額が少し揺れた。それだけだった。
 画の中の五百年前のベルモンドの男はただ黙し、描かれた瞳で、永遠の彼方を
見つめている。