煌月の鎮魂歌7  

 

 

118 :煌月の鎮魂歌7 1/17:2015/11/12(木) 20:42:34 

 Ⅲ  1999年 三月

           1

 夢だと、最初からわかっていた。
 それでも醒めることはできなかった。今となっては自分の足で立ち、走れるのはただ
夢の中でだけなのだ。
 少年は薔薇の茂みにしゃがんでこっそり首を伸ばしている幼い自分をどこか遠いもの
のように感じていた。それでいて、感覚はしっかりとあの時のままの記憶を保っていた。
 晴れた五月の午後、薔薇のつぼみはふくらみ、あたりには眠くなるような蜂の羽音と
鳥の声がこだましていた。むせかえるような薔薇の香りと湿った土のにおいがあたりを
包む。
 初夏の風はあたたかく、やわらかい指先のように頬をなでていく。むき出しの膝小僧
に小石が食い込んでいたが、そんなささいな痛みは意識から吹き飛んでしまうほどに、
六歳の少年は目の前の幻のような光景に魂を奪われていた。
 そのひとは、蔓薔薇の絡む古い塔の石壁にもたれて座り、手ずれのした古い書物に目
を通していた。
 まるで伝説の中から抜け出てきたかのような姿だった。古風な形のだぶだぶのシャツ
にスパッツ、中世風の白い長靴下に、こびとが縫ったような小さな革の靴。手も足も
すらりと長く形よく、ただそこに腰を下ろしているだけなのに、その無造作な姿勢が
いつまでも見ほれていたくなるほどに優美だ。細い指がゆっくりと次の頁をめくる。
 風にふかれる長い髪は霞のようにきらめく月の銀色。顎の細い小さな白い顔は夜空の
月そのもの、なめらかに傷一つなく輝き、伏せられた青氷色の瞳は長い睫の下に優しげ
に煙っている。何事か考え込むように唇をひきしめ、わずかに眉根をよせている。塔に
からんだ蔓薔薇の白い小さな花がのぞき込むように後ろで揺れ、信じがたいほどのこの
麗人を、小さな妖精たちがそろって取り囲むように見えた。 

119 :煌月の鎮魂歌7 2/17:2015/11/12(木) 20:43:10 

『そこの、子供』
 どれほど時がたったのかよくわからない。そのひとが本を閉じ、静かな声で呼んだ
とき、彼は子兎のように飛び上がって逃げ出すところだった。
『こちらへおいで。お前はベルモンドの者だな。ミカエルの息子がもう大きくなったと
聞いている。怖がる必要はない。こちらへ来なさい』
 少年はおそるおそる薔薇の茂みを這い出た。
 父から、近づいてはならないと厳しく言い渡されている屋敷の一角に、午後のちょっ
とした冒険のつもりで潜り込んだのだった。将来、自分が継ぐはずのこのベルモンド家
の屋敷を知っておくのは次期当主としての勤めだと、幼い心にいいわけを作って、ふさ
がれている小径をくぐったのだ。
 幼少の頃から才に恵まれ、すでに多少の封印や障壁は解除することができた。父ミカ
エルしか通ることを許されていない小径、いつ見ても色とりどりに咲き誇る薔薇が、
美しい衛兵のようにふさいでいる不思議な路のむこうに何があるのか、ほんのちょっと
のぞき見るつもりだったのだ。
 ごそごそと這いだしてそばへ行くと、そのひとは、もじもじと立ち尽くす小さな子供
を冬の晴れ間の色をした蒼氷色の瞳で見上げた。軽く指先を顎にあて、顔を上げさせ
る。見つめられると、体の中を風が吹き抜けていくようだった。ふわふわと、その場
から浮き上がってしまいそうになる。少年はぎゅっと両手を握りあわせた。
『名前は』
 ──ラファエル・ベルモンドです。
『いくつだ』
 ──六歳です。来月で七歳になります。
 そう答える自分の声が別人のもののようだった。美しいひとは、七歳、と小さく呟
いて、視線をそらせた。見えない糸にからめ取られたようだった身体が、ふいにゆる
んだ。少年はほっと息をついた。美しいひとは何か考えるように、脇においた本に手を
すべらせた。 

120 :煌月の鎮魂歌7 3/17:2015/11/12(木) 20:43:40 

『もう七年もたつのか。ついこのあいだ生まれたと聞いたばかりのような気がするの
に。──早いな。人の世の時間は』
 そう呟いた声がひどく寂しげに聞こえて、少年はいそいで言葉を継ごうとし、言う
べきことが何も見つからないのに気づいた。
 美しいひとは目をあげて、ほほえんだ。小さな唇がかすかにほころんだだけの、
ほとんどそれとはわからないほどの微笑だったが、それは雷のように少年の小さい
心臓を貫いた。
『怪我をしている』
 つと指が上がり、頬骨の上をたどった。冷たい、なめらかな指先だった。少年は
あわてて頬をこすった。わずかな血と、泥がついてきた。茂みをくぐる間に、どこかで
ひっかけたに違いない。
 ──平気です、こんなの。なんでもないです。
 それよりも、たった今頬をかすめていった指の感触がうずいた。陶器の人形のようで
ありながら、活きたしなやかさと優しさのこもった指先。
『それでも毒がはいるといけない。そこにいなさい。薬をとってこよう』
 美しいひとはするりと立ち上がると、本を片手にゆっくりと歩いて、塔の後ろに
隠れてしまった。少年はぼんやりとその場で風に吹かれていた。たった今、目の前に
いたきらめく幻影が現実だったとはいまだに信じられず、きっとこのまま、日が暮れる
までひとり自分は幻を待ち続けてここに立ち続けるのだとなかば以上信じていた。
 しかしそうはならず、再びあらわれた美しいひとは本のかわりに小さな素焼きの壷と
水の入った桶に布を持ってきた。彼は少年を座らせ(その時になってようやく少年は、
この美しいひとが男性であることに気がついた)頬のかすり傷を丁寧に洗って、塗り薬
をつけてくれた。ついでに小石が食い込んでできた膝小僧の傷も同様に。
 薬はさわやかな薬草の香りがし、水はあくまでも澄んで冷たかった。なにもかもが
魔法のようだった。魔法や魔術には幼いころから慣れ、ある程度の訓練もすでに修めて
いたが、この薔薇に囲まれた庭と古い塔、そして月の顔と髪の麗人は、魔法以上の
なにものかだった。ただそこにいるだけで心をゆさぶり、少年の心を息苦しいような
ときめきで満たすなにか。 

121 :煌月の鎮魂歌7 4/17:2015/11/12(木) 20:44:51 

『さあ、これでいい』
 壷の蓋をしながらそのひとは言った。
『今日はもう帰りなさい。じきに日が暮れる。そのうち、ミカエルが正式に私を紹介
してくれるだろう。その時を楽しみにしていよう。また会おう、ベルモンドの子供』
 催眠術にかけられたように少年はあとずさり、くるりと向きを変えた。
 目の前に、それまではなかったはずの石の小径が開けていた。それが、障壁の隙間を
むりやりくぐり抜けた自分の通ってきた路ではなく、許された者だけが通る路、父と、
おそらくこの塔に身を置くあの麗人のみが通ることを認められた場所だと悟り、うずく
ような痛みが胸にわきあがってきた。それが嫉妬だということを、この時はまだ知ら
なかった。
 小径を通って戻ると、父がそこにいた。少年が障壁を抜けたことを知っているよう
だった。叱られ、罰されることを覚悟して前に進んだ少年に、父は、なぜか痛みを
こらえるような沈痛な目で答えた。
『彼に会ってきたのか』
 深くよく響く父の声は、どこか沈痛だった。黙って少年がうなずくと、『そうか』と
呟き、ゆっくりと後ろを向いて屋敷の方へ戻っていった。少年は拍子抜けした気分で
あわててあとを追った。
『父上』
 大股で歩く父の隣で息を切らしながら少年は言った。
『あのひとは誰なのですか。どうしてあそこにいるのですか。なぜ、ベルモンドの名を
知っているのですか』
 返事はなかった。あのひとが言ったとおり、いつのまにか日が暮れかけていた。あの
魔法にかかった場所では時間の流れが違うとでもいうように、明るい空は急速に
たそがれに染まり、星が空の高みに輝きだしていた。燃えつきかけた太陽がわずかな
残照を木々の梢に散らしている。 

122 :煌月の鎮魂歌7 5/17:2015/11/12(木) 20:45:23 

『父上!』
『──ベルモンドの者は、必ず一度は彼に恋をする』
 歩きながら、独り言のように父は言った。自分に言われているのかと少年は疑ったが、
父の深くくぼんだ目は自分ではない、どこでもない、はるか遠くを見つめていた。
『かなうことのない恋だ。だがともに戦うことはできる。彼の身を守り、いつの日か
来る魔王の再臨の日に彼の隣に立つこと、それがベルモンドの者の負った役割であり、
祝福であり、──呪いだ。先祖のベルモンドたちはみなその日だけを待って魔物を狩り、
彼ともに戦った。魔王の封印。私の代にはかなわなかった、だが、お前は──』
 その先は続かなかった。少年は跳ねるように歩きながら、父のいつも厳しくひきしめ
られている口がだらりと開いているのを見た。何かを奪われたものの顔をしていた──
あるいは、あらかじめ奪われていたことを、たった今思い知らされたものの顔を。
 ふいに気づいたように父は息子を見下ろし、さっと目をそらした。少年はそこに暗い
色を見た。ひどく暗いものを。厳しく笑顔をめったに見せない父の、はじめて活きた顔
を見た気がした。それは気分のよいものではなかった。夜気の中でぶるっと身を震わせ
るとともに、少年は、幼い心に奇妙な勝利感がわきあがるのを感じた。
(あのひとは、僕のものだ)
 幼い心に眠る、将来の男の声が呟いた。
(あの美しいひとは、いつかきっと、僕のものになるんだ)


 一月後の七歳の誕生日に、少年はあらためて彼に正式な紹介を受けた。塔の麗人。
ベルモンド家の宝。
 薔薇と塔にかくまわれて五百年を生き続けてきた、闇の貴公子。
 それまでは誰になにを訊いても答えてもらえなかった。父は巧妙に息子の視線を避け、
学問と訓練にのみ没頭させるように仕向けていた。毎夜の眠りの中で少年はあの出会い
を繰り返し、現実には交わすことのできなかった会話をあれこれと交わし、その微笑み
を浴びるように受け取った。夢の中で麗人はいよいよ美しく、魔法めいて、神よりも
天使よりもすばらしく輝きわたっていた。 

123 :煌月の鎮魂歌7 6/17:2015/11/12(木) 20:46:01 

 だが七歳の誕生日、黒ずくめの装束をまとい、緋裏の黒いマントをひるがえしながら
ゆっくりと歩いてきたそのひとを見たとき、少年は自らのどんな夢想も、現実には
とうてい及んでいなかったことを知った。
 やわらかくなびく銀髪をかきあげて、自分に向いた月の白い顔があのかすかな微笑を
浮かべたとき、あらゆる世界が少年のまわりで消え去った。
『また会ったな。ベルモンドの子供』
 極上のベルベットのような低い、やわらかな声が耳をそっと撫でた。
『私は、アルカード。人には、そう呼ばれている』
 ふわりと身をかがめて、子供の低い視線にあわせる。薔薇と、そして何か金属的な──
血、の匂いが漂い、くらくらと目が回った。どこまでも深く澄んだ蒼氷色の瞳が、
文字通り少年の魂を射抜いた。
 息が止まるような思いだった。ひょっとしたら、その場で倒れて死んでいたかもしれ
ない。それほどまでにきらめくその目の一瞥は強烈だった。彫像めいた手のひらが
そっと頬を包み、やさしくさすった時、ほとんどその場に卒倒してしまいそうだった。
『だからお前も、そう呼ぶがいい。私はベルモンドに従い、ベルモンドとともに、闇と
魔王の真なる打倒を目指すもの。いずれお前も、私の隣に立つようになる。ミカエルの
ように』
 黙して立つ父にも彼は目をやった。
 そのとたん、少年ははげしく胸を焦がす痛みを感じた。この麗人の瞳に見つめられる
のが、自分でないことに理不尽な怒りを抱いた。
 父はうなずき、笑みを返したが、その微笑がかすかにこわばっていることを少年は
見逃さなかった。自分の感じている痛みを、父もまた感じていることを、本能的に少年
は感じ取った。
 アルカードはなめらかに立ち上がり、緋裏のマントをさらさらと鳴らした。美しい剣
の柄が、細い腰に装飾品のようにきらめいていた。 

124 :煌月の鎮魂歌7 7/17:2015/11/12(木) 20:46:51 

『魔王の再臨は近いと告げられている。ミカエル、あるいはお前の代の間に、最後の
決戦がやってくるだろう。その日のために腕を磨くのだ、ラファエル・ベルモンド。
ベルモンドの血を継ぐもの。〈ヴァンパイア・キラー〉の使い手。魔王ドラキュラの
復活を最後のものとできるかどうかは、お前たちの肩にかかっているのだから』
 霞のようにたなびく銀髪を後ろにひいて、アルカードは背を向けた。
 細いブーツがゆっくりと床を踏み、いつの間にか、音もなく彼は姿を消していた。
誕生を祝うために集まっていた一族がいっせいに息をつき、生き返ったようにしゃべり
出すのを夢のつづきのように少年は聞いた。ある意味ではまだ、彼もまだ夢にたゆたっ
ていた。彼の香りが、薔薇とかすかな血の香りが、まだ身辺に絡みついて愛撫している──


 ラファエルは嫌々ながら目をあけた。
 朝の灰色の光がとじたカーテンのあいだから剣のようにななめに落ちて床を切り
取っている。起きなくちゃ、とぼんやり思い、無意識に布団をはいで身を起こそうと
して、びくっとした。
 いつもここだ。いつもここで、現実を思い知らされる。
 かたわらのナイトテーブルに手をやるより早く扉が開いて、ボウルガード夫人が
入ってきた。後ろに屈強な男の看護人を二人連れている。夫人は言葉少なにおはよう
ございます、と腰を折ると、流れるようないつもの手つきでラファエルの夜着を脱が
せ、昼間の服を着せつけはじめた。
 ラファエルは屈辱とあきらめの入り交じった気持ちでそれを受け入れた。受け入れる
ことを覚えなくてはならなかった。人の手を借りて着替えをしなければならないのは
二歳の時以来だ。よちよち歩きを卒業するとラファエルは断固として世話役の女中の
手を拒否し、自分で服を着替えるようになった。物心ついて以来、母とはほぼ会うこと
がなく、ほとんど想像上の存在であり、対して父は、頭上にそびえる巨大な山脈だった。
いつかその山脈を越えてゆかねばならないことを運命として悟っていた少年は、一刻も
早く大人にならねばならないことをすでに知っていたのだ。 

125 :煌月の鎮魂歌7 8/17:2015/11/12(木) 20:47:26 

 なのに、このざまだ。背中を看護人に支えられながら、ベッドの縁から垂れ下がる
力ない足にズボンと靴下をはかせるボウルガード夫人の動きに苦い思いをかみしめる。
どんなにラファエルが願おうとも、力のかぎりを尽くそうとも、腰から下の肉体は粘土
でできた人形のようにだらりと垂れ下がったままでいる。
 魔物に襲撃された夜の記憶は断片としてしか残っていない。死ぬところだった、という
話だ。ひらめくように浮かび上がるのは、巨大な魔物の黒い影、真紅に燃える血走った
双眸とかっと開いた口、爪、よだれの滴る牙、地獄の底から吹きつけてくるような臭気。
鞭を握った自分の手。
 最後に自分の両足で地面を踏みしめた、その感覚。
 日常生活ができる程度の回復ならできる、と告げられた。〈組織〉に属する治療術者
たちの力を結集すれば、傷ついた神経をなだめ、常人と同じ生活ができる程度には足を
動かせるようになる。あるいは魔術と錬金術の粋を尽くして、新たな人工の下肢に
とりかえることも。
 しかしラファエルはすべてを頑として拒否した。それでは意味がないのだ。ただ常人
と同じように、普通に暮らせる、ただそれだけでは。あの〈鞭〉が使えないなら。聖鞭
〈ヴァンパイア・キラー〉が使えないのなら、どんなことにも意味などない。
 聖鞭は強靱で瑕疵のない肉体と精神を持ち主に求める。あの鞭の強力な力の前では、
回復術や錬金術によるごまかしなど、なんの意味もない。
 服を着せられ、用意された車椅子にそっと降ろされる。ボウルガード夫人が膝掛けを
広げ、萎えた両足を丁寧に隠してくれることにわずかな安心感を覚えた。同時に、あの
魔物の襲撃以来、心に巣くって消えない虚無感がまたじわりと胸を噛んだ。 

126 :煌月の鎮魂歌7 9/17:2015/11/12(木) 20:48:02 

            2

「獣の臭いがするわ」
 ふいにイリーナが言った。
 それまで自分も小鳥のように肩にとまったバーディーとにぎやかにおしゃべりして
いたのが一変して、何か見えないものに対して身構えたかのようだった。緑色の妖精の
瞳が爛々と燃えている。
「あんたのけだものどもの臭いじゃないのか……てっ」
 またブーツですねを蹴り飛ばされ、ユリウスは罵り言葉を飲み込んだ。
 ここ数週間で、たとえ蹴飛ばされようがどうしようが、この少女の前で少女があるまじ
きことと考える何かを口にするが早いか、もう一度蹴飛ばされるか、四匹のけだものども
に殺気の渦で応じられるかのどちらかだと否応なく学習させられていたのである。
「確かですか、イリーナ」
 紅茶茶碗をおいて、崇光は真面目な顔になっている。
「このベルモンドの屋敷の中で、そんなものの気配のかけらでも感じられるとは思えませ
んが」
「闇の者だっていうのか?」
 すねをさすりながらユリウスはぶつくさ言った。だいたいなぜ自分がこの午後のお茶
の席に座らせられているのかわけがわからない。
 午後のサンルームには陽光が満ち、温室咲きの花と観葉植物か目に快い彩りを添えて
いる。お茶のテーブルについた三人と給仕のボウルガード夫人以外人影はなく、滞在客
は彼らが入ってきた時点で静かに退出するか、用事を思いだしたような顔をしてどこか
へ行ってしまった。 

127 :煌月の鎮魂歌7 10/17:2015/11/12(木) 20:48:38 

 自分だけでなく、崇光やイリーナも、ある意味で忌避されていることをここにいる数
ヶ月でユリウスは感じ取っていた。強力すぎる力の持ち主もまた、常人たちの中に
あっては異端者なのだ。このベルモンド本家に足を踏み入れられるほどの人間はみな
多かれ少なかれ超常の力を持つものではあったが、彼らでさえ、崇光とイリーナの
高すぎる能力には畏怖、あるいは恐怖の念すら抱いているらしい。
 今日は新月だということで訓練は休み。アルカードは一日自室にこもり、降りて
こない。半吸血鬼の彼は月の周期によってある程度の影響を受けるため、新月の日は
活動せずに眠って肉体の回復を待つのだという話だった。あの幻のような動きのどこに
衰えや不調があるのかよくわからないが、体内を流れる半分の吸血鬼の血が、昼間活動
することによってある程度の負担をかけるものであるらしい。新月の夜は特にそれが
顕著になるため、一晩休んで気力の回復を待つのだと説明を受けた。
 納得がいかない。
 確かにアルカードも活きているのである以上、疲労も休息も必要であるのはわかるが、
いつも大理石の彫像のように静かに、冷たく美しく佇んでいるくせに、新月だからと
姿を隠してしまうのは理不尽だ。それでは本当に月の化身のようではないか、と腹立ち
まぎれに考え、ぎょっとした。
 俺はなにを考えてる。あのむかつく訓練と頭がぼうっとするまで知識をたたきこまれ
る授業が一日休みになったんだ、喜べばいいだろうが。
 まあ、夜にあの身体を弄ぶ気晴らしが取り上げられるのは気にくわないが、それも
一晩のことだ。明日になればまた、あの牝犬は俺のところへやってきて這いつくばら
ざるを得ない──
 ティガーが鋭い声で鳴いて、ユリウスの考えを破った。白い虎猫のはかりしれぬ力の
こもる金色の目は、ユリウスの悶々とした気持ちを見透かすかのようにまたたきもしない。 

128 :煌月の鎮魂歌7 11/17:2015/11/12(木) 20:49:23 

「ティガー、おすわり」
 イリーナはうわのそらで呟き、しばらく遠くの音に耳をすますかのように空に視線を
据えて眉をひそめていたが、やがて小さく舌を鳴らして、「だめね」と言った。
「ほんの一瞬、確かに、あいつらのくさい臭いがしたんだけど。もうどこかへ消えて
しまったわ。考えてみれば、ベルモンドの結界を破れる魔物なんて、魔王ドラキュラ
そのものでもなければそうそういないはずなんだけど、でも間違いなくあれは闇の
感覚だった」
「あとで結界を確かめに回ってみますよ」
 とにかくお茶のお代わりを、と崇光はかたわらに控えたボウルガード夫人に手を
あげる。夫人は一礼して進み出、イリーナの前の茶碗をあけて熱いお茶をあらためて
注ぎなおした。同席者の崇光とユリウスの前にも同様に新たな茶の一杯が置かれる。
「滞在しているほかの家系の方々にもお伝えしておきますかね。魔王の復活が近く
なって、闇の勢力が思ったより活性化しているのかもしれない。最終復活に向けて、
どんな事態が起こっても不思議じゃないですし。備えを固めておいて悪いことはない
でしょう」
「あいつが怪我をしたのはここでじゃないのか?」
 ユリウスはかぐわしい紅茶を一口すすった。悔しいが、禁煙を余儀なくされてから、
この呪文のような名前の中国茶の中毒のようになっている。液体化した煙のような
複雑な香りと風味のお茶は、気がつけば、朝晩の食卓にかかせない飲み物になって
しまっていた。
「ラファエルが魔物に襲われたのはここではありませんよ。彼が魔物を狩りに出た先に、
罠が仕掛けられていたんです」
 崇光が静かに言った。
「本来なら〈ヴァンパイア・ハンター〉の持ち主である彼の父君──ミカエル・ベル
モンドが赴くべき任務でしたが、ミカエルはそのときすでに亡くなっていましたから。
まだ正式な使い手ではなくとも、自分が行くとラファエルは言い張ったんです。アルカ
ードは反対しましたが……」 

129 :煌月の鎮魂歌7 12/17:2015/11/12(木) 20:49:58 

 困惑したように崇光は言葉を濁した。
 言われなくともユリウスにはわかった。あの少年はアルカードに止められればそれだけ
強く、自分はもう大人であると、聖鞭の使い手として彼に、アルカードにふさわしい者で
あることを見せようと、意固地になったに違いない。アルカードの助力も断ったろう。
自分が護ると心に決めた相手に護られるほど、少年の誇りを傷つけるものはないだろう。
「そういえば、ラファエルはどうしているの? もうこのごろずっと、あの子の姿を見て
いないわ」
 イリーナが心配そうな声を出した。この少女にかかっては自分以外のほとんどすべての
人間が『あの子』扱いになる。
「ラファエル様は健康に暮らしておいでです」
 なめらかな手つきでポットに湯を注ぎ足しながらボウルガード夫人が答えた。
 下半身が動かないことを健康だと言えるものならな、とユリウスは考え、哀れみととも
に義弟に対して意地の悪い複雑な喜びを覚えた。
「食事もきちんととっておられますし、リハビリテーションも受けておられます。毎日
のお勉強も欠かしておられませんから、いずれまた、ベルモンド家の支柱として立派に
お立ちになられます」
「ずいぶん確信のありそうな言い方だな」
 皮肉な口調になるのを抑えられなかった。ユリウス自身、自分がベルモンドの家長に
なるなどという気はかけらもなく、今回のことが終わればさっさと古巣のブロンクスへ
──(アルカードの姿が幻のように胸に浮かび、心臓がずきりと痛んだ)──戻る気で
いたが、この老夫人が今は車椅子に乗った無力な子供でしかないラファエルに、
そこまで忠誠を捧げているのは意外だった。
「ボウルガード夫人はずっとベルモンド家の家令として使えてきた家系の裔ですから。
ああ、ありがとう、夫人」
 なだめるように崇光が言い、サンドイッチを皿に取り分ける老夫人に日本人らしく
几帳面に礼を言った。 

130 :煌月の鎮魂歌7 13/17:2015/11/12(木) 20:50:34 

「代々長子の男性がエルンストという名で家令を勤めてきたのですが、その名を継いだ
兄上が亡くなられましてね。戦争で未亡人になっていた彼女が呼び戻されて、こちらの
家政を見るようになったというわけです」
「はん。俺と似たような身の上ってわけか」
 鼻を鳴らしてユリウスは椅子にそっくりかえった。
 とたん、射るような眼孔に射すくめられて、反射的に身を堅くした。茶器を手にした
ままの無表情な老夫人が、灰色の目を矢のように鋭くこちらに向けている。
「わたくしは自らの血筋に誇りを持っております」
 細いが、その声は激しかった。お前などといっしょにするなという絶対の拒絶を、
ユリウスは感じ取った。この屋敷に来てからずっと感じていたものが、一瞬にして
人の形をとり、目の前に立っているようだった。
「兄が死んだことは悲しいことです。けれども、わたくしの務めははるか五百年、
いいえそれよりも前から、我が家に引き継がれてきた名誉ある任務。ベルモンド家に
お仕えすることがわたくしの運命であり、生命です。ご本家からお呼びをいただいた
ことを光栄に思いこそすれ、拒否するなどとはみじんも考えたことはございません」
「そうかよ。お偉いこったな、ばあさん」
 一瞬であれ鶏がらのような老婆に気圧されたことを隠すように、ユリウスは身を
乗り出して熱い茶をがぶりと飲んだ。のどを焼くその熱ささえ、老婆から突きつけ
られた拒絶と挑戦の証に思えた。
「それじゃあんたはあいかわらずラファエル坊やに仕える身で、俺はあくまで鞭を
使うために引っ張ってこられた道具扱いでしかないってことだ。思い出させてくれて
ありがとうよ。安心しな、俺は坊やに対してどうこうしようなんて思っちゃいないし、
こんなお堅いお屋敷に一生縛りつけられるのもまっぴらなんでね。仕事が終わりゃ
即座にこんな家おん出て、なつかしのニューヨークへまっすぐ帰ってやるよ。こんな
古くさいかちんこちんの家の主なんざ、あの車椅子坊やを座らせときゃたくさんだ」
「ラファエル様を愚弄することは許しません」 

131 :煌月の鎮魂歌7 14/17:2015/11/12(木) 20:51:05 

 老婆の目がぐっと細まった。ティーワゴンの取っ手に置かれたしわだらけの手に
わずかに力がこもったことをユリウスの慣れた目は見て取った。それがちぢかんだ
老婆とは思えない殺気のこもったものであることに内心ひそかな驚愕と興味を感じた。
「どうした。気に障ったなら勘弁しろよな。俺は知っての通り育ちが悪くてね、思った
ことがすぐ口に出ちまうんだよ。ひょっとしたら失礼な口をきいちまったかも
しれないが、あの車椅子坊やを悪く言う気はないんだ、ほんとだぜ。なんたって
わが尊敬すべき浮気な親父殿の息子同士なんだ。おふくろは違ってたって俺たちゃ
兄弟だ、かわいいちびの弟くんの悪口を言うほど俺も堕ちちゃいないさ」
「……貴方がミカエル様の血を継いでいるなどと」
 ほとんど喉の奥でささやいたようなものだったが、ユリウスには聞こえた。老婆の
灰色の目に瞋恚の炎が燃えているのを心地よくユリウスは見た。これでなくっちゃな、
とぞくぞくと背筋を駆け上がる興奮を感じながらひとり呟く。お上品なお茶会なんざ
飽き飽きだ。真綿にくるまれた中の棘をぼんやり感じて暮らすより、むき出しの嫌悪
と怒りをつきつけられたほうがよっぽどいい。そのほうがずっとすっきりする。まさか
相手がしわだらけの老婆とは思ってもいなかったが。
「アルカード様のお言葉でなければ、誰が貴方のことなど……」
「はいはいはい、落ち着いた落ち着いた」
 ふいに崇光が音高く手を打ち合わせた。鐘を打ち合わせたように高くよく響く神官の
拍手の音に、この場に覆いかぶさっていた重苦しい雰囲気は一気に吹き散らされるよう
に霧散した。
「せっかくのお茶が冷めてしまいますよ、ボウルガード夫人。君もいちいち無粋なこと
を言うのはおやめなさい、ユリウス、悪い癖ですよ。ここにいるわれわれは、夫人も
含めてみんな魔王封印のために一丸となるべき仲間なんです。血筋がどうこうなんて、
今さらここで話すことでもないでしょう。ごらんなさい、イリーナがびっくりしている
じゃありませんか」 

132 :煌月の鎮魂歌7 15/17:2015/11/12(木) 20:51:50 

 イリーナはびっくりしているというよりは、この少女にふさわしく機嫌を悪くして
いるように見えた。白い虎猫のティガーをぎゅっと抱きしめ、まるい頬をむっと
膨らませている。頭の上では小鳥のバーディーがにらみを利かせ、手首からは青い
小蛇のニニーが鎌首をもたげ、ポシェットからは亀のトトが頭を出している。臨戦態勢
である。
「うるさくする人は嫌いよ」むっつりとイリーナは言った。「そこのケーキをもう
ひとつちょうだい、ボウルガード夫人」
 夫人は一礼してそれに従った。粛々と。なめらかな両手の動きには少しの乱れもなく、
さっきの激情のかけらも感じられなかった。ユリウスは苦々しい思いで舌打ちし、茶を
押しやって、もはや居心地がいいとはいえなくなった茶席を立とうとした。
「アルカード」
 崇光の驚いた声がユリウスの動きを止めた。
 席を立とうとするユリウスを止めようと手をあげかけていた彼は、そのままの姿勢で
サンルームの扉に目を向け、眼鏡の奥の目をまたたいた。
「どうしたんです? 今夜は新月ですよ。あなたは部屋から出てくることはないと
思っていましたよ」
「……闇が接近している」
 アルカードは普段着ではなく、中世の絵画に出てくるような豪華な貴公子の衣装を
まとっていた。たっぷりと襞をとったシャツに絹のウェストコート、金刺繍の縁取りと
真珠のカフスのついた長い上着。襟元には燃える血色のルビー。なびくマントの裏地は
鮮血の紅で、鈍い金色の籠手のついた長剣が腰に見えている。青ざめた顔はいつもより
もっと血の気がなく、いささか死人めいて見えた。
「これまでになく近い。新月に乗じて結界を破るつもりかもしれない。その前に始末
する。崇光、イリーナ、援護を頼みたい。そしてユリウス」 

133 :煌月の鎮魂歌7 16/17:2015/11/12(木) 20:52:33 

 氷の蒼の視線がまっすぐにユリウスの心臓に射込まれた。
「お前には訓練の一環として同行してもらう。実地訓練だ。まだ聖鞭に触れさせること
はできないが、鞭を使った闇の者との戦闘がどんなものか、その身で味わってみるのが
いいだろう。ただし気を抜けば死ぬ。そのことを忘れるな」
「お待ちなさい、アルカード。危険です」
 焦ったように崇光が立ち上がり、一瞬ユリウスに目を走らせて口を結ぶと、思い切った
ように、
「今夜はあなたの力が弱められる夜だ。あなたが出向かずとも、僕とイリーナがなんとか
します。それにユリウスはまだ実戦に出すべきではない。彼が──その、死にはしない
までも傷ついて、最終決戦の時に動けなくなっていたらどうします。もう彼の代わりは
いないのですよ」
「だからこそ、私が行く」
 黒い微風のように歩み寄ってきて、アルカードはマントの中から一巻きの鞭を取り出
した。ユリウスがブロンクスで使っていたものではないが、ずっと細身で、それでいて、
身を休めている怜悧な猟犬のような、抑制された獰猛さを感じさせる品だった。
「彼の不足は私が補う。初めての実戦が最終決戦というのでは本末転倒だ。訓練にも座学
にも限界はある。実戦が彼にとってはもっと有効な授業となるだろう。ついてくるか?」
「……なめんじゃねえぞ、おい」
 氷蒼の瞳の奥にきらめく金色の光をユリウスは見た。一瞬頭に霞がかかったように
くらりとしたが、歯を食いしばり、差し出された鞭をむしりとった。なめした革が
慣れた蛇のように指に吸いついた。
「他人に守られるような俺じゃねえよ。上等だ。退屈なお勉強よりゃ、確かに俺にゃ
こっちがお似合いだ。あんたは後ろでだまって見てりゃいい。闇の者だかなんだか知ら
ねえが、ブロンクスの毒蛇にどんなことができるか、しっかり見届けるがいいや」
「つまり、さっき感じたいやな臭いは本物だったってことね」 

134 :煌月の鎮魂歌7 17/17:2015/11/12(木) 20:53:24 

 イリーナは椅子から飛び降り、スカートをなおして髪を撫でつけた。四匹の霊獣たち
はどことなく落ち着かない様子で唸り、はばたき、シューと舌を鳴らし、ポシェットの
中でもぞもぞ動いている。
「そこのがさつな坊やは論外だけど、でもアルカード、本当に大丈夫? なんならあたし
たちがこの子の面倒も見るわよ。ティガーたちは気に入らないみたいだけど、でもあたし
が頼めば、絶対にちゃんと傷をつけないようにしてくれるわ」
「気遣いはありがたいが、イリーナ、私は心配ない」
 いつもより色が薄く感じられる唇をかすかに笑みの形にし、アルカードは小さな女王
に軽く一礼した。絵の中の貴公子のような衣装の彼がすると、それはいっそうみごと
だった。
「これまでにも新月に戦わなければならないことなど何度もあった。忘れないでほしい、
私は五百年もの間、彼らと戦い続けているのだ。相手は新月であろうと満月であろうと
加減などしない。それでもこうして私は存在している。あまり過保護にされても困る」
「どうかしら。だってあなた、いつだって無理ばかりするんだもの。他人に隠して」
 イリーナは口をとがらせ、まあいいわ、とため息をついた。
「あたしとスーコゥががんばって、この坊やを怪我させないようにすればすむことです
ものね。みんな、聞こえた? 今回はお遊びはなしよ。初心者さんを連れていくん
だから、ちゃんと守ってあげて、痛い目にあわないようにしてあげてね」
 バーディーが高い声で鳴いてはばたき、ティガーが低く唸った。ニニーとトトも
それぞれのやりかたで(不承不承ながら)応じたらしく、四組の視線が自分に突き刺さる
のをユリウスは感じた。小さな女主人に迷惑をかけたら許さない、と雄弁に語るまなざし
に、ユリウスは身震いし、そのことに腹を立てて唾を吐いた。