Awake 8

 

 

98 Awake 8話(1/92013/09/24() 09:30:54

「行ける。行けるぞ! ははは!」
 大量の水の音が濁流の如くどうどうと響き渡る空間を掻き乱すかのように、地下水路の
深遠部をガシャガシャと金具が軋み合う音を立てながら、荒い息遣いで駆けているヒューの姿
があった。
 体力を削る毒の水が流れるその場所はひどい悪臭を放っていたが、己が倒せなかった魔
物をネイサンが打ち倒した事で冷静さは完全に消え去り、本格的に自信を見失った彼の心は怒
り感情のみで突き進んでいた。
 いつもの彼ならいったん退避して己に有利な方法を探すのだが、カーミラが感情を増幅させ
てしまったせいで今まで感じた事のなかった、他者が見せた力に対する焦りといった感情
を上手くコントロール出来ず、その感情の先には術者のカーミラを倒す事しか考えられなかっ
た。
――
何故だ。何故だ!何故だ! どこでどう奴との力の差が生まれたんだ!? 親父が前
に話した通り「人の住まう場所でない城は通常の概念が通用しない」と言うことか。
だが、精神に楔を打たれたとはいえ、数刻の間で力関係が変化する事がこの世にあってい
いのか? そんな莫迦な!
ならば、俺は……俺は如何したらいい!? 俺はネイサンより膂力も剣技も知識も持ち合わせ
ている。先ほどの鞭捌きを見ていてもそれは確かだ。
俺はこの城の中では役立たずなのか? それだけは認めない。いや、認めるわけにはいか
ない! 俺の研鑽の日々を無駄な時間だと思いたくない。

「そんな不条理が在って堪るかああぁぁあ!」 

 ヒューは錯乱したような叫びを上げながら、中途にあった階段のギミックを利用し、体力の
消耗を抑えるために無駄なルートを通らないよう、目測で判断しながら進んでいった。

99 Awake 8話(2/92013/09/24() 09:35:23

 やがて、駒となる魔物が待機している部屋を示す青白い扉を見つけた。彼はグッと歯を
食いしばると、苦痛に歪ませた顔を目指すべき最深部の扉に向け、その表情のまま扉を乱
暴に蹴り飛ばし、ずかずかと奥の部屋へ入って行った。
そこは、外の水路とは対照的で壁一面に伝うように清浄な水が流れ、清々しい空気が辺り
に満ちていた。
 広さは他の部屋と同じくらいだが、足場ほどの大きさがある突起物を備えている簡素な
石柱が一定の間隔で配置されている。その奥にはもう一つ扉があった。

 そこには新たなる通路があるのだろうか? とヒューは考えたがその前に、その部屋は石畳
の落窪になっており降りるために着地地点を見下ろすと、謁見の間にいた女が涼やかな顔
でこちらを見て微笑んだ。
「案外、早かったのね」
 女は赤い唇を花が咲くように緩やかに開き、自分を見下ろしている不遜な表情をした青
年を見て、程よく肉付きの良い均整の取れた左足を誘惑するかのように桃色のペチコート
の裂け目から太腿が見える寸前まで右足へゆっくりと動かした。
――
その声は、俺の心に響いていた声そのものだ。
 彼は斎戒していたせいもあってか少し、艶麗な態をなした女の色香に気を向けたが、そ
の女の役割を思い出すと――つまり、死者復活の直接的な指揮を執った術者を打ち倒せば
死者もろとも崩壊させる事の出来るネクロマンシーの法則により「塵に還すべき相手」と
認識した。
 その上、自分の心に楔を打ち、力を奪ったかと思うと何が何でも倒さなければならない
相手であった。
「淫魔が」 
 そう考えたら一層その女の表情と仕草を穢らわしい物を見るかのように、侮蔑をこめた
眼差しで見つめた。

100 Awake 8話(3/92013/09/24() 09:36:06

 それから、打ち倒した瞬間の湧き上がる征服感と、それに付随するハンターとしての名
誉と父親からの賞賛、そしてネイサンに対する変わり無き優越感と立場。
 それらを想像しただけで胸が高鳴り、快楽に酔い痴れる心持になって「ククク……」と
喜びを隠せずに野卑た低い声を満面の笑みで漏らした。
「貴様を消滅させれば俺は、この苦しみから解き放たれる。貴様は俺の生贄になるのだ」
 ヒューは先ほどの表情と格好を崩さずに対峙している女に指を指し、キリスト者にあるまじ
き言動(他者を自分だけの生贄と認識すること)を悪びれも無く言い放った。
 それに対して彼女は「傲岸だが実力を測れないほど狂ってしまったのか……」と内心、
己の術がここまで効いていた事に満足を覚えながらも、玩具の気分を損ねては元も子もな
いと思い、あえて礼節を重んじて対応する事にした。
「私の名はカーミラ。貴方の名は?」
「貴様に名乗る名など無い! 名乗れば貴様の術に利用されるのが落ちだからな!」
 案の定ヒューは頑なに魔と対話する事を拒否した。

――
そう、その目と顔付き。やはりそうでなくては、面白味が無い。
カーミラは炎のように赤い舌で薔薇色をした己の唇を舐り上げた。
……無礼な男。でも私は貴方の名を知っていてよ、ヒュー・ボールドウィン」
――
やはりな……さすがに上級の吸血鬼は知恵が回る。名を持つ本人に言霊を語らせ感情
を盗んで利用するつもりだったか。だが、そこまで精神が浸食されていたとは思わなかっ
た。
 彼は腹立たしさからカーミラを射抜くような冷たい目で見た。しかし、彼女はその視線を無
視して軽やかな口調で更に続けた。
「貴方は今、何故自分の名を会話もしたことの無い私が知っているのか、疑問に思ってい
るのではないかしら?」

101 Awake 8話(4/92013/09/24() 09:36:39

 彼女は含み笑いをして舐るような眼差しを無表情で冷ややかな眼光を自分に向けている
彼に対し「ふふふ……」と妖艶な声色で漏らし、
「それは、謁見の間で貴方の父親が真っ先に貴方の名を呼んだからよ」
 と言を弄した。
「知らんな。そうだとしても俺はもう一つの名前のほうかも知れんぞ」
「嘘をつかなくても判っていてよ。何故なら、この城自体が私の物だから。それに、貴方
と一緒にいた髪の短い彼が貴方の名前を切なげに何度も、何度も愛しそうな貌と声色で呟
いていたのを、この城の目は見逃さなかったから」
――
俺は城内の透視機能を警戒して出来るだけ名を呼ばないようにしていたが、思い返す
とネイサンは何度も俺の名前を叫んでいたな……
「如何したのかしら? 怖い顔。もしかして私との問答で操られるとでも思っているの?」
 ヒューはカーミラに対して無表情で問答しているつもりだが、そこは年の功というべきか一世紀
以上の長きに渡る不死の生命を持ちし吸血鬼の経験には勝てるはずも無かった。
 無論、眉根を軽く顰めているさまを見逃すはずも無く、カーミラは己に向かってくる玩具を
いかに弄ぶか考えていた。
「ふふ……アドラメレクに吹き飛ばされた程度の力で私と戦おうとしている貴方の愚かしさを拝
見しましょうか」
 そう言うとカーミラは巨大な頭蓋骨に乗った赤黒い女怪の姿に変化した。

「無駄な口上をこれ以上吐かせられない様に貴様の身体を切り刻んでやる!」
 言うか言わざるかのうちにヒューは抜刀し、その勢いでカーミラを直接攻撃しにかかった。

102 Awake 8話(5/92013/09/24() 09:37:44

 それに対してカーミラは紫煙の珠で彼を弄び、彼はその玉を避けるのに必死だった。何度も
避けながら石柱に駆け上がり本体とは言わず頭蓋骨をも攻撃していたが、いかに聖剣とい
えどもリーチが足りなければ無用の長物でしかなかった。
 その上怒りに身を任せて精神力が散漫としているため、遠隔攻撃、聖水、斧、十字架、
ナイフを駆使しても彼女の体力を奪うことも出来ず、徐々に落窪の壁に追い詰められて身
動きが取れなくなった。
やがてその小競り合いも、防戦一方で嬲られ放題の状態でいたヒューの左腕の関節が脱臼し
た音によって終止符が打たれた。
 それでも彼は剣を取り、関節が外れた左腕を添えて両手でカーミラの身体まで接近したが、
頭蓋骨から発した光線により彼の体は紙のように吹き飛ばされた。
「愚かな……まだ立ち向かおうというの? その意気だけは高く買ってあげてもよくって
よ」
 そして強かに背中を石柱の突起物に打ち付けられ、抉られて大量の血が石柱と床に流れ
た。
 ヒューは痛みのあまり気絶しようとしたが、女に負ける事を是としたくない一心で今にも息
が絶え絶えにもかかわらず虚空に手をかざし立ち上がろうとした。
 だが頭も同時に打ちつけていたため脳震盪を起して場が暗転し、渦のような石畳の水場、
カーミラの赤黒い肉体と征服しようとしている充足感あふれる表情。それらが重なって言いよ
うの無い吐き気と、魔を捻じ伏せる事の出来なかった屈辱が彼の心の中で綯い交ぜになっ
て、絶望から無意識に涙が溢れ出たままその場に崩れ落ち、少しの間意識を失った。

103 Awake 8話(6/92013/09/24() 09:38:57

 次にヒューが気付いたときは、ズボンの留め具を引き裂き下半身を剥き出しにされた上、座
ったまま股を開かせて後ろ手を交差させ,石柱に術で創造された呪縄でがんじがらめに縛ら
れている状態だった。
 カーミラは女怪の姿ではなく初めて出会った時の姿に戻っていた。
 依然、意識は朦朧としていて未だ吐き気と、今度は体中の震えが止まらなくなって来た。
 カーミラが大量の出血で仮死状態になり体温が低下して気絶した彼に、術を終えたと同時に
平手打ちを食らわせて無理やり起したために急激な血液の流動が始まり、それに体が対応
できなかったからだ。
「目覚めたわね」
 そして、カーミラは術を唱え朱色の魔法陣を虚空に出現させた。ヒューはそれを召喚の黒魔術だ
と認識した。
 自分が気絶していた間に上級悪魔を出現させる準備を行っていたのかと、身構えれば現
れたのは何の事は無い、燃えるような紅い長髪を湛え、魔物らしく灰色の肌をしたサキュバス
一体だった。
「ふん……何をするかと思えば淫魔一体だけか? 俺は幾ら弱っているとは言え聖句でそ
んなものは地に還すのは簡単だ」
 ヒューは眉根をひそめ、カーミラに向かって嘲笑した。
――
自分は死ぬのだ。ここで何を言ってもどうともならない。しかし、ハンターとしてネイ
サンに聖鞭を預けたまま死ぬのは心残りだが、仕方が無いだろう。
 さすがに、自分の死ぬ姿は見る気にもならないから目を強く瞑り、歯を食いしばって攻
撃を待った。

104 Awake 8話(7/92013/09/24() 09:40:26

 だが、数秒間待っても身体の痛みは感じない。如何するつもりかと一気に目を見開いた。
すると、目の前には在り得ない者が立っていた。
――
ネイサン!?
何故、奴が? さっきいたサキュバスは何処へ行った? ――まさか……? 唖然とした彼が
目を白黒させていると、
「ヒューか……?」
 ネイサンと思しき姿形をした者が、いつも自分に見せている何かを窺うような表情をして、
声も同じ人物の声色でこちらを立ったままの姿で見ていた。
「貴様……何をしている? ここにいる女を倒せ。今回は貴様に聖鞭を預けたのだからな、
それだけの働きをしてもらおうか」
 彼は唇を捻じ曲げ目を据えてから目の前の青年を睨み付けると、彼に対して矜持を保つ
ため強い口調で言葉を発した。如何に自分が無様な姿になっていようとも、偽者と解って
いても彼の姿形をしている者にだけは弱っている姿を見せたくなかったから。
は私の言う事しか聞かないわ。その上、何人たりとも彼には私以外の者の声は聞
えなくってよ。残念だったわね」
 カーミラはほくそ笑み何事かを傍にいる青年に語り掛けると、グレーブルーの眸を朱色に染
めた青年がヒューの面前に近づいて跪き拘束している縄を解き始めた。解いたと同時に上半身
の動きが戻った事を知覚したヒューは、サキュバスに気付かれないよう後ろ手でウェストポーチの
中身を探り、十字架と聖水がまだ存在していることを確認した。
――
しめた!
Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum, benedicta tu in mulieribus, 
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
 Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis
peccatoribus,
 nunc, et in hora mortis nostrae  Amen!(めでたし聖寵充満てるマリ
ア、主 御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せ
られ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終の時も祈り給え)!

105 Awake 8話(8/92013/09/24() 09:41:03

ラテン語の退魔聖句である天使祝詞を早口で必死に大声で言い始めるや否や、彼はネイサン
に扮したサキュバスに聖水を振りかけ、十字架を顔面に押し付けた。だが、
「何をしているんだ……? 気でも違ったか?」
 サキュバスは悲しそうな微笑をヒューに向けると、緩やかな口調で彼に問いかけた。
――
効かない……? 何故?
――
カーミラ様ノ意思ヲ、ワタシハ実行シテイルダケ。カーミラサマノ言ウトオリ、聖ナル物ヲ中
テラレテモ、ナントモナカッタ。
 そして、聖水で濡れた髪をかき上げると、自分とネイサンしか知らない過去を再現し始めた。
「昔、両親が死んだ時に、体の震えが止まらない俺を抱き締めてくれたよな。だから今度
は俺と『傍にいて、ずっと一緒に生きて行こう』それから俺を頼ってくれ」
 そう言いながら人とは思えない膂力でヒューを抱き締め押し倒した。
――
何なのだ!? 此奴は? 俺にはカーミラに打ち倒されてから反撃する体力も残っていな
い。ならば呪力で補おうと思ったが……その頼みの力さえも消え失せたと言うのか。
しかし聖水と十字架は本物だった。それは自分の扱っている得物を何十回も何百回も手に
しているのだから間違える事はない……何故?
 彼は自分の体が冷えていくのを感じた。それは死よりも苦しく、彼が人に対して力を誇
示するために繋いでいた自信――ハンターとしての力が消失したことを意味する。
「自分の力をやっと自覚したようね。ヒュー・ボールドウィン。信仰心が無ければ、どんなに言葉を
尽くし、紡ぎ出しても私達は斃せなくてよ」
 カーミラは押し倒された彼を凍るような表情で見下し、サキュバスにおぞましい命令を下した。

「その男を――知識と膂力のみで信仰心の欠片も無い恥知らずな無知者を、男の体で犯せ」

106 Awake 8話(9/92013/09/24() 09:41:36

貴様……っ! グウッ……!?」
 ヒューはけたたましく嗤っているカーミラに首筋を向けて、思う限りの罵詈雑言を捲くし立てよ
うとしたが、ネイサンの容貌をしたそれが力任せに彼の頤を利き手で押し上げると、露になっ
た首筋に唇をきつくあてた。
――
吸血される! 吸血されたら俺はもう、人ではなくなる。希望は本物のネイサン一人の双
肩に掛かる事になる。果たして奴に出来るのだろうか……
……生憎、私が本当に愛せるのは美しい少女だけ。男同士の交合いなど気持悪くて興味
なぞ無い。サキュバス、この男の精神を毀すまであらゆる手段で責立てよ。頼むわ」
 カーミラは最早、ヒューに対して興味を失った玩具を投げ捨てるかのように褪めた視線でしか見
ることは無かった。
「快楽に堕ち、汚らわしい体液と恥辱に塗れた身体と心を呪いながら、膝を抱えて自分自
身を慰めていると良いわ……うふふふ……
 言い終わるや否や、カーミラは紫煙の霧となって完全に消え失せた。
 残された人間は己の体に圧し掛かっている魔性の者の行為を、体をくねらせる事で回避
し続けていたが、その様子に魔性の者は朱色の目を見開き嗜虐心を覚えて、組み敷いてい
る人間と同じ体に変化させた。