Awake 3

 

 

31 Awake 3話(1/242013/09/20() 05:24:43

――ヴァチカンであのように詰られたからと言って、やはり今のお前は危うすぎる。
「俺の親父だ。俺が助ける」だって? まるで吸血鬼ブームに乗っかったハンターもどき
のような言動じゃないか。確かに師匠が捕われた事は痛手だがチームを組んで仕事として
いる以上、英雄譚のように突出する性質の物じゃない。だからこそ力を併せて事に当るの
が望ましいのに一人で為そうとするなんて……
いや、やはり俺は一人でいるのを恐れているのか? 今まで一人でヴァンパイアを討伐し
た事なんて無かったから。
「怖いか……そもそも何故あそこまで言われて、詰られても俺はあいつを求め愛し続けよ
うとしているのか……
 だが、今は夢想している余裕などない。魔性の生き物は城に侵入した血肉を凄惨に屠る
ためネイサンに向かってありとあらゆる攻撃を仕掛けてきた。
「クソッ! 次から次へと飽きもせず! 一体どこから湧いて来るんだこいつらは!?」
 しかし身を守るために屠り返す事によって徐々に先程の恐怖は若干薄れ、薄暗い空間に
目と神経が慣れてきたのかネイサンはある程度眼前の敵を屠り尽すことができた。
 汗を拭いながらそれを確認すると今度は外に向けていた感覚が消失したせいで次の回廊
に繋がる鉄の扉を前にして足の痛覚が蘇ってきたが、捕らえられているモーリスの事を考えれ
ば立ち止まるわけにはいかないと奮起した。
 だが、魔のフィールドで身体が万全な状態ではないのに魔性の者の問答を受けたら反撃
する態勢が直ぐには取れず無残にも屠られると想像したネイサンは、己の内面を深く抉り問い
に対して反駁するための内容を考える事にした。
 己が自覚している罪――故郷では晒し者にされた挙句、刑場の露と消えるほどの淫蕩に
関するキリスト者の大罪、ヒューに対するソドムの罪に対して。

32 Awake 3話(2/242013/09/20() 05:26:04

「両親が死んだ日からあいつと同じ部屋で寝起きしていて、それでいつもあいつと一緒に
修行と討伐をして……
 ネイサンは回廊に続く重い扉を思案しつつ開きながら、まずはその起因を辿ることから始め
た。
「!?」
 ネイサンは扉を開けたと同時に飛び掛ってきた上に、何度も地中から蘇ってくるゾンビの群
れを片っ端から鞭で裂きながら進んでいった。
 その状況に彼は十年前、モーリスと両親が三人で立ち向かった時もこのような反自然的な事
が常にあったと考えると戦いながらもいつ自分が力尽きて屠られるか判らなくなり、背筋
が凍るように張り詰めて硬直する感覚が走った。

――
十年前のあの日、両親と師匠、そして俺達はドラキュラが復活する寸前のオスマントルコ
領に近い正教徒自治区の教会に滞在していた。
死者の復活、人で無い者が跋扈し人心を惑わして恐怖に陥れている様を見て、正教徒地区
に蠢いている恐怖の存在を取り除くのに土地の人間で無い上に正教徒で無い自分達の存在
に多少の不安はあったが、それでも適任者が自分達しかいない状況で彼らを見捨てる事は
出来なかった。
――
あの時、俺は死と隣り合わせじゃなかったけど、ずっとヒューと一緒に寄り添いながら
正教会の礼拝堂の信徒席に一晩中寝ずに座っていたな。
 俺達は示し合わせたわけでもないのに真夜中に教会にある宿舎の寝室を抜け出し、両親
の無事を祈るため礼拝堂へと向かった。
俺はひとりで立つのすら怖くて震えていたが、ヒューはそれを見ていたのだろう無言で俺の
手の平を握り締め「来い」と一言だけ発してから、縺れかけたたどたどしい俺の歩みに合
わせて連れて行ってくれた。

33 Awake 3話(3/242013/09/20() 05:27:20


 俺たち二人は親同士が僚友で物心ついた時から知っていたけど、俺自身は少しヒューの事
が苦手だった。
 あいつの一族の中でも傑出した素質を持っていて、子供なのに冷たい目で、いや、人を
見透かすように真っ直ぐに対面した人物の目を見る癖があって、何もしていないのに責め
られているようで嫌な気持になったことがしばしばあったから。
 よく覚えている。その日も今日みたいに外は突き刺さるような寒い風が吹き荒れていた。
 だから怯え余計に震えて鳥肌が立っていたが、不思議と握り締めたその手に安堵を覚え
た。
 俺の体温より温かかったこともあるだろうが、修行をしているからか柔らかい自分の手
とは違い、両親の手のような固い表面でタコが出来て傷だらけのあいつの手に、少し大人
に頼るような心持を覚えたからかもしれない。
 いずれにしろイコンと正教十字に縋るため、長い石畳の回廊をゆっくりとだが足音を極
力立てないよう礼拝堂へ俺達は向かった。
礼拝堂は祭壇に置かれた儀式用の長い蜜蝋の柔らかな灯りが揺らめきながら、その内部の
姿を幽玄な異界さながらに映し出していた。
俺達はその姿に心を奪われ暫らく手を繋いだまま呆然と立っていた。
 だが夜中に礼拝堂に立ち入るのは黒ミサと取られてしまう節があるので、無意識にそう
考えて誰にも見つからずに礼拝堂に入るしかなかったが、幸い見回りの修道僧がいなかっ
たのに安心した俺達は身廊(中央の廊下)を駆け抜け袖廊(祭壇側)の信徒席に手を繋い
だまま座って心の中で祈りを呟き始めた。
 しばらくして、俺は静謐の空間に何か不吉な知らせが舞い込んでくるような不安に駆ら
れて、耐え切れなくなり小声だけどヒューに訊ねた。「帰って……来るよね?」と。

34 Awake 3話(4/242013/09/20() 05:28:21

だけどあいつは俺を一瞥してから「ああ」とぶっきらぼうに一言だけしか言わなかった。
 それに俺はハンターの使命として目的が達成できれば人の生死などどうでもいいように
ヒューが見ているのでは無いかと少し憤って、語気を強めてまた訊ねた。
「ちゃんと答えてよ」
 だけど今度は俺をじっと見ながら繋いでいない方の手で、肩口まで伸びた髪を耳にかけ
てから俺の髪を無言で撫でているだけだった。その行動にはぐらかされた様で、とうとう
不安と憤りが頂点に達して涙をこぼし叫んでしまった。
「何か言えよ! お前だってモーリスおじさんの事が心配じゃないのかよ! こんな時にも澄
ました顔しやがって! おれの髪を撫でて慰めて余裕を見せ付けているつもりか!?」
 その声は礼拝堂内に木魂し、そして空しく収束した。ヒューは黒い目を丸く見開き、それか
ら「お前までそんな風に……」と涙声で小さく呟いた。
「俺だって、俺だって……今回ばかりは不安なんだ。だからお前と一緒にいる。そんなこ
と言われるなんて思ってもみなかったよ……
 いつも澄ました顔で大人に混じってハンターの修行をしているあいつが、「不安」と言
って泣いたのに俺は少し安心した。自分でも酷い感想だとは思ったが、俺と同じ子供なん
だと考えたとともに俺の苛立ちも少しは収まったから。
「ごめん……おれ、どうかしていた」
「エクソシスト、ヴァンパイアハンターの最大の敵である真祖ドラキュラと父さんやお前の両
親が今、この瞬間戦っているんだ。祈ろう。今の俺たちにはそれしか出来ないんだ」
 そうヒューが言ったのを最後に永遠と思えるくらいの時間を、そして静粛を破る足音が聞
えるまで俺達は互いの親の安全を祈った。
 ステンドグラスの填っていない窓から見えた光景からだと夜が白み始めた頃だったろう
か、石畳を一人か二人くらいの駆ける足音が聞え礼拝堂のほうへ近づきつつあるのに気付
き俺達は身構えた。

35 Awake 3話(5/242013/09/20() 05:29:28

「誰か来た。隠れよう」
 ヒューはそう言って扉が開くと咄嗟に俺の服の袖を引っ張り、俺達は側廊(礼拝堂内にあ
る端の通路)の柱へ身を隠して様子を窺った。

 扉の向こうから現れたのは二人分の影で、その二人は小声ながらも怒張を孕んだ様子で
話し合う師匠と輔祭(正教会主教、司祭の補助役)だった。
 輔祭は連日、魔物に襲われ傷ついた村人達に治療を施していて血糊で濡れた黒い修道服
の袖を捲り上げ、同じく衣服や身体に誰の血とも判らないくらい血を浴びた師匠と対話し
ていた。
「その話は余り他の連中には聞かせられぬから詳しく話せ」
「では……
輔祭は師匠に青ざめた顔を向け焦った様子で、詰問するような切羽詰まった口調で早口で
訊ねた。
「ねぇ? おれの父さんと母さんは……?」
「しっ」
ヒューと俺は内容を聞き取ろうとしたが、祭壇側にいた二人と側廊の柱に身を隠していた自分
達との距離が遠いのでよく聞えなかった。しかし徐々に耳が慣れてきた頃、輔祭が言った
言葉から礼拝堂に怒声が満ちる光景が現れた。
「して、お主は彼らの関節や筋を切ってから帰ってきたのか?」
「そんな! 説明したでしょう! グレーブスは胸骨が皮膚から突き出て夫人は切り刻まれて
いるんだ! それ以上の損壊をする必要は無い!」
 だけど俺もヒューもずっと祈っていたせいか分からなかったけれど、運の悪いことに教会に
避難していた村人の一人が偶然にもその会話を聞きつけてしまい色をなして駆けて行った
村人に気づいた輔祭は、これ以上騒ぎ立てることの無いよう宥めすかしていたが、そのや
り取りに数人の村人が集まり始めた。

36 Awake 3話(6/242013/09/20() 05:31:15

「ハンターの片割れが死んじまっただとぉ!? しかもおめぇ立ち上がってオラたちに悪
さしねぇように筋を切んなきゃいけねぇのに、やってねぇだって!?」
 輔祭はこれ以上抑制できないと思ったのだろう、最後には「準備を」とだけ村人に伝え
側廊側の扉から村人たちを帰した。
「何故だ!? 我らは討伐前にカトリックの信徒と明言した。それを受けて死したら棺を
正教の地に残さずカトリックの地に土葬する手筈を整えると貴方は仰ったではないか!?」
 師匠は約束を反故にされた事に憤りを感じたのか、いや俺だってこの時の師匠の立場で
あれば怒りを感じない事はなかっただろう。しかし、その後がいけなかった。輔祭は師匠
の逆鱗に触れる言動を取ってしまった。
「だが、この土地は正教徒の土地だ! ヴァンパイアによって斃されたハンターはすべか
らく此処のしきたりによって浄化せねばならん」
 当たり前じゃないかというような風情で肩を聳やかしながら両手を広げるといった人を
小馬鹿にする仕草をし、次第に険しい顔で悪意のある口調で話し始めたからだ。
「如何にローマ・カトリックの信徒が腐らない遺体を聖体として崇めていても、この土地
での不朽体は不浄そのものだ!」
 師匠はその時、心無い輔祭の言葉に二人を助けられなかった悔しさと己の体の痛み、そ
れらが交錯したのだろう気付かないうちに彼の黒いフードを両手で力任せに締め上げた。

「手を拱いて見ているだけ、震えていただけの人間に命を賭して戦った者を辱めるなぞ!
 貴様それでも人か!?」
「カハッ……おのれぇ……血迷ったか……!?」
 その声と赤黒く変化した輔祭の顔の色に正気を取り戻し、師匠は締め上げていた手を緩
めたがその頬には止め処も無い涙が流れていた。

37 Awake 3話(7/242013/09/20() 05:32:10

「如何にそれが正教徒の後始末だとしても俺は認めん……認めんぞ」
 首を激しく横に振りながら師匠は背中を丸めて咳き込んでいる輔祭の足元に跪き、呪詛
を唱えるかのごとく何度も茫漠とした目で呟いていた。
 正教の土地においてヴァンパイアによって斃されたハンターはヴァンパイアに成ると信
じられていた。
 そして討伐したヴァンパイアより強い力を持つため、法律の死体損壊罪を無視して秘密
裏に処理される。大概は興奮とパニックに陥った民衆が騒ぎ立てて勝手に行う事が多かっ
たが、逆に聖職者は教区に犯罪者が発生する事態を防ぐために説得をするのが常であった。
 師匠とてこの土地に足を踏み入れた以上その事は重々承知していたが、いざ僚友が目の
前で命を落とし、自身も血だらけで疲労している状態で正気や理性など意味を為さず、結
果はどうであれ守るべき人々に対して手を挙げようとした己の自制心の脆さが許せなかっ
た、と言っていた。
「嘘だ……そんな」
 ヒューが狼狽した顔に両親が死んだ事を確信した俺は、ヒューに正面から取り縋り小さく呟く
と双眸から滂沱の涙を流した。
「じゃあ、父さんと母さんは……? 死んじゃったの……? それに浄化って?」 
「聞くな」
「教えてよ」
 ヒューは一瞬目を俺から背けてきつく自分の唇を噛んだ後、俺の目を真っ直ぐに見て一呼
吸置いて言い辛そうに言葉を発した。
「お前には辛いかも知れないが……グレーブスおじさん達は皆の前で筋を切られ、火葬され
る。本当はあの坊主が村の連中を止める役割のはずなのに……畜生、自分が先頭に立って
後始末を指揮するらしい」
「嫌だぁぁあー! そんなのっ! そんなの……うわぁああぁあぁ――……
「誰だ!?」
 輔祭が大声で問いかけた事に俺は体が縮み上がり、咄嗟にヒューの背後に回って祭壇側を
見た。

38 Awake 3話(8/242013/09/20() 05:32:55

「ヒュー……それにネイサン。何故ここにいる!? 何故大人しく寝ていなかったんだ!?」
 師匠は先ほどの醜態を俺達に見られたと思った事で少々気恥ずかしくなったのだろう声
を荒げ問いかけていた。
「父さん……
 だけどヒューは何故か呆けた顔で一言漏らしただけだった。
「モーリスおじさん! 父さんと母さんの体を……切るようなことなんてさせないよね? そ
んなことしたら二人とも天国に行けなくなっちゃう! 嫌だよ! 悪いことしてないのに
父さんと母さんがかわいそうだ!」
 俺は年上の人間に意見する事に畏れを感じて言葉を続けるためにヒューの手を握り締めたが、
悲しみに心を支配されその声は次第に嗚咽へと変わっていった。
 ヒューはその手を握り締めながら、言葉にならない俺の悲しみと怒りの心を代弁するかの様
に二人に対して一言一句、目を見開いて力強く捲くし立てた。
「そうだ! その糞坊主の言うことなんて聞かないでいい。脅威は去ったんだ、こんな土
地からさっさと出で行こうよ父さん! さっきから聞いていたけど人として動けない状態
で立ち上がって人を害することはないと俺も思う」
「黙れ小僧! 異端者が何を言っても私には通じんわ! ハンターの小僧如きが偉そうに!」
輔祭は糞坊主と言われた事と年恰好に似合わず、自分の提案を真っ向から否定しにかかる
その不遜さが鼻についたのだろう年甲斐も無くヒューに怒鳴り散らした。
 科白を一つ言う度に俺の手を徐々に強く握るヒューの心の内はこの時は解らなかったけれど、
残された者の孤独を自分が感じ取って俺を護ろうとしていたのだろうかと、俺はそう思って
いた。
 たとえ違ったとしても傷ついて己さえも倒れそうだったのに両親の名誉を護ろうとした
師匠や、その姿を見て取り乱さず自分の肉親の生存を喜ぶより先に俺の事を気遣ったヒューの
存在が嬉しかった。

39 Awake 3話(9/242013/09/20() 05:33:52

「うるさい! 黙るのはお前のほうだ糞坊主! お前たちは父さんたちの力を利用して平
穏を取り戻したくせに、よくも抜けぬけと死者を辱めることが出来るな!?」
 ヒューは師匠が斃れればその立場は自分だった事に、言葉を紡ぎながら噛み締めて行くうち、
あいつもまた泣きながら自分達に対する不当な結末を必死で抗していたようだった。
「それに、ネイサンを背教者の子供にする気か? カトリックでも正教のしきたりの方法で葬
られた人間は破門者か背徳者の汚名を着た人間だ! 恥知らず! それでもそんなことを
してみろ、お前たちがやったことを当局に垂れ込んで死体損壊の罪を暴き立ててやる!」
……それぐらいで口を噤め、ヒュー」
 師匠は静かにヒューの悲痛な抗弁を聴いてから眉根をひそめ、ゆっくりと俺達の方へ歩いて
行き寄り添っていた俺達の肩を両手で包み込んだ後軽く叩いて抱き締めた。
「父さん……
「いつからここにいて、どこまで聞いていた?」
 ヒューは「最初から聞いていた」と聞いたまま、見たまま包み隠さず話し師匠は俺たちから
身体を離し少し考え込む表情をした後、非情とも呼べる提案を俺達に話した。
「最初から最後まで知っているか……よかろう。お前達、俺やグレーブスの職業を誇りに思う
か? それとも怖いか?」
 問われた俺達二人は互いに泣き腫らした目を見合わせた。
「輔祭」
 師匠は彼に上体を向けて横目で見つめながら、嘆息するような息の漏れる声で呼び掛け
た。
「先ほど貴方は二人の遺体を損壊すると言ったが、状態を確かめてからその判断を下して
欲しい」
「ふん……先程とは打って変わって従順になったものだ。良かろう。但しその件は我々が
その裁定を下す事に同意すればの話だが」

40 Awake 3話(10/242013/09/20() 05:34:31

……それに逆上されてまた首でも絞められたら堪らんからな」
 輔祭は師匠に対して口角を引き攣らせた苦々しい表情で睨み付けて、わざと首の辺りを
擦りながら憎々しげに答えた。
「それから」
「まだ何かあるのか?」

「この二人をあの城跡に連れて行く許可も欲しい」

「ほう、そこまで物分りが良い人間だったのか。ならば先程の所作は何だったのだ。貴様」
……!」
「な……何で!? 酷いよ父さん! ネイサン……こいつにグレーブスおじさん達を辱める所を
見せるってのか!? 俺だって見たくない!」
 俺は残酷な展開に言葉を詰まらせ、信頼していた者に裏切られたような心持になったの
だろうか、ヒューは一瞬驚いた表情をして師匠に食って掛かった。
「このまま見せないで遺体と対面させるのが普通の親や、大人の心情であろうし俺もその
一人だ。だけど俺はただの親ではなくハンターだ、そして目の前のお前をハンターとして
育て、両親を一晩にして失った……ネイサン、お前にもハンターの血が流れている」
 師匠はより強く温かい腕で俺達を抱きすくめたが、血と埃被った汗の匂いがする濡れた
衣服を通して判るくらい全身が震えていた。
 ハンターになる事は犠牲者の血も屠った者の血も、誰の血とも分からず浴び続ければな
らない賎業である事に変わりはない。だけど誰かが、人外の力に対抗し得る術を持った人
間がその責を負わなければ人の生活や生命は力のままに貪られるだろう。
「俺とてそのような惨い真似を許したくは無い。この言葉を吐いている事自体忌まわしい。
だがヒューよ、俺達ハンターは何のために戦っている? 名誉か? 金か?」

41 Awake 3話(11/242013/09/20() 05:35:28

「力を持たない人のためだ……父さんはそう教えてくれた」
「お前自身はどうだ?」
……俺は、まだ判らない。皆の後を付いて行っているだけだから」
 ヒューは師匠の問いかけに目を伏せてから上目遣いに師匠の方を向いて最善の答えを探すよ
うに答えたが、師匠はその答えに主体性がないように思えたのだろう。
 継承の際に師匠からカルパチアの惨劇を俺達二人に見せ、職業の選択を与えたと聞いた。
「そうか……ならば後始末を見てから答えを探すがいい。だが、ヒュー。ネイサン。俺はグレーブス
達の死をだしにしてお前達に道を指し示している訳ではないという事を解ってくれ」
 
「ハンターとして生きる事は傍目から見れば、恐れられながらも今では名誉と賞賛を受け
られる職業だろう。しかし、その生と死は平等ではない。道中、匪賊や野生の生物に命を
獲られ、仕事で人々のために斃れたとしてもグレーブス達のように、異郷の地で罪人に等しい
弔い方をされる者の方が多い。俺はお前達に利の側面だけを見せてハンターの道を選ばせ
たくは無い」
 師匠は静かに俺達の頭を撫で、そのままの恰好で輔祭に問いかけた。
「しかし輔祭。貴方は何故法を犯してまで村人を焚き付けるか?」
「この地域は昔から規模を問わず吸血鬼の被害が後を絶たなくてな、一週間もしないうち
に死者がよみがえってきた事だってある……私の妹はその犠牲になった。見習いだった私
はその妹を押さえ付け心臓に白木の杭を深く……深く……
 輔祭はこれ以上の凄惨な酷い過去を思い出すのが辛いようで、その様子は幼かった俺に
もそう聞こえるくらい悲痛な声で最後のほうは消え入るような声で呟いていたが、肩を震
わせ輔祭は涙を見せたくないのか俺達から体を背けて静かに陳謝した。
「残された者が肉親さえも己が手にかける悲劇を私は、いや私だけでなくこの村の者は皆、
二度と生きている内に目にしたくは無いのだ……助けてもらったのに一時の感情だけで侮
辱して……済まなかった」

42 Awake 3話(12/242013/09/20() 05:36:09

「輔祭……貴方は……
 師匠は言葉を詰まらせて何と声を掛けようか逡巡していたようだったが、輔祭は同情さ
れたくなかったのだろう、消え入りそうな声から硬い声をだして頑として撥ね付けた。
「忘れろ。力を求めて得られなかった者の言葉など。しかしこれだけは言っておく。後始
末を怠ったが故に二次災害が起きるのは貴様等にとっては関係なくとも、逃げる土地を持
たない人間にとっては遁れられない事態になるのを忘れんでくれ」
 二次災害――死者の復活は伝染病などで死者が大量に発生した時に処理がまずい場合に
起こる事が多い。
 疫病などで死んだ遺体を早急に処理するために棺に入れないまま浅く土葬し、死後硬直
した遺体が土中から腰を曲げたL字型の状態で跳ね起きる現象が挙げられるけど、まずそれ
は死体であってそこから動かない。
 だけどこの場合は稀ではあるが死亡確認せずに仮死状態で埋められた生体が、長時間の
真空に近い圧迫と暗闇の中に放置された事で錯乱状態に陥り、通常の数倍の力を発揮して
酸素と光を求めその空間、急ごしらえの棺を有らん限りの力を持って破壊し、その後は浅
く盛られたばかりの軟らかい土を天上へ、天上へと爪が剥げ血だらけの指先で掻き分けて
這い出てきた生者などだ。
 這い上がって村人を見つけたときに生者の心は喜びに満ち、顔には満面の笑みがこぼれ
ただろう。
 しかし、集団ヒステリーに陥った人々がその生者の血塗れの姿を見て正常な物と判断す
るのは難しく、助けるどころか埋めた自分達を餌とするために煉獄から蘇って来たと思い、
自衛の為に襲い掛かって命を奪ってしまう。
 ただしそれは長くても一週間以内の出来事で、二週間以上も経って這い出てくる事は人
間の体力と状況からして不可能だ。
 完全に土が酸素を吸収してしまい真空になるから。

43 Awake 3話(13/242013/09/20() 05:38:16

だから今ヨーロッパ全土で起こっている死者復活の後に聖水を掛け、朽ち果てた生体は
正確には冥府の住人に生を与えられた死体だ。
 ともあれそれは迷信が混在する土地につき物のよくある惨劇である。
 輔祭は礼拝堂の身廊側の扉を開けながら低く消沈した声で俺達に話しかけた。
「一時間後、カルパチア山脈の稜線から朝日が昇りきる前に崩壊した城跡へ向かう。私は
村の男たちを集めるから、お前たちは万が一のためにすぐに逃げられるよう荷物をまとめ
て置け」
 そして、最後に扉を閉めながら斜に構え横目で俺達を見つめた。その様は傷ついた者を
どう救う事も出来ない人間の弱さが垣間見えるような、言い換えれば救った者の傷を哀れ
み、蔑む視線で見下げると言った聖職者であるにも拘らず放置する人間の卑怯な姿だった。
「馬車と逃走ルートは後で紙に書いたものを渡しておこう。私は三位一体の成句をお前達
に言う事は出来ないが『貴殿等の途に祝福在らん事を願わん』とだけ告げておこう」
 師匠は眉をひそめ渋い顔をし、ヒューは輔祭を始終睨み付け、俺は怯えながら二人に掴まっ
てその言葉を聴き扉越しに響く足音とともに彼を見送った。
 一時間後、白木の杭、火葬するための薪、そして剣やマスケット銃などの武器はおろか、
斧や鋸、柄の長い鍬すらも持って殺気立つ正教徒の男達の物々しい出で立ちを目の前に見
ながら、隊列の最後で行軍している俺達三人は、カルパチア山脈の麓にあったドラキュラの古
城跡へと向かった。
 もし両親の遺体に対して損壊の裁定を下されなければ、そのままカトリック教区へ埋葬
する手筈を整える前に状態によっては、輔祭だけではなく正式な葬儀を履行できる司祭や、
医学的な見地から判断するために村の医者も同行した。

44 Awake 3話(14/242013/09/20() 05:43:12

「うぇっ……ひっく」
 俺は道中ずっと小声で泣き続けて唯でさえ周りの行進についていくのがやっとの俺の小
さい足は、これから行なわれることの恐怖で何度も後れを取り、そのたびにヒューは俺の手を
握って遅れないよう引っ張っていた。
 やがて無数の瓦礫が散乱している城跡が見えてくると、村人達の恐怖と忌避の入り混じ
ったどよめきが次第に伝播するように広がる。
「何てこった……瓦礫だらけじゃねぇか」
「死体なんてあるのか?」
「あっても穢れた死体だべ、見つからない方が幸せだ」
 村人達の無慈悲な言葉は逆に見つからない方が残虐な方法で辱められない事を意味して
いたのだろうが、それでも両親が悪事を働いたみたいな言い方をしているように聞こえて
声のした方を向いて俺は睨み付けた。
 しばらくして瓦礫の小山が見え輔祭は師匠を呼び、静かな声で両親の遺体を安置した場
所を教えるように言うと師匠は疲労と情けなさで涙が溢れて来そうになっている澱んだ目
を拭い、怯えと狂気の眼差しで師匠を見つめている村人の間を峻厳な態度で進み出て列の
先頭に立った。
 それから少し離れた場所だったので小声でしか会話が聞こえなかったが師匠が医者に両
親の遺体の状況を説明したようで、まもなく医者は検死を始めた。
「どうだ、先生?」
……あなたが報告した通り、男性の方は胸部骨折による失血死で女性の方も裂傷による
失血死だ。いや……これは酷い、膝の下から欠損している。はっきり言って私とてあなた
と同じで、ここまで損壊されている遺体でなくとも……

45 Awake 3話(15/242013/09/20() 05:43:55

「父さん! 母さん!」
 遠くで見た限りだったけどフードに覆われた母の綺麗なままの顔や、口角から血が流れ
ていたとは言え安らかに息絶えていた父の遺体に取り縋ろうと俺は脇目も振らず駆け出し
ていた。
 どんな姿になっていようと最後の温もりを心に、肌に留めておきたかったから。
「止めろ、その子等を遺体に近づけさせるな。遠くで見せるだけだ」
「行け! 邪魔する奴は俺が止めてやる」
 直ぐにヒューは両手を拡げて俺の進路を確保してくれようとしたけど輔祭の命令にひときわ
屈強な二人の村人が俺の背後、ヒューの正面を羽交い絞めにした。もちろん子供だから大人の
力に勝てるはずもなく、ただただ輔祭を睨み付けながら叫び続けるしかなかった。
「放してよ! おれの父さんと母さんなんだ!」
「くっ……
「私とて神の僕であると同時に人の子だ、人並みの感情は持ち合わせている。両親が死し
ただけでも酷であろうに、無残にも屠られた体を見せて思い出を壊す事は人の道に反する」
「父さん……母さん……起きてよ、ねぇ起きて……お願いだから!」
 しかし泣き叫ぶ俺を同情しながら見つめる村人達の中に悪魔の言葉を吐く者が現れた。
恐怖に慄いた人の心が魔女狩りなどの非道な真似を起こす事は多々ある。それが己の身に
降りかかるとは誰が予想出来るであろうか。
 まして幼い俺の目の前で両親が煉獄へ落される様など。
「輔祭様よぉ、あんたの妹もちゃんと埋葬していなかったから、あんた自身で杭を打たな
いといけなくなったんだよな?」
「そうだ、おら達はもちろん、あんただって二度とそんな事したくねぇよな!?」
「皆さん止めてください! 医者である私が必要無いと裁定を下したのです。未だにこの
村は野蛮と迷信を引きずっている。私が村を出たときから何ら文明が進歩していない」

46 Awake 3話(16/242013/09/20() 05:44:43

補祭は生きている人間を屠った己の罪を村人に犯させたくなかったのだろうか? 確か
に医者や俺達が狂気の渦に巻き込まれたまま言葉を繰り出しても収まらないだろう。それ
どころか今度は自分達の命が奪われてしまう。だけど……
「腱を切り火葬する以上、機密……お前達は秘蹟と呼んでいたな。秘蹟は与えられん。始
めろ」
……貴様」
「私はお前たちに永劫憎まれてもいい。だが……弱い、人々の心や感情は許してやってく
れ」
 輔祭は眼光を鋭くして村人達に命令しながら申し訳なさそうに俺達を一瞥し、止めるは
ずの司祭は狂気と興奮と怒号を上げる村人達に「止めろ」と言ったところで逆に自分の身
が危なくなると思ったのだろう、青ざめた顔でその場から動けないように見えた。
 もちろん今ではその感情も理解できるし、彼らとて神の名を口にする前に人間であるの
は解っているが、光に隠れながら真に救済するべき者を虐げた感情を許すことは出来なか
った。
 力を持たなくても人の感情を踏み躙り侵す事を許しては魔物と同義の存在に堕している。
 今でもその考えは変えることは無い。師匠のような冷徹さとヒューのような力が無くても
俺が戦う立脚点だ。
「輔祭、ここまでの状態であれば立ち上がることも無いでしょう! 司祭、あなたも何か
言ったらどうですか! 埋葬式を! 宗派は違えど異教人のパニヒダ(非正教徒に対する
葬儀)で対応できるでしょう。お願いします!」
「畜生! 秘蹟すらしてもらえないだと!? お前らどこまで非道なんだ! 動けず止め
られないならせめて……ネイサン見るな、見るんじゃない!」

47 Awake 3話(17/242013/09/20() 05:45:25

「こ、この餓鬼……なんて力だ」
「生憎だが俺はただのガキとは違うんでね。離せよおっさん!」
「お前は補祭様の言葉を聞いていなかったのか?」
「馬鹿野郎! どんな姿になっていても親は親なんだ。生温い擁護は逆に過去を貪る材料
にしかならない……っ。だけど他人が弄ぶのだけは受け止めることはないんだ!」
 有らん限りの力を振り絞ってヒューは羽交い絞めにしている村人を引きずりながら俺の眼前
に立ち、必死の形相を俺に向けて村人と自分の体を盾に立ちはだかったが、
「ネイサンの前から体をどけろ」
 両親の遺体を離れて静かに歩み出てきた師匠は唇を噛み、悲しみを表した貌で息巻くヒュー
の行動を制止するため拳で頬を殴った。
 一瞬、その行動に驚き村人はヒューを放し、同時に状況が飲み込めずに呆然と倒れ込んだヒュー
は師匠を見上げていたが、我に帰るや否や大声で凄まじい形相で噛み付いた。
「何で! 見せる方がどうかしている! それに何で殴るんだ! 親父!」
「あなたも残酷な方だ……この場に年端も行かない子供を……それもその子の両親が死し
て陵辱される様を見せようとは。やはり下賎な職業についている者は感覚が狂っている」
 今思えば医者は教区に犯罪者が発生する事を恐れたのではなく、無論俺達を同情した人
道的な感情を持ち得てでもなく、己の見地の正確さを否定されたなどと言う利己的な愚慮を
持っての発言であったのだ。
――
己の立場と存在意義を無視された時、人はどう動くかにその価値を問われ得るか……
だめだ、この思考の流れではヒューの最近の言動を貶め、己の浴している立場を喜んで甘受し
ている卑劣さが際立ってしまう。
それに俺より実力がある故に始末の悪い状況になってしまっている。
ただの無力で無能な人間の誇大妄想が為しえる言動であれば歯牙に掛ける事も無く、俺自身
も継承にここまで心を削り何度も時間を割いて苦悩することも無かっただろう。
いや、道に外れた恋情で苦悩する状況にも陥らないだろうに。

48 Awake 3話(18/242013/09/20() 05:46:36

 そして、状況は自分の想いと反して進んでゆく。両親の遺体は村人たちが両手足首を掴
まんだ状態で切断されるのを待っていた。
「やめてよ! どうして? 皆のために父さんたちは戦ったのに……モーリスおじさん! ど
うしてとめてくれないの!?」
 肉が、骨が、鈍く緩やかに流れる血が見える。人として構成されている肉体の要素を見
せ青白く横たわる両親の遺体を、護られた人間達が人として存在する事さえ許されない姿
になるまで鋸で切り刻み、首を切断した瞬間、遺体は人ではなくなった。
――やめてぇえぇぇぇっ――……!」
 辺り一面に痛みを感じる事の無い両親の肉体から体内にいまだ残っていた血が流れ出て
大地を、人を染める。しかし村人達は「不浄の肉体」と呼んだ筈なのにその血を浴びる事
を厭わなかった。
 その姿は護られた者が護った者の肉体を損壊する事の贖罪を行うかのように。
 俺は叫びながら頭が真っ白になると、羽交い絞めしていた村人の体から崩れ落ちるように
座り込み大地に伏して泣き続けた。
 それから俺達は彼らが薪を台のように組み、遺体をその上に安置するさまを呆然となす
術もなく見つめ続けるしかなかった。
「こんな事なら……何のためにお前らを助けたんだ――! お前らのために力を尽くして
も、助けても、誰も、誰も」
 腱を無残なまでに切られ燃やされる両親の遺体を見つめ、ヒューは誰に言う訳でもなくただ
憎悪を帯びた科白を呟き、
「力だ……力さえあればこんな風に辱められる事も、それを許す事も無かっただろうに……
それに、残された者の悲しむ姿なんて見たくなかった……
 そう言って俺に近づき抱きしめるとずっと……ずっとそのままでいてくれた。それから
カルパチア山脈の麓に翳った影が徐々に太陽の光が侵入して消えて行くとともに、朝焼け
の橙色をした光が俺達に降り注いだ。

49 Awake 3話(19/242013/09/20() 05:47:15

 その時に見た朝陽の清浄で柔らかな光に照らされ包まれたヒューの流す一筋の涙、なのに
不謹慎にも微笑んだように見えた護り輝く綺麗さに、止める事は出来なかったけれど必死
に村人の行動を最後まで押し留めようとした勇気に絶対的な信頼を俺に植え付けた。
 それから2ヶ月かけて帰途に着くも師匠達以外の人間に対する恐怖と両親を失った孤独
は俺の心を支配したまま消える事無く、一日中おびえて師匠の家から出ることすら出来な
くなった。
 そんなある日の夜、
――うあぁぁぁぁーっ」
「今日も眠れないのか?」
「ごめん、夜中なのに大声出して、ごめん……
「気にするなって言いたいとこだけど、俺が朝早いのは知っているだろ?」
……うん」
「俺だって、あんなの見たら怖くて眠れないのはわかる。それに……
 ヒューは悔しそうに歯を食いしばり俺の肩を掴んでまっすぐに見続けたけれど、やがて直視
する事無く俺を抱きしめた。その体温に毎日目を瞑れば見てしまう魔族の夢を泣きながら
吐露することにした。
……父さん……母さん。何で死んじゃったんだよ、人のために命を落として……なのに
あんな仕打ちは無いよ」
「お前、その夢を見て起きたときに誰もいないのが怖いんじゃないのか?」
「うん。その夢もね、この世にたった一人で取り残されて周りに見えるのは魔物ばかりで、
そいつらに追い回されて最後には食べられてしまうんだ」
「厭な……夢だな」
「もう、2ヶ月以上もこんなのばっかりで眠れないんだ。くるしいよ」
「本当は同性で同じ床に入るのはだめだけど、今日は俺のベッドで一緒に眠るか? お前
の母さんの代わりにはなれないけど」
「前に神父様が聖書の一節になぞらえて言ってたね。でも、いいの? モーリスおじさんに見
つかったら怒られるよ?」

50 Awake 3話(20/242013/09/20() 05:47:51

――(皆さんよろしいですか? ソドムとゴモラの行ったような悪徳の極みを連想させる行
為もまた彼らと同じ存在に堕してしまう事なのです。主は皆さんを見つめ導くと共に悪徳
をも看取する存在なのです。主を欺く悲しい行為は避けなければなりません。)
「いい。俺はお前を護るって決めたんだから、父さ……親父が何を言ったって逃げない」
「ありがとう、本当にありがとう」
「泣くなよ。こっちまで泣きたくなってくるじゃないか」
――
何かこう、抗い難い仄かな痛みが俺の全身を貫いた。
 おれと同じ想いをする人がいなくなってしまえばいい。それにはどうしたらいいんだろ
う? と。
 それに両親が居なくなって普通だったら捨てられる所を師匠は面倒見てくれているし、
何よりヒューは自分の修行を精一杯こなして疲れているにも拘らず俺の事を何時も気遣って声
を掛けてくれる。
 毎日泣いて暮らした所で両親は帰ってこない。それなのに……これだけ恩や情けを掛け
られているのに一体俺は何をしている? 目の前のヒューが悲しそうな眼を俺に向ける。違う、
お前にそんな貌をさせたい訳じゃない。
 だけどこの時は抱きしめられたのが気持ちよくウトウトし始め、やがて心地良い感覚に
呂律が回らなくなって眠りに落ちようとしていた。
「明日から元気出すから泣かないで……お願いだから」
「だ、誰が泣くもんかっ!」
 ともかくその日ほど今まで生きてきた中で安心して眠れたのはなかったと思う。今度は
自分が勇気を出す番だと考えながら。
――
明日はモーリスおじさんに自分が進むべき道を伝えるために。
「おれは決めたよ、モーリスおじさん。いや、決めました……師匠。おれは誰にも甘えたくな
い、だから今からおじさんと呼ばずに師匠とお呼びします」
「いいのか? 俺達の途は人のために命を落とすような過酷な物だぞ」
「どこまでやれるか判らない、だけど自分が背負った宿命を無視するような事はしたくあ
りません」
――
そしてヒュー……お前と一緒に力なき人々を助けるために。

51 Awake 3話(21/242013/09/20() 05:48:26

もちろんそう宣言しても一朝一夕で自分の望む姿になるはずは無く、日々、鍛錬してい
けば行くほど肉体の軋みが毎日毎日俺を責め立て、師匠やヒューの足手纏いになっている自分
の力の無さに焦りが現れた。
「今日も生き残れたな、俺もお前も」
 ある日の討伐の時だった。俺はいつも戦闘の後にさえ余裕を見せているヒューの姿が見られ
る事で自分が生きているのを実感できていた。もっとも、俺は怪我をして倒れ込んだのを
助けられているような情けない格好でいる事が多かったけど。
「余裕だな。俺は生きた心地がしなかったよ」
「見れば判る。ほら手を出せ、引き上げてやるよ」
「いつもごめん」
「大丈夫か?」
「うん。痛くな……うっ」
「無理をするな。どうしてあんな無茶をしたんだ?」
「あの時のお前と同じ歳になったのに、ちっともお前に追いつけないんだ。お前は遠くへ
行ってしまう。あの時のままの姿で強くなって……だから焦って実力以上の行動を取って
しまった」
「お前は俺じゃない。俺だってお前じゃないんだ、気にすることは無い」
……
「それにお前が一歩引いて状況を座視して、やるべき所で俺を援けてくれるから気持ちよ
く戦う事が出来る。お前が俺と同じ力を持っていたら互いに牽制しながら力を誇示しあう
無様な戦いしか出来ないだろうな。つまりだ、柄にも無い事を考えるなって事だ」
「こいつ!」
 悩んだ事を軽く流されたのには憤ったが、力が無い事に自身が恥じる必要は無いし、あ
あ言ってくれた事で俺がヒューや師匠の力の支えになっている事に誇りを持てるようになった。
 だけど俺だって一度ぐらいお前に勝ちたいし、同僚としては対等の存在と認めて欲しい
んだ。

52 Awake 3話(22/242013/09/20() 05:49:01

 それなのに戦う姿や修行している時に見せる冷厳な切れのある、同性から見てもハッと
するような端麗さに心が、体が見るたびに疼いてカルパチアの麓で見た哀しくも温かい表
情とは反対の様態のはずなのに、尊敬と憧憬だけではなく誰にも触れられたくないと言う
気持ちが日に日に募って行った。
 とうとう俺は兄弟として育ったが故に感じた嫉妬心だったのか、それとも一人の人間と
して手に入れたいのか俺自身の気持ちと感情を確かめるために堅信式の朝、臆病で卑怯な
考えと行動だと思ったけれどソドムの罪を犯して弁明する覚悟が無かったから、寝ている
あいつの唇に軽く自分の唇を重ねた。
 ただの憧れなら吐き気を催し、二度とそのような事を考えないと思っていたが……
 それどころか想像していたよりも心地良く、もう一度、違う。ずっとその唇に触れてい
たかった。
 重ねた後に嘆息する音と甘い擬音とともに漏れる息遣いに、俺はその姿をものにし誰に
も触れさせずそれを守るため力は及ばないまでも、ずっと一緒に生きて行きたいと切望し
た。
 だけどそう感じたと共に俺はこの考えに到る事は、ヒューや師匠をも巻き込んでしまう罪を
犯したと気づいてしまったけど一人のキリスト者としてその日、罪の意識を自覚したまま
立志した。
 しかし、満たされない感情をおざなりにして過ごすほど俺は強くは無く、堅信式の次の
日もまた次の日も毎日同じ事をしているはずなのに、ある日は寝惚けて誰かと勘違いした
のか俺の頭を抱き寄せ求めたり、普段のあいつなら絶対に漏らさないような微かな嬌声を
あげ、日々違う反応や様子に飽きる事など無く日を追う毎に愛おしく思うようになって寝
ているあいつの唇を掠め取った。
 もっとも物語で交されるように、互いに貪り合う様な真似は決して出来なかったが。

53 Awake 3話(23/242013/09/20() 05:49:39

だけど、その安定した日々は俺が聖鞭を継承した日から崩れてしまった。
 家人に告知する数日前に俺は師匠に呼び出されて継承するように要請され、そう言われ
る事に納得行かず「一度もヒューに勝ったことの無い俺に何故そのような話をするのです?」
と何日も何度も確認して断り続けたが恩義の前に拒絶することは出来なかった。
 そして継承を承諾したその日ほど朝が、ヒューが目覚めるのを怖いと思った事は無かった。
 唇を重ねる事に後ろめたさを感じただけじゃない、自分自身の力で捥ぎ取った名誉じゃ
ないのに俺は恥知らずにも「これで対等になったのでは」と考えてしまった。
 寝ているあいつを見るたびに事に及ぼうとする感情が一気に溢れ出そうになって、そう
思うと口付けをする事さえとまどい結局、陽光が部屋の窓から差し込みその光でヒューが起き
るまで窓の桟に腰掛けながらその寝顔を見て感情を抑えていたが、継承を承諾した事を家
人に師匠が告知した後のヒューの顔を俺はまともに見られなかった。
 目を逸らした俺の目の前に進み出て差し出した手の先の表情が寂しく、そして「おめで
とう」と静かに発したその声が、俺とあいつが繋いでいた関係を断ち切った音に思えて仕
方がなかったから。
 それから俺はその黒檀の瞳を翳らせた苦悩の表情をしたヒューの表情が毎日ちらつき、後悔
と羞恥が混ぜ合わさった何とも言い難い始末の悪い感情に苛まれながら、今日までよく眠
れないまま朝を迎え、目覚めた時にはすでにヒューは部屋にいなかった。
「人の世界では万死に値する罪でも、ここではどうだろうか? いや、何を考えている。
他者に自分の意思と決定を委ねることは自分の想いを未来永劫、自分の望む方法で達成で
きない事を意味している」

54 Awake 3話(24/242013/09/20() 05:50:14

 暗い、その上気味の悪い虫や魔物が常にその壁と天井を這い回って獲物を求めている、
先の見えない朽ちたレンガの回廊を突き進む事に今更あらためて気持ち悪さも恐怖も感じ
る事は無かったが、扉を開けるたびに戦いながら疲弊しても希望が見えてくる心持から取
り留めの無い事を一人ごちた。
「さて、過去を振り返る時間は終わりだ。救いなのは少なくとも状態も思想も混迷するこ
の城の中では、俺の想いなど小さい上に恥ずべき感情じゃないって事だ。後の事を迷うの
は人の世界に帰ってからすればいい」
 逡巡している内に攻撃が強くなってきた。確かに一区切りを置いて先を見据え眼前の敵
を屠りながら、余計な事に囚われず対処して行かなければ気を取られた瞬間に死んでしまう
――
己の力のみに頼る生き方をした事など今まで無かったのだから。