煌月の鎮魂歌9後半

 

 

186: 煌月の鎮魂歌9後半 1/24 2016/07/31() 20:15:19 

            3

 ボウルガード夫人に車椅子を押され、自室へ戻る最中、ラファエルは一言も口をきか
なかった。
 少年の青い瞳は嵐の色に染まり、心臓では炎が荒れ狂っていた。地獄にひとしい炎
だった。彼は父親を呪い、義兄──とも呼びたくはないが、汚らわしいとはいえ血の
つながりは否定できない──を呪い、何よりも、ぴくりともしない自分の足を心底
呪った。なめらかに動く車椅子の感触さえ、怒りをかき立てた。こんながらくたでさえ
すらすらと床の上を動くことができるのに、どうして自分の足は指先ひとつ上げること
が許されないのだろう?
 ようやく自室へたどり着き、ボウルガード夫人に支えられてベッドに身を投げて、
出て行けと身振りをする。枕に頭を埋め、今にも噴出しようとする叫び声を押さえ
つけた。今はただ、ただひとりで怒りをかみしめ、その苦さと熱さに存分に身を焼き
たい。他人に苦悩を覗かせるのは誇りあるベルモンドの者のすることではない。ベル
モンドの者はひとり、ただひとり、常に人間と世界の守護者として立つことを要求
される。誇り高いベルモンドの男として、ベルモンドの……
 食いしばった歯から、耐えきれずにすすり泣きが漏れた。もう自分にはそんな資格は
ないのだ。鞭の使い手としての地位はあの野良犬に奪われてしまった。ベルモンドの
当主としての地位はあるにせよ、それがどうしたというのだろう。
 聖鞭を使い、きたるべき最終闘争において〈彼〉の隣に立つこと、それこそが、
累代のベルモンドの悲願であり、夢だった。
 自分がその代にあたることを知ったときの喜びを思う。自分ではなく、息子がアル
カードの隣に立つことを知った父の、複雑な思いをこめた視線を心地よく感じたことを。
『ベルモンドの者は誰もが一度は彼に恋をする』。だが、その恋がかなえられないこと
はみな知っている。それにもっとも近いのが唯一、彼とともに戦うこと、聖鞭ヴァンパ
イア・ハンターの使い手として認められることなのだ。

187: 煌月の鎮魂歌9後半 2/24 2016/07/31() 20:16:09 

 ひょっとして父は、かなえられなかった自らの想いをとげる息子を邪魔するために、
あの野蛮な野良犬を生みだし送り込んできたのではないかという疑念すらわいた。
そんなことはありえないのがわかっていたが、思わずにはいられなかった。
 なぜ? なぜ、ようやく彼の隣で戦えると約束されたのに、それをあんな汚らしい
混血に奪われなければならないのだ? それも、尊敬できるような相手ならまだしも、
こともあろうにアルカードを公然と雌犬呼ばわりし、蹂躙してやまない輩に? ベル
モンドの至宝を泥にまみれさせ、娼婦扱いして恥じもしない屑が、なぜ聖鞭の使い手に
なれるというのだ?
 アルカードは間違っている、とラファエルは思った。
 あいつがベルモンドのはずがない。たとえその血をひいていたとしても、聖鞭が
あんな男を認めるはずがない。アルカードはあの男を連れてきたりすべきではなかった。
いくら最終闘争の時がせまっていようと、あんな男に身を任せてまで、聖鞭の使い手を
用意する意味などあるのだろうか。
 魔王が降臨すれば世界は闇に包まれる。わかっている。だがいま、ラファエルの頭に
あるのは、しいたげられ逍然とうなだれるアルカードと、その上に仁王立ちになって
悪魔の笑いを浮かべるあの男だった。滅ぼされるべきは魔王ではなく、あいつだ、と
ラファエルは思った。
「死んでしまえ」
 ラファエルは呟いた。小さく、ごく小さく、枕に顔を埋めて呟いた言葉だったが、
そこに込められた憎しみと殺意はナイフのように鋭かった。
「死んでしまえ。あいつなんか死んでしまえばいい。あいつに世界なんて救えるもんか。
聖鞭なんて、あいつにはふさわしくない。世界なんて知るもんか。アルカードが不幸に
なる世界なら、みんな滅びてしまえばいい……」

188: 煌月の鎮魂歌9後半 3/24 2016/07/31() 20:16:54 

「お苦しいのですね。ラファエル様」
 低い声がした。
 ラファエルはぎょっとして、身体が動くかぎり身をそらし、部屋の隅を振り向いた。
 そこに、ボウルガード夫人がいた。いつものように黒いドレスで、白髪をかたくひっ
つめにし、棒のようにまっすぐに身体を立てている。とうの昔に出て行ったものと思っ
ていたラファエルは、いまの姿を彼女に見られたと知り、猛烈な怒りと恥ずかしさに襲
われた。
「なぜここにいる」
 にじんだ涙を急いでぬぐい、ラファエルは当主としての口調ではげしく言った。
「僕は出て行けと命じたはずだぞ。なぜまだここにいる? 用があればベルで呼ぶ。
さっさと行け」
「わたくしにはよくわかります。ラファエル様の怒りが。お苦しみが」
 ボウルガード夫人はすべるように近づいてきた。ベッドサイドのライトに皺深い顔と、
奇妙な熱を帯びて燃えるような両目が照らし出された。うすく口紅を塗った唇はほとんど
見えないほどかたく引き締められ、表情はなかった。すべての感情と動きは、ただ熱に
浮かされたようにぎらつく両の目にしか存在していなかった。
「あのような男をベルモンド家に引き入れるべきではございませんでした。ミカエル様は
あやまちをおかされました。ラファエル様という立派な跡継ぎがおありなのに、どこの
誰とも知らぬ相手と、あのような汚らしいものを」
「父上は立派なお方だ」
 反射的にラファエルは言ったが、ボウルガード夫人の紙のこすれるようなささやき声は
影のように彼の心にすべりこんできた。そうだ、父は、あんな子供を作るべきでは
なかった。ベルモンドの血は常に、誇り高く育てられた正統の血でのみ受け継がれて
きた。それを、あのような雑種が受け継ぐなど、あってはならないことだ……

189: 煌月の鎮魂歌9後半 4/24 2016/07/31() 20:17:32 

「あのような男がベルモンドとして認められるなど、あってはならないことです」
 いつのまにかボウルガード夫人はベッドの縁に腰掛け、骨ばった手でそっとラファエル
を抱いて髪を撫でていた。めったに個人的な感情を表さない彼女としては異常と言って
いい態度だったが、自分の苦悩と痛みに沈み込んでいたラファエルは気づかなかった。
ただ、髪を撫でる手をここちよく感じ、自らの秘めた思いを形にしてくれる低いささやき
声に、夢見るように耳をかたむけていた。
「間違いは正されなくてはなりません。ベルモンドの正統はラファエル様であり、あの
ような雑種ではありえません。汚らわしい血は、排除しなくてはならないのです」
「排除……」
 なかば夢うつつでラファエルは繰り返した。何を口にしているかはほとんど意識して
いなかった。やさしく髪を撫でる手は、そのまま彼の傷ついた心を愛撫する手だった。
「排除する……あいつを……でも、聖鞭の使い手は──」
「聖鞭の使い手はあなたです、ラファエル様」
 きっぱりとボウルガード夫人は言った。ラファエルの髪をすく手はどこまでも優しく、
子供を眠りにいざなう母の手を思わせた。
「ほかに、誰がいるというのでしょう。ラファエル様はミカエル様の正統のお子、あの
ような雑種と比べものになどなりはしません。アルカード様をお救いし、そのお心を手に
入れるのは、ラファエル様、あなた様しかおられません。アルカード様をあのような男の
手に預けておいて、ラファエル様、あなたは平気でいらっしゃるのですか」
「そんなわけがないだろう!」
 一瞬猛烈な怒りにかられてラファエルは叫び、起き直りかけたが、ボウルガード夫人の
あくまでもおだやかな愛撫に導かれて、ふたたびうっとりと身を横たえた。今ではボウル
ガード夫人は黒いショールですっぽりとラファエルを包み込み、赤ん坊でも抱くように両
手を回して、やさしく揺さぶっていた。

190: 煌月の鎮魂歌9後半 5/24 2016/07/31() 20:18:04 

「あの男を排除しなければならないのですよ、ラファエル様」
「排除……あいつを……」
 ぼんやりとラファエルは繰り返した。
「そして取り戻すのです、あなたの当然の権利を。聖鞭とアルカード様を。あなたが世界
のすべてと引き替えても手に入れたいあの方を、雑種の汚らしい手からお救いするの
です。あなたならそれがおできになります、ラファエル様」
「でも、足が」
 わずかに苦痛の記憶を思い出して、ラファエルは身じろぎした。羽毛布団の上に力なく
投げ出されたままの萎えた両足。
「僕の足は動かない。この足では、アルカードの役には……」
「動きます。あなた様さえ、その気になられれば」
 ぐずる子供をあやすように、頬をくっつけてボウルガード夫人はささやいた。筋肉が
落ちて細くなった足を、いとおしむようにそっとさする。
「お信じなさいませ。あなた様こそベルモンドの正統の当主にして、聖鞭の主。アルカ
ード様の隣に立つ者。それを、あのような下賤の雑種になど、奪われてよいはずがあり
ません」
「正統の……当主」
 ラファエルは呟いた。傷ついた心に、その言葉は恵みの雨のように染み込んでいった。
 むろん、これまでずっとラファエルはベルモンドの男として丁重な扱いを受けてきた。
父が死に、当主の座を受け継いでからは特にそうだった。
 だが、半身不随の身となり、聖鞭の使い手としてはもはや使い物にならないと判定され
たとき、周囲の、そして誰よりもラファエルの中で、さまざまなことが微妙に変化した。
 もはやラファエルは絶対の自信をもってベルモンドの当主であると言えない自分を発見
した。周囲は変わらずラファエルをベルモンドの当主とし、そのように扱うが、そこに哀
れみと、腫れ物にさわるようなおずおずとした遠慮を、鋭敏な少年の感性は感じ取らずに
はいなかった。

191: 煌月の鎮魂歌9後半 6/24 2016/07/31() 20:18:46 

 年端もいかない少年が半身の自由を失う。それは確かに悲劇であったろう。だが、もし
彼がベルモンドの人間でなく、聖鞭の使い手として定められておらず、アルカードととも
に戦う運命を将来に見据えていなければ、彼の痛手はこれほどまでに深く食い入ることは
なかった。
 累代のベルモンドの当主たちが使った聖鞭ヴァンパイア・ハンターを取り上げられ、
それを存在すら知らなかった異腹の兄──唾棄すべき路傍の野良犬──に奪われた衝撃
は、ただでさえ身体の自由を失った少年の心を、さらに深くえぐった。
 ユリウスがストリート・ギャングの育ちではなく、もっと普通の育ち方をした人間で
あれば違っただろうか。いや、そうではない。ユリウスの傍若無人ぶりはよりいっそう
彼に対する怒りと憎悪をあおり立てはしたが、たとえユリウスが今のような相手でなく
とも、ラファエルは彼を憎んだろう。
 なによりも欲するアルカードの隣に立つ権利、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
いう資格こそ、ラファエルの求めるものだった。ベルモンドの当主という肩書きは、
その前ではほとんど意味を持たない。
 アルカードを手に入れる、誰よりも彼に近いものとなる、それこそがラファエルの、
そしてこれまでのベルモンドたちが願い続け、かなえられなかった夢だった。その夢が
すぐ手の届くところまできていたというのに、奪われた。卑しい雑種、戦士の誇りも
矜持もかけらも持たない、あの至高の存在を雌犬呼ばわりして得々としている下劣な
男によって。
「……許さない」
 ラファエルが発したのか、それともボウルガード夫人が呟いたのか、判然としない
呟きが漏れた。
「許さない……許さない。あの男を許さない。ヴァンパイア・キラーは渡さない……
アルカードには触れさせない。あいつなんか死ねばいい。死んでしまえ。死んでしまえ。
死んでしまえ」
『死ね』

192: 煌月の鎮魂歌9後半 7/24 2016/07/31() 20:19:26 

 もはやどちらとも判別しがたい声がそろって言った。
 そのまま、部屋は沈黙にひたされた。ベッドサイドのランプが不安げに踊り、抱き
合ったまま動かない老女と少年の影を、異様に大きく拡大して壁に投げた。 


「まったく、ボウルガード夫人はどうしちゃったのかしら」
 不機嫌にイリーナが指を鳴らした。そばで白い虎猫が、同意するように桃色の口を
あけて小さく鳴いた。
「彼女がこんなに長いこと姿を見せないなんて。せっかく彼女のお茶がまた飲めると
思ってたのに、これじゃ起きたかいがないわ」
「きっとラファエルの世話で忙しいんですよ。それとも、あの女妖魔のことの後始末で
走り回っているか」
 穏やかに崇光は応じ、ポットを手に小さくなっているメイドに励ますようにうなずき
かけた。彼女はおずおずと微笑み、丁寧な手つきでカップに澄んだ茶を注いだ。
「ありがとう。ほら、飲んでごらんなさい、イリーナ、ボウルガード夫人のお茶とくら
べてもなかなかのものですよ。あとで、僕が日本から持ってきた緑茶を淹れてあげます
から、ご機嫌をなおしてください、お姫様」
 イリーナは運ばれてきたソーサーをむくれた顔で受け取り、ひとくちすすって、まあ
そう悪くはないわね、と不承不承呟き、縮みあがっていたメイドの胸をなでおろさせた。
 ニュイ女伯爵と名乗る女妖の襲来から、はじめての午後のお茶会だった。ようやく
ベッドを離れられるようになるが早いか、イリーナはさっそく一同に招集をかけ、待ち
望んだいつものサンルームでのお茶の集いを再会したのだ。
 とはいえ、まだ長い間座っていられるほど体力は戻っておらず、イリーナはいつもの
女王然とした大きな肘掛け椅子ではなく、いつもはユリウスが占めていたゴブラン織を
張った猫足の長椅子に横たわっている。しかし小さくとも女王はあくまでも女王であり、
泡のようなレースとリボンと幾重ものドレープとオーバースカートに飾られた彼女は、
人型をした豪華な花束を横たえたように堂々としていた。

193: 煌月の鎮魂歌9後半 8/24 2016/07/31() 20:20:04 

「あんな大物を送り込んできたっていうことは、相手もかなりせっぱつまっていると見て
いいのよね」
 イリーナはソーサーを支えたまま器用に姿勢を変え、寝転がった長椅子をさらに優雅に
かつ装飾的に占領した。肘掛けのところに腹這いになっていた虎猫が位置を変えて
背もたれの上に移動し、バーディが赤い羽毛を散らして女主人の肩にとまる。サファイア
色の小蛇はいつものように少女の細い手首でうつらうつらしており、口の開いたポシェ
ットから、小さな亀のとがった口が、お茶菓子のかけらを待って辛抱強く覗いている。
「いまは五月。あとほとんど一ヶ月しかないわ、ユリウスがヴァンパイア・キラーの使い
手として仕上がるまで。大丈夫なの、スーコゥ? 彼、ちゃんとできる?」
 まるで幼稚園の子供のことでも言っているような言いぐさだ。
 いつもの場所を奪われ、かといって女王のお気に入りであるところの肘掛け椅子に座る
ことも許されず、じゅうぶん快適ではあるがいささか見劣りのする一人がけのソファに
追いやられていたユリウスは、仏頂面でただ黙っていた。
 以前の彼ならば憎まれ口のひとつも叩いただろう。だが、あの地下の至聖所で眠るアル
カードを見、自らの真の心をつきつけられて以来、胸の奥にどうやっても解けない冷たい
塊が居座り、動かすことができなかった。
 アルカードの姿はない。もともと、この昼の光あふれるサンルームには姿を現すことが
あまりないのだが、あの地の底で眠る姿を見て以来、ユリウスはまだ彼を一度も見ていな
かった。
 主治医である崇光がリラックスした様子で茶碗を傾けているということは、もう側に
ついていなければならないほどの状態は脱したと考えていいのだろうが、それでも苛立
たしいような、それでいて恐ろしいような、不快な感じが腹の底に横たわる。
 今すぐ会いたい。会って無事を確かめたい。しかしいざ会ったとしても、何を言い、
どんな態度をとっていいのか、それがわからない。

194: 煌月の鎮魂歌9後半 9/24 2016/07/31() 20:20:44 

 少し前までは怒りと焦燥とともにあって簡単明瞭だったことが、あの一夜以来、焦げる
ような感情と苦痛は倍加したのに、まるで暗い霧の底に沈んでしまったように思える。
覗きこめば覗きこむほど混迷に引きずり込まれ、とるべき道もわからず立ちすくむしか
なくなるのだ。
 それをつきつけた当人である崇光はいつもの穏和な仮面をまたかぶりなおし──今では
ユリウスも、その柔和な微笑が本来の鋭利で冷徹な知性を覆い隠すためのものだと知って
いる──少し困ったような顔で、イリーナにサンドイッチとスコーンを盛った皿を回して
いる。
「まあ、技術的にはそこそこちゃんとしていますね。アルカードもそれは認めています
し」
 こちらも、反対側の隅でふてくされているユリウスなどいないかのような調子で答えた。
「ニュイ女伯爵の件は、被害もありましたが、使い手としての彼の資質を試す試金石と
しては充分すぎるほどでしたよ。尋常の能力では、あの妖女との戦いで生き残ることは
できませんでした。ただ問題は、鞭に宿る英霊が彼を認めるかどうかですがね」
「英霊ってのはなんだ」
 無視されつづけていることについに我慢できなくなり、ユリウスはかみつくように口
をはさんだ。二人はいっせいにユリウスを見た。まるで、なんだおまえそこにいたのか
とでも言いたげな目つきだった。
「英霊というのは、これまで聖鞭を握ってきたベルモンドの歴代使い手の魂ですよ。
その記憶、というべきでしょうかね」
 崇光が説明した。
「ヴァンパイア・キラーの使い手は、単に技量に優れているだけでなれるというものでは
ありません。最終段階として、実際にヴァンパイア・キラーそのものを手にし、そこに
宿った歴代の使い手たちに認められる必要があるのです」

195: 煌月の鎮魂歌9後半 10/24 2016/07/31() 20:21:20 

「それじゃ、俺はたぶん不合格だな」
 そっけなくユリウスは吐き捨て、足を投げ出して腕を組んだ。
「どうせ、野良犬育ちの小汚い雑種だからな、俺は。お高くとまったベルモンドの英雄
様方が、そこらへんの雑種なんぞを認めるはずがない。残念だったな、当てが外れて」
「血統の純粋さは問題ではありません。問われるのは、心の有りようです」
 静かに崇光は言った。
「聖鞭を振るうのにふさわしい魂の持ち主かどうかは、鞭と、英霊たちが決めることです。
僕たちには推測することさえ許されていません。あなたもですよ、ユリウス」
 見据えた眼鏡の奥の瞳に、彼本来の鋼のような光がうすく宿った。
「アルカードでさえ、鞭の決定に関与することはできないのです。あなたはアルカード
によって鍛えられ、鞭の保持者としてまずは合格と言える力量を身につけた。言えるの
はそこまでです。あとは、鞭の与える試練を乗り越えたあと、あなたがまだ正気でいる
かどうかでわかります」
「正気?」
 いささかぎょっとしてユリウスは問い返した。
「それはどういう意味だ。鞭の試練だって?」
「言葉の通り、試練ですよ。それ以上でも以下でもない」
 崇光は視線をそらし、さめたお茶を飲んで眉をひそめ、自分で新しいのをもう一杯
そそいだ。
「それについて語ることは別に禁じられてはいませんが、それがどんなものかは、受け
たもの以外知ることができません。試練をくぐって鞭の所持者となった者は試練につい
ては口を開かず、なれなかったものは永久に言葉を失うからです。まあ、廃人になった
ところで、生活はきちんとベルモンド家と〈組織〉が保証しますから心配することは
ありませんがね」

196: 煌月の鎮魂歌9後半 11/24 2016/07/31() 20:21:58 

「廃人?」
「何人かはいたのよ。ベルモンド家でも、それ以外の血統でも。聖鞭を奪って自分が頂点
に立ち、〈組織〉と権力を手に入れようとする人間が」
 返事ができずにいるユリウスに、退屈そうにイリーナは言った。
「でも、例外なしにそういう輩は鞭に拒否され、手厳しいしっぺ返しを受けたわ。運が
よくて即死、悪ければ心神喪失、発狂、廃人」
 頭をこすりつけてくる虎猫に目を細め、サンドイッチのピクルスを亀の口に放り込んで
やりながら、なんでもないことのように続ける。さっそくぱくりとのみこんだ亀はすっぱ
さに驚いたようににゅっと首を伸ばし、しゅっとハンドバッグにひっこんだ。
「ベルモンド家の家長が代々聖鞭の使い手をつとめてきたのは単に血統だけの問題じゃな
いのよ。ベルモンド家の者として厳しい教育と訓練に耐え抜いた者だけが、試練を通過で
きる強靱な精神を持ちうる確率が高いから。それだって、単に確率が高いというだけ。百
パーセントじゃないの。
 過去には、ベルモンドの正統の長子であっても、試練に耐えられなくて死んだり狂った
りした人間の記録がいくつも残ってる。あなたがどちらになるかはあなた次第ね、ユリウス」
 一瞬、ユリウスは二人の言葉の中に悪意や中傷、脅しの響きをさぐろうとした。だが、
そんなものはどこにもなかった。二人はたんに事実を述べているだけであり、ユリウスが
これから直面しなければならないことに対して、多少の情報を与えているだけなのだ。
「まあ、あなたが合格することを期待していますよ」
 崇光は言った。

197: 煌月の鎮魂歌9後半 12/24 2016/07/31() 20:22:35 

「むしろ、祈っているといってもいいですね。あなたが倒れれば、もうほかに鞭の使い手
になれる者はいない。今からまた探し直して訓練する時間もない。あなたが廃人になって
戻ってくれば、それでこの世は終わり。魔王の侵攻は止められず、世界は闇のものとなる
でしょう。なにしろあと一ヶ月、それだけしか時間はないのですから」
 明日の天気のことでも話すような淡々とした口調だった。多少哀れんでいるような響き
すらあった。ユリウスは両膝に手をつき、渡されたまま手をつけていない茶碗の底に目を
落とした。さめた紅茶の表面に、自分のやせた厳しい顔が見えた。まるで他人のもののよ
うだった。


「アルカード?」
 がむしゃらな鍛錬をひとりで終えて自室に戻ってきたユリウスは、予想もしなかった
人物の影を扉の前に見つけて動揺した。
 アルカードは静かに顔をあげた。
 いつもの大きすぎる白いシャツに、細身のスパッツと古風な革靴を身につけている。
輝く銀髪は廊下の薄明かりの中でも自ら光を放つように見え、光輪にふちどられた白い
顔は以前と変わらず平静で、なんの感情もうかべていなかった。
「ようやく崇光に出歩く許可をもらった」
 低くやわらかい声がユリウスの耳朶を擽った。背筋に快い震えが走り、ユリウスは
なぜかその場で背を向けてあとも見ず逃げ出したくなった。
「鍛錬の相手ができなくてすまなかった。だが、見たところ確実に腕は上がっている
ようだ。おそらくニュイ女伯爵と戦ったときよりもはるかに強くなっている。私が
教えるべきことも、もうさしてないようだな」

 

 

198: 煌月の鎮魂歌9後半 13/24 2016/07/31() 20:23:13 

「何をしにきた」
 恐ろしく間の抜けた質問をした、と気づいたのは言葉が口から出てしまってからあと
のことだった。アルカードはけげんそうに目を細め、首をかしげた。細い眉のあいだに
わずかにしわが寄った。
「私はお前の雌犬なのだろう?」
 その単語がアルカードの口から出ることがひどく奇妙だった。なんの怒りも嫌悪も
なく、ただの一単語として発されるのはなおさら。何度も自分で口にし、嵐のような
情事の最中にも強いて叫ばせたにもかかわらず、ユリウスはひどく動揺した。 
「ユリウス?」
 アルカードは扉の前で待っている。
 ユリウスは白く輝く影から無理やり視線をひきはがし、大股に歩いて扉の前まで行く
と、乱暴にアルカードをおしのけた。触れた腰の細さがはっきりと手のひらに感じられ、
指がひきつるように思った。いったいこれほど脆そうな美しいものに、なぜあんな扱い
ができたのだろう。
「ユリウス」
 扉をあけて自分だけが入り、そのまま閉めようとするユリウスに、アルカードは
あわてたようにしがみついてきた。
「何を怒っている? 来られなかったのはすまなかった。崇光がなかなか地下から出る
許可をくれなかったのだ。一昨日にはもう起きられていたのに、崇光があくまでもう
しばらく休養しろと言い張って。けれどもお前との約束があるから、あまりに長く閉じ
こもっていることはできないと思ったのだ。だから」
「もういい」
 振り返りたくなるのをこらえるのには相当な意志力が必要だった。アルカードの指が、
迷子の子供のように袖をつかんで離れない。振り払って突き放し、扉をしめてしまえば
それですむ話だと考えながら、どうしてもそれができない。

199: 煌月の鎮魂歌9後半 14/24 2016/07/31() 20:24:10 

「……ユリウス?」
「もういいと言ったんだ」
 歯ぎしりのようにユリウスはようやく言葉を絞り出した。
「もうここには来なくていい。勝手に自分の部屋へ行って寝ろ。俺は一人で寝る。訓練
で疲れてるんだ。ほっといてくれ」
「ユリウス」
 袖をつかむ手にぎゅっと力がこもった。
「どうして怒っているのだ? 約束を守れなくて悪かった。それは何度でも謝る。あそこ
まで消耗するとは、自分でも予想できなかった。だがもう大丈夫だ。私は耐えられるし、
お前との約束だ。いらないというのなら、理由を教えてくれ。ユリウス」
「飽きたんだよ」
 言葉は苦い薬をなめたように舌を刺した。自分の一言一言が自らの胸をえぐっていくの
を感じながら、ユリウスは懸命に部屋の奥に目を据えつづけた。振り返ってしまえばたち
まち意志は崩れて、無我夢中ですがりついてしまうことがわかりきっていた。
「あんたに飽きた、それだけだ。理由なんかほかに要るのか? あんたには山ほど大事に
してくれる相手かいるんだろう、そっちへ行って世話をしてもらえ。もうたくさんだ。俺
は一人になりたいんだ。もうあんたなんかうんざりだ、さっさとどこへでも行ってしまえ」
 袖をつかんでいた手がゆるみ、力なくすべり落ちた。
 そのまま扉をくぐれ、とユリウスは自分に命じた。すがりつく手を振り払って力まかせ
に扉を閉め、まぼろしの月と自分を、永遠にへだててしまうのだ。
 けれども、できなかった。手が離れるのに引かれるようにして、ユリウスは振り返って
しまった。
 アルカードは両手をだらりと垂らし、なすすべのない子供のようにただ立っていた。
ほとんど表情を表さない彼が、いまは行き場をなくしてとほうに暮れた少年の顔をしていた。

200: 煌月の鎮魂歌9後半 15/24 2016/07/31() 20:24:58 

「ユリウス」
 アルカードは言った。
「私は人が本心からその言葉を言っているかどうかくらい判別できる。お前はなにかに怒
っている。愛想をつかしてもいる。けれどもそれは私にではない。では、いったい何なの
だ? 私にはそれがわからない。私に飽きたのでないなら、どうして帰れなどという? 
本当にここにいてもらいたくないというのなら帰る。だが、お前の心はそれを望んでいな
い。いったい、私はどうしたらいい?」
 進退窮まってユリウスは戸口に立ちつくした。            
 アルカードは青く冴える瞳をまっすぐに向けて、ユリウスの返事を待っている。この
月の前では偽りも虚勢も通用しないのだ、とユリウスは思った。青と黄金に映える彼の
瞳は、望むと望まないにかかわらず、真の心と思いを読みとってしまう。
 ユリウスは唇をかみしめ、ぐいとアルカードの手首をつかんだ。自分がためらって
しまわないうちに一気に部屋にひきずりこみ、扉を閉める。引っ張り込んだ勢いのまま、
ベッドの上に放り投げるように投げ出した。手もなく倒れたアルカードが身を起こし、
命令を待つように乱れた髪の頭をあげる。
 ユリウスはそのまま、どっかとアルカードの隣に腰をおろした。
 いつものように奉仕を強制されるものと思っていたらしいアルカードは、またけげん
そうに首をかしげ、動きを止めた。
 ユリウスは言った。
「鞭の試練の話を崇光から聞いた」
 かすかにアルカードの頬がひきつった。ユリウスは続けた。
「死か廃人の危険があると、言われた」
 アルカードは口を結んで視線をそらしている。こわばった肩がそれとわからないほど
震えていた。
「俺は、どっちになると思う。死人か、よだれを垂らした生きた屍か」
 アルカードはかなり長い間黙っていた。ユリウスは彼の性にこれまでなかったことだが、
返事が来るまで辛抱強く待ち続けた。

201: 煌月の鎮魂歌9後半 16/24 2016/07/31() 20:25:42 

「……どちらにも、ならない」
 息の詰まるような沈黙を、アルカードがようやく破った。
「お前は試練を乗り越える。お前は生きて戻り、聖鞭の所持者として戦う。私とともに」
「なぜわかる?」
 あざけるような口調になるのを抑えられなかった。崇光の冷ややかな目と声、お前は
けっしてアルカードの目に本当に映ることはないと告げられたあの言葉が脳裏で皮肉に
唸った。
「俺があんたにどういう扱いをしてるかはわかってるよな。これまで、どんな生き方を
してきたかも」
 アルカードはうつむいて答えなかった。
「おきれいな英雄様とはほど遠い、ごみ溜め暮らしの野良犬だ。罪のある人間も、ない
人間も、山ほど殺して踏みにじってきた。それでもなんとも思っちゃいなかった。ほしい
ものはなんでも手に入れてきた」
 お前以外は、と心の中でつぶやく。この、人の姿をした月以外は。
「そんな人間でも、鞭とやらは使い手として認めるのか? 俺はベルモンドの血を引い
てるのかもしれないが、私生児で、しかもとんでもない悪党だ。悪魔だって顔をしかめ
るくらいだ。俺は赤い毒蛇と呼ばれてた。覚えてるか。あの街で、あの地下室で」
 横に置かれたアルカードの手を、ユリウスはきつく握りしめた。アルカードが小さく
眉を寄せたほどの強さだった。
「俺があんたにしたことを。まさか忘れちゃいないよな?」
 手の中で白い指がぴくりとする。
 そのまま、この作り物のような手を握りつぶしてしまいたい衝動に駆られる。半吸血鬼
に対してただの人間の力がむろんかなうわけはないのだが。あの暗い地下室でも、アル
カードはいつでもユリウスの首をへし折り、そのまま平然と出てこられたはずだ。四つん
這いになって獣のように犯されなどせずとも、すぐに。
「……私は、知っているからだ」

202: 煌月の鎮魂歌9後半 17/24 2016/07/31() 20:26:27 

 また長い沈黙があった。ぽつりと、アルカードが呟いた。
「何をだ?」
「お前の魂」
 アルカードはふいにまともにユリウスを見つめた。
 澄みきった蒼氷の双眸に自分が映るのを見て、ユリウスは自分でも思っていなかった
ほど、はげしく動揺した。
「お前の、真の精神の姿」
 アルカードは言った。
「私は長く生きてきた。人の知らないもの、けっして知ることのないものも、多く見て
きた。お前は鞭にふさわしいものだ、ユリウス。聖鞭はお前を受け入れる」
「ずいぶん自信がありそうだな」
 動揺を抑えてユリウスは吐き捨てた。
「そいつは事実じゃなく、願望ってやつじゃないのかい。俺がダメになればもう鞭の
後継者はいなくなる。あの日本人は言ってたぜ、そうなりゃ世界は終わりだってな。
まあその時には俺は死んでるか狂ってるかだから関係もないだろうが、あんたたちにと
っちゃ、俺が試練とやらに合格して暮れなきゃ困るってわけだ。はたしてそううまく
いくもんかね」
「私はお前を訓練し、お前を読み、お前を知った」
 アルカードは動じなかった。
「私は願望と事実の違いを理解している。私はお前が鞭にふさわしい者だと確信した
からこそこの場に迎え入れたのだ。ベルモンドの血は資格のひとつに過ぎない。聖鞭は
資格者の魂を読む。私は理解する、お前を──」
「──あんたに何がわかる!」
 ついに耐えきれなくなって、ユリウスは叫んだ。
 アルカードがそれとわかるほどぴくりと身をすくませる。
 ユリウスは彼の顔に目を据えた。美しい、美しい、遠い遠い月の顔。

203: 煌月の鎮魂歌9後半 18/24 2016/07/31() 20:27:12 

 魂の底まで読みとる力を持ちながら、その実、なにひとつ理解しようとしない。理解
することができないのだ。その視線はつねにあまりにも遠く、はるかな昔しか映すこと
はない。
「……何がわかる」
 力なくユリウスは繰り返し、アルカードの手を離した。
 こわばった指をはがすのには非常な努力を要した。一本一本をはがすごとに、生皮を
はがされるような痛みが胸を突き刺した。
 アルカードは大きく目を見開いたままじっとしている。呆然とした様子で、つかまれ
た腕を無意識にさすっていた。手首に浮いた指の形のあざは急速に薄れてゆき、ユリウ
スが完全に手を離しておろすと同時に、もとどおりの白いしみ一つない肌にもどった。
 酷いやるせなさがユリウスの腹を重くした。
「話をしろ」
 気まずい雰囲気を払うように、ぶっきらぼうにユリウスは言い、長靴を蹴って脱いで
部屋の隅へ放り投げ、ごろりと寝転がった。
「話……」
「このくそいまいましい屋敷ときたらテレビもラジオもありゃしない。なんでもいいから
話でもしろ。ラジオの代わりにゃなるだろう。こっちは疲れてるんだ。どたんばたんやら
かすよりはくだらん話でも聞いてる方が楽だ。好きなことをなんでも話せ。くだらなかろ
うがばかばかしかろうが、多少の退屈まぎらしにはなる」
「……好きな、こと」
 アルカードはよけいとまどったようだった。寝転がったユリウスの隣に自分も寝たほう
がいいのか、それともそのまま座っていたほうがいいのかわからないようで、中途半端な
姿勢で動きを止めている。
「……そう言われても、何を話していいのかわからない」
「あんたは長く生きてるんだろう。四百年だか、五百年だか。そんだけ生きてりゃなにか
話題くらいあるだろうが。まさかずっとここの屋敷にとじこもって生きてきたわけでもあ
るまいに」

204: 煌月の鎮魂歌9後半 19/24 2016/07/31() 20:27:57 

 アルカードはうつむき、かすかに頬をこわばらせた。ユリウスはひそかに自分をのの
しった。おそらく、ここで生きてきた間、それ以前に彼が生きていた場所、それらの中で、
語れるような楽しい思い出など数えるほどしかないのだろう。触れて痛みを与えないよう
な記憶は。
「あのなんとかいう女妖魔、あんたを知っていたみたいだったな」
 ほとんど手探りで、ユリウスは話の接ぎ穂を求めて言った。これがアルカードの心を
痛める記憶でないことを祈った。もっとも訊きたいこと──壁にかけられた、あの顔に
傷のある肖像の男──に関することは、けっして触れてはならないのだとわかっていた。
あの金の指輪はまだ、机の引き出しの奥に、厳重に布にくるんでしまわれている。
「ニュイ女伯爵……」
 アルカードは呟き、首を振った。
「……彼女も、……彼女も、昔はあれほどの異形でも、邪悪でもなかった。父の狂気に
巻き込まれて、本来の魂を失ったのだ」
 ユリウスは頭の後ろで手を組み、続けろ、と顎で命じた。アルカードはときおりつっ
かえながら、遠い過去から言葉をすくい上げるように、ゆっくりと話しつづけた。
「私はかつて、父の宮廷で彼女と踊ったことがある。まだ、ほんの少年のころだった。
私を嫌う貴族たちも多かったが、彼女は私にやさしくしてくれた。小さい私を軽々と
振り回し、くるくると広間じゅうを踊り回った。曲が終わって、目を回しかけながら
礼をしようとする私を支えて、すてきなひとときに感謝いたしますわ、小さな公子様、
と微笑んだ。
 ああ、あのとき彼女は綺麗だった。人間の貴婦人の姿をとって、髪に青い鋼玉と緑柱
石の髪飾りをつけていた。広間には精霊たちが明かりのかわりに飛び回っていて、雨の
ようにきらめく髪飾りにまつわりついて遊んでいた。集まった皆は笑いさざめき、上座
に座った父と母は、手を取り合って寄り添っていた。

205: 煌月の鎮魂歌9後半 20/24 2016/07/31() 20:28:37 

 母は父の肩に頭をあずけ、父は母の肩を抱いていた。魔王と呼ばれてはいたが、父は
寛大であり、王侯としてふるまうことを心得ていた。宮廷の皆が楽しむことを喜んでいた。
何よりも、それによって母が楽しむことを喜んでいた。父にとって母は唯一であり、母
にとっての父も唯一だった。人間と吸血鬼、ささげられた人間と魔王という関係では
あっても、二人が愛し合っていることは子供の私がいちばんよくわかっていた。私は、
二人の愛が形をとったものだったのだから。
 私は母の膝に座り、父の手に頭を撫でられた。冷たい手だったが、私は幸せだった。父
は私を愛し、母も私を愛してくれているのがわかったからだ。私は父の顔を見上げ、
彼が微笑しているのを見た。今でも覚えている。めったに笑うことのない父だったが、
母がそばにいる時だけは、彼は笑うことができた……」
 はじめのうち、ためらい、途絶えがちだった言葉は、したたり落ちる滴からしだいに
小石のあいだをぬって流れる細流れになり、やがて、とぎれることなく流れる川になり、
夢のように歌いながら記憶の河をたどる大河となった。
 そこではすべての伝説とおとぎ話が現実であり、小さな妖精や魔法の生き物、醜い
小鬼や皮肉っぽい人外の貴族たち、影のように床の上をすべっていく亡霊、霞のような
裳裾をひいて歩き回る妖精の侍女たちが、魔王の影の城の中で優雅に輪舞を踊っていた。
その中心には常に魔王ドラキュラと、その妃、誰からも愛され、誰をも愛した美しい女性
がいた。
 長い年月にうみ果てた魔王の物憂げなまなざしは妻子に目を向けるときだけ生気を
帯び、かつて人間だったころの光をとりもどした。銀色の髪の公子は父の膝によりかかり、
人類は知らず、この先もけっして知ることのないであろう数々の秘密を聞いた。そばには
兄弟のように育った二人の少年がいた。彼らは人間ではあったが、強力な魔力をその身に
宿していた。三人は闇の深奥の秘儀を学んだあと、歓声をあげて城の庭に走り出た。

206: 煌月の鎮魂歌9後半 21/24 2016/07/31() 20:29:17 

 そこでは王妃そのひとが、笑顔と、お菓子のたっぷりのった食卓を準備して待っていて
くれた。少年の片方の妹も、ふっくらした頬を上気させて心から崇める貴夫人につき
従っていた。蝶やとんぼの薄い羽根をふるわせる小妖精たちに囲まれて、子供たちは
本当のきょうだいのように食卓を囲んだ。小さな公子は母の胸にもたれ、やさしい笑い
声を聞きながら、蛍のように飛び回る妖精たちの羽根がひく光の筋を見上げた……
 アルカードの声は低く、しだいに、その意識の中からユリウスの存在も、現代という
時代も消えていくようだった。空中に向けられた彼の瞳はほのかな金色を帯びていたが、
戦いの時の燃えるようなそれではなく、夕映えの空を映したようなおだやかな光だった。
 遠い昔に失われ、永遠に破壊されてしまった幸福な時代を、いまひとたびかつての公子
は生きていた。ユリウスは顔を天井に向け、目を閉じた。心地よい清水のように、アル
カードの声が胸に染み渡る。引き込まれるように、いくつかの場面が脳裏によみがえって
きた……
 母が死んでしばらく、頼るもののない自分を世話してくれたのは元どこかの教師だった
とかいうアルコール中毒の老人だった。彼がねぐらにしていた立ち上がれば頭をぶつけそ
うな屋根裏部屋は、床から天井まで古本とごみ屑で埋まっていた。ほとんどは酔って正体
を失っていたが、たまに比較的しらふな時には、教師だったことを思い出すのか、どこか
で雑誌や捨てられた広告を拾ってきて、ユリウスに読み方を教えてくれた。
 彼が泥酔してごみためのような寝床でいびきをかいている深夜、空腹で眠れずにいると
き、たったひとつの逃げ道は読むことだった。積み重なった古本や茶色くなった雑誌や写
真の束から手当たりしだいに引っ張り出し、読める単語を拾い読みした。わからない単語
は読み飛ばすか、前後の意味からだいたいあてはめて読んだ。
 しゃれたドレスを着てポーズをとった美貌のモデルに、うっすらと昔、こんな人がそば
にいたことを思った。しかしすぐにそれは踊る男と血まみれの肉塊の記憶に覆い隠され、
あわててその写真は棚の奥につっこんだ。

207: 煌月の鎮魂歌9後半 22/24 2016/07/31() 20:29:56 

 いちばん安全なのは文字だった。古い本の古い文字、いま自分がいるここからは遠く離
れた場所や、別の世界のことを書いた文字がいい。そこにはナイフを持った恐ろしい狂人
はいない。手足をへし折られ、顔もわからないほど踏みつぶされる女の死体もない。
 かろうじて天井に開いた天窓はほこりまみれで、煤煙とやにですりガラスのように
なっていた。それでも月の光は入ってくる。冷たく冴えた満月は、黄色い電球の濁った
光よりずっと清浄でやさしい。
 昼間の熱気は夜になってもさめず、むっとした空気の中にアルコールと吐瀉物と垢の
すっぱい臭いが入り交じる中で、小さい赤毛の子供は無心に本の中の別世界にもぐり
こんだ。雄々しい英雄たちが人喰いの怪物を退治する世界。美しい人々が行き来し、
神話の動物たちが駆け回り、正義が行われ、悪は罰され、よい人間が幸福を得る世界。
外の世界とはあまりにも違う、あまりにも、正しい世界。
 その正義と理想の物語など、たかが夢だと笑い飛ばすことを、いつから覚えてしまった
のだろう。
 ふと目を開くと、アルカードはまだ静かに語りつづけていた。ただ、上体がわずかに
ゆらぎ、ゆっくり前後にふらついている。やはりまだ、体力が戻りきっていないらしい。
長時間座って話し続けて、疲れたのだろう。
 ユリウスは肘をついて身を起こし、アルカードの腕をとった。
 驚いてアルカードは話しやめ、問いかけるような視線を向けた。かまわず、ぐいと引く。
細い身体はかんたんに倒れて、ベッドの上に転がった。
「余計なことは考えるなよ」
 いらぬ気を回される前に、ユリウスは釘を差した。
「俺はあいにく、しゃべりながら居眠りしかかるような奴を抱くような趣味は持ってない
んでね。そのまま黙って寝ろ。じゃなきゃ、自分の部屋へ行って寝ろ。俺はどっちでも
いい」

208: 煌月の鎮魂歌9後半 23/24 2016/07/31() 20:30:36 

 アルカードはしばらくベッドに頬を埋めたまま目を丸くしていたが、やがて睫を伏せて、
小さく、ここでいい、と呟いた。
「ここで寝る。ひとりは、……好きではない」
 ユリウスは無言で腕をのばし、アルカードを引き寄せた。
 腕に収まる身体は、驚くほど華奢だった。何度もわしづかみにした肉体がこれほど
か細いことに本当には気づいていなかった自分を、ユリウスはいぶかった。あれほど
夢中でむさぼったのと確かに同じ身体なのに、なんと壊れやすく、小さく感じられる
のだろう。
 柔らかな銀髪が顎の下に触れる。髪は夜と、月の匂いがした。冷たくかすかに苦く、
ハッカのように涼しい。
 ユリウスの胸に頭を寄せたとき、もうアルカードの目は閉じかけていた。長い睫が
頬におり、吐息が首筋をくすぐった時、かすかな記憶の一片が心をかすめ過ぎていくの
をユリウスは感じた。
 疲れと、昔の記憶で呼び起こされた、かつての思い出のかけら。わずかとはいえアル
カードに血を与えたつながりが、アルカードの夢のひときれを運んだのだろう。
 アルカードは誰かの腕に抱かれて眠っていた。太い腕が頭の下に置かれ、たくましい
胸に髪をよせかけている。あたりは暗い森、焚き火が揺れ、馬が蹄を踏み換える音が
する。強く確かな鼓動が聞こえ、熱い体温としみついた革の匂いが、たとえようもない
安心感を運んでくる。

209: 煌月の鎮魂歌9後半 24/24 2016/07/31() 20:31:38 

 ユリウスは歯を食いしばり、もう寝息を立てているアルカードをきつく抱きしめた。
 いまお前のそばにいるのは俺だと叫びたかった。遠い昔に死んで埋められた男ではなく、
俺が、お前を抱いているのだと、ゆさぶり起こしてでも知らせたかった。
 しかし、できなかった。ユリウスはかたく目を閉じ、安らかに寝息をたてるアルカード
の髪に頬を当てて、流れ込んできた記憶を塗り消そうと努力した。眠りにつくアルカード
を見下ろすその顔、濃い色の髪、ベルモンド家の特徴をそなえた精悍な顔立ち、深く青い
瞳に、左目をたてにかすめるような傷痕をもった、その男の、愛のこもった微笑を。