Awake 16

 

 

188 Awake 16話(1/112013/12/21() 06:28:59

「くっ……階段が途中で切れていて移動するにも往生する」
 ヒューはブツブツと不平をぼやきつつ痛む足を庇いながら、それなりに息急き切って駆け、
ネイサンより先に儀式の間へ辿り着いた。
――
悔しいが俺がこの状態で戦うのは自殺行為と解りきっている、ならせめて邪魔者を排
除するくらいは出来るだろう。どこまで持つか判らないがネイサンと真祖の戦いに雑魚如きが
乱入して堪るか。
 彼は殆どのキリスト者が効力を認識できる原始キリスト教の印「」を、儀式の間に通
じる扉に聖水を浸した布で塗りつけた。
 効果はすぐに現れた。主を護ろうと突進してくる蝙蝠などがその扉に触れるたび消失し
ていったからだ。それを確かめた数分後、ネイサンが儀式の間へと駆けて来ると、その足音を
聞きつけヒューは心配させないよう儀式の間の扉周辺から姿を隠した。
 ネイサンは扉の印とその周辺に散乱している蝙蝠の血と肉片を見て、彼より早くヒューが来た
事が分かって目で姿を探したが「早く行け、親父をいや、師匠を助けてくれ頼んだぞ」
とヒューが彼に膝を折り懇願したことが過ぎり、一瞬にして彼に対する深慮の念は消え失せた。

 ネイサンが儀式の間へと進んだ事を確認したヒューは「」の記された扉を開き、群がる蝙蝠
や下級の魔物の侵入を素早く遮断するため、スケルトンの腕が挟まっていようと躊躇無く
其の骨が粉砕される軋んだ音を発して力任せに扉を閉めた。
「頑張れよ、ネイサン。頼むから俺のように対峙したドラキュラの弄言と甘言に惑わされないでく
れ」
 だが、扉を閉める際にコウモリや有翼の魔物が一気に入り込んできた。物言わぬ彼らだ
が怒りの表情でヒュー目掛けて一斉に飛び掛かってきた。

189 Awake 16話(2/112013/12/21() 06:30:08

「畜生! 大切な者を守るのに必死なのはお前らとて一緒か。ならばこの円陣の効力に耐
え、キリエからのミサ曲を最後までその姿を保ったまま聴き通せるかやってみろ! 砕け
散れっ! 何!?」
 咄嗟にヒューが退魔のための白い魔方陣を出現させると、一気に室内に入り込んだ魔物が
蒸発し跡形もなく焼失した。
「今頃力が戻るなぞ……フフ……ハハハ」
 消失し、床に白煙が薄く辺り一面に漂っている様子を見て、自分がいつも発現させてい
た力を取り戻したのを歓喜したと同時に、畏れを感じ体が震えてきた。
――
おかしい、誰かのために動こうと思い始めたばかりなのに、何故このような事が起こ
ったんだ? カーミラが消失した上、洗脳が解けたから力を取り戻したのか?
「そうか、やっと棘が消えたか……だが、ネイサン相手に無様な戦い方をしたのは否定できな
いな」
 ヒューはふと儀式の間の上、モーリスが拘束されている部屋の辺りを見た。
「今なら解る。俺の状態がどうあってもお前を信じ意地を張らずに一緒に戦っていたのな
ら、カーミラなんぞに負ける事も時間を無駄にする事もなかったな、間違いなく」
 軽く笑いながら自嘲し、真祖が放つ濃厚な魔力が消えうせる時を待つ事にした。

ネイサンが最後であろう青白い扉の前へ来た時、背後で軋む音を響かせながら入口の扉が閉
まる音がした。
その音を聞き背後で彼が守ってくれているのに心安くなった。そして――
両親を殺した敵であり今まさに恩義ある育ての親を生贄として拘束し、その糧で世界を
力で支配し弱者を虐げんとする真祖ドラキュラを打ち倒して、封印するべく儀式の間の奥の扉
を粛々と開いた。

190 Awake 16話(3/112013/12/21() 06:31:47

「師匠……!」
――
ネイサン……一人か? やはりヒューは魔手に堕ちた後、死んでしまったのか。予想してい
た事とは言え辛い……我が子が自分より先に逝く不幸を味わうとは何たる試練か。
 モーリスは覚醒して初めて聞く、扉の開く音に希望と絶望の入り混じった、澱の溜る様な重
い感覚に心臓が早鐘を打ち始めた。

「よくここまで辿り着いたな、若僧。フッ。」
「師匠!」
 ネイサンはモーリスが柱に拘束され憔悴し、衰弱したのが判るほどぐったりとしている様を見て、
一気に逆上した。
「ちょうど良い。儀式にふさわしい時も訪れた。」
 その表情をドラキュラは嘲る様に含み笑いをしながら言葉を発した。それから口角を歪ませ
モーリスの方へ視線を投げかけた後、力の陥穽へと誘うマジックアイテムを全て付与したネイサン
を見て漲る力が溢れる姿を確認すると、その力を取り込みたいと欲した。
「貴様も我が血肉と化してやろう。」
「そうはさせるか! 師匠!大丈夫ですか、師匠!」
 己に向けられた侮蔑を意に介さずネイサンは叩きつける様に反発し、モーリスの身を案じた。
「うるわしき師弟愛か。だが誤魔化すな。」
すぐ縄を解くために近づこうとしたが、真祖の間合いに入ってしまう事に気付いたため、
歯噛みする様な感情を湧かせつつその場で真祖と対峙せざるを得なかった。
その姿を真祖は小馬鹿にし、願望を叶えるような口調で軽く彼の心を誘った。
「貴様も持っているはず。心の闇をな。」
「なんだと!?」
「全ての上に立ちたい、手柄を独り占めしたい。」
「!」
――
またか、そんな甘言通りの事なんて俺は望んでいない。目の前の師匠を助け、お前を
倒したら終わりだ。

191 Awake 16話(4/112013/12/21() 06:32:44

愛情を独占したい仲間を蹴落としたいとは思わぬのか?」
……
「貴様の友人は思っていたぞ。」
――
確かに、ヒューはそうだったかも知れない。だけど、それは他人が口にしていい種類の
言葉じゃない。
「我はその闇を増幅し、力を与えてやったのだ。」
 大仰に声を抑揚させ、それをあたかも人の感情全てを読み取り、実現させる事が出来た
と言い放った真祖の力にネイサンの心は震え恐れたが、他者を虫や獣かの様に認識し、興味本
位で足や羽をもぐような残酷な子供と対峙しているようだった。
ただの魔物なら一笑に伏すだけだろうが、強大な魔力を有している真祖であれば殆どの
生物に対する生殺奪与の権を簡単に握れる状況を作り出せる事に、改めてこの眼前の敵は
この世のためにあってはならない存在だと激しく嫌悪した。
「貴様っ!!人の心をもて遊ぶとは!許さない!」
 内容に迎合や共感を一切覚えず、ネイサンの心の中は憤りだけが広がった。
愛する者を踏みにじり、弄び、その命を軽んじる魔王に鉄槌を与え、煉獄へ叩き落とさ
なければこの世は地獄と化す――若きハンターの双肩にかかった最終決戦はここに始まっ
た。

――
師匠。この仇敵を煉獄に送り返したら、皆で生き延びた事を分かち合いましょう!
 そう心で宣言するや否や、真祖の体が光の柱に覆われ蝙蝠がその周りを纏った。刹那、
一瞬にしてネイサンの眼前に立ちはだかり手を翳すと蝙蝠が飛びだして来たが、その攻撃には
俊敏さと威圧が見られなかった。
 無数の蝙蝠は真祖を覆っているものの、召喚した蝙蝠の数は躱し、攻撃するだけで消滅
できるくらい少なかったからだ。
――
今まで戦ってきた魔物や駒に比べると攻撃の質が劣っている。どう言う事だ?
 すると、いきなり電流を纏った大量の蝙蝠が不規則な軌道を描いて急襲して来た。

192 Awake 16話(5/112013/12/21() 06:33:34

「今までの攻撃は、目晦ましだったのか!」
 とは言え、注意するのはその攻撃だけだと踏んだ。カーミラのように幻覚を出すでもなく、
攻撃範囲もダメージを与える場所を考えるまでもなく、ドラキュラの巨大な体に当てるだけで
傷口から灰が毀れるだけだった。
――
これが仇敵の力なのか? 否、師匠はドラキュラとの戦いは一度きりではなかったと言っ
ていた。なら、真の姿を晒すまで攻撃の手を緩めなければいい。
 無駄なダメージを受けないよう機械的に淡々と遠隔攻撃を躱し、本体に当て続けた。
 そのような攻撃をされても真祖は真の力を発揮することなく、やがて、その場に崩れる
ように蹲った。
 倒したのかとネイサンは半信半疑で後ずさったが、眼光をぎらつかせていたため諦念を感じ
られなかった。不運にもその予測は的中した。
「力を完全な力を。」
 無数の攻撃を受け、灰を撒き散らしながら蹲ったドラキュラは、倒したかどうかも分からず
不安な貌で近づけないネイサンを見てふてぶてしくニヤリと微かに笑うと、自らの体を粉々に
崩壊させた瞬間、大きな光の柱を出現させ灰とともにその中に吸い込まれていった。
「なに!?」
「奴を追え!逃がしてはならん!グッ。」
「!!」
ドラキュラが消えたと同時にそのゲートから今まで以上の魔力の放出を感じたネイサンは、ドラキ
ュラが人間の世界における外皮を生贄にして自分に有利なフィールドを開いたと、モーリスが怒
鳴るようにネイサンに指示をするまでもなく察知していた。
魔力の放出は戸外で待機していたヒューも感じ取り、開くかどうかは分からないが、身体
はある程度回復してきたのでネイサンをサポートするために儀式の間の深部に駆け出した。
もちろん、ドラキュラ自身はすでにそのフィールドにいなかったため、難なく青白い扉はヒュ
ーの侵入を受け入れた。

193 Awake 16話(6/112013/12/21() 06:34:55

それから一気に室内に駆け込み、目視してから状況を把握すると、モーリスを拘束していた
縄を解き、すぐにヒューは彼の体を支えてネイサンの補佐より脱出の準備を図った。
「歩けるか? 親父」
……ゆっくりとなら」
「それで十分だ。脱出しよう」
「師匠……
「親父の事は俺に任せろ。お前は奴を追え!」
わかった。二人は先に脱出しててくれ。」
 足が縺れながらも歩行できるくらいの体力がモーリスに残っていると確認できたヒューは、こ
の状況において真祖と戦える体力が残っているネイサンに望みを託すような大声で声をかけた。
 声をかけられ、扉の外でいつでも踏み込めるよう待機していたヒューの存在にネイサンは安堵
を感じたが、二人がこの城を脱出する道中で接敵しても逃げられるのだろうかと考えると、
不安になって言葉を詰まらせた。
 だが逆に自分に自信を持った顔で微笑んでくれるヒューの強がりに縋る他はないと、静か
にその願いを聞いた。
「奴を倒し、必ず戻って来い。」
「ヒュー」
 ヒューは自分とモーリスの背中を見ながら扉まで不安そうに見つめているネイサンに、今は自分た
ちより真祖を打倒することが先決だと、それから、戻ってきた時には彼の恋情に対する答
えを出しておくつもりで待っていると、顔を赤らめながら言葉を紡いだ。
 ネイサンは何故顔を赤らめたかは意味が取れなかったものの、自分に対して笑顔を向け、優
しく「必ず戻って来い」言われたことに喜びを覚え、それから人の世の命運を託された事
で再び真祖と対峙する勇気が溢れてきた。

194 Awake 16話(7/112013/12/21() 06:36:08

四肢に軋みを感じつつも城内から脱出するためにヒューはモーリスを支え、介抱しながら歩み
を進めていた。
 城内は拘束される前と変わらず、生温かい血の匂いを漂わせたような瘴気に包まれてい
たが、モーリスは死んだと思っていた息子が憔悴しきっていた自分のもとに駆けつけ、また共
に生きてこの世に留まれた事に安堵し、僥倖を感じていた。
 だが、少しでも気を抜けば意識が飛びそうなくらい魔力を吸い取られていた。しかし、
教会へ報告するまでは意識を保たなければならないと考えたモーリスは、自分が意識を失って
いる間、何があったのかを聞きながら状況の整理をしようと思った。
 ハンターは討伐後に宿泊している土地の教会へ赴き、大まかにだが報告しなければなら
ない以上、時間が許す限り情報を集め内容を纏めておく必要があった。
「ヒュー、お前はネイサンと一緒にいたのではなかったのか?」
 いきなりそう問われ、これから答える内容に自分の恥部を詳らかにせねばならない事を
察知したヒューは言葉を詰まらせながら、だが、簡潔に答えようと努めた。
「穴に落とされた後、足を挫いたネイサンに早く城から出るよう言ってから、そのまま置き去
りにして探索していた」
「初めから共闘していなかったのか……自ら戦力を縮小するとは、馬鹿な事を……
「ああ、本当に馬鹿だったよ。それから、ヴァチカンの査問審議に掛けられたら一発で破
門される状態に陥った」
「やはり真祖の魔手に堕ちたのか……
……そうだ。しかもご丁寧に真祖のいる儀式の間の鍵の番人にさせられて。正気に戻し
たのがネイサンだった」
 軽くヒューが笑ったのを見てモーリスは少し様子が変わった事に気が付いた。正気になったと
言う事はネイサンに敗北したのは確実で、自分が一対一の戦闘においては格下と思っていた相
手に打ち負かされたのである。それをいい意味でも悪い意味でも自尊心の高いヒューが、他
人に対して客観的に話せる心理を見せたのが腑に落ちなかったからだ。

195 Awake 16話(8/112013/12/21() 06:36:42

「しかし、膂力はお前の方が上だろう? それは儂も認めるところだが」
「いくら力があっても周りを把握できず使う道を間違えれば、砂上の楼閣のように水をぶ
っ掛けるだけで崩れてしまう物だ。あいつは少しの力で物が壊れるポイントを最適な方法
を用いて的確に突くって事を知っているから、俺の弱点をことごとく破壊できた」
「ほう」
 モーリスは心の中で感嘆した。ただ一度の敗北で人はここまで変るものかと。やがて、門を
出て城外へと続く吊り橋まで出た。そこから正面を向けば数刻前に血のような瘴気を漂わ
せる城を眺めた森が見えてきた。見据えた後、また二人は歩を進めた。
 その間、ヒューはモーリスの感嘆に満ち、目を丸くし驚いた顔を見て、逆に面食らった様な表
情をして報告を続けた。
「今回は特殊だったがネイサンが俺にラテン語聖句を掛けながら、俺の通常攻撃範囲すれすれ
で確実に打撃を与えていたから、俺の攻撃の本領である遠隔攻撃を殆ど喰らう事無く余裕
を持って倒す事が出来た」
「他人の存在に縋るのではなく認める事がお前に出来るとは……いやはや」
「何か言ったか?」
「いや、こっちを向いて見ろ。ふむ……犬歯は針のように尖ってはいないな」
「ふわっ! 止めてくれ」
 モーリスは橋を渡りきった後、森の入口で立ち止まり、眼前の息子の口中におもむろに指を
差し入れた。
 急に口腔内を観察された事にヒューは驚いたが、しばらくなすがままに任せていた。
「それから紛れも無く晴眼だ。ここ数ヶ月見たことの無かった澄み切った目だ。本当に解
呪された人間の目だ」
……そう言われると何か面映いな」
「よく……生きて戻ってきた。生きていてくれてありがとう……ありが……とう」
「親……父?」

196 Awake 16話(9/112013/12/21() 06:37:51

再度、生き延びられた喜びに目を潤ませながらヒューを抱きしめたモーリスだったが、安堵で半
分糸が切れたかのようにヒューの体から崩れ落ち、その場で腰を下ろした。ヒューもまた、つら
れて傾れ込むかのように一緒に座った。
「すまん、歩いているだけでも辛いらしい。横になってお前と話をしていいか?」
「ああ、それより目を閉じて寝ていたほうがいいぞ」
「それは出来ない、儂は見届けねばならんのだ。城が崩壊し、消滅する希望と恩寵を。だ
が陽光が時間になっても射さない時には希望は消え失せ、儂が命を賭してグレーブスの遺児
の骸を踏み越え力及ばずも戦うだろう」
「親父……言うな、それ以上言葉を続けないでくれ。それに何故俺を先兵として奴の元へ
向かわせない? 親子としての情で俺を見ているのならお門違いだ、それとも同業者とし
て俺はそんなに信用できないのか」
 数刻前に敵の術中に落ち、仲間に刃を向けた自分が言える筋合いではないと理解してい
たが、苦痛と疲労が見える年老いた父の姿を前にして、予測でも想像したくないと思い咄
嗟にヒューは口にした。
 モーリスはヒューが自分に言っている言葉と状況に矛盾を感じたのか段々顔を赤らめ、目を伏
せながら尻すぼみになって行くのを聞いて一瞬微かに笑ったものの、すぐに厳しい表情に
戻してから答えた。
「そうではない。少しでも力のある方に回復させる時間を持たせるのが優先だと思ったか
らだ。だが、儂やネイサンが力を与えるような事態になったらその時は……ヒュー、お前が我等を
彼奴に渡さぬよう生きていても聖剣で刺し貫け」
……以前の俺なら『判っている』と躊躇なく受けただろう。だが人の情の温かさを思い
知った今の俺にその言質は酷過ぎる」
「だからこそ徒に軽々しく力に恃み、死に急ぐ言動を儂は忌避したのだ。己と他人の生命
を軽んずる事は力と自己の存続の諦念に他ならない」

197 Awake 16話(10/112013/12/21() 06:38:34

モーリスはヒューの相貌が徐々に青ざめ、自分から目線を逸らして口もとを震わせながら怯え
ている様に気づいたものの、念を押す心持で言葉を続けた。
「それにそんな事態になったらお前とて……分かるな?」
「ああ。奴と対峙した後に身体の機能が奪われた場合、身体が貪られようとする事態に陥
る前に、意識があるうちに……自裁する」
「そうだ。しかしキリスト者として自ら命を絶つ事は背徳者、排教者の汚名を着る事にな
る。お前の魂は煉獄に入る事も、人の世界に留まる事も許されない辺土の住人となる」
 話をしている内に寂寥と悲しみが込み上げてきたヒューは、仰向けで空を見ながら生き延
びた息子と数刻後に起こる悲観的な予測を語る父親の胸に静かにうつ伏し、子供の様に滂
沱の涙を流しながら自分の途と宿命をこの時、初めて呪った。
「そんな事、死ぬほど聞かされたと言うのに……親父。俺、今死ぬ事とあんたやネイサンが居
なくなる話をしただけで震えているんだ。死んだらあんた達の魂と一緒に居る事は出来な
い。孤高ではない、一人ぼっちで存在と概念は永久に許されない者になってしまう恐怖に」
「泣け。今まで流せなかった涙を思う存分流せ。己の無力を自覚し改めて他者と交わり、
人間としての力を死ぬその時まで構築し続ける土壌と気概を心の中に準備出来るまで」
 表情の見えない息子の涙を感じながら、モーリスは咽び泣く嗚咽が途切れるまで彼の頭を撫
で続けた。その仕草にヒューはただ「済まなかった」と何度も嗚咽の合間に漏らした。
 己の不安定さゆえに、徒に死なせたくなかったモーリスの苦悩と決断を言葉ではなく肌で感
じ、余計な理屈や言い回しをされずとも、最も信頼している二人から愛されていた事に心
からの感謝と、謝罪をささげずには居られない心境になったからだ。
 モーリスはふと、頭を撫でながら唐突にヒューに尋ねた。
「お前、他の世界を見る気はあるか?」

 意外な言葉を投げかけられ、一瞬ヒューは戸惑って顔を上げると、己の立ち位置をもう一
度確認するかのように懐疑的な口調で聞き返した。

198 Awake 16話(11/112013/12/21() 06:40:07

「おかしな事を言う。俺が今この職を放棄したとして何が出来る?」
「お前はまだ若い。職人の徒弟としては年が行き過ぎているとしても、どこに出しても恥
ずかしく無いくらいの教養は与えたつもりだ。幸いスコットランドの殆どの大学は宗派に
関係なく門戸が開かれている、お前さえ望めば……視野を広げるために学問の世界に身を
投じても遅すぎる事はあるまい」
 今度は自分が今まで考えた事すらなかった提案を出され、ヒューは少々面食らい自分の希
望とこれまでの経緯を踏まえた予測を絡め、意見を出した。
「止してくれ。もし、そうなったとしても今のままの俺では学資の無駄になるのは目に見
えている。身近な者からさえ学ぶ事を軽んじていた人間が、他人に混じって急に求道する
事など出来ようものか」
――
嫌だ、まだあんたに教えてもらいたい事がいっぱいある。ネイサンからも学ばなければい
けない事がいっぱいある。教えを請う事は問題ない。だが、一緒に居るなら告解のような
俺への想いを答えにして導き出さないといけない。断るにしても熟考しなければ。それに、
もし承諾したとして受け入れられるのだろうか? 性愛も含めて。前よりは嫌悪を感じな
いのは事実だが、今は判らない。でも、状況が想いを決めるのは確実だろう。
「それに、折角伸ばした髪も切らないといけなくなる。ハイランドではともかく、大学へ
行くにはこれでは野蛮人の姿だからな」
 変化を望んでいない事を訴え、自嘲するように髪に触れた。
「だけど俺の処置は親父、あんたが決めてくれ。またしても己の所在を人に委ねる愚かさ
は百も承知だ。それに、職業としての適性だけは、俺の希望だけで判断できる物ではない
と思うから」
……解った。ただし、儂の決定に従う事を約束できるか?」
「ああ」
 暗闇の中に浮かぶ月輪が風に流された黒い雲に覆われた。二人の会話は途切れ、奇跡と
恩寵を待った。