煌月の鎮魂歌9前半  

 

 

164: 煌月の鎮魂歌9 1/22 2016/06/18() 06:00:09 

 Ⅳ  1999年 五月

            1

 ユリウスはゆっくりと階段を下りていった。
 先に立っている崇光のひょろりとした背中が一定のリズムで左右に傾く。地下へと
下ってゆく螺旋階段は際限もなく感じられ、足の下に長年の行き来によって踏みけず
られた段はわずかに中央部がくぼんでいる。壁のところどころには弱々しいライトが
灯っていたが、おそらくは、それらは以前は古めかしい松明にすぎなかったのだろう。
湿った冷たい石壁にはいまも積み重ねられた月日の垢のように黒く煤がこびりつき、
文明などというよわよわしい代物が投げるうすっぺらな光を嘲笑するかに思える。
 ベルモンド家の最奥、多くの守護者と使用人たち、そして誰よりも、家長である
ラファエル少年に守られた聖所。
 自らをベルモンド家の人間とは考えたくないユリウスではあったが、そこへ足を踏み
入れるための資格、ヴァンパイア・ハンターとしてのベルモンド家の血をその身に継い
でいることは、どれほどラファエルが怒ろうと否定しようのない事実だった。
「だめだ」
 少年は言い張った。興奮するあまり血の気のない頬はほてり、車椅子にかけられた膝
掛けがずり落ちそうになっている。
「アルカードがあんなに傷ついたのはお前のせいなんだ。お前みたいな素人を連れて
いったから、あんなに彼が傷つかなければならなかった。彼に会う資格なんてお前には
ない。僕はお前をベルモンドだなんて認めない。聖所の扉はお前のためになんか開か
ないぞ、ならず者め。とっとと出て行って、自分に似合ったネズミ穴に帰ってしまえ」

165: 煌月の鎮魂歌9 2/22 2016/06/18() 06:01:26 

 地下へと続く両開きの大扉の前に、異母兄弟はまるで不倶戴天の敵のように向かい
合っていた。少なくとも、ラファエルの方はそうだった。少年はいま、半吸血鬼の公子
が地下のもっとも魔力の強い場所で眠りについていることについての全責任を、ユリウス
にかぶせるつもりでいるようだった。この少年にとってかの銀髪の麗人以上に大切な人間
などこの世に存在しないのであり、それに対して、突然現れた異腹の兄──兄とは断固と
して認める気がなくとも──は、あくまで自分から聖鞭と、何よりも公子を奪い、蹂躙
した許すべからざる敵にほかならなかった。
「帰ってもいいが、それじゃあんたたちが困るんじゃないのかい」
 自分でも思っていなかったほどおだやかな声が出た。ラファエルは言葉につまり、のど
の奥で唸ってますます頬に血の色を上らせた。そばに控えたボウルガード夫人が身を屈め
て膝掛けをとりあげ、丁寧な手つきで幼い主人の膝にかけなおした。
「俺だってここに喜んで連れてこられたわけじゃないのを忘れるなよ。俺がいなくなった
ら例の鞭を使う人間がいなくなる、そうだろう? だったらあんたがいくら吠えたところ
で俺の要求は通さざるを得ないわけさ。それに俺はなにも悪いことをしようとしてるん
じゃない。あんたが言うように、アルカードが傷ついたのが俺の責任だっていうのなら、
見舞いのひとつもしに行くのが筋ってもんだろう。これでも心配してるんだぜ、なんたっ
て、あいつは俺の可愛い雌犬だからな」
 最後の一言は残酷な意図を持ってつけ加えられた。その意図は当たった。少年は真っ赤
になり、それから紙のように蒼白になった。
「お前が」
 怒りのあまり、少年の両手は車椅子の肘掛けの上で筋張った骨の形をくっきり浮かせて
震えていた。
「お前が、お前なんかが、そんな口を、彼に──」
「ラファエル」
 落ち着いた声が割って入ったのはその時だった。白馬崇光が、誰にも気づかれないうち
に影のように滑り込んできていたのだった。
「彼を聖所へ連れて行きます」

166: 煌月の鎮魂歌9 3/22 2016/06/18() 06:02:03 

「崇光!」
 ラファエルは叫んだ。
「僕は許さないぞ、そんなことは断じて」
「彼がこの扉をくぐる資格を有していることは確かです」
 周囲でどちらの味方にもつけず、おろおろしていた使用人たちの腕をするりとくぐり抜
けて、崇光はユリウスの隣に立った。
「彼に、ベルモンド家にとってアルカードがどのような存在であるか、知らせておくのも
この際必要なことでしょう。累代のベルモンドたちが彼をどのような思いで見守ってきた
のか、彼に負わされた運命がどれほど重いものか、ベルモンド家の者として、彼とともに
魔王を封印し、すべての運命から彼を解放することがどれほど大切なことか」
 ユリウスはじろりと頭一つ低い日本人青年を見下ろした。
 長髪を後ろでひとつにまとめ、丸い眼鏡をかけた青年神官の表情は、いつも通り読みづ
らかった。暗い照明がレンズに反射し、その奥の目の色をさらに読みづらくしていた。
「それに、忘れないでください、ラファエル。彼が言ったとおり、彼以外に〈ヴァンパイ
ア・キラー〉の使い手たる人間はいないのです。あなたにとってはどうしようもなく辛い
事実でしょうが、認めるほかありません。そして今のところ彼は、それなりの実力をもっ
ていることを証している」
 眼鏡がわずかに傾き、切れ長の目が一瞬するどい一瞥をユリウスに投げた。ユリウスが
負けずににらみ返すと、青年は何事もなかったようにまたラファエルの方をむいた。
「先日の敵の侵入は、僕にも予想外でした。あれほどの高位の妖魔が襲撃してくること
も。素質の足りないものであれば、あの夜に一瞬にして死んでいておかしくないのです。
しかし彼は生き延び、怪我もなく、この場に自分の足で立っている」
「アルカードを犠牲にしてだ」
 叫ぶようにラファエルは言った。
「そいつをかばったために、アルカードはまだ眠り続けて目覚めないんじゃないか。もう
あそこに入ってから十日近くたつのに、そいつが無能だから、だから」

167: 煌月の鎮魂歌9 4/22 2016/06/18() 06:02:37 

「あなたがそう思いたいのと、現実とは同じではないのですよ、ラファエル」
 なだめるように崇光は言った。
「現実の彼は無能にはほど遠い。僕はこの目でそれを確認しました。アルカードもそうと
認めたからこそ、彼を鞭の保持者候補として選定しているのです。彼を見つけ、使い手と
して連れてきたのは他ならぬアルカードであることを忘れないでください。彼は単に
ベルモンドの血が入っているからというだけの理由で、余所で好き勝手に生きていた
ギャングのボスをここに引っ張り込んでくるような考えなしではありません」
 あるいは崇光はユリウスをも怒らせるつもりだったのかもしれないが、そのような
言われ方はこの屋敷に連れてこられてから、ユリウスにとっては聞き飽きすぎてそよ風
ほどの効果ももたらさなかった。
「それで、結局どうなんだ?」
 わざとらしくあくびをかみ殺して、ユリウスは腕を組んで退屈そうなポーズをとって
みせた。
「いつまでもここのドアマットの上でキャンキャン吠えあってなけりゃいけないのか? 
面会謝絶ってならそう看板を出しといてもらいたいもんだ。それだって、まともな病院
なら身内の人間くらいは入れてくれそうなもんだが。ま、あんたたちとしちゃ俺のこと
なんぞ身内と認めたかないのは承知してるがね、こっちはこっちで、権利ってやつがある
なら最大限使わしてもらう主義なんだよ。ひょっとして、ここで鞭の腕前を披露して、
その大仰な扉をぶち破ってみせなきゃいけないのかね?」
「そんなことをしてみろ、僕がこの手で──」
「もうおやめなさい、ラファエル」
 静かな、だが有無をいわさぬ口調で崇光がさえぎった。

168: 煌月の鎮魂歌9 5/22 2016/06/18() 06:03:10 

「彼は資格を有しています。であれば、いかにあなたがベルモンド家の当主であろうと、
この場では鞭の使い手の──鞭に認められるまではあくまで候補であるとはいえ──彼の
意向が優先されます。ボウルガード夫人」
 ボウルガード夫人は黙って一礼し、抗議するラファエルの車椅子を押して、扉の脇へと
退かせた。使用人一同も、ざわざわと押し合いながらいっしょになって後ろへ下がる。
「やめろ! 行かせないぞ、僕は──」
 車椅子から落ちそうなほど身悶えし、ままにならない体を必死によじりながら、ラファ
エルは悲鳴のような声をあげて金髪を振り立てた。
「貴様、アルカードにこの上何かしてみろ、僕は、僕がきっと」
「彼はアルカードになにもしませんよ、ラファエル。そうですね? ユリウス」
 またちらりと向けられた一瞥には、底知れない冷たい光と力が宿っていた。ユリウスは
ただ肩をすくめるだけにとどめた。
「また僕が同行するかぎり、そんなことは誰にもできませんし、させはしません。聞き
わけなさい、ラファエル。あなたはそんな愚かな人ではなかったはずですよ」
 ラファエルは頭が膝につくほど身を折り曲げ、低い呻き声を漏らした。
 かすかにきらめいたのはこぼれ落ちた涙の粒のようだった。ボウルガード夫人は脇の
使用人から受け取った上着をラファエルの背中に着せかけ、少年の震える細い身体が
すっかり覆われるようにきちんと整えた。
 もうそれ以上頓着することはせず、崇光はユリウスの先に立って、鉄と青銅で護られた
大扉の前に進んだ。
「ではユリウス、これからあなたをベルモンド家のもっとも聖なる場所に案内します。
ここはベルモンドの血を継ぐ者、及び、彼らによって特別に許可された人間しか出入り
を許されない至聖所です。僕でさえ、先代当主によって許可されていなければ、ここには
一歩も足を踏み入れることができなかった。この扉をくぐるというのがどういうことか、
よく考えて前に進みなさい、いいですね」

169: 煌月の鎮魂歌9 6/22 2016/06/18() 06:03:46 

「ごちゃごちゃ言わずにとっとと開けろ」
 それだけ、ユリウスは答えた。
 崇光はしばらく扉に手をかけたまま、量るように赤毛の青年の横顔を眺めていたが、
やがて扉に向き直り、巨大な取っ手に手をかけて、引いた。
 非力そうなひょろりとした青年の手にもかかわらず、扉は動いた。地面の底からわき
あがってくるような軋みが、何者か地中深くに封じ込められたものの苦悶の声のように
とどろいた。緑青をふいた青銅の縁取りのむこうに、かすかな橙色の光に明るんだ、
うす闇が覗いた。
 声を殺してラファエルがすすり泣いていた。人ひとり通れるだけ開かれた扉の隙間を
崇光がくぐり抜け、続いてユリウスも歩を進めた。
 しめって冷たい地下の空気が頬をなでた。背後で扉がかすかな地響きと共に閉ざされ
た。ユリウスが立っているのは、どこまでも続くかに思われる、地下への螺旋階段の
頂点の小さな踊り場、その縁だった。

            2

 階段がついに尽きた。
 降りてゆく間、崇光は一言も口をきかず、振り返ろうともしなかった。ユリウスも
あえて話しかける必要は感じなかった。二人分の足音が気の遠くなるほどの長い縦穴に
反響しては消えていった。しんしんと二人はそれぞれ頭の中に唯一のものを思い描きつつ
進んだ。
 最底部はまた小さな踊り場になり、構えが上ほど仰々しくはない、両開きの質素な扉が
あった。見たところ、扉は扉だけでその場に自立しており、背後には壁もなければ部屋が
あるようにも見受けられない。ユリウスは答えを急かすように崇光を睨んだ。崇光は
あわてずさわがず、手をあげて扉の表面に手をあて、なんらかの言葉を二つ三つ呟いた。
 扉は開いた。というよりも、その場で霧のように薄れ、かわりに、扉に刻み込まれて
いた蔓模様がふいに生気を取り戻し、ほどけて、一気に空間全体に広がったように思えた。

170: 煌月の鎮魂歌97/22 2016/06/18() 06:04:20 

 崇光は猫のようにそっと中に踏み入っていった。
 ユリウスも黙ってあとにつづいた。自然に足音をひそめる形になった。
 それを必要とさせる厳粛な静謐さがそこには満ちていた。これまで降りてきた長い長い
螺旋階段とは違い、ここには電気のライトなどという無粋なものは置かれていない。
かわりに輝いているのは、花だった。
 いちめんの薔薇の花。床を覆い、壁に交差し、天井からカーテンのように垂れている
エメラルドのような緑の枝とみずみずしい葉の間に、まばゆいほどに純白の大小さま
ざまな薔薇の花が咲き誇っている。
 ふっくらした花びらは露をたたえ、葉もしっとりとした霧にぬれていた。日光もなけ
れば通風も十分でないはずのこの深い地下の一室で、どうやってこのようなおびたたし
い薔薇が生気をたもっているのか、ユリウスには見当もつかなかった。
 足の下は石や人工の床ではなく、青々とした若草と、細い茎をからみあわせた小さな
野薔薇の茂みだった。
 そこここに、季節にはまだ少し早いクローバーの小さなまるい花が内気な乙女のよう
に揺れている。全体は月光めいた青い光に満ち、胸が痛むほどの静けさだった。
 その中央に、アルカードがいた。
 眠っていた。大きな天蓋つきの寝台に寝かされていたが、この寝台もまた、周囲の薔薇
にまつわりつかれ、まるで薔薇そのものでできているかのように輝いていた。
 天蓋からは細い薔薇の花綱が垂れ、あらゆるところから伸び上がった大輪の白薔薇が、
主人を気遣う子猫のように寝台の主のまわりを取り囲んでいる。露をおびた蔓と葉が
シーツの代わりに身体をそっと包み、眠る彼の組み合わせた手の上に、重なるように
かぶさっていた。

171: 煌月の鎮魂歌98/22 2016/06/18() 06:04:52 

 白い顔はぴくりとも動かず、大理石でできた彫像のように完璧で冷たく、なめらかな
肌は死人よりもさらに蒼白だった。
 銀髪は滝のように流れて寝台の縁を越え、薔薇の蔓に支えられるようにして床へと
広がっている。長いまつげが疵ひとつない頬に透明な青い影を落とし、薄い唇は軽く
結ばれて蒼白の固さにのまれている。人間であるにはあまりに美しい顔は、超自然の
眠りにのまれることでさらに人間らしさを消し、遠い異教の神が魔法の眠りの中にいる
かのような近づきがたさを感じさせる。
 閉ざされたまぶたややわらかい巻き毛に宿るのは、薔薇の花びらよりもまだ繊細な、
あわく透き通る影だった。大小さまざまな薔薇の萼が眠れる主人を気遣う侍女のように
あたりに集い、侵入者たちを非難するかのように、いっせいに音のないさざめきを発した。
「おい……大丈夫なのか?」
 ようやく、ユリウスは言った。声を出すのにはそうとうに思い切る必要があった。それ
ほどこの静寂は聖なる威厳と緊張感に満ちていた。
 崇光は厳しい顔をしたまま返事をしなかった。ユリウスが同じ質問をもう一度繰り返し
てようやく、彼のほうをむいた。
「問題はありませんよ。一応はね」
 ひっかかる言い方をしやがって、とユリウスは思ったが、口には出さなかった。
「ここはベルモンド家の地所でももっとも強力な大地の力の集まる場所です。過去のベル
モンドたちはここに彼の故郷──ヴァラキアの土を埋め込み、その上で、さらに力の流れ
がこの一点に集約するように、何代もかけてここを築き上げたのです。彼がひどく傷つい
たとき、それに見合った治療の力を受けられるように。何百年もの戦いのうちには、アル
カードとて深く傷つくことがなかったとはいえない。彼の超人的な能力とはいえ、限界は
やはりあるのです。とはいえ」

172: 煌月の鎮魂歌9 9/22 2016/06/18() 06:05:27 

 崇光はふと言葉を切って、ユリウスをじっと見つめた。
「今回のニュイ女伯爵とかいう妖魔相手でしたが──正直、アルカードがこれほど疲弊す
るような相手ではなかったと、僕は見ています。幼いイリーナが体力を消耗するのは必然
ですが、歴戦の戦士であるアルカードが、ここに入らなければならないほど力を弱められ
るのは、異常事態と言わねばなりません」
「だから、俺のせいなんだろ」
 不機嫌にユリウスは吐き捨てた。聞くところによるとイリーナは日課のお茶会をまだ休
んではいるが、ここ数日でベッドに起きあがって、あの女王めいた物腰で尊大にスコーン
とジャムにダージリンのポットを命じる程度には回復しているそうだ。また茶会への呼び
出しがかかるのも遠いことではなかろうと考えると憂鬱になる。
「ド素人の俺がついてったおかげで足を引っ張られて、こいつが重傷を負った。もう聞き
飽きてるよ。だからって、俺にどうしろっていうんだ」
「ラファエルはそう思いたがっているようですが、僕は賛成しません」
 そっけなく崇光は言い返し、眠るアルカードにゆっくりと歩み寄った。薔薇たちは不服
そうにざわめいたが、主治医としての彼が近寄ることは了解しているらしく、左右にわか
れて道をあけた。崇光は手を伸ばし、アルカードの動かない頬に慎重に指をふれた。
「あなたどころか、まったく戦力にならない一般人を抱えて戦う経験も、彼はいくつも
している。彼が五百年生き、その間ずっと闇の勢力と戦い続けていたことを忘れないで
ください。魔王その人とでさえ、二回までも相対して、一時の封印には成功している
のですよ」
 ユリウスは唇をかんだ。崇光は続けて、

173: 煌月の鎮魂歌9 10/22 2016/06/18() 06:05:58 

「彼はもっとひどい傷やダメージからも回復してきましたし、これほど長い間ここで
眠り続けるほどの重傷ではないはずです。少なくとも記録に従えばそのはずだし、僕の
看立てでもそうだ。彼はとうに目覚めていておかしくはないし、そもそも、ここに入って
眠らねばならないような重大なダメージをうけたのは、これまでの歴史でも片手で足りる
ほどしかない。それもほんの一、二時間から半日というところで、こんなに長く眠り続け
ているというのは、明らかに異常です」
「じゃあ、いったいなんだっていうんだ」
「あなたは彼に血を与えましたね」
 断定するように崇光は言った。
 ユリウスは身がこわばるのを感じた。
 いくつもの言葉が喉に押し寄せたが、すべては舌の上で氷に変わった。
 あの一瞬の記憶が脳裏にまたたいた。泣き叫ぶイリーナと、指先から流れ落ちる血。
アルカードの唇に流れ込む真紅の滴。記憶の中で、粘る飴のように、落ちていく血は
とても遅く見えた。
 そしてその後に閃いた、遠い過去の光景──
「何をしたかが理解できているようでよかったですよ」
 ユリウスの沈黙を正確に読みとり、冷然と崇光は言った。
「ベルモンドの血は力に満ちている。アルカードとベルモンド家の関係を本当の意味では
知らないイリーナが、弱った彼にもっとも力あふれる血を与えようと判断したのは間違っ
てはいない。まああなたも、知らなかったのだから無理はありませんがね。見たのでしょ
う?」
 何を指しているかは言われるまでもなかった。ユリウスは声も出ないまま、わずかに頭
を動かした。

174: 煌月の鎮魂歌9 11/22 2016/06/18() 06:06:35 

「これまでベルモンドの者が彼に血を与えたことがなかったとは言いません」
 と崇光は続けた。
「しかし、その場合、彼は何重にも用心し、けっして直接血を飲むことはなかったし、前
もってしっかりと精神を鎧って、記憶が呼び起こされることのないよう封じていました。
彼にとってあれはもっとも触れたくない、誰にも触れてもらいたくない秘密なのです。僕
がそれを知っているのは、ある事情から彼が話してくれたからにすぎない。その時で
さえ、彼の苦悩と悲しみは言葉につくせないほどのものでした。それを、ひどく弱って
いる時に直接あなたの血を口にしたことで、あまりにも生々しく、突然に呼び起こされて
しまったのです。彼の受けたショックがどれほどのものだったか、あなたに想像できますか」
 黙ってユリウスは唇をかんだ。しばらく返事を待つように口を閉ざしていてから、崇光
はまた続けた。
「ベルモンドの者は生涯に一度は彼に恋をする──そう言われています」
 ユリウスはびくりと目を上げた。とたんにこちらを見据える崇光の鋭い眼光に射抜かれ、
反射的に目をそらした。青年神官の眼鏡の奥の瞳は、いつもの穏やかさを脱ぎ捨てて、刃
のような悽愴な光をたたえていた。
「でも、彼がここに身を置くようになって四百年近く、だれ一人としてそれをかなえた者
はいない。なぜかわかりますか」
 問われているのではなかった。その答えはすでにユリウスの中にあった。ただ言葉に
されるのを拒んでいるだけだった。言葉にされ、口にされてしまえば、それは認めざる
を得ない真実となってしまう。ユリウスは力なく頭を振り、聞くまいと顔をそむけた。
「彼はただ一人のベルモンドを愛している。今も。そしてこれからも。

 ──そしてそれは、あなたではない」

 

 

175: 煌月の鎮魂歌9 12/22 2016/06/18() 06:07:41 

 むなしく声は耳につきささった。
 自然に顎に力がこもり、口の中に血の味が広がった。鉄錆の味はいつもと違ってひどく
苦く、酸のように舌を灼いた。
「彼と最初に出会い、愛し合ったただ一人のベルモンド。ラルフ・C・ベルモンド。彼
だけが、アルカードにとって唯一であり絶対なのです。
 ほかのすべてのベルモンドはただ、彼の血を継ぐ者というだけにすぎない。もちろん
ひとりひとりを愛していなかったわけではないでしょう。しかし、最初の一人のように
彼を愛し、愛された人間はいない。誰も」
 かたくなにユリウスは顔をそむけていた。噛み破った唇から血が流れているのをわずか
に意識した。血の味がめまいを引き起こす。血。指先から流れてアルカードの唇に落ちた
血。
 その血を含んだとたん、彼は跳ね起きて呪うようにユリウスを見た。いや、ユリウスを
ではない、今も彼を苦しめてやまない、運命と離別の夜を見た。そしてただ一言、拒否の
言葉を口にした。『いやだ』。血の涙だけがあの夜と同じく、赤い筋をひいて頬に流れた
……
「あなたは彼から指輪を奪いましたね。金の、古い指輪を」
 冷然と崇光は言った。
「あなたが彼をどのように扱っているかは知っています。彼が選んだことですから、僕は
それに関してどうこう言うつもりはありません。
 しかし、あなたがその指輪を奪ったことが彼にとってどんな意味を持つかは知っておき
なさい。あれは彼にとっては生命と同じ、彼を愛し、愛された相手が遺したただ一つの
形見です。あれだけが、彼にとって唯一、自らの生を認めてくれるよすがなのです。
それを、あなたは奪った」

176: 煌月の鎮魂歌9 13/22 2016/06/18() 06:08:23 

「あいつは俺のものだ」
 ようやく、ユリウスは言った。自分の耳にもその声は聞こえづらく軋み、かすれて苦し
げだった。
「あいつが俺に言ったんだ、俺のものになると。俺の言うことはなんでもきくと。俺のも
のに、俺の……」
「あなたがベルモンドの血を継ぐ者でなければ、彼はあなたなど見もしなかったでしょうね」
 容赦なく崇光は言った。
 ユリウスの全身がむち打たれたように震えた。
「そしてあなたが唯一残った聖鞭の使い手でなければ、彼は、けっしてあなたに屈服する
ことなどしなかった」
「俺は──」
「これだけは理解しておくことです、ユリウス・ベルモンド」
 畳みかけるように崇光は続けた。
「アルカードが見ているのはあなたではない。彼が見つめ、愛するのは今も昔もただ一人、
ラルフ・C・ベルモンドと、彼の遺した血のみです。あなたが彼にしているような仕打ち
が許されるのはひとえに、あなたの体内に流れる血と、聖鞭の使い手の資格によってであ
ることを知りなさい。
 あなたはけっしてあなたとして彼の目に映ることはないし、本当の意味で愛されること
もない。彼が愛しているのは過去も現在もただ一人、それ以外の人間は、彼にとって一瞬
で過ぎ去る夢のようなものにすぎない。それがいかに愛すべき夢であっても、──憎むべ
き夢であっても」

177: 煌月の鎮魂歌9 14/22 2016/06/18() 06:09:00 

 崇光ははじめて視線をそらし、眠るアルカードの顔に目を落とした。すでに死せる者を
見るかのように痛ましげな、悲傷に満ちた色が頬のあたりをよぎった。手を伸ばしてそっ
とシーツにあふれる銀髪をさする。白い薔薇たちが見下ろすように揺れる。
「彼にとってはすべてが夢なのです。闇の公子として生まれ、父殺しの宿命を負って五百
年。彼はずっと、醒めない悪夢の中で生きてきた。その中で、ただ一つの愛の記憶だけが、
彼にとっての生命なのです。あなたが奪った指輪は、その生命そのものにほかならない」
「あれは返さない」
 からからの舌を動かして、ユリウスはやっと言った。
「俺は……あれは、俺のものだ。俺のものだ。俺の……ものなんだ」
「なら、そう思っていなさい。どちらにせよ、事実は変わらない」
 ふいに崇光はすべてに興味をなくしたようだった。どうでもよさそうにそう吐き捨て、
ユリウスに背を向けてアルカードにかがみ込んだ。薔薇の侍女たちが音もなくさざめき、
白いボンネットのような頭を傾けて主治医のまわりに輪を作った。
「彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド」
 眠るアルカードに医師の慣れた手つきで触れながら、そっけなく彼は告げた。
「僕が言っておきたかったのはそれだけです。あなたが理解しようとしまいと、どうでも
いいことだ。あなたの中の血、その血が与えている鞭の保持者としての資格。アルカード
が見ているのはそれだけです。あなたではない。けっして」
 それ以上口を開かず、崇光はアルカードの上にかがみ込んだまま、何か複雑な図形を宙
に指で描きはじめた。指の動きにつれて、淡く輝く線が空中に魔法陣のような立体図形を
組み上げていく。

178: 煌月の鎮魂歌9 15/22 2016/06/18() 06:09:37 

 アルカードは薔薇に覆われたベッドの上で、死病におかされた子供のように身じろぎも
せず、あふれる銀髪と薔薇の花弁に埋もれて目を閉じていた。うす青い瞼にまたたく図形
の光がちらちらと揺れる。
 ユリウスは踵を返し、その場を逃げ出した。



 何者かに追われるように足をもつらせ、数度は躓き、何度かは膝が崩れて倒れそうにな
った。
 気がつくと自室にいてベッドに腰を下ろし、呆然と壁を見つめていた。
 夜半で、なかば開いた窓からは初夏の涼しい夜気が流れ込み、カーテンにじゃれる月光
が床にも、足首にもまつわりついている。どれほど激しい鍛錬をしても堪えたこともなか
ったのに、まだ膝が震え、足に力が入らなかった。押しつけられるように胸が痛む。喉が
締めつけられ、息がつまる。無理に呼吸をしようとすると、空気が大きな固まりになって
肺につかえた。なんとか息を吸おうとあがいても、身体が石になったように重く、がくが
く震えて言うことをきかない。
 組み合わせた両手で何か堅いものをきつく包み込んでいることにようやく気づいた。意
のままにならない手を苦労してほどいてみると、古い、すり減った金の指輪が、鈍い光沢
をおびてそこにあった。
 シャツは丸めて投げ捨てられ、ブーツは横倒しになって壁の近くに転がっていた。意識
しないうちに背中が丸まり、両足をきつく胸に引き寄せていた。ベッドから腰が滑り落ち、
床についた。ユリウスは床にうずくまり、両膝をかかえてかたく身体を丸めた。赤い髪が
裸の肩にこぼれて、顔をかくした。

179: 煌月の鎮魂歌9 16/22 2016/06/18() 06:20:12 

「俺のものだ」
 誰にともなくユリウスは呟いた。
「俺のものだ──俺のものだ──俺の、ものだ──俺の」
 だがその声はひどくかすれ、自分のの耳にすらうつろに響いた。
 今背を預けている同じベッドで、あの白い肢体を何度蹂躙したことか。抵抗一つしない
身体を思うがままに痛めつけ、恥知らずな姿勢をとらせて、最下級の娼婦に等しい扱いを
した。命じるままに鎖につながれ、雌犬の姿勢で自分を受け入れる彼に嘲弄の言葉を投げ
つけもした。
 だがその心を折ったと感じたことは一度もなかった。いつでも次の朝になれば、何事も
なかった顔をしてアルカードは白い月のように現れた。どんなに手を伸ばしても届かない
天上の月。いっときこの手につかんでも、たちまち指のあいだから滑りおちていってしま
う。
 ゆれるカーテンのむこうから欠けた月が覗いている。新月からしだいに満ちていく月は、
いまだ過程の途中にあって細っている。弱く頼りない光だが、訓練によって慣らした目に
は、そのわずかな光も明るく感じる。

 足首にまつわっていた微かな月光が肩に触れ、髪にまつわる。その冷たい感触を、ユリ
ウスは知っていた。あの細い指先。絹よりまだ柔らかくなめらかな、透き通るあの肌。
すくい上げれば滝のように流れる、銀色の髪。強引なくちづけにもあらがわず、わななき
ながら開かれる仄赤い唇。

180: 煌月の鎮魂歌9 17/22 2016/06/18() 06:21:23 

 また、その内部に秘められた熱さを知ってもいる。大理石の彫像を思わせる肉体は、
その内部に熱せられた蜜を含んでいた。毒のある蜜蜂が集めたかのような、人を狂わせる
魔性の蜜。
 触れればたちまち理性を奪われ、狂ったように行為に沈み込むのはいつもユリウスの方
だった。微かな苦鳴も苦しげな呼吸も、渇望をあおり立てる種だった。触れれば触れる
ほど、口にすればするほど飢えをそそられ、渇きはいや増す。どれほどむさぼり尽くして
も飽き足りない、いっそこの身体をばらばらに引き裂いて心臓を引きずり出してやりたい
欲望にすらかられる。
 血まみれの胸から引きずり出した心臓を、自分の胸を引き裂き、その傷口に押し込めば
この渇きは癒えるだろうか。自分の心臓を引きちぎり、そのかわりに冷たい胸の奥で拍っ
ている心臓を置くことができれば。二つの心臓を溶け合わせて、ひとつにする方法が
わかれば。冷たく白いこの月の精霊に、本当の意味で手を触れることさえできれば。
(彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド)
 わかっていた、とユリウスは思った。
 わかっていながら知ろうとしなかった。あの女妖と戦った夜に、体内に荒れ狂うベルモ
ンドの退魔の力に翻弄されながら、それは何度も幻に現れたはずだ。あの箱庭の天国、
二人だけのエデン。誰の侵入も許されない国、あまりに完璧すぎた故に破壊された幸福。
アルカードとあの男以外には存在しない、絶対の王国。
 明らかな事実から目をそむけて、意味のない行為に惑溺することで自分をごまかして
いた。そしてその見ようとしない事実と自分自身に苛立ち、怒り、そのすべてを目の前に
捧げられた肉の身体にぶつけていた。何の意味もないことを、心の奥では知っていたと
いうのに。

181: 煌月の鎮魂歌9 18/22 2016/06/18() 06:22:08 

 アルカードは自分を見ない。
 誰のことも見てなどいない。彼が見ているのはずっとあの一瞬、あの永遠の夜、アル
カードの心が今もとどまり続けている、数百年も前の現在なのだ。
 戦いのあとの混乱した記憶がふたたび脳裏を支配した。イリーナの小さい手が手首を
つかみ、有無を言わさず引き寄せる。傷ついた手のひらからしたたる血が筋をひいて
アルカードの唇に落ちていく。真紅の濃い生命の一滴がその唇を通り、のどをかすかに
動かし──
 そして彼は跳ね起きた。灼けた鉄板に乗せられたかのようにその場で跳ね上がり、
ユリウスを見た。致命的な毒を盛られたことを悟ったかのような、絶望と悲嘆にあふれた
まなざしで。
(違う。そうじゃない)
 あれは彼を見ていたのではなかった。アルカードが見ていたのは、遠い過去だった。
ユリウスの血によって呼び起こされた遙かな記憶、彼がはじめて地上に生き、ベルモンド
の血を継ぐ人間と愛し合った時の出来事。流れ落ちる血の涙と、白いシーツに落ちた薔薇
の花びらのような染み。白ではなく赤い薔薇、赤い血の涙の一滴、引き裂かれた心から
流れ出した灼けつく記憶のかけら。
 そして彼は口にした、ただひとこと──『いやだ』。
 あれは何に対する拒否だったのだろう。自分にではないことをユリウスはとうに悟って
いた。あの時のアルカードの知覚に、彼は映っていなかった。崇光も、イリーナも入って
はいなかった。
 アルカードはベルモンドの血によって呼び覚まされた過去にいたのであり、おそらくは、
もはや起こってしまった変えようのない悲劇に、運命に、甲斐のない抗議をしていたのだ

182: 煌月の鎮魂歌9 19/22 2016/06/18() 06:22:46 

 どれほど酷い行為かを知りつつ、それをせねばならなかった自分、にもかかわらずまだ
生きて地上にいなければならない自分、人でも魔でもない黄昏の者として永遠に、死ぬ
ことも忘れることも許されず生き続けなければならない自分、いずれは三度目の父殺しを
行わねばならない自分、そういった自分自身すべてに対して、無力な拒否をつきつけてい
たのだ。
 そしてそれが無力であり、意味などないことも彼は知っている。文字通り、骨の髄まで。
遠い記憶のあの男の血を継ぐ人間たちとともに、魔王と化した父と戦い、最終封印を
施して完全に滅すること、ただそれだけが現在の彼の使命であり、生き甲斐であり、
存在価値なのだ。
 ベルモンドの至宝とたたえられ、どれほど多くの者から慕われ愛されようと、本当の
意味でアルカードが満たされることはけっしてないだろう。彼の愛は遠い昔にあるベルモ
ンドの男とともに埋葬されたのであり、その男の血と誓いとを守るために、三度目の封印、
光と闇の最終戦争に立ち向かおうとしている彼は、実質、あの頃の彼の抜け殻でしかない。
どれほど強くまたやさしく、果敢に闇に立ちふさがろうと、彼の心は数百年を閲してまだ
生々しい──忘れることができないからこそいっそう生々しく、いつまでも血を流し続け
る、あの夜に縛られつづけている。
 それでも彼は立つのだ、他の誰のためでもなく、ただ、あの男との約束のために。遠い
過去に置き去りにした恋人、心と身体、魂のすべてをかけて愛した、ただ一人のベルモン
ドのために。
 手の中の指輪が灼けつく。いや、これこそが心臓だ。あのなめらかな胸の中から取り出
されて、血を流しながら脈打っている。

183: 煌月の鎮魂歌9 20/22 2016/06/18() 06:23:24 

 熱く燃えているはずなのに、その熱はけっしてユリウスには触れてはこない。握りつぶ
すほどに強く握りしめても、それはユリウスにとってはいつまでも固く冷たい金属の塊で
しかない。それが命をとりもどすのはおそらく、アルカードの手の中にある時、彼の魂と
記憶のすぐそばに寄りそう一瞬だけなのだ。
 それでも、離すことはできなかった。溺れる者が命がけでつかむ命綱のように、ユリウ
スの指は指輪をつかんで肉に食い込むほどにかたく、より強く握りしめていた。
「俺のものだ」
 むなしい言葉をまた繰り返す。声は口からこぼれたそばから砕け、どこへ届くこともな
く薄れて消えた。
 すべてのベルモンドは一度は彼に恋をするとあの日本人は言った。ではこの心も血に促
されてのものにすぎないのか。そんなわけがない、それならばこれほど苦しいはずはない。
ベルモンドの名などいらない、血筋などもともと望んで受け継いではいない、鞭もどのよ
うな特権もいらない、望むのは、ただ、あの月だけ。
 あの月がほしい、あの瞳に自分を映してほしい、他の誰かにではなく自分に、自分にだ
け、あのまなざしを向けてほほえんでほしい。見苦しく地面に這ってすがってでも、そう
望んでいることをユリウスは知った。
 最初の夜からそうだった。どれほど酷く扱ってもこちらを見ない彼に苛立ち、なんとか
して自分を見させようと子供じみた真似を繰り返した。軽蔑でも嫌悪でも、憎悪ですら
かまわなかった。それが自分に向けられたものであるなら。他の誰でもなく、この自分
自身に

184: 煌月の鎮魂歌9 21/22 2016/06/18() 06:24:11 

『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に流れてるベルモンドの血だけなんだ……』
 そうではない、と言ってほしかった。否定の言葉が聞きたかった。
 もちろん言わせれば諾々とアルカードは命ぜられた通りの言葉を繰り返した。だがそれ
はユリウスの心をますます引き裂くばかりだった。そこに本当の心はなく、教えられた
通りの言葉を真似る鳥と同等の行為だった。ユリウスはますます逆上し、さらに加虐の
行為に手を染め、せめて肉体に所有のしるしを刻みこもうと躍起になった。
 すべてに降り注ぐ月の光だけではなく、その本当の心ごと抱き取ってしまいたかった。
だがそれが不可能なことを、ユリウスはもう見てしまった。遠い過去のあの一瞬に、ユリ
ウスの手は届かない。絶対に。あそこにいるのはただ二人、月とその魂を捧げた恋人だけ、
そして、あの記憶の中に月の心と愛は永遠にしまいこまれている。
 ふいに手首を引き裂き、喉を切り裂いて全身の血を流し出してしまいたい衝動にかられ
た。だがそれはできない。それをしてしまえば、今度こそユリウスはアルカードにとって
一片の価値すらない、ただの塵になる。
 どれほど呪おうと、この血、体内に受け継ぐベルモンドの血脈、あの夜に置き去りにし
た恋人の遠いこだまが、かろうじてユリウスをあの月につなぎとめている糸だ。彼が見て
いるのが血のみ、血と鞭の資格者という自分であって自分でない影でも、手放すことなど
できなかった。考えただけで気が狂いそうだった。

185: 煌月の鎮魂歌9 22/22 2016/06/18() 06:24:51 

 ぬけがらの身体をどれだけ痛めつけても、反対にどれだけ甘く愛撫し崇めても、けっし
て彼に届くことはない。アルカードは自分を見ない。誰のことも見てはいない。ただ美し
い光だけを地上にあふれさせながら、遠い天上に冷たく凍りついている。
 頬に熱いものが流れた。喉がつまり、全身がこわばってきつく丸まった。
 もはやいつだったかも正確には思い出せないあの日、母の死体が狂人の足の下で踏みに
じられていた時にさえ出なかったものが、顎をつたって滴った。
 ベッドの上できつく膝をかかえ、無力な少年のように、ユリウスは声を立てずにむせび
泣いた。