煌月の鎮魂歌8  

 

 

135 :煌月の鎮魂歌8 1/29:2016/01/16(土) 18:31:42 

 自動車はずいぶん長い間森の中を走り続けるように思えた。
「おい、いったいどこまで行くつもりなんだ? この森はどこまで広がっているんだ」
 しだいに焦れてきたユリウスがとうとう苛々と膝をゆすった。
 ベルモンド家へ連れてこられたときよりいくぶん小さく簡素だが、それでもかなり
高級な大型のロールス・ロイスは、木々の中をぬって走るアスファルトの灰色の上を
灰色の幽霊のように音もなくすべっていく。
「この森自体が結界の一部なのですよ」
 ハンドルを握っている崇光がいった。危なげのない手つきでギアチェンジし、大きく
曲がったヘアピンカーブを抜ける。
「特定の場所へ向かうには、一定の経路を通らないと永久にたどり着けません。たとえ
ほんの一メートル先にあるだけのように見える場所でも、正しい順路を辿らなければ
永遠の迷路に迷い込むだけです。この道路も地脈にそって築かれた結界の描線です。
僕たちはとても危うい蜘蛛の糸のような道を進んでいるんです」
「蜘蛛でもなんでもいい。ちゃんと相手のいるところへつくんならな」
 フロントシートに座らされ、生まれてこのかた着けたことのないシートベルトなどと
いうもので押さえつけられたユリウスは組んだ足をいらいらと揺すった。シートベルト
など当然のように無視して乗り込んだとたん、イリーナがいつもの小女王ぶりを発揮
してむりやり着けさせたのである。
 彼の長い足でもじゅうぶん余裕のある広いシートに、また妙にいらつく。これも
きちんとシートベルトを着けている崇光はちらりと目をやり、肩をすくめて同情する
ような仕草をしてみせた。ユリウスはあからさまに舌打ちして顔をそむけた。
 腰のベルトの下にそっと手をすべらせる。屋敷へ来てから与えられた黒い革のロング
コートの下に、新しいホルダー付きの革ベルトが増え、そこに、使い慣らされてしな
やかになった長鞭が、眠る蛇のように渦を巻いて束ねられていた。
 ブロンクスで使っていたものとは違うが、この数ヶ月、訓練で使用しつづけたおかげ
で手にはすっかり馴染んでいる。以前使っていたものよりも、むしろ使いやすいくらい
だ。油を擦り込まれ、激しい訓練で早くも擦り切れた握りを何度か取り替えたにも
関わらず、艶々と鈍く光る鞭の身を指でたどると、女の身体をなぞるような愉悦が指を
疼かせる。 

136 :煌月の鎮魂歌8 2/29:2016/01/16(土) 18:32:30 

「むずかるのやめなさい、ユリウス」
 リアシートからイリーナが偉そうに言った。がう、とティガーが声をそろえる。
「この森を本当に正しく移動できるのはスーコゥだけよ。あたしやアルカードでも抜け
られないことはないだろうけど、ずいぶん手間がかかるでしょうね。ましてや、あなた
みたいな素人じゃ、一生迷い続けても外へ出るどころか、もといた場所から半歩と進め
やしないわ。黙ってスーコゥにまかせてなさい。到着してからが、あなたの出番よ」
「素人呼ばわりかよ。くそガキが」
「その通りでしょうに」
 女主人に憎まれ口を叩かれて、四匹のペットがざわりと波立つ。手真似で彼らを抑え
て、イリーナは小さくため息をついた。幾重ものフリルとレースの重なるパニエが波の
ようにシートに広がる。
「忘れてるといけないから念を押しておくけど、あなたはまだテスト中の身なんですか
らね。聖鞭ヴァンパイア・キラーの正当な使い手になるには鞭に認められなければなら
ない、これはそのための試験のひとつなの。あなたはまだ正式に認められた戦士じゃ
ない」
「だが、そうなってもらわねば困る」
 アルカードが呟いた。黄金の柄の剣を穿き、中世風の豪奢な貴公子の装いのアルカー
ドは、レースやリボンに飾られたドレス姿のイリーナと並んでリアシートに座っている
と、そこだけが別の時代、別の世界に切り取られているようで、妙な非現実感があった。
 この黒ずくめの、ある意味時代錯誤な衣装も一種の魔法的な力を持ち、新月で力の減退
しているアルカードを守るものだと聴かされた。闇の力、闇の衣服。彼がこの世に表れ、
はじめて魔王ドラキュラを打倒したときにも、この衣装をまとっていたという。闇から
織られ、闇からとりだされた衣装は、夜そのもののように煌びやかに、月の貴公子を
包んでいる。 

137 :煌月の鎮魂歌8 3/29:2016/01/16(土) 18:33:08 

「何度も言ったが、魔王の真なる封印には聖鞭ヴァンパイア・キラーとその使い手の
存在が不可欠だ。われわれにとって、おまえは欠けさせることのできないピースなのだ。
おまえには試練を乗り越え、必ず聖鞭の正式な使い手として覚醒してもらわねばなら
ない。世界の安寧と、人類の存続のために」
「ピース、か」
 苦々しく呟き、ユリウスは暮れはじめた窓外に目をやった。魔王の封印という一枚の
絵図、それを組み上げるための一片。それ以上のものではない自分。腹の底が熱く煮え
立ち、指が鉤爪のように丸まって鞭をつかみしめた。一瞬、ここでその鞭を抜き放ち、
澄ましかえったアルカードの白い頬に背に力いっぱい振り下ろしてやりたい欲望にふる
えた。
 崇光が低く口笛を吹いた。
 ロールスロイスはほとんど衝撃を感じさせることなく停止した。
 あたりはいつのまにか夕暮れの薄闇に沈み、崇光はライトをつけていた。路肩によせて
停車した崇光はエンジンをかけたまま車を降り、ヘッドライトの照らし出す茂みの中を
数歩進んだ。
 つられるように、ユリウスは目をこらした。
 崇光は低い灌木のあいだを分けて歩いていく。かきわける手間もなく、彼の前で道は
勝手に開いていくようだった。車から数メートル離れた木立の中に、人間の幼児ほどの
高さの自然石が石碑のように立っている。ごつごつした表面に、黒と朱でなにごとかを
書きつけた札が一枚、貼られていた。崇光はそれに手をかけるといったん息を吐き、
鋭い気合いとともに一息に剥がしとった。
 どこか、ひどく遠くもすぐそばのようにも思える場所で、ごおっと地鳴りがした。
空気が震え、肌に触れる夜気の冷たさが微妙に変化したのをユリウスは感じ取った。
夜闇が濃くなり、また薄くなった。青みを帯びた霧がどこからともなく流れてきた。
「降りてください」
 いささか疲れたように崇光が言って、数歩石碑からさがった。 

138 :煌月の鎮魂歌8 4/29:2016/01/16(土) 18:33:42 

「ここからは歩きです。結界の外への道を開きました。僕たちが出たあとはすぐに閉じ
ます。急いで。一秒ごとに危険が倍加すると思ってください。早く」
 彼らしくもない、せっぱ詰まった口調だった。イリーナがドアを開けてぴょんと飛び
出し、アルカードが流れるようにあとに従った。ドアを蹴飛ばしてやりたかったが、
ユリウスも渋々と二人に続いた。
 三人が車を降り、道の先に集合すると、崇光はいま剥がした札をかかげ、手を離した。
札は見えない腕に奪い取られるように宙に舞い上がり、再びまた石碑の上に貼りついて、
瞬きのあいだ青い光を放って燃えた。石碑全体に青い稲妻が走り、またどこかで地響きが
低く腹をゆすった。
「ここからは敵地だ」
 アルカードが静かに言った。静まりかえった闇の奥に、その声はどこまでも深く反響
していくようだった。
「いつどこから闇の者が襲ってくるかわからない。用意をしておけ、ユリウス。崇光が
先に立つ。そのあとにおまえ、そしてイリーナ、しんがりは、私だ」

             3

 確かに空気が違っていた。冷たく心地よかった夜風はなにか腥いものを秘め、薄気味
悪く肌をなでていく。
 進むほどに、いよいよ闇は濃くなっていった。単なる夜ではない、月のない夜である
ことはわかっていたが、星さえ見えないとはどういうことだ。新月ならばあふだん月に
消されて見えないはずのもっと暗い星々もそらにきらめくはずだ、なのに、どこまでも
濃くねっとりとした糖蜜めいた暗黒が、周囲をどろりと取り巻いている。
 足首を擦っていく芝草の葉がいやに冷たく、まるで死んだ女の指にそっとさすられて
いるようで、ユリウスは思わず顔をしかめた。
 とたんに地面に顔を出していた石につまづき、悪態をついた。 

139 :煌月の鎮魂歌8 5/29:2016/01/16(土) 18:34:17 

「屋敷に帰ったら、石鹸で口を洗ってあげるわ」
 後ろから厳しい姉めいてイリーナが脅した。
「そういうことを言うのは、レディの前ではマナー違反よ」
「やかましい、くそチビが」少しでもぐらついたことが無様に感じられてたまらず、
ユリウスは乱暴に言い返した。「こんな真っ暗な中で、どうやって歩けっていうんだよ」
「闇の中を歩くのは狩人の基本能力よ。あなた、まだそんなこともできないの?」
「あまりいじめるのはおやめなさい、イリーナ。ほら、これを」
 先導の崇光が苦笑混じりに言い、手探りで何かを渡してきた。
 反射的に受け取ると、冷たいガラスのようななめらかな表面が心地よかった。指先
ほどの大きさの透明な玉、おそらくは水晶製で、しずく型の細い端を軽く横に曲げた
ような、奇妙な形をしている。一見頭のようにも見える太い部分に目のようにも思える
穴があり、赤と白の紐が複雑な結び方で結びつけられていた。
「夜明珠です。持っていれば、いくらかは闇も見通せるはずですよ」
 ユリウスは口をとがらせて押し戻そうとしたが、結局ひとつ舌打ちして、レザー
パンツのポケットに滑りこませた。
 確かに、それを指先に感じた瞬間から、一気に感覚が冴えた。どろりとした泥のよう
にしか感じられなかった濃い闇がわずかに色を薄くし、濃すぎるサングラスをかけた
ように曇ってはいるが、ものの形は見て取れるようになった。輪郭すらわからなかった
周囲の木々や地面の凹凸もある程度見えるし、前後を進む崇光やイリーナ、そしてアル
カードのなめらかな歩みも感じ取れる。
 視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚、それらほかの五感も冴えわたった。遠くで不吉に
ざわめく木々の音が聞こえ、何者かがきしらせる歯の音が肌に振動として感じる。
イリーナの言っていた「けものの臭い」をはっきりと感じる。病んだ犬の群を檻に閉じ
こめたまま腐らせておいたような強烈な獣臭と腐臭を煮詰めたような、なにか。
 崇光は迷いのない足取りで先へ歩いていく。 

140 :煌月の鎮魂歌86/29:2016/01/16(土) 18:35:00 

 進めば進むほど、ユリウスは肌に迫る異質な何かが、すぐそばで熱い息を吐いている
のを感じることができた。耳の後ろで腐肉の臭いを漂わせる何者かが、脅すように口を
開いて息を吹きかけ、またどこかへ漂っていく、だが、振り向いてもどこにもいない。
ただ血腥い気配と、毒に満ちた呼気が漂っているだけだ。
 ユリウスは意地のように視線を前に固定し、崇光の背中だけを追った。それ以外の
ものに目を向ければ、相手の思うつぼなのだということが本能的にわかっていた。
「まあ、素質はあるわね」イリーナが考え深げに呟いた。「それとも、本能的に生き延
びる方法を知ってるってだけかしら」
「うるせえぞ、ガキ」ユリウスは唸ったが、あまり注意は払っていなかった。彼の注意
は、刻々と周囲に集ってくる悪意と殺意の集積物のほうに集中していた。
 ブロンクスでのしあがった数年間、敵に取り囲まれたことは幾度となくあった。だが、
これほどひしひしと巨大で危険な何かに包囲されていると感じたことはなかった。しょ
せん相手は武装した人間程度であり、どれだけ凶暴で悪辣であろうと、それは人間の
尺度で測れる程度でしかない。
 いま周りを囲んでいるのは確かに地獄から這い出てきた何か、人間の意図を超越する
悪意と狂気、〈毒蛇〉、〈悪魔〉とみずから呼ばれたユリウスでさえ、確かにこいつら
は闇からやってきた怪物なのだと、有無をいわさず信じさせるなにかがあった。
「──来た」
 それまで口をつぐんでいたアルカードがふいに言った。
「崇光、結界を。イリーナ、ユリウス、構えろ」


 いきなりほとばしった閃光はまばゆく、ユリウスは目を突き刺されたように感じて
思わず目を覆った。
「バカ、しっかり見なさい! 目の前よ!」
 イリーナの高い声が頭上を越えていく。 

141 :煌月の鎮魂歌8 7/29:2016/01/16(土) 18:35:35 

 まばたきをし、くらんだ目を無理に開くと、光は地面に手のひらを叩きつけた姿勢の
まま動かない崇光を中心に、波紋を描いてあたり一帯に広がり、木立の一角を完全に
包み込んでいた。
 ぐにゃぐにゃと木の枝が変形し、幹がきしんでいっせいにこちらに身を傾けてきた。
木肌に裂け目が走り、鮮血のような赤い樹液があふれ出して、油の焼けるような音を
立てて地面を焼いた。節目や樹皮の影に見えていたものが凝集し、逆三日月型につりあが
った巨大な口と、それと向かい合うようにいやらしい笑いを浮かべた両眼に変わった。
「バーディー──スザク!」
 イリーナが叫んだ。
 高く掲げた手から赤い小鳥が飛び立ち、みるみるうちに翼を広げて、燃え輝く炎の
巨鳥の姿を現した。長い尾羽根も翼も胴体も優美な首も飾り羽根のある頭部も、みな
ゆらめく炎で形作られ、その中に黄金の神獣の双眸がひときわ鮮烈に燃えている。
 スザクは金の鐘のような声で高く一声あげると、どっと炎を噴出した。嘴から、など
というかわいらしいものではない、渦巻く全身の炎をそのまま豪炎の滝と変えて周囲の
怪植物どもにぶつけたのだ。
 怪樹どもが断末魔の声をあげて炎に飲み込まれていく。身悶えしながら焼かれていく
その姿からは、木ではなく、確かに肉の焦げる臭いがした。
「ユリウス!」
 まだようやく鞭を手にしたばかりだったユリウスは、魅せられたように見つめていた
怪樹の焼ける姿からはっと意識を引き戻した。眼前に、髑髏の模様を浮かばせた巨大な
翅がばたついた。なにも考えずに鞭を横なぎにすると、一閃でそいつは切り裂かれ、
赤ん坊の泣くような声をあげて落ちた。地面に落ちて暴れ回っているのは、両手を
広げたほどよりもなお大きい、翅に人間の髑髏の文様をはっきりと浮かばせた
妖蛾だった。
「触れるな!」
 嫌悪のあまり足をあげて踏みつぶそうとしたユリウスを、アルカードが鋭い声で
止める。 

142 :煌月の鎮魂歌8 8/29:2016/01/16(土) 18:36:09 

「触れてはいけない。そいつの毒は強烈だ。靴ごしに触れただけでも、今のおまえでは
身体の自由を奪われる」
 言いざま、目にもとまらぬ剣さばきで蛾を切り裂く。巨蛾はあっという間に塵と化し、
地面と同化して見えなくなった。
「アルカード──」
「毒消しを」
 断る間もなく、コートの内側にいくつものアンプルが押し込まれた。
「聖別された水が入っている。もし少しでも違和感を感じたらそれを飲め。おまえはまだ
魔界の毒に対する耐性が育ちきっていない。即死しないのはさすがにベルモンドの血
だが、動きが鈍れば奴らはその隙を逃さない。群が来る」
 声をかける間もなく、アルカードはマントを翻して崇光のほうへ駆け去っていった。
光の輪の中心でじっと動かない崇光の上に覆いかぶさろうとする妖蛾どもを右へ左へと
切り払い、次々と塵に変えていく。
 見ほれている暇はなかった。粉っぽい蛾の毒の鱗粉が霧のようにあたりに立ちこめ、
いまわしい翅のさらさら鳴る音が波のように押し寄せてきた。闇の中でも燐光を放つ
髑髏模様が歯をむき出して嘲笑している。
「クソッタレ!」
 声を限りにユリウスはわめくと、なにも考えずに渡されたアンプルの一本を口で
ちぎって吐きとばし、中身を口に放り込んだ。塩の味と、それとは別に強烈なウォッカ
を水銀で味つけしたような、強烈な刺激がのどを下っていった。そのとたんに、一気に
世界がクリアになった。
 すでに自分が毒の影響を受けかけていたことにその瞬間気づいた。周囲の音のボリュ
ームが最大限に高まり、焼ける怪樹のわめき声が鼓膜を突き刺し、蛾の腥い体液と鼻を
刺す鱗粉の刺激と炭になった肉が蠢きのたうちながらじゅうじゅう焦げていくその痙攣
が見える。 

143 :煌月の鎮魂歌8 9/29:2016/01/16(土) 18:36:45 

 もう一度大声で冒涜的な言葉をわめき、ユリウスは腕をふるった。鞭はまっしぐらに
蛾の群れをつらぬいていき、そこから大きく円を描いてぐるりと全体を包み込むと、
手首のひとひねりでぎゅっと収縮した。輪の中に囲い込まれた怪虫どもは一匹残らず
鞭の輪に締め上げられ、赤ん坊の泣くような声を上げて消失した。わずかな灰がはら
はらと草の上に散った。
「次がくるわよ」
 いつのまにかイリーナがそばにきていた。豪華なドレスの少女は爛々と目を輝かせ、
優美だがきわめて冷徹な殺戮者の顔を見せている。彼女もまた兵器として育てられた
少女なのだとユリウスはふいに気づいた──注意深く混ぜ合わせられた血の果てに、
戦いというたったひとつの目的のために生み出され、育てられてきた娘。真珠のような
白い歯をむきだした金髪の魔女に、ユリウスは突然自分でも思っていなかったほどの
親近感を覚え、あわてて打ち消した。
「トト──ゲンブ!」
 イリーナのポシェットからのっそり首を伸ばした黒い亀は、重さなど持っていないか
のようにふわりと浮き出ると、みるみるうちに空へ上り、巨大に、もっと巨大になった。
 またたきのうちに、森の上に、アメリカ軍が隠していたUFOの母艦と言われれば
信じるようなどでかい楕円形のものが浮かんでいた。
 どこかで見たような気がしてユリウスは首をひねったが、気づいて笑い出しそうに
なった。ジャパンで作られた古い映画だ。暇な午後にバカ笑いしながら見た。亀が巨大
な怪獣になって、襲ってきた別の不細工な怪獣と大戦闘をやらかす。まるでマンガだ、
そうじゃないか?
 だが目の前で起こっているのは映画でもなければマンガでもない。巨大な黒い聖獣は
空中で重々しく四肢を動かすと、象の何百倍あるかわからない脚を四本いっしょに振り
下ろした。ばきばきと地面が隆起し、焼き払われたあとに生えてきた新しい怪樹の腕が
押し寄せてきた岩と土に飲み込まれるように消えた。さらに上空を飛び回っている炎の
聖獣がまんべんなく炎を吐き散らし、まだぴくついているものを容赦なく灰に変えて
いく。 

144 :煌月の鎮魂歌8 10/29:2016/01/16(土) 18:37:23 

 耳の後ろに痛みにも似た本能の警告を感じた。とっさにユリウスはイリーナを抱き
抱え、横っ飛びに飛びすさりざま横ざまに鞭をふるった。
 たった今、少女とユリウスが立っていた場所を、紫色がかった肉の鞭が猛烈な勢いで
すぎていった。狙いをはずしたそいつは大きく弧を描いて向きを変え、真っ正面から
ユリウスに向かってきた。血走った眼球がひとつ、肉の先端にぎょろりと開いてまとも
にユリウスを見た。
 自分が何か叫んでいるのはわかったが、かまっている暇はなかった。逆方向に飛んだ
鞭を引き戻し、迎え撃つにはほんのコンマ秒の隙しかない。
 後ろにはイリーナがいる。喉も裂けんばかりに叫びながら、ユリウスはほとんどなに
も考えずに鞭の柄を引き、柄の反対側の先端を、ほとんど鼻のくっつきそうな距離の
相手の目玉につきたてた。
 顎の数ミリ先でガチンという鋼鉄の罠のかみ合うような音がした。目玉のすぐ下に、
ビラニアの歯を最悪に凶暴にしたような巨大な口が開いていた。目玉の真ん中に鞭の柄
を突き立てられながら、そいつはなおもユリウスの喉を食い破ろうとガチガチと開閉を
繰り返した。
 破れた目玉が酸のような臭いの漿液を垂れ流している。紫色の肉の胴体がうねり、
こちらに向かってくるのに先手を打って、ユリウスは指先で鞭にひねりをくれた。はね
戻ってきた鞭はきりきりと肉の筒のような胴体に巻きつき、次の瞬間、スライスされた
ソーセージのようにばらばらに寸断された。ばらばらと落ちた肉塊はシュウシュウと
湯気を上げ、周囲の草を毒で枯らしながらしぼんでいった。
「おい、くそガキ、無事か」
「それがレディに対して言う言葉?」
 間髪入れずイリーナは言い返してきたが、息が切れている。いかに天才児といえど、
少女の体力で四聖獣のうち二匹までもフルパワーで解放するのはさすがに負担が重い
らしい。ふっくらした頬が青ざめ、きっと噛んだ唇に血の気がない。細い肩が小さく
上下している。 

145 :煌月の鎮魂歌8 11/29:2016/01/16(土) 18:38:45 

「それより、あれはただの一部よ。本体がやってくる。用意はいい?」
「ああ、いくらでも俺がぶっとばしてやるからガキはすっこんでろ」
 イリーナは射殺すような目つきでユリウスをにらんだが、憎まれ口を返す余裕はない
と判断したらしく、前を向いた。「バーディー! トト!」と声を上げ、上空にいる
聖獣二匹を呼び戻す。真紅の小鳥と黒い小さな亀がふっと表れ、少女の肩とポシェット
に収まって、それぞれの言葉でうるさくさえずった。おそらく無理をするなというよう
な意味らしかったが、イリーナはそちらを見もしなかった。
「ニニー──セイリュウ! ティガー──ビャッコ!」
 手首からするりとサファイア色のブレスレットがほどけ、宙に舞った。脚もとで獰猛
な威嚇の声を放っていた白い虎猫が宙をひと跳びし、くるりと一転したかと思うと、
地響きをたてて着地した。
 焼き払われて開いた空き地いっぱいになるほどの白い虎の巨体が、地面に脚の形の
四つの深い亀裂を作った。ユリウスの腕より太い尾がうねり、白銀の体毛が逆立つ。
輝く体毛の下の筋肉は鋼鉄のようだった。聖獣ビャッコは女主人のほうを振り返り、
たいていの人間ならその場で心停止してもおかしくない形相で、すさまじく咆吼した。
 遠くのほうでメリメリと樹が折れる音がする。何者かが森の木を雑草でも分ける
ように踏み分け、こちらへ向かいつつあるのだ。
 ふたたび目がかすみ始めているのに気づいてまた聖水を口にする。魔界の瘴気を吸う
だけでも普通の人間にとっては致命的らしい。この中でそれをまだ必要としているのは
自分だけらしい事実に苛立った。ほんの少女のイリーナさえなんの補助もなくこの場に
立っているのに、自分だけがまだ脆弱な人間の弱みから脱しきれないままなのだ。四聖
獣の護り、ヴァンパイアの血、封術師としての腕──彼らはすでに戦士として完成されて
いる。自分はどうなのだ?
(聖鞭──〈ヴァンパイア・キラー〉があれば、俺も彼らと同じ地点に立てるのか?)
 暗い空が白くなるほどの稲妻が走った。暗黒の空に、自ら放つ冴えた青い光に包まれた
長大な身体がゆったりと舞っている。 

146 :煌月の鎮魂歌8 12/29:2016/01/16(土) 18:39:25 

 東洋の竜──西洋のドラゴンとは違う、それ自体が神である一族だ。長い髭と鹿のそれ
に似た角、黄金と青にきらめく鱗、短い前脚には真珠のように光る宝珠をつかみ、慈愛と
も諦観ともつかぬ金色の目で下界を見下ろしている。
「セイリュウ!」
 イリーナの声とともに、あたりが目もくらむほどの光と轟音に包まれた。
 しばらくはなにも見えず、聞こえなかった。くらんだ目がもどってみると、ゲンブと
スザクに焼き払われた残骸がすべて取り払われ、開いた空間のむこうに、白い人影のよう
なものがぼんやり浮かんでいるのが見えた。
『生意気なお嬢ちゃんだこと』
 毒のきいた蜜のような声が風にのって運ばれてきた。
『目上の者を出迎えるときは、それなりの礼儀を払うものよ』
「あんたなんかに払う礼儀なんてないわ、闇の者」
 イリーナの消耗が激しい。なんとか自分で立とうとしているが、脚を震わせて大きく
肩で息をしている。どうやら今の一撃は相手そのものを狙ったらしいが、すべてそら
されたというわけか。
「どうやってここに入ってきたわけ? 誰もあんたなんか招待してやしないわよ。いずれ
魔王といっしょに滅ぼされるのに、ずいぶんお急ぎね」
『あら、人間と遊ぶのはいつでも大好きよ』
 女は──少なくともその姿をした部分は──毒々しい色に塗られた長い爪を唇にあてて
妖艶に笑った。
『そちらが新しいベルモンドの男? そう。いくら潰しても次から次へと湧いてくる
のね。虫けらだけのことはある』
 ユリウスはイリーナを強引にコートの内側に押し込み、後ろに下がって鞭を握り
しめた。なぎ倒された樹木の中をゆっくりと進んでくるのは、まさに悪夢の生き物
だった。 

147 :煌月の鎮魂歌8 13/29:2016/01/16(土) 18:39:58 

 本体は腐った沼の緑色をしたカメレオンと、ヤモリのあいのこのような生き物だった。
ぬめぬめした粘液を垂らす皮膚と堅い緑色の鱗がでたらめに入り交じり、見ていると目
が回るような極彩色の巨大な目玉が左右別々にきょろきょろと動く。吸盤のある脚は
全部で六本あり、先細りの長い尾は先のほうになって黒光りする甲殻に代わり、鋭く
曲がった毒針がついていた。不吉なタールのような液体が、すでに滴を作っている。
弓なりになったとげだらけの背中には、あの毒蛾どものものをそのまま人間代に拡大
したかのような、蛾の翅が一対突っ立っている。いまわしい髑髏の模様が青い妖光を
放って、せせら笑いを浮かべていた。
 だがさらにおぞましいのは、その舌だった。いや舌、と呼ぶべきなのだろうか。
カメレオンの長い舌の先端は、中ほどで立ち上がって、肉感的な半裸の女の姿になって
いた。女は睫をそよがせ、指をのばしてユリウスにむかってちょっちょっと舌を鳴らして
みせた。これまで感じたこともないほど強烈な嫌悪に襲われて、ユリウスは顔を
そむけた。どんなに唾棄すべき最低の娼婦でも、ここまでユリウスの吐き気を催させた
者はなかった。
 女は美しかったが、それは地獄の美だった。汚らわしい快楽と魂をもてあそぶ堕地獄
のためのものだった。豊かにもりあがった白い乳房に海草のような濡れた黒い髪が
ぬめぬめとまとわりつき、秘密めいた下腹に、裸よりももっと扇情的な透ける黄金の
飾りを巻いているだけのほとんど裸体。そして豊かなふくらはぎから下は化け物
カメレオンの紫色がかったべとべとの肉にとけ込み、見えなくなっている。
『陛下のご復活は近い』
 女──の形をしたもの──は言って、唇をなめた。唇もまた濡れて、たった今血を
舐めたばかりのように毒々しく赤い。
『われらはその露払いとしておまえたちのような虫けらを排除する義務を負っているの。
闇の王国の臣民にして魔王の眷属として。でもそれ以前におまえたちは目障りだわ。人間
などというものはもともと家畜として地上を這い回る猿のくせに増えすぎた。おまえたち
は増長しすぎたのよ。誰かがそれを思い知らせるべきときだわ』 

148 :煌月の鎮魂歌8 14/29:2016/01/16(土) 18:40:37 

「その声は、ムタルマ女伯爵か」
 低い声がして、身構えるユリウスのそばをゆらりと黒いマントが揺れて過ぎた。
なびく銀髪をあとにひいて、剣の柄に手を置いたアルカードがゆっくりと前に進み出る。
瞳はいまだにさえざえとした蒼色を保ち、ユリウスにはそれがまだアルカードが戦う意志
を表に出していないせいか、それとも新月のために魔力を解放するのを邪魔されているた
めか、判断できなかった。
『ああ、公子様、いと貴なる闇のお世継ぎ様』
 ムタルマ女伯爵と呼ばれた魔物はあえぐように言い、懇願のしぐさで白い両腕を前に
差しだした。黒い瞳が情欲めいたものでぬれぬれと光っている。ユリウスはぎょっとして
アルカードの優美な後ろ姿を見つめた。
 公子? 魔王の世継ぎ?
 ドラキュラの、魔王の息子ということか──こいつが?
『なぜそんなところにいらっしゃるのです? なぜ人間などといっしょに? あなた様
こそわたくしどもの先頭に立って、お父君の復活に力を尽くすべきお方ではありません
か。どうぞ剣などお納めになって、父君のもとにお戻りください。いまわたくしが、
あなた様にたかるこの不快な虫けらどもを駆除してごらんにいれますから、どうぞ、
あるべき地位にお戻りになって。闇の臣民たちはみな、この数百年のあいだずっと、
あなた様のお帰りをお待ち申し上げているのでございますよ』
「私に帰るところなどない」
 短く言い切って、アルカードはすらりと剣を引き抜いた。細い刀身が闇の中でそれ自体
白い光を放つように輝線を描く。
「私の望みは魔王ドラキュラの完全なる覆滅、それだけだ。あの男は地上にあっては
ならぬ者だ。私はただそれだけのために存在し、ここに立つ。闇の呼び声に耳など
貸さぬ」
『やはり応じてはいただけぬのですね、高貴なるお方』 

149 :煌月の鎮魂歌8 15/29:2016/01/16(土) 18:41:30 

 求愛をすげなく退けられた乙女のように、ムタルマ女伯爵は悲しげにうつむいた。
細い両手がゆたかな乳房の上で重ねられて震えている。意を決したようにさっと上げた
顔で、蛾の複眼と化した両眼がカットされた巨大なダイヤモンドのようなきらめきを
放った。
『それでは、やはり──そのお命から卑しい人間の血を抜き取り、本来の闇の生命に
目覚めていただくしかなさそうですわね!』
 ユリウスはほとんど本能に突き動かされるように鞭をとばした。鋼鉄を打ったような
手応えがあり、一瞬のうちに頭上数センチのところに迫っていた黒光りするサソリの
尾が、からめとられてはね飛ばされた。鉛色の毒液があらぬ方向へとび、どこかで
じゅっと焼ける音がした。生臭い悪臭に、苦い酸の突き刺すような臭いが入り込んで
きた。
 巨大な六本脚の爬虫類の舌先で、昆虫の目をした女がのけぞって狂笑を放っている。
頭を低くして身構えていたビャッコが、咆吼とともにつっこんでいった。かっと開いた
顎が爬虫類の垂れ下がった喉袋に食らいつき、噛みちぎろうと頭を振る。肉がちぎれ、
ぼたぼたと緑色の血液めいたものが草地を汚して、女と爬虫類の口から同時に、聴くに
耐えない苦悶と怒りの声があがった。
 口をあけた傷口めがけて、ユリウスの鞭が槍のようにつきささる。扱う者が使えば
刃物よりも強力な武器になる鞭は、鼻をさす煙をあげながら緑の血を垂らす傷口を
さらに大きく裂き、そのまま下から打ちあげるように、六本の前脚の一本をなかばから
切りとばした。
 女の口からなにか理解できない叫び声がもれ、両腕がさっと開いた。爬虫類の背中の
翅が大きく広がり、燃える髑髏紋が生き物のようにかっと骨ばかりの顎を開いたかと
思うと、そこからあの巨大な毒蛾の群れが風に跳ばされる吹雪のように吐き出された。
 アルカードの剣が一閃する。ユリウスとイリーナにかぶさろうとした蛾の一団が、
瞬時に塵となって散った。
 青白い稲妻が入り乱れ、青銅の鐘を鳴らすにも似た声が上空から響く。ユリウスは
全身に電光をからみつかせながら、目を怒らせ威嚇するように地上を見据えるセイリュウ
を見た。 

150 :煌月の鎮魂歌8 16/29:2016/01/16(土) 18:42:04 

『美しきお方、尊きお世継ぎ様、これほどまでにお慕い申し上げておりますのに』
 重なり合ってざわつく毒蛾の向こうから、女の怨ずるような声が聞こえる。
『あなた様ほど麗しく高貴なるお方は、魔王そのお方を除いて誰ひとりいはしない──
それなのになぜ、闇の愛をしりぞけ、あなた様を慕う民をお打ち据えになるのです?』
 アルカードはもう応えなかった。蛾を切り払った剣をそのまま舞わせ、あたりに塵と
なった蛾の死骸を散らして突進すると、裸形の女の前に立ち、目にも留まらぬ手さばき
でその乳房の真ん中を貫き、首をはねた。黒髪を散らした頭部はごとりと重い音をたてて
転がり落ち、わずかな緑色の血が糸を引いた。
『ああ、愛しいお方』
 地面に落ちた頭が哀れな声で嘆いた。
『これがあなた様をお慕いする女にお与えになる口づけですの?』
「アルカード、離れて!」
 イリーナの悲鳴のような警告より早く、アルカードは大きく飛び離れて剣をたてて
身を守った。打ち下ろしたユリウスの鞭が鉄枷のようにアルカードをとらえようとした
首なしの女の両腕を寸断し、胴体を大きく切り裂いた。ざらついた、錆びたおびただしい
釘を一斉にこすりあわせるような苦鳴とも怨唆ともつかぬ声が、地の底から響いてきた。
『無礼な虫けらども』
 すでに女のものではないその声は地獄の憤怒を煮えたぎらせていた。
『高貴なお方に与えられる傷ならばまだしも、このわたくし、闇の宮廷にて讃えられる
女伯爵ムタルマに、卑しい猿の分際で刃向かうか。この傷の礼、どれほどにして与えて
くれるか見るがいい』
 ユリウスの目の前で寸断された女体はぐにゃぐにゃと輪郭を崩し、紫色の肉となって
爬虫類の舌と一体化した。目まぐるしく色を変えるカメレオンの巨大な目は狂ったように
蠢き、ひび割れた喇叭のような声をとどろかせた。うねうねとのたくる舌の先がぶくりと
膨れ、人間に似た頭の形を作りだした。まるい頭に蛾の触覚と複眼、ずらりと牙の並んだ
巨大な口をもつ、女とも昆虫ともつかぬ頭部。 

151 :煌月の鎮魂歌8 17/29:2016/01/16(土) 18:42:37 

『この姿を見せたからには、貴様たち、生かしては返さぬ』
 火を吐くように言い捨てると、メキメキと樹木がきしんだ。
 中途で断たれていた前脚から緑の粘液がしたたり、すみやかに新しい脚を作り上げた。
ずしんと地面を踏みならした怪物は、その巨体から考えれば驚異的な早さで木々の間を
すべり抜け、ユリウスたちに這い寄った。押し分けられた樹木が葦のように左右に倒れ、
根こぎにされた株が土をまき散らして次々とはね飛ぶ。鼓膜に釘をつきたてるような狂笑
を放ちながら、昆虫の目をした女の頭がぐるりと回転した。爬虫類の背で髑髏蛾の翅が
逆立ち、震え、文様の髑髏が歯を鳴らして地獄の門を開こうとする。
「禁!」
 澄み渡った声がして、二条の光が翅めがけてとんだ。
 今にも開こうとしていた髑髏のあぎとは白い光を放つ二枚の長方形の符によって閉じ
られ、それ自体苦しみもがくかのように悶えたかと思うと、吐き出してきた毒蛾どもと
同じく塵になって四散した。
「遅れて申し訳ありません。結界を安定させるのに手間取りました」
 白馬崇光が青白い顔をして立っていた。髪は乱れ、血の気のない唇を強く引き締めて
いるが、胸の前にトランプのカードのように何枚も広げた呪符は小揺るぎもしない。
「まさかこれほどの大物が侵入しているとはね。屋敷に帰ったら、それこそ結界班を
総動員して全結界の再チェックと強化をしなければ」
 翅を失った爬虫類が咆吼し、女の頭部が異界の言語であろう耳障りな言葉で狂ったよう
に叫んだ。両方の鼓膜に錆びた釘をつっこまれたようだ。ユリウスは目の前に黒い点が
飛び交うのをこらえて、聖水のアンプルを口に含んで飲み下した。これで三本。
 あと四本。
 地獄のトカゲが身をうねらせて突進する。ユリウスは身をひねり、頭部をねらうと
見せかけて皮のたるんだ腹部を狙って鞭をとばした。剃刀のような鞭先が正確に急所を
直撃し、怪物はその場で立ち止まって頭を振り立てて足踏みした。地面が揺れる。まるで
地震のような揺れにふらついたとたん、「トト!」と叫ぶイリーナの声がした。 

152 :煌月の鎮魂歌8 18/29:2016/01/16(土) 18:43:11 

 たちまち地震は静まり、代わりに獣の眼前に轟音をたてて岩と土の衝立がせり上がる。
ポシェットから首を出している黒い亀を片手で押さえて、イリーナは肩で息をしていた。
「イリーナ、無理をしてはいけません。あなたは体力が──」
「ここでこいつを止められなかったら体力なんて意味ないわ。バーディー! ニニー! 
ティガー!」
 肩をつかもうとした崇光を乱暴に振り払い、かすれた声をイリーナは振り絞った。岩を
踏み砕き、土を突き崩して怪物の醜怪な頭が迫ってくる。
 無我夢中でユリウスは動いた。頭上で竜がとどろく雷鳴とともに稲妻を降らせ、白い
巨虎が爪と牙をむき出しにして隣を走る。
 闇を裂いて烈しい炎が筋を引き、目まぐるしく色を変えるカメレオンの片目を
焦がした。電光のまといついたユリウスの鞭がその傷をえぐり、虎の牙と爪が生き物で
あれば脳髄に達するほどに深々と突き刺さる。
 黒いマントが翻り、月光の髪が頭上をこえていった。片目を潰されてもがく怪物の鱗
におおわれた首に剣がひらめき、直線を描いた。前進しようとする怪物の身体が一瞬
ずるりとずれ、醜怪な頭部とのたうつ紫の舌が地面に転がり落ちた。
『お恨みいたしますわ、公子様──』
 ひくつく舌の先で女の頭が嘲笑のようにささやいたかと思うと、いきなり舌だけが蛇
のように伸び上がった。
 溶けて消えていくトカゲの頭をあとに残して襲いかかる。ゆく先はアルカードだった。
蛾の女の頭は多面体のガラスめいた複眼に情欲の緋色を走らせ、牙だらけの口を悪夢の
ような微笑にゆがめていた。
 アルカードは真っ向からひと太刀で真二つに切り払ったが、切られて左右に分かれた
怪物は、そのまま二つのまったく同じ頭になり、あっという間にアルカードの全身を
からめとった。
「アルカード!」イリーナが悲鳴をあげ、崇光が低い罵りめいた言葉を呟く。アルカード
はもがいたが紫色の肉の蛇はゆるまず、剣をにぎった腕は身体の横に縛りつけられて
動かせない。じりじりと脚が地面を離れ、アルカードの身体は宙に浮いた。 

153 :煌月の鎮魂歌8 19/29:2016/01/16(土) 18:43:44 

 ユリウスはがむしゃらに鞭を打ち振るったが、魔界の生命力を結集した肉の蛇はびく
ともしなかった。女怪の頭は二つの驕笑をあわせて、アルカードの頬にすり寄る。
『これほどお慕いしておりますのに、なんとつれないお方でしょう』
『ああでも、やはりお愛しい。美しいお方、尊い魔王のお世継ぎ』
『憎いのはその人間の血、汚らわしくも温かい、甘美な血』
『さあ、その血を流し出し、わたくしと愛の抱擁を』
『麗しき、闇の若君よ──』
 女の口が開き、さらに開いた。おぞましい大アナコンダの口のように顎骨がはずれ、
膜が広がってずらりと並んだ牙が見えた。
 そこから濃い血色をした蛭のようなものがのたくり出てきた。懸命に顔をそむけ、
身をもぎはなそうとするアルカードの白い首筋にいやらしい蛭が迫っていく。蛭の先端
には円形の口が開き、口しかなかった。ある朱の吸血鰻のように円形にずらりと並んだ
棘が蠢き、獲物の肌を裂いて流れ出る血を吸い尽くそうとしている。
「アルカード!」
 イリーナが笛のような悲鳴をあげている。それとも怒号なのだろうか。目のはしに
ちらりと見えた少女の顔は涙にぬれて蒼白だった。天上からひらめく青い稲妻が幾条も
地面を打ち、炎の筋が乱れ飛ぶ。巨虎が牙をむきだして飛びかかり、のたくりながら
這いずってきた頭のない爬虫類の身体にはじき返される。首をなくしても身体は身体
のみの生命を保っているかのように動き続け、盛り上がる岩を踏みつぶし、稲妻に
巻かれても耐え、炎に鱗を焦がされても止まろうとしない。
「禁! 正! 抑! 停! ……」
 崇光が続けざまに札を放つが、やはり封術師である彼の術では怪物の進行を止める
ことしかできない。ユリウスはちぎれるように痛む筋肉にかまわず打撃をとばしたが、
それもまた、爬虫類の身体にはばまれてアルカードには届かない。
 おぞましい蛭の口がアルカードの喉に触れる。
 ユリウスは自分が何か叫んだと思った。 

154 :煌月の鎮魂歌8 20/29:2016/01/16(土) 18:44:36 

 思っただけで、声にはなっていなかったかもしれない。一瞬あたりの音が消え、稲光
や炎のすさまじい乱舞も消え、手の中にある鞭の感触だけが鋭利な剃刀のように感じ
られた。
 そしてアルカード。
 けがらわしい女妖に抱きすくめられてがっくりと仰のいた、アルカードの白い横顔。
 懐に固いものがある。聖水の入ったアンプル。
 ほとんどなにも考えず、ユリウスは残った四本のアンプルをまとめてつかみ出し、
力をこめた。ガラスのアンプルは拳の中で砕け、破片が深々と手のひらに食い込む。
血と聖水の混じったうす赤い液体が流れ、たらたらと鞭の柄に、身に滴った。
 急速に世界に音が戻ってきた。ようやくユリウスは自分の発している咆吼を聴くこと
ができた。嵐のように打つ心臓も、ぎりぎりときしむ骨も筋肉も、すべてが限界まで
引き絞られる。
 聖水とベルモンドの血に濡れた鞭が、聖者の大剣のようにまっすぐに振りおろされた。
 首のないカメレオンの身体はあっさりと二つに裂けた。蠍の尾がひきつり、割れた切断
面にぞっとするような内臓と漿液のつまった袋が見えたが、それもたちまち塵となり、
あっけなく崩れて形をなくしていく。
 妖女の顔が引きつった。アルカードの喉にへばりつきかけていた蛭めいた舌は垂れ下
がり、死んだ蚯蚓のように垂れ下がった。おぞましい抱擁がとけ、アルカードは地面に
転がって倒れた。
『おのれ……ベルモンドの男……またしても──』
 しゃべった妖女の口から、ちぎれて落ちた蛭の舌が灰になって散った。
『呪わしきはベルモンド……だが魔王様のご復活は必ず……必ず──』
 ひとつの頭が内破するように潰れ、もう一つもあとを追った。腐った肉の悪臭が瞬間
あたりに漂い、夜風に吹き散らされた。わずかに紫色の塵が執念のようにアルカードに
まつわりつこうとしたが、すぐにそれも崇光の鋭い気合いひとつに吹き払われた。
 ユリウスは凝固したように立ちつくしていた。たった今、全身を駆け抜けた蒼白い炎、
これまで経験したどのようなエクスタシーよりも強烈なパワーの渦に文字通り金縛りに
なっていた。 

155 :煌月の鎮魂歌8 21/29:2016/01/16(土) 18:45:17 

 それはユリウスの精神と肉体を内面から焼き尽くし、何かまったく新しいものに生まれ
変わらせたかのようだった。まったく新しくなった視覚で、ユリウスは周囲を見回した。
 闇が透明なガラスのようだった。それまで沼の底も同じだった闇は清澄に澄みわたり、
あらゆるものがはっきりと感じられた。視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚が、これまでの
レベルではなく強烈に冴え返っていた。傷ついた手から血がこぼれ、熱湯に漬けたような
痛みが肘のあたりまで上ってきていたが、夜という言葉、闇というものに抱いていたもの
が一気に塗り替えられた衝撃に、海を初めて見た少年のようにユリウスは新たな闇の世界
に吸い込まれるように見入った。
「アルカード!」
 イリーナがわっと泣き出した。ユリウスは殴られたようにふらついて我に返り、
アルカードを振り向いた。
 金の籠柄の細剣が草の上に転がっている。うつ伏せになったアルカードはぴくりとも
せず、こちらになかば向いた顔はぞっとするほど色がなかった。
 年相応の、身も世もない泣き方で泣きじゃくりながら、イリーナが動かないアルカード
に駆け寄る。竜も白い虎も消え、サファイア色の光がまっしぐらに降りてきて、少女の
手首に巻きついた。白い虎猫と赤い小鳥が、あわてたように鳴き騒ぎながら少女の周囲を
飛び回っている。
「アルカード、しっかりして、アルカード!」
 銀髪の青年にすがりついているのはいつもの女王然とした態度などかなぐり捨てた、
幼いひとりの少女だった。青ざめた顔をのけぞらせているアルカードのマントを握り
しめて、懸命に息を計ろうとしている。
 ユリウスはよろめくように近づいた。急ぎ足に寄ってきた崇光がかたわらに膝を
ついて、傷の様子を調べている。抱き起こすと、むきだしになった喉に、円形に針を
刺したようにぷつぷつと穴があいて血がにじみ出していた。あの妖女に吸いつかれ
かけたあとだろう。
「泣かないで、イリーナ、心配ありませんから」 

156 :煌月の鎮魂歌8 22/29:2016/01/16(土) 18:45:58 

 しゃくりあげる少女の背中をさすりながら、なだめるように崇光が言い聞かせていた。
「毒は残っていないようですし、ただ気を失っているだけです。やはり新月にアルカード
を戦わせるべきではありませんでしたね。どうやら相手は、魔王復活の前にあわよくば
彼を我々から奪い取るつもりだったらしい。確かにそれをやられれば致命的だ」
「なにやってるの、ユリウス、早くこっちへ来て!」
 泣いていたイリーナがきっと顔を上げ、ユリウスのコートの袖を乱暴につかんで
ひっぱった。たたらを踏んでユリウスは膝をついた。まだ先ほどの力の噴出にくらくら
して頭がうまく働かない。
 地面に寝かされたアルカードの顔はいつもにも増して白い。妖女のいまわしい口づけ
の痕から細く血が流れている。
「アルカードに血をあげて、早く! 新月で彼は弱ってる、でもベルモンドの血なら、
誰よりも強力なベルモンドの血なら──」
「待ちなさい、イリーナ!」
 かがみ込んでいた崇光がはっとしたように手を伸ばした。
 だがすでにユリウスは、涙声のイリーナに引っぱられる形でアルカードの唇の上に
手を差しだしていた。
 アンプルの破片がいくつも食い込んだ手のひらから、血が筋をひいて流れ落ちる。
 濃い真紅の血がひとすじ、色を失ったアルカードの唇に流れこんだ。
 アルカードは意識のないままかすかに唇を動かし、血を含んだ。流れる鮮血が、
アルカードと自分を真紅の糸のようにつないだ。
 唇がわずかに動いた。
 アルカードはばね仕掛けのように跳ね上がった。
 突き出された腕が避ける間もなくまともにユリウスの胸にぶつかった。ユリウスは
たわいなく後ろに倒れた。尻をついたまま、ユリウスはくらむ視界にアルカードを
とらえた。
 こわばった頬が震えていた。かすかに血の残った唇がわななき、たった一つの言葉
を呟いた。 

157 :煌月の鎮魂歌8 23/29:2016/01/16(土) 18:46:57 

「嫌だ」
 見開いたままの瞳からつっと涙がこぼれた。赤い涙、血の涙だった。
 ユリウスはそれを、たった今自分が口に垂らし入れた血そのものと感じた。ユリウスの
血を体内にとどめておくことが耐えられないとでもいうように、涙は白い頬を伝って
地面に滴った。
「嫌だ」
 もう一度呟くと、アルカードは力なく目を閉じ、かたわらの崇光の腕にぐったりと寄り
かかった。
「ど、どうしたの、アルカード」
 予想外の反応に、イリーナが泣きやんでおろおろとスカートを揉み絞っている。
「あたし、あたし何か悪いことしたの、何かいけないこと──」
「いえ、大丈夫ですよ、イリーナ。あなたは悪くない」
 ため息まじりに崇光は言い、意識のないアルカードの目尻をぬぐって赤い涙を拭くと、
唇を開かせて、その上に指を持っていった。
 親指と人差し指を絞るようにあわせると、その間から一滴の血が絞り出され、アルカー
ドの唇に消えた。アルカードは苦しげに眉根をよせて頭を振ったが、やがて、小さく喉を
鳴らして血を飲み込んだ。
「これでしばらくは大丈夫でしょう」
 アルカードを人形のように抱え上げて崇光は立ち上がった。
「本家に式を飛ばしました。まもなく迎えが来るはずです。戻ったらすぐに、本格的な
処置をしなければ。あなたもですよ、ユリウス」
 見返った目にはどんな表情も読みとれなかった。
「その手はかなりひどい。瘴気の毒がまだ残っているかもしれません。浄化と治癒の処置
を、できるだけ早く。僕たちは、あなたまでも失うわけにはいかないのですから」
「──あいつは誰だ」
 まだ呆然としたまま、ユリウスは呟いた。
 真紅の血の糸がアルカードと彼をつないだ瞬間、心にひらめいた映像があった。 

158 :煌月の鎮魂歌8 24/29:2016/01/16(土) 18:47:31 

 一本の蝋燭に照らされた、石造りの部屋。昔風のベッド。乱れたシーツと、その上に
横たわって目を閉じる、日に灼けた肌のたくましい男。
 男らしく整った顔は静かで、誰かをたって今まで抱いていたかのように右腕を広げ、
濃い褐色の髪は奔放に乱れている。閉じた左目の上には縦に長く傷跡が走っている。何か
楽しい夢でも見ているのか、厚めの唇が幸福そうに微笑んでいる。筋肉の張った首筋に
二つの小さな針で刺したような傷があり、うっすらと血がにじんでいる。
 そしてそのかたわらに、アルカードがいる。
 黒衣のマントを後ろに引いて、何かに祈るようにひざまずき、シーツの上に両手を
組んで、食い入るように男を見つめている。きつく組み合わされた手の中に、何か光る
ものがある。金鎖のついた、ごつい印章指輪。明らかに、彼の細い指には大きすぎる、
金の指輪。
 赤い涙がすべり落ちてシーツに染みを作る。散ったばかりの赤い薔薇の花びらのように。
 声もたてずにアルカードは泣いている。眠る男を起こすことを恐れるように、ひっそり
と、音もなく。内心に荒れ狂う苦痛も悲嘆も孤独も、その身を千にも引き裂かれるほうが
はるかにましであろう、悲しみのすべてを飲み込んで。
 ほんの瞬きの半分ほどの幻視だったにもかかわらず、ユリウスにはそれが過去に現実に
あったことだとわかっていた。誰だ、と口にはしたものの、その男が誰なのかもすでに
理解していた。
「あいつは──俺、は……」
「あなたには関わりのないことです」
 崇光の声は変わらず平坦だった。
「さあ、早く。イリーナももう限界に近い。早く屋敷に戻らなければ、ここで第二陣に
でも襲われたら、抵抗もできないまま潰されますよ」 

159 :煌月の鎮魂歌8 25/29:2016/01/16(土) 18:48:07 

              4

 十分とたたずに迎えがきた。車を先導していた金色に光る紙人形をとらえてふところに
しまうと、崇光はユリウスたちをせきたてて車に乗せた。来るときあれだけ走ったのに
迎えが来るのは十分とはわけがわからなかったが、おそらくこれも崇光の言う『経路』
のひとつなのだろう。
 座席に収まるとイリーナはすぐに眠ってしまった。人事不省の深い眠りで、四匹の
おともも少女に身をすり寄せて眠り込んでいる。さすがにこの戦いは幼い少女には酷
だったようだ。
 ユリウスの手足も鉛を詰めたように重い。ともすれば降りてこようとする瞼と必死に
戦いながら、それでもユリウスはリアシートに寝かされて崇光の処置を受けている
アルカードから目を離さなかった。
 崇光もまた疲労の色が濃く、目の下にくっきりと隈を浮かせていたが、アルカードの
上を動く手は遅滞なかった。小さく呪を呟きながら指をそろえて印を切り、人型に切った
紙で魔物に受けた傷をたどる。いつもなら目に留まるほどの時間もあけずにふさがって
しまう程度の傷はいつまでもじくじくと血をにじませていたが、やがて人形が黒ずんだ
血の色に変わり、車がベルモンド家の車止めに停車するころには、ようやく小さな赤い
痕が残るばかりになっていた。夜はすでに開けかけており、わずかな暁光が屋敷の石造り
の屋根にさしそめていた。
「治療者と、念のために祓魔術の処置を」
 まだ意識のないアルカードを座席から抱き下ろし、運転手に命じてイリーナもつづけて
降ろさせながら、崇光はそれだけ言った。
「アルカードは僕がこのまま診ます。イリーナは部屋へ運んで、眠らせてやって
ください。ユリウス、君はその手の治療を。かなり深く切っているはずだ。瘴気の
毒の対策も受けておきなさい」
 言い争うにはユリウスは疲れすぎていた。アルカードは透き通りそうに白い顔のまま、
どこか苦しげに眉をよせて崇光の胸に頭をもたせている。手がふいに、思い出したように
うずき始めた。 

160 :煌月の鎮魂歌8 26/29:2016/01/16(土) 18:48:43 

 無表情な医師と、続いてやってきた顔も知らない能力者の処置を受ける間、ユリウスは
彼にしてはありえないほど静かだった。だが心の中では嵐が吹き荒れていた。処置が
終わって解放され、自室のベッドに身を投げ出したとたん、脳裏にあの蝋燭に照らされた
部屋の光景がぐるぐるとめぐり始めた。
 自分が眠っているのか起きているのかわからなかった。悪夢のような迷宮を、ユリウス
はどこまでもさまよった。何度もあの光景が、古風なベッドに眠る男とそのそばに身を
寄せるアルカードが、その目から流れ落ちる血の涙が、あらわれてユリウスを苦しめた。
 どれほどそこに近づこうとしても、いくらあがいても、小さなその光はますます遠く、
いつまでも手の届かない場所にあって、ユリウスの侵入を拒否していた。
 いや、拒否ならばまだよかった。最初から彼らにとって、ユリウスなど存在しても
いなかった。彼らはただ彼らだけの小さな世界に住んでおり、それ以外の人間など
はじめから居はしないのだ。
 そこはあまりにも完璧で、完璧すぎたが故に壊されたのだ。エデンの園がいつまでも
楽園ではいられなかったように、最高位の天使と讃えられたルシフェルが天から墜ちて
悪魔と呼ばれたように、完璧にすぎるものはいつか崩れ去ることによってその完璧さを
完成させるのだ。
 自分がアルカードにした仕打ちも現れたが、それは影よりも薄く、すぐに雪の一片の
ように溶けて消え去っていった。どんなに惨い仕打ちも、淫らな言葉も、屈辱も苦痛も、
すべてあの美しい月にとっては別世界の出来事にすぎなかった。彼が住んでいた、そして
今も住んでいるのはあの男と二人だけの世界、蝋燭に照らされた小さな箱庭の中。
 たとえユリウスがあの胸を裂き、ナイフで心臓をえぐり出したとしても、淡々と彼は
それを受け入れただろう。彼の心臓はそこにはないのだから。アルカードの心臓はいま
もあの男のそばにあって、終わりのない苦痛と悲傷に血の涙を流しつづけているのだ。
 ラルフ・C・ベルモンド。
 最初にアルカードと出会い、その身と魂に深い絆と消えない傷を刻み込んだ男。 

161 :煌月の鎮魂歌8 27/29:2016/01/16(土) 18:49:18 

 なかば夢見、なかば目覚めながら、ユリウスはベッドの上でのたうち、呪いの言葉を
吐いた。目覚めたばかりのベルモンド家の力が体の中で言うことをきかない獣のように
暴れ回っていた。あの男の中にも宿り、血を通じて連綿とユリウスまで受け継がれて
きた、退魔の力が。
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
 幾度かそんな言葉を吐いた。どんな時だったかもう覚えていない。裸体に剥かれた
アルカードを、かんしゃくを起こした子供のようにもみくちゃにして犯しながら叫んだ
気がする。
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に
流れてるベルモンドの血だけなんだ、この雌犬が』
 その通りであることを、まざまざと目の前につきつけられた思いだった。アルカード
が取り乱したのはたった一度だけ、あの指輪を、あの男の形見であるあの印章指輪を
奪われた時だけだった。今となってはその理由もわかる。彼にとってはあれは、心臓
の一部をむしりとられるに等しい行為だったのだ。なぜ彼が黙って指輪を手放したのか
信じられない。取り戻そうとすらしないことも。ちぎりとられた傷口は、見えない血の
涙を流していまこの時も泣き続けているのだろうに。
 ──汗まみれになり、胸を大きく上下させながらユリウスは天井を見上げて横たわって
いた。
 いつのまにかまた日が暮れていた。窓の鎧戸はおろされて、ベッドサイドのランプだけ
がぼんやりと灯っていた。
 シーツは汗で冷たく、力に煽られた身体は炙るように熱い。ランプの橙色の光があの
静かな小さい世界を照らす蝋燭を思い起こさせ、目を腕で覆って顔をそむけた。
 手に巻いた包帯が自然にほどけて落ちた。傷はきれいに癒え、何のあとも残っていない。
 喉がひりついた。枕もとに用意されていた水差しの中身をひと息に飲み干し、溺れる
もののようにあえいだ。一日以上なにも口にしていないはずだったが、空腹は感じ
なかった。体内を荒れ狂うベルモンドの血、あの男から受け継いだ呪わしい力が、飢え
を感じなくさせていた。 

162 :煌月の鎮魂歌8 28/29:2016/01/16(土) 18:49:54 

 くしゃくしゃになったシーツを押しやり、身を起こす。サイドテーブルの引き出しを
あけて、中をさぐった。鎖のついた重い金属に指が触れる。つまんで、引き出した。
すり減って傷だらけの古びた金の指輪が、なにかの死骸のように重く手の上に転がった。
 橙色のランプの光がその表面に揺れた。一瞬、頭の奥でこぼれる赤い涙と眠る男の姿
がフラッシュした。衝動的に立ち上がり、窓を開けると、外の真っ暗な夜に向かって、
指輪を投げつけようとした。
 だが、できなかった。片手を振りあげた姿勢のままユリウスはしばらく硬直し、身を
震わせていたが、やがて疲れ果ててベッドに崩れるように腰を落とした。開いた窓から
夜の風と気配が流れ込んでくる。
「……嫌だ」
 ユリウスは呟いた。それはアルカードが彼に向かって呟いたものと同じだった。嫌だ。
嫌。絶対的な拒否の言葉。いまだかつてアルカードが口にしたことのなかった言葉。
「嫌だ。放してなんてやるもんか。絶対に放しゃしない。あいつは俺のものだ。俺の
ものなんだ。何百年も前に死んだ男のものなんかじゃない。あいつは俺のだ。俺の、
ものなんだ……」
 握りしめた拳に力をこめる。赤い髪が垂れ、血の出るほどに唇をかみしめるユリウス
の若い顔を隠した。わななく手の中で、金の古い指輪が人肌に温められ、ゆっくりと
ぬくもっていった。 

163 :煌月の鎮魂歌8 29/29:2016/01/16(土) 18:50:52 




 ──森の奥で、小さく蠢くものがあった。
 芝草の影から、それはほとんど闇にとけ込む昏い色の翅で舞い上がった。小指の爪を
あわせたほどの、小さな小さな黒い蝶。
 蝶はよろめくように木々のあいだを抜け、ときおり地面に落ちそうになりながらも、
まっしぐらにある場所をめがけた。
 ベルモンド家の屋敷は、静かな夜の中に堅固な城として建っている。蝶は風にまぎれる
ようにその中へと吸い込まれていった。
 人目に止まらぬ影をくぐり、闇を抜け、明かりの届かぬ片隅を抜けて、蝶はついに
ひとりの婦人にたどりついた。旧式な形に結い上げた白髪の髷の中に吸い込まれる
ように潜り込む。
「……そう」
 やがて、婦人は独り言のように言った。
「あの男はベルモンドの力に目覚めたの。なんとおぞましい。計画を進めなくては
ならないわ。ラファエル様のために。ラファエル様のために」
 彼女は立ち上がり、軽く髪を直すと、黒いドレスの裾を鳴らしながら茶器を片づけ
始めた。そばのベッドに眠る金髪の少年をちらりと見やる。車椅子は隅に片づけられ、
大きな枕の上には眠りに落ちる直前まで読んでいた、騎士物語の書物が開いたままになっていた。
 茶色く灼けたページには、薔薇の絡む塔に閉じこめられた乙女と、そこへ向かって
馬を走らせる、凛々しい騎士の木版画があった。
 ボウルガード夫人は書物を取り上げ、書棚の所定の位置にきちんと片づけた。
 少年の寝息を確かめ、肩にかかった毛布をかけ直す。灰色の目は常と変わらず、沈着に
澄み切り、ほぼなんの感情も浮かべてはいなかった。