刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話

 

 

97 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(1/242013/09/22() 13:27:01


ドラ学園前のマ○クにレポートを作成するためノートパソコン持参で来店したシャノア。
そこに黒いジャケットを上半身裸のまま直接羽織り、真剣な眼差しで参考図書を広げて同
じ課題に取り組んでいる同学科のマクシーム・キシンがいた。
 シャノアは「さっき授業で身体を動かしたとは言え、人前で胸元を晒すのは恥ずかしくない
のだろうか」と思いながらも課題をより良い形に纏めるために、マクシームに声をかけ対面側に
相席の許可を取った。
「マクシーム・キシンさんですか? 同じ学科のシャノアです。一緒にレポート作成を進めてもいいで
すか?」
 講義が同じになっても、あまり会話をした事のないシャノアに同席を求められたマクシームは少し
戸惑ったが、別段断る理由も無く快く了解した。
「いいが、珍しいな。今日はまたどうして俺に声をかけたんだ?」
 了承したものの何故自分に声をかけたのか解らないので、純粋に疑問に思った事を質問
すると、
「たまたま課題をしようとしていたら、貴方が同じ課題の図書を読んでいたから声をかけ
た。ただそれだけです」
「そ、そうか」
 素っ気ない返答に拍子ぬけしたが、彼も他人の意見を聞きながら課題を進めるのも悪く
ないと思い直した。

98 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(2/242013/09/22() 13:28:03

「課題はどこまで進んでいるのですか」
「まだ参考図書を精読してからデータを照合しようとしている所だ。まだ書いてはいない
よ。ところでシャノアさん」
「シャノアでいい」
「俺もマクシームでいい。今回の課題に関係する事で興味がわいたから聞きたい事がある。身体
能力によって攻撃の威力が変化するのは誰でも知っているが、君の場合、どう見ても打た
れ強いとは思えない。なのに、いつの間にか被験体が消滅している事が多いな。どうやっ
たら出来るんだ?」
「確かにベルモンドの面々や貴方に比べたら基礎体力は劣っていますが……そうですね、魔力
を体に付与し近接戦闘に持ち込み、そのうえで被験体の特性を見極めて対応しているから
でしょうね」
 マクシームは少し考え込み、シャノアを見据えた。
「うーむ、何か俺の親友の戦闘スタイルに似ているな」
「親友ですか」
「ああ。ベルモンドだけど退魔の家系、ヴェルナンデス家の血を濃く受け継ぐ、ジュスト・ベルモンドと
言う奴だ」
「!」
 一瞬シャノアは狼狽したが、その名前を知っている事で驚いた表情を消してしまうよう努め
た。
理由はアルバスが被験体として彼を追っているからであるが、近しい者にその事実が知れる
と厄介な事になるのは目に見えているので、回避しようとしたのである。
 もっとも、シャノアの表情と感情に喜怒哀楽が現れる事はめったにないので、マクシームは端整で
蟲惑的な物憂げを醸し出す彼女の立ち居振る舞いしか見えなかったようだ。

99 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(3/242013/09/22() 13:29:22

「今日はあいつがここに来るんだ」
「そうですか、それは楽しみです。そうだ、さっきデータの照合と言っていましたが、学
科の実技を撮影した画像があるのです。その動画を見てどのような種類の攻撃を繰り出し
た時に威力、被験体のダメージが強いのか見たら、より精度の高い内容になるのではない
でしょうか?」
 そう言いながらシャノアは慌てふためいた感情を打ち消そうとしたのと同時に、自分が知っ
ている同輩とは違い、興味の持てる会話が出来ている事に喜びを感じて、柔らかな表情を
マクシームに向けるとパソコンを開いて起動させた。
「結論は違うにしてもデータの開示はお互いに有益だからな。見せてくれ。隣に座っても
いいか?」
「ええ」
 マクシームがシャノアの隣に座ったその時、光の速さで入店して来た者がいた。
存在を確認する間を措かず、その者は闇の様な長髪を鴻毛の如くたなびかせ、マクシームの眼前
に近接したと同時にアイアンクローをかました。
「ウオアァアアァ――!?」
――こ、この俺が速さで負けるなんて……? こいつ一体何者だ!?
 マクシームは椅子ごと吹き飛ばされ両目を押さえて床で悶絶していたが、軽やかな動きを繰り
出した黒髪の者――もとい息急きかけながら満面の笑顔でシャノアの肩を両手で掴む次兄ヒューで
あった。
 それから彼は床でのた打ち回っているマクシームを、毒虫か何かを見るかのように不快な表情
をして一瞥した。

100 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(4/242013/09/22() 13:31:08

「俺の妹の隣に断りなく座るとは俺達三兄弟を敵に回したな、貴様。シャノア―何もされなか
ったか? 恐くなかったか?」
「ヒュー兄、私の身を心配してくれるのは嬉しいが、もう少し状況を考えてから行動に移して
もらったら、私としてはもっと嬉しいのだが。それに店内で暴れたら貴方の方は犯罪者に
なる」
 そう言うとシャノアはヒューの腕を軽く振りほどき、マクシームのもとに駆け寄り抱き起こした。
 だが、アイアンクローをかまされたものの、痛みが軽減したマクシームが目を押さえながら反
論した。
「ここのマ○クはドラ学前にあるんだ。これしきの騒動で店員が駆けつけるなんて事はま
ずない」
 確かに他の客や店員はこちらを見たものの、いつも通りに過ごしているようで自分たち
の行動は何事も無かったように場に埋もれていた。
「ただ、同学科の先輩であるラルフ・ベルモンドや、リヒター・ベルモンドとドラ学理事長の子息アルカード
先輩が一緒に座っていたらた ま た ま 見ていた理事長が鉄拳制裁のために異次元へ
の扉を開いた時は、さすがに警察沙汰になったがな」
「それだけで済まされるのかここは」
 シャノアとヒューは半ば呆れて同じ感想を口にしたが、偶然にも第三者の声もまた同調した。
「アルバス兄」
 長兄アルバスは平静な顔で颯爽と三人の前へ歩みを進めてきた。
「帰ろうとしたら、丁度お前たちの姿がガラス越しに見えたから。しかし……ここに倒れ
ている男は何なんだ?」

101 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(5/242013/09/22() 13:32:39

「……あ」
 ヒューはマクシームが朗々と話している事で彼に攻撃した事を失念していたが、さすがに思慮の
無い行動を取ったと自省して腰を落とし床に膝を付けると、シャノアに換わり抱きかかえ介抱
した。
「済まなかった。話を聞かずにその場の状況だけで判断して」
 そう言いながらヒューは眼球に異常がないかどうか確認するため、マクシームの瞼を眼孔に少し
喰い込ませ彼に眼球を上下左右に動かすよう頼んだ。幸いにも追視させる際マクシームから痛み
の訴えが無く、充血はあるものの眼球に血腫が見られないことから何らかの損傷は無いと
判断したが、念のため椅子と床に接触した背面の上半身も痛む所がないか訊いてみた。
 もちろん、店内なので服を捲りあげる訳にもいかないから触診という形でのみだが、肩
口から腰骨の付近にかけて親指以外の指の腹で少し圧をかけながら確認していった。
――吹き飛ばされた時は気付かなかったが、よく見るとシャノアに似ているな、この男。しか
し何だ、このシンクロするような感覚は? あんな事をされたんだ、もっと怒りが湧いて
来てもいい筈なのに不思議と親近感を覚える。
 抱きかかえられたマクシームは相手の涼しい眼元が自分に向けられ、様子を観察される視線を
見つつ感慨に耽った。
「何をしているんだ? ヒューは」
 ちょうどバイト先から家路を急いでいたネイサンは、道路からドラ学前のマ○クで床をじっ
と見ているアルバスを見つけると「何事か」と思い立ち止った。
 よく見ると、ウェーブのかかった黒い長髪を後ろに束ねた見知らぬ男をヒューが抱きかかえ
て、まじまじと見ている姿が目に映った。
「何で、どうしてそんな事をしているんだ。それに何故アルバスやシャノアはその行動を止めてく
れない?」

102 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(6/242013/09/22() 13:34:07

 ぶつぶつと呟き行動に嫌悪を持ちながらも、顔を赤らめ自分には向けてくれない翳りの
ある真っ直ぐな視線を他人に向けている事にネイサンは嫉妬を覚え始めた。
 ようするに彼は介抱する側にヒューがいるのと、それを傍から見ているしかない自分の状態
が気に入らないのだ。
――どうしてあいつは俺以外の人間に対して、普通の行動と言動が出来るくせに(注:で
きてない、できてない)俺に対しては子供染みた理由で怒り出すのか解らない。
嫌っているという単純な理由なら近づかないけど、そうでもないようだから困る。
例えば学部は違っても、講義が一緒になった時はいつも隣に座って、答えに詰まった時は
いつもノートの端に答えを書いて助けてくれるけど、問題はその後にお礼をしようとあい
つが好きなプリンがある店や、アルバスがバイトをしている古書店(俺は別に行きたくないが、
ヒューは古い本の手触りと書香?とやらの雰囲気が好みらしく、いつもより穏やかになる)
んかに連れて行ったりするけど、終始顔を赤らめてこっちを見てくれないどころか家に帰
ると不機嫌になる。
「何か気に障ったか?」と理由を聞けば「お前の知った事ではない」とそっけなく返され
る。
この前、剣を振り回して追いかけられた時もそうだ。
その日はあいつが炊事当番だったけど、臨時講義があって受講前の時間に弟子全員と師匠
達に「今日は無理だから出前を取ってくれ。代金は俺のバイト代から出す」とメールを送
ってきたが全員給料日前で余計な金はないのは判っているから、一番に帰ってきた俺が夕
飯を作ってあいつを出迎えたら「余計な事を!」とものすごい剣幕で怒鳴り散らされた。

103 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(7/242013/09/22() 13:35:58

アルバスは「小さな事でも貸しを作りたくないからだろう。全く不器用な奴だ、ただ、今回は
当たり前の事をして怒鳴られたのだから全面的にあいつが悪いが、お前も過剰な礼をする
前に少し考えたらどうだ」と言われたが、どの辺がそうなのか判らない。
その後、汗をかきつつどもりながら胸のあたりを押さえて「さっきは済まなかった……夕
食を作ってくれて、あ、ありがとう」としょげ返って謝ってくれたが。 
ともかく俺はあいつが解らない、けど不器用な親切心を俺に向けている事は間違いないだ
ろう。
「……なのになんで他人が接触したぐらいで嫌な気分になっているんだろう?」 
入ろうかどうか迷っているうちに散乱したバーガーをヒューが片付け、全員が店員に謝った後、
それぞれ椅子に座り、彼は介抱していた男に話しかけていた。
 ため息をつきながら、場に入っても何を会話していいか分からないと思い、踵を返し帰
ろうとしたが、
「鬱陶しい顔をして、店に入らないのか?」
 振り返ると赤いロングコートを着て、長い銀髪が目立つ男がいた。人間離れして近寄り
がたい、言わば氷を形にしたような冷たい美貌をしていたが、溌剌とした満面の笑顔で軽
くネイサンに話しかけているようだった。
「?」
 彼は知らない男に友人のように声をかけられ少々戸惑いたじろいだが、その男はあろう
ことか臆面も無くネイサンの体を正面から掴み、店に向けると大声で店内に向かって叫んだ。

104 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(8/242013/09/22() 13:37:17

「マクシーム! 待たせたな!……って、アルバス、何でお前がここに居るんだ!?」
「これは僥倖、俺を撒くのに必死になって状況を確認していなかったな。ネイサン! 奴を押
さえろ!」
 アルバスはネイサンの両腕を掴んでいた男を拘束するよう大声で叫んだが、一瞬の事だったので
ネイサンの体は動けなかった。
 時既に遅し――男は、ジュストと言われた青年は脇目も振らず一目散に逃げてしまった。
「ジュスト! どうしたんだ!? それに何故あいつを捕まえようとするんだ!?」
 マクシームは激高しアルバスの胸倉を掴んで激しい剣幕で詰め寄った。だが、そんな事で諦める
ようなアルバスでは無かった。研究者として対象物を逸失しては、と彼は咄嗟にマクシームの手を
激しく振りほどき駆けだした。
 そしてジュストの姿を捉えると魔銃アガーテを腰のガンホルダーから取り出しジュストの足元
めがけて発砲した。
「なっ、発砲するなんて信じられん! おい! ここは学校の敷地内じゃないぞ! 馬鹿
も大概に……またやったな!?」
 ジュストはアルバスの常識を半ば信じていたので、よもや躊躇なく人に発砲するとは考えた事
は無かったが事実、地面に弾痕が炸裂しているのを見て体中が震えた。
 アルバスはジュストが腰を抜かしへたり込んでいるのを確認すると、勝ち誇った表情でジュストの
居る場所まで駆けて行った。
「君の親友が教えてくれたんでな『ドラ学前のマ○クは異次元の門が発生する程度じゃな
いと騒ぎにならない』と。それにここは偶 然にも学園の敷地内だ」

105 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(9/242013/09/22() 13:38:17

「校外でマクシームに相談する前に攻撃されてしまうなんて……予想外だった」
 アルバスに見下ろされた形で冷や汗を流しながらジュストは視線を下に向け呟いた。
「俺だって何時も手荒い真似はしたくないと思っているが、何故、採血程度の事で逃げ回る?」
「自分がモルモットにされていると分かっていて協力できる奴がいるか!」
「他のベルモンドは協力してくれたがな」
 もともと白い顔を一層蒼ざめさせてジュストはアルバスに問い詰めたが、アルバスは何故か翳のあ
る表情でジュストを見据えて答えた。それを見てジュストは諦めたような声で泣きそうになりな
がら呟いた。
「それはお前の目的を知ないからだ」
「だが、それを他のベルモンドに言って信用されるほど、お前は発言権が高かったかな?」
「くっ……」
 とりあえず騒動が起こっても店が壊された訳では無かったので「ありがとうございまし
たー」と満面の笑みで挨拶する店員の事はさておき、四人はアルバスの後を追った。
 状況が飲み込めないネイサンは、とりあえず答えてくれる人間に期待して独りごとの様に質
問した。
「何があったんだ? 彼を何故攻撃しているんだ?」
「あの時、採血に協力しなかったベルモンドだからです」
 シャノアからその名を聞いてネイサンは「あぁ、あれが」といった風情で彼の風聞も同時に思い
だした。

106 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(10/242013/09/22() 13:39:17

――マッドサイエンティスト、ジュスト・ベルモンド。エクレシア大の方でも有名だ。彼の美貌
とは裏腹に、人懐っこい性格と物怖じしない態度に絆されて、殆どの対象者は彼のために
快く何度も危険な内容であっても協力してしまうらしい。実物を見たのは初めてだけど、
あれは確かに興味をそそられる人物だ。
 シャノアはとアルバスは半月前、血液検査と献血の校内バイトを志願し、それを利用して実験用
の血液を採取していた。シャノアは受付、アルバスは医師免許を持っているため臨時で採血できた
訳である。
 ネイサンは運送のバイトで偶然ドラ学に献血用のジュースもとい、うまい肉を配達しに来た
が次の仕事先がキャンセルになったのでそのまま残り、肉を目当てに押し寄せる学生達の
ために肉を焼いていたのである。
 外部の人間がそんなことをする理由はないが、うまい肉に殺到する学生のために焼く係
の家政学部の学生だけでは手が足らず、それを見かねた上司が残るよう指示したからだ。
「そんな事はどうでもいい。お前らは自分の身内が他人を攻撃している事に疑問を持たな
いのか!?」
「持たない」
 飄々とした様子でジュストとアルバスのやり取りを見ながらシャノアは淡々と答えると、冷静でい
るシャノアに対してマクシームは少々腹立ち紛れに突っかかった。
「シャノア……返答次第では君だって許さないぞ」
「ジュスト・ベルモンドも攻撃を仕掛けるから」
「人の事はモルモット扱いするくせに、自分がその立場になると逃げ回るから往生際が悪
い」
 アルバスの様子に悪い予感を覚えながらも、ヒューも少々脅す程度だろうから放っておこうと
思い他人事のように言った。

107 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(11/242013/09/22() 13:39:55

「言いがかりだ! この前、二度と人を実験台にしないって約束したばかりなのに」
「マクシーム……それは貴方が知らないだけだ。彼は研究対象として興味を持った人物に対して
拒否されても執拗に実験を行っている。ドラ学内での彼のあだ名を知っているかしら?
――マッドサイエンティスト。彼の一族であるベルモンドさえそう呼んでいる」
「それとアルバスが攻撃するのに何の関係があると聞いているんだ」
「お前、ジュストから何にも聞かされていないんだな。ジュストは採血の代わりにアルバスの能力を
知りたいとか何とか言って様々な実験を行っていたんだが……命にかかわるレベルになっ
てから、アルバスはジュストが条件を飲む気は無いと気づいて、仕方なく強硬手段に出たんだ」
 マクシームはそう聞かされると「人体実験だと? もうしないと約束したはずなのに」と思い
問い詰めるため、より速度を上げて二人の許に駆けた。
 そうこうしているうちにアルバスが腰を抜かしたジュストを押し倒し、耳元に銃口を向けていた。
「わ、解ったから銃を躊躇なく俺に向けるのは止めろォーッ!」
「……「解った」だけでは内容が取れんな。「俺の血を採血してくれ」との言質をお前自
身の口から聞き出せない限り、断続的に耳元で銃を撃ってやる。なに、強情張って鼓膜が
破れても俺が手術して、また一から繰り返してやる」
「やめてくれっ!」
 二人のやり取りに「手術するならその間に採血すれば済む話では、というよりドラ学内
とはいえ無闇に発砲した時点で逮捕されるだろ、常識的に考えて」と四人は思ったものの、
誰一人として表情は見えねども悪魔と見紛うほどの殺気を放ち、ジュストを恫喝しているアルバ
スに突っ込めるはずもなく足を止めるしかなかったが、

108 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(12/242013/09/22() 13:42:58

「俺はな、お前にモルモットにされた上、ここで引くほど諦めのいい人間ではないのだよ。
それから、お前の様に人の身体を危機に晒しておきながら対価を払わない卑怯な小童は、
言葉と体で教育しておかないと後々同じ目に遭う人間をさらに増やすからな」
 アルバスが言った言葉に内容はともあれ、溢れ出る殺気に圧倒されたのかネイサンだけは妙に納
得した。
「うーん……暴論だが牽引者がいなければ社会的な抑制は出来ないか。なるほど……」
「な訳があるか天然! いい加減止めるぞ!」
 ヒューはありったけの力でネイサンを小突くと、全力でアルバスを羽交い絞めにしてジュストから引き
離すため、ネイサンの腕を引っ張ってアルバスのもとに駆け付けた。
 無論、目標であるジュストの耳元に銃を向けているアルバスが他に気を取られるはずもなく、
いとも簡単に二人に両方から羽交い絞めにされジュストから引き剥がされた。
「放せっ、何をする!?」
「いい加減にしろ、アルバス。やり過ぎだ」
「止めるな、ヒュー! こいつは人として、やってはならん事を平気でやっているんだ!」
「大丈夫かジュスト?」
 二人に続いて駆け付けたマクシームは、ジュストを守るよう様に自分を楯にして彼を抱きしめた。
「ありがとうマクシーム……久々に命の危機を感じた」
「あまり固執するなアルバス。確かに冬場の凍てついた滝でフンドシ一丁(摩擦を気にするな
らせめてスパッツにすればいいのに←心の声)でのバックダッシュの速度を計測するなん
て実験を受けた上に、交換条件を飲まず逃げ回っているジュストも悪いが、これでは一方的に
消耗するだけだ。もう諦めろ」

109 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(13/242013/09/22() 13:44:06

 ヒューが語調を強めて言った内容を聞き、マクシームはジュストに対する懐疑を真実と認識し次第に
怒りが湧いてきた。
「お前、今何て言った?」
「ジュストに対する交換条件としてアルバスに提示された実験内容の一部だ……ってそういうお
前こそ何している!?」
「そうか……そうか。やっぱり一方的に攻撃していた訳では無かったんだな。ジュスト、お前、
目的のために他人に迷惑をかけてはいけないって俺とリディーに言われたばかりじゃないか」
「痛い痛いっ! 鯖折りは勘弁してくれ、ぇっ……」
 非道で非情だとは思いつつも、マクシームは抱きしめていたはずのジュストを腰骨がミシミシッ
と音を立てるくらいまで締め付けた。
「頼む、放してくれ」
 ジュストは青白い顔を今度は真っ赤にした顔になりながら懇願したが、マクシームは聞き入れな
かった。
「俺はもとよりリディーの信頼を裏切った上に、他人との契約を履行しないと言う不誠実な真
似を仕出かしたんだ。今日こそは性根を入れ替えてもらう!」
「まさか、ラルフ……ラルフ・ベルモンドの所に俺を連れていく気か!」
「ああ、こればかりはやらないようにと思っていたが、もう我慢ならん。ヒュー、ジュストが逃
げないように右腕を確保してくれ」
「わかった」

110 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(14/242013/09/22() 13:48:15

 鯖折りした後「これで下手な逃げ方も出来まい」と思ったマクシームはジュストを地面に下ろし
彼を支えるように肩組みしたが、腰を少し痛めたジュストを抱えながら移動するのは自分にも
相手にも負担だろうし、ジュストが逃げ出す可能性を考え、もう一人と支えた方がいいと判断
した。
 その光景は精悍な青年二人と肩を組んでいる物憂げな白皙の美青年といった、目の保養
になりそうなものだが、実際ジュストからすれば「ドナドナドーナー」と売られていく牛のテ
ーマが頭の中に流れている状態である。
「ところで、彼を抱えてこれからどこに行くつもりだ?」
「ドラ学の闘技場だ。エクレシア大の方では修練堂とか呼ばれている施設だ」
「件のラルフ・ベルモンドはそこにいるのか?」
「大抵、闘技場でウォーミングアップした後、それぞれの体育系サークルに行く事になっ
ているからな。まだ5時ぐらいだからいる可能性は高い」
「……ところで、部外者が入っていいのか?」
「大丈夫だろう。人の形をしていれば見分けはつかないから」
 そんなアバウトな。とヒューは思ったが、先ほどの無茶が通る様な学風ならあり得ると納得
するしかなかった。
「しかし、ラルフ・ベルモンドとは一体誰なんだ? ジュストの一族には違いないと思うが」
「見ればわかる」
 マクシームはにやりと含んだような笑みをヒューに返し、アルバスの背中を意味有り気に見つめた。
 やがてドラ学の闘技場に着いた面々は重厚な鉄の扉を開くと、そこにはムセっけぇる汗
の色んな臭いと汗だくの筋肉、筋肉、トドメに筋肉。めくるめくリアルガチムチパンツレ
スリングの世界へようこそと来たもんだ。
「……おえっぷ」

111 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(15/242013/09/22() 13:49:34

 汗と長年使用して来た器具に染み付いた臭いは、ファブ○ーズを散布したくらいでは消えな
いが、徐々に臭いに慣れてきたころ、マクシームは部屋の片隅で片手腕立て伏せをしている浅黒
い頑強な男を見つけると、その方向へ歩いて行った。
「ラルフ先輩」
「よう、マクシームか。それから……ベルモンドとは思えないような生っ白い顔をしたジュストも一緒
か」
 ラルフと呼ばれた男はトレーニングをやめて立ち上がり、タオルで汗を拭うと呼ばれた方向
を向いて爽やか満点に微笑んだ。
 その笑みを見たジュストは周りからただならぬ気配を感じて青ざめる。
「最近俺から逃げ回っているようだが、何か疚しい事でもあったのか? ジュスト君」
「何もない。何も」
 だが、その双眸には明らかに怯えが見えた。
「マッドサイエンティストと呼ばれているほどの頭脳でも、肝心な事は都合よく忘れるも
のらしいな」
「何の事か皆目見当がつかないな」
「とぼけるなよジュスト! アルカードとリヒターに何をしたんだったかな? あ゛ぁ?」
「アルカード先輩にはジュスト特製プロテインの定期投与、リヒター先輩には前頭葉前野皮質の電磁波
照射によるオールクリアシグナル出現の実験(状況の予測による恐怖の解消実験)だな」
 その実験結果によると、アルカードはしなやかで艶のある姿態から、ベルモンド顔負けのムッキ
ムキのナイスガイへと変貌を遂げ(筋力に関しては元々からその外見に見合うくらいの膂
力を持っていた)リヒターはと言うと……ここはラルフの口から語らせてもらおう。

112 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(16/242013/09/22() 13:50:10

「忘れているのなら耳をかっぽじってよく聞け! 2か月前から少しずつリヒターの様子と言動
がおかしくなったんだ。おかしいと言うか感情を
き出しにしていったと言った方が正確
かもしれないが」
 ラルフは悪夢を見たかのように目を強く瞑り、震えながら言葉を続けた。
「だが、その様子が一ヶ月後になると幼児退行を起こすようになった。今思い出しても恐
ろしいっ!「ラルフ……アルカードとおれが一緒にいちゃだめなの?」と涙を溜めた潤んだ瞳でと
言うより、あの面と筋骨隆々の体で甘えた声を出されて何が言える?」
――「わーい、アルカードから撫でてもらったよ。嬉しいなっ」
――「アルカードはどんな姿になっても好きだよ」
「まぁ、照射自体を中止したら数日で元に戻ったが、その間の記憶は持っている訳だから、
事ある毎に自分の言動を思い出して、赤面しながら頭を打ち付けている所を毎日目撃して
いるんだ」  
「非道な事をする。お前は科学者として人の命を何だと思っているんだ。特に電磁波実験
は、ロボトミー手術の失敗例と同じ状態になっているじゃないか。モルモットと計器で測
定するだけでは気が済まんのか」
「こらぁっ! マクシーム! 余計な事を、具体的な内容をアルバスの前で言うな!」
「だが、人にそうさせたのは他ならぬお前だ。俺達の注意だけでは反省が無かったようだ
から、ここは当事者に罰して貰わないといけなくなったんだろう?」
 マクシームは腰の痛みに耐えつつ、脂汗を流しながら逃亡しようとしているジュストの手首を捕
まえると、彼の背面に腕を捻じり上げ鬼の形相で凄んだ。

113 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(17/242013/09/22() 13:51:28

 自分と同等の膂力を持つマクシームに主導権を取られたら二進も三進もいかない。その様子に
「もう止めてやれ」と言いながら苦笑しているラルフ以外は完全にドン引きしていたが、ネイサ
ンとヒューは自分達のほぼ真剣に近い喧嘩もこれくらいの野卑さを持っているかと思うと、お
互いに顔を見合わせて恥じ入る様に俯いた。
 特にヒューはアルバスから「感情の幅を増やせ」と言われた事に加え、感情に任せて照れ隠し
のためにネイサンを攻撃するのは自重しようと本気で思った。
「マクシームが頭を下げてくれたから俺達も許したんだがな。他の二人は気にしていないようだ
が俺は未だに腸が煮えくり返っている。ところでマクシーム、お前が必死でこいつを罰してくれ
るなと頼んだのに、どうしてここに連れて来たんだ?」
「俺とリディーがこいつを諭したのに、その後も他の人に迷惑をかけたからですよ」
「ははぁ、そういう事だったのか。道理で見ない顔が一人増えていると思った」
「後の三人は御存じなんですか?」
「知っているも何も献血したら、特大のうまい肉を俺の注文通りに用意してくれたんだ。
あまりにも旨かったから一日に何度も並んだ」
 ラルフがシャノアとアルバスとネイサンを見て恩人を見るかのような素直な視線を向け、うっとりとし
た表情で見つめ始めた。だが、アルバスはその様態の意味が分からず、咳払いをして話を続け
た。
「……よく覚えているよ。ラルフ・ベルモンド。体内の総血液量である6リットル近くを献血して
も死ななかったんだからな。通常なら総血液量の1/3くらいの失血から生命維持が困難にな
ってくるのに」
「ああ、だからお前以外の医学部院生も青い顔で「もう止めてくれ」と泣きが入った訳か。
あの時はてっきり肉が足りなくなったから理由を付けて断っているのかと思っていた。だ
から意地になって並んだのだが急に眠くなったから止めたな」

114 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(18/242013/09/22() 13:52:59

3回目に並んだのを見た時、シャノアと俺が生命維持活動の限界について何度も説明したはず
だが、他の所に並んで献血していた事を後で知ったんだ。混雑していたとは言えよくバレ
なかったな、というか全く聞いていなかったんだな」
「悪かった。目的の事になると周りが見えなくなるらしい。目的のために貪欲になるのは
そこのジュストと同じだな俺も」
 ラルフは申し訳なさそうな顔で微かに苦笑しながらジュストを見たあと、呆れ顔で軽く頭を二、
三度振ってため息をつくアルバスに視線を向けた。
「で、俺としてはこいつをギッタンギッタンのメッタメタにしてやりたいんだが、ここは
新たに迷惑を被ったあんた方に権利をあげよう」
「俺が全力で拒否するという選択肢と権利は?」
「後にも先にもないな、そんなものは」
「そうか、なら採血させてもらおうかジュスト」
 アルバスは自分のジュラルミンケースから、私物の採血道具一式と、その他を取り出し採血
の準備を始めた。
「そんな事で良かったのか」
「当初の目的はそれだったからな。だが、先ほどの実験内容を聞いたら考えが変わった。
身体能力も調べたくなった」
「奇遇だな、最近実験にかまけてベルモンドの男として筋力が落ちていないか心配だったん
だ。全力でサポートさせてもらう」
「止めろぉー今日は厄日か!」
「お前、何をしている。本来なら俺が鉄拳制裁をしたいところだが、その権利を譲ったん
だ、モタモタしていると俺が手を下すぞ」
 一瞬、何故自分の方を見るのか判らなかったヒューだったが、ラルフが自分に迷惑をかけてい
ると勘違いしている事に気づくとすぐに反論した。

115 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(19/242013/09/22() 13:55:48

「違う、実際に被害に遭ったのはそこのアルバスだ。俺じゃない」
「そうなのか」
「そうだ。ドラ学内で唯一採血していないのがこいつだけでね。学生課から至急、検査の
ために採血するよう通達が出ていたのだが(学生掲示板に張り出されても)どういう訳か
逃げ回って困る。学生課も捕まえる事が出来なかったから臨時でバイトしていた俺に指示
が回ってきた訳だ。本来なら大学病院で行うものだが、状況が状況だから捕まえたらその
場で行えとのお許しもある」
 何その杜撰な処理方法というのはさておき、ラルフは早々に始めるため、当事者以外の退出
を求めた。
「とにかく関係はないんだな。関係ないならあまり見ていてもいいものとは思えない。当
事者以外は帰った方がいい」
「確かにそうだが……アルバス、相手を銃で吹き飛ばすなよ」
 ヒューが不安そうにアルバスに釘を刺すと、何食わぬ顔で彼はしれっと反論した。
「誰がそんな凶賊の様な真似をするか」
「信用できるか!」とラルフ以外の全員が異口同音に突っ込んだが、すぐにマクシームが口を開い
た。
「大丈夫だ、俺が暴走を止める。でも何かあったら踏み込めるよう、あんたたち三人はド
アの近くで待機してくれ」
「と言う訳で、煮え湯を飲まされた者もいると思うが、大人数だとどう見てもリンチだ。
いくら何でもそんな惨い真似は許さない。ジュストがベルモンドとは言えだ。だから今日は上が
っていいぞ」

116 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(20/242013/09/22() 13:56:43

 だが、ラルフが抑止を周りに求めてもそれなりに被害を受けているベルモンド及び、その他は
納得がいかない。本気でないにしても、自分達の前で醜態をさらす姿を見て鬱憤を晴らす
算段をしている。
「いや、俺は立ち合う」
「僕もだ」
「聞いていなかったのか? 俺はジュストと拳を交える気はない。アルバスのサポートをすると
言ったはずだ。一対一の勝負に他者が介入する事は許さん。もしすると言うのなら俺を倒
してからにしろ」
「解りました。副会長が言うのなら仕方ありませんね」
 ラルフに脅されると、息巻いていた部員は全員、殺気だった彼を見て戦慄し、蒼ざめた顔で
すごすごと帰るしかなかった。
 残れと言われた三人は闘技場前でしばらく佇んでいたが、立ちっぱなしでいるのもどう
かと思ったので、とりあえず入り口前の階段に腰を下ろした。
「シャノアは何をやっているんだ?」
 アルバスが一度でも狂気に飲まれたら弟子三人でも太刀打ちできるか分からないと不安を抱
いていたネイサンは、ノートパソコンを広げたシャノアに、どうしてこの状況下で冷静でいられる
のか疑問を持った。
「レポートです。待っている時間を持て余すのは勿体無いので」
「お前はマイペースだな。本当に」
 相変わらず平常運転のシャノアを見て、長くいるから安心できているのかと安堵したところ
で何故かヒューは少し顔を赤らめ、恥ずかしそうな表情でネイサンにぼそっと軽口をたたいた。

117 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(21/242013/09/22() 13:58:00

「……天然のお前には言われたくないだろうよ」
「お前が突っかかるのを聞いていても今日は反論する気分じゃない」
「……フン」
 二人きりであれば最近の行動についてヒューに問いただすところだったが、シャノアが居るので
なんだか気恥ずかしくなり無言で過ごすことにした。
 何気に「ヒャッハァァー」とか何とか声が聞こえたが一時間くらいたったころ、マクシームが
扉を開け三人を招き入れた。
「尻が……尻が痛い。尻に根が生えたように重い」
 過酷な実験が終わり、ジュストは主に臀部を酷使したせいか、椅子に座った途端痛みだし動
けなくなった。その姿は燃え尽きて灰になった某ボクサーの様であった。
 その格好に、してやったりとばかりにラルフは軽く笑い、アルバスは満足そうにジュストの血液が
入っている試験管を蛍光灯に掲げて透かし悦に浸っていた。
「鍛錬が足りんぞ、ジュスト。アルバスはこの実験に殆ど文句を言わずに受けてくれたのに」
「採血が出来ただけでも重畳なのに、体の線が細いから持たないと思っていたが案外持久
力はあったようだな」
「あれだけ脅されたら誰だってやり遂げるだろうさ」
 マクシームは面白半分の実験に苦笑しながらも、長年の経験からジュストが(一時的とはいえ)
反省した様子を見せたのに少々心が痛んだ。
「マクシーム……これからは自重するから許してくれ」
「いつまで続くかは分からないが、これを機にもう少し考えてから行動しろよ」
「マクシーム……」
 ジュストは自分にスポーツドリンクを渡すマクシームの手を握ると、その手に縋って上体が前方
に崩れ落ちそのまま気絶してしまった。
 あとはマクシームに任せようと思ったアルバスはマクシームに「騒がせて済まなかった」と謝罪した。

118 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(22/242013/09/22() 14:07:50

「さて、血液を無事確保できたし、そろそろ帰るとするか。と、その前にネイサン、俺と一緒
にエクレシア大学のお前の所属ラボに連れて行ってくれ」
「血液をドラ学の医局で冷凍保存したら、皆で一緒に帰るんじゃないのか?」
「その後にエクレシア大の方に行くんだ」
 機材はドラ学に比べて充実している。自宅でできない実験はこっそりエク大の機材を
使用していた。
 一応出身大学でも、ラボ内のパスコードは現役の人間しかもっていないからアルバスはい
つものようにネイサンにラボを使わせてもらう頼んだ。
「くっ、確かに文学部の俺はラボのパスコードを持っていないが……」
 何だかんだ言いながら弟子、師匠全員で集まって食事を取るのを一日の楽しみにしてい
るヒューのガッカリ具合から出たボヤキはさて置き、学部生レベルでもパスコードに網膜パタ
ーン照合、指紋照合が施されている大学って何やねんと言うぐらいセキュリティーが厳重
だが、それくらいしないとシャレにならない研究をしているのだから仕様が無い。
「という事でお前達二人は先に帰ってくれ。それに今日の炊事当番はシャノアだったな」
「久しぶりに全員で帰られると思ったが、残念だ」
 ちらっとアルバスの方を向いたものの、目線をすぐに落としてから少しむくれた妹弟子に、
しようがないなと言った風情でくしゃくしゃっと彼女の頭を撫でた。
「解ればよろしい。埋め合わせに「ダニエラおばあさんのケーキ」を買って来よう」
「ありがとう……ございます、アルバス」
 それでも自分の研究のために、学部生ながら編入して来てまで付いてきた妹弟子に何も
しないと言うのは心苦しいので、彼女の好きな「ダニエラおばあさんのケーキ屋」の人気商品
を買って来ようかと思った。

119 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(23/242013/09/22() 14:11:24

 エクレシア大はドラ学から歩いて15分の所にある。
 広大な敷地を有し、学内に高エネルギー加速器(むちゃくちゃ場所を取る)を設置して
いるくらい理系の分野に力を入れている。そのため、近隣の学校や施設より機材が揃って
いる。
 空が暗くなっても、理系キャンパス内の半分は実験しているので電気が付いている。夜
でも昼のような明るさだった。
 二人は敷地内を歩きながら取りとめのない話をしていた。
「理工の校舎は相変わらず明るいな。今でもそうだが学部生の時は特に、昼夜分かたず自
分の研究が出来るから嬉しかったし、師バーロウやシャノアもいたから家よりいる時間が多かった
が……お前達が家に来た事で今では家に帰り、皆でいる事が楽しみだ」
「シャノアやバーロウ氏だけではそんな感情を抱かなかったのか?」
「同じ年頃の同性で、自分たちと同じ人間というものが欲しかったのかもしれないな。そ
れにシャノア以外だといつも一人だった。お前はどうだ?」
「俺には両親はいないけど、師匠のモーリスやその子供のヒューがいた。二人とも良くしてくれて
寂しいなんて思った事はなかった。だけど……!」
「最近、己の好意を否定するような激しい拒絶を、ヒューから受ける事に我慢ならないのだろ
う?」
「ああ。昔から素直じゃない所はあったけど最近は酷過ぎる。俺が何したって言うんだ。
剣を振り回すとか怒鳴りつけるとか明らかに常軌を逸している」

120 刻印・月輪 ひとつ屋根の下 1話(24/242013/09/22() 14:12:15

 悲しげに言葉を切りながら吐露するネイサンの様子を見てからアルバスは立ち止り、少し考え込
む格好をしてネイサンを見据えると静かに口を開いた。
「それなら、あいつのバイト先で飯を食ってきたらどうだ? ちょうどディナー招待券を
持っているからお前にやる。いつも学部のラボを使わせてもらっている礼だ。バイト先の
店長から貰ったが使い道がなくてね」
 そう言うと、アルバスは鞄から紙切れの様なものを取りだした。
 ネイサンは五千円分のディナー券をアルバスから渡されると、何故いつもシャノアに対して感謝して
いると口にしているのに彼女に券を渡さず自分に渡すのかと訝しく思い、ためらいながら
券を受け取った。
「何でシャノアにあげない? いつも感謝していると言っているじゃないか」
「シャノアに渡しても一人で行くと思うか? 仮に連れて行ったとしても俺だけ正規の料金で
食べているなら申し訳なく思うだろうな。そうだ、飯を食いに行く時は時間と予約と指名
を忘れるなよ、特に指名はあいつにしておかないとお前が行ったところで『他の卓に回っ
ているから忙しい』とか言われる」
「そこまでしなくても俺は傍から見ているだけで……」
 声など掛けようものなら仕事中は顔に出さなくても、家に帰ってから嚇怒されるかと思
えば、わざわざ虎の尾を踏むような事はしたくないと思ったが、アルバスが自分に対して好意
で言っているのは間違いないので言葉を濁してしまった。
「妙な遠慮はするな。あいつも仕事としてなら本音を語ってくれるかもしれないぞ?」
 初めは消極的だったものの「本音を語ってくれる」との一言に、ネイサンは自分から行動を
起こしてみようかと思った。