黄昏のカデンツァ 第11

 

20 名前: 第11話1/9 投稿日: 2006/04/07() 21:41:18

 光り輝く時間が、ゆっくりと過ぎていった。
 朝、互いの腕の中で目をさまして微笑みをかわしてから、彼らがすぐに手を触れ、目を見交わせる場所よりも
遠くへ離れることなどほとんどなかった。
 昼間は森に入り、食事に多少の華を添える香草や小動物を狩るか、木剣や鞭を手に、それぞれの修練に精を
出した。せせらぎで汗を流した昼下がりには、二人で泉の野辺の花咲く野に座り、時の流れるのも忘れて、ただ
じっと寄りそいあっていた。五月の晴れた空は一点の染みもなく、ときおり白い雲が、眠くなるようなゆったり
とした流れで形を変えながら、頭上を漂い流れていくだけだった。
 泉は静かに澄んだ水を湧きだしつづけ、花の揺れる岸辺には、おだやかなさざ波が終日寄せては返していた。
余ったパンくずを撒いてやった小屋の前には何羽かの小鳥が集まってきて、にぎやかにさえずりながら思わぬ
ご馳走にあずかっている。二頭の馬は眠そうに目をしばたたき、時々脚を踏みかえては、梢を鳴らすさわやかな
風の音にのんびりと耳を振っていた。
 日が暮れれば小屋に入って火をおこすか、外で簡単なかまどを組んで、朝のうちに取ったもので簡素な食事を
すませた。語るべき事は多くはなく、むしろ、沈黙の時間のほうが長かったが、それは気まずいものではなく、
饒舌よりもはるかに多くの意味を含んだ静かさだった。短い言葉と、視線、そしてわずかに触れる指先、その
すべてがどんな言葉よりも雄弁にそれぞれの胸の裡を語っていた。
 そして、炎が燃えつきれば連れだって小屋に入り、干し草と藁に毛布をかぶせただけの粗末なベッドで、飽きる
ことなく愛しあった。夢中で互いの身体を探りあったあと、汗にぬれた胸と胸、手と手、唇と唇をかさねて
横たわっていると、素肌の隔ても消え失せて、鼓動さえひとつに溶けていくようだった。
 あの名、あの秘密の名前は、ただ二人きりの、吐息が重なりあう距離でだけ口にされた。アドリアン。古風な、
わずかに異国の響きを帯びたその名は、彼らにとってもっとも大切な、愛撫のための呪文だった。耳に、唇に
そっと吹きこまれるその呪文を感じるたびに、アルカードは身を震わせ、今や唯一の相手となった男にすがりついた。
 ラルフはわななく細い背を強く抱き返しながら、なぜ今まで彼なしでやってこられたのか、この銀髪の青年を知ら
ないままに、どうやって二十年以上も生きてこられたのだろうと、なかば本気で疑問に思った。

21 名前: 第11話2/9 投稿日: 2006/04/07() 21:42:46

 それほどまでに、ラルフにとってもはや彼は、アルカード、アドリアンは、切り離すことなどとてもできない、魂の一部
だった。心臓をえぐって渡せと言われたほうが、まだ簡単に思えただろう。またもし、アルカードか心臓かどちらか
を選べと言われれば、ラルフは躊躇なく自分の胸にナイフを突き立てるだろう。
 彼を失うことなどとても考えられなかったし、離れることすら理解の外だった。うっとりと自分の胸に頭を
あずけている白い顔を見ていると、苦しいほどの愛情と幸福感がこみあげてきて、ラルフを圧倒した。
 これまでどんな相手と寝たときも、そんな感情を抱いたことはなかった。好きだと思った女がないわけではない
し、中には馴染みになって何度か通った相手もいないわけではなかったが、彼女たちに感じたものは、今になって
みれば気楽な友人や、楽しい呑み仲間に対する親愛以上の何物でもなかった。
 おそらく、相手のほうもそうだったのだろう。何度か手紙を送ってきたり使者を寄こしてきても、脈がないと
わかるとあっさり連絡も途絶えた。
 ラルフもほとんど気にしなかった。彼女たちの中には商売女もいれば、それなりに名の知れた家の夫人などもいた
が、どれをとってもラルフ同様、日々の単調さをまぎらわすためのちょっとした遊戯にすぎなかった。こんなに、
相手のことを思うだけで魂のもっとも深い場所が疼くほどの想いなど、甘ったるい詩人の唄のなかにしかないと、
半分馬鹿にしてさえいたというのに──。


「おまえ、こんな指環をはめていたのか」
 ある静かな夕暮れだった。けだるい身体をベッドに沈めて、ときおりの接吻に会話をとぎらせながら、語り
合っている最中だった。
 かたわらのテーブルでは蝋燭が燃え、ほのかな橙色の光をあたりに広げている。
「ずっと前からはめていたが。気づかなかったか?」
 アルカードは手をラルフの前にかざしてみせた。
 ほっそりした左の中指のつけ根に、ごく小作りな、銀色のきゃしゃな指環がはまっている。繊細な唐草模様の
間に、花やその他の小さな葉がからみあった透かし細工のそれは、白い肌にほとんどとけ込んでしまっていた。

22 名前: 第11話3/9 投稿日: 2006/04/07() 21:43:25

「これは……銀か? いや、そうじゃないな。銀にしては色が白い。何か、珍しい金属なのか」
「白金、という」
 アルカードは指環を抜いて、ラルフに渡した。
 ラルフは蜘蛛の糸で編まれたような指環をこわごわ手の中でひっくりかえし、うっかり握りつぶしてしまわないか
と、はらはらしながら光にかざした。
「白金は銀に似ているが、性質としては金の一種だ。ただ、金よりも高い温度で溶かさなければならないので、
精錬がむずかしい。おそらく今の人間の技術では無理だろう。銀のように黒く錆びたりすることはないので、
それが利点といえば利点だ」
「おまえの髪と同じ色だ」
 アルカードの髪に寄せてみると、まるで髪の一部で編まれたように見えた。アルカードは恥ずかしげに微笑した。
「図書館の主に冶金学を学んだときに、ためしに作ってみたものだ。母に渡すつもりだったが、少し大きすぎた
ので、自分ではめている」
「大きすぎる? 嘘つけ」
 自分の指に一本ずつ試してみて、ラルフはうんざりした顔で手をあげてみせた。
「見ろ、これを。小指でやっと入るか入らんかだ。怖くてこれ以上は押し込めん」
 と突きだした小指には、白金の指環が中途半端な冠のような形でひっかかっていた。もともと指の太さが違い
すぎる上に、関節の高いラルフの指では、アルカードの細い指環を小指の第一関節以上に押し込むことは無理な相談の
ようだ。
「無茶を言わないでくれ。私とおまえの体格の差を考えてみればいい」
 アルカードは指を口にあてて苦笑を隠している。
 ラルフはむすっとして、華奢な細工物を睨みつけた。
「だいたいおまえは、どこもかしこも細すぎるんだ。前にも言ったろう。抱いていても、いつ壊してしまうかと
気が気じゃない」

23 名前: 第11話4/9 投稿日: 2006/04/07() 21:44:03

「それなら少しは手加減してくれればいい。いつも最後には、私の言うことなど耳にも入れずに好き勝手なことを
するのはどこの誰だ」
 それに関しては何も抗弁できなかったので、ラルフは聞こえなかったふりをした。
 美しい細工物をもう一度くるりと回してみてから、抜き取って持ち主に渡そうとする。
 アルカードはかぶりをふった。
「いや。よければ、それはおまえが持っていてくれ、ラルフ」
「これをか?」
 ラルフは動揺した。
 自分の気分だけで言えば飛びあがるほど嬉しかったが、世間にはほとんど存在していない貴重な金属で作られた
指環、それも、石は入っていないとはいえ、繊細かつ優美な細工は本職の金細工師でも嫉妬のあまり叫び出すかと
思う完成度だ。金銭的価値で言えば、ほとんど値段のつけようもない宝物だろう。
「おまえ、まだ品物と値打ちの関係がわかってないな。こんなめったにない貴重な品を、ぽんと俺に渡すなんて、
本気か? しかもこれは、おまえが自分で作ったものだろう。その──思い出の品、ってものじゃないのか」
 とっさに言いよどんだのは、カルンスタインで殺されたアルカードの母のことが頭をよぎったからだった。
 アルカードは一瞬目を伏せたが、すぐに目をあげて、だからだ、と強く言った。
「私の生まれた、あの城はもうない。だからこそ、昔の思い出をもう引きずらないためにも、それは、ラルフに
持っていてほしい。大きさを直すのはしばらくかかるかもしれないが、機会があればやってみるから」
「いや、いい。わかった」
 ラルフは微笑んで、白くきらめく美しい指環を手の中に包みこんだ。あらためて、腕の中でこちらを見つめる相手
に、苦しいほどの愛情を感じた。
「そういうことなら、喜んでもらっておこう。大きさも別にこのままでいい。だいいち、俺がこんな品のいい指環
をはめていたら、あのがさつな御当主に何が起こったかと家中の者に目をむかれてしまう。──そうだ」

24 名前: 第11話5/9 投稿日: 2006/04/07() 21:44:41

 ラルフの頭に、めったにない名案が浮かんだ。
「なら、これをもらう代わりに、何か俺からも贈り物をさせてくれないか。そういえば、おまえから何か欲しいと
ねだられたことが一度もないぞ、俺は」
 アルカードは不思議そうに首をかしげた。
 彼がベルモンド家へ来てから、ラルフは彼のために服を作らせたり、家具や敷物を新調させたりとそれなりのもの
を贈っているはずだったが、それらはすべてラルフが、言ってみれば勝手にアルカードに与えているだけで、アルカード自身
は何かが欲しいと訴えたことなど一度もなかった。
 せっかく作らせた服すら、今回のこの遠乗りで初めて袖を通している始末だ。品物が気に入らないというわけ
ではなく、純粋に、あまり物質的なことに興味がないらしい。箱入りらしいと言えば言えるが、わがままの一つ
も言わないのは感心するのを通り越して少しばかり気の毒にもなってくる。
 結局、ラルフのお古の大きすぎるシャツにインクの染みをつけて歩きまわっているのがいちばん気楽らしいのは
嬉しい半面、もっと甘えてくれることも期待したいラルフにとっては、少々物足りない気がしていたのだった。
「欲しい、もの……?」
「そうだ。何かあるだろう、新しい書物とか、その、うまいワインとか、──何か」
 たいしたことが思いつけない自分の頭が憎い。 
「なんでもいいから言ってみろ。なんとかして手に入れてきてやる。この指環のお返しってわけでもないが、
一度、俺からも、おまえの欲しいものを贈らせてくれよ」
 アルカードはしばらく黙って考えていた。
「──では」
 やがて、まるで、断られるのを予期しているかのように、ためらいがちに口を開いた。
「今、おまえが指にはめている、その指環が欲しい」
「これをか?」

25 名前: 11話6/9 投稿日: 2006/04/07() 21:45:19

 ラルフは驚いて自分の手をあげてみた。がっしりした左手の中指に、分厚い金でできたベルモンドの紋章入りの
指環がはまっている。
 父から家督を受け継いで以来ずっとはめているものだが、別に宝物というわけではなく、荘園の書類やその他
の書状の封蝋に印を押すために使う、単なる印章指環だ。
 材質はいちおう金だが、質もそれほどいいわけではなく、封蝋の滓やインクの跳ねでしょっちゅう汚れている
し、乱暴に扱うせいであちこち傷がついている。とうていあの、神秘な白に輝くきゃしゃな宝と同じ価値がある
とは思えない。
「やるのは別にかまわんが、本当にこんなものでいいのか? おまえのあの指環ととりかえるなら、こんな指環、
十個や二十個じゃとうてい追いつかんぞ」
「かまわない」
 ラルフの手をとって、自分でそっと指環を抜くと、アルカードは傷だらけの指環を両手で包み、抱くように胸にかかえ
込んだ。
「私にとっては、これはおまえが身につけていた品だというだけで、はかりしれない価値がある。傷も、汚れも、
問題ではない。それはすべて、おまえがこれを身につけていたという証なのだから、私にとっては、どんな宝石に
もまさるものだ」
「……そこまで褒められるような代物じゃないんだがな」
 苦笑して、ラルフはアルカードの頬を撫で、髪と額にそっと接吻した。
「わかった。じゃあそれは、おまえのものにするといい。エルンストには、どこかで落としたとでも言っておく
さ。奴ならすぐ予備のものを出してくるだろうしな」
 謹厳な老家令の顔を一瞬思い出してすぐ後悔し、ラルフはアルカードの手を取った。
「じゃあ、ちょっとそれをはめてみろ。どんなふうに見えるか、見てみたい」
 しかし、今度はアルカードの指環の場合と、まったく逆の事態が起こった。どの指にはめても、大きすぎるのだ。

26 名前: 第11話7/9 投稿日: 2006/04/07() 21:45:59

 これもまた、二人の体格差を考えてみれば当然予想できることだったが、ラルフには大いに不満だった。薬指から
試して中指、人差し指、しまいには親指に通しても、大きな印章部分がぐるりと回って手のひらのほうを向いて
しまう。
「だからおまえは細すぎると、何度言ったらわかる。指くらいもう少し太くしておけ」
 その夜二度目の愚痴に、ラルフは口をとがらせた。
「わかったところで仕方がないだろう。それで私の体格が変わるわけではない」
 アルカードは笑いを抑えるのに苦労しているようだった。
 ごつすぎる指環を指先でひねくり回し、ラルフはこれまで感じたこともなかった、がっしりした自分の体格に恨み
の念を抱いた。
「仕方がないな。お互い、鎖でも通して首にかけておくことにするか」
 しまいに、ラルフはあきらめたように言った。
「考えてみれば、俺もおまえの指環ははめられないんだし、おまえも俺の指環を人前でははめられないだろう
から、ちょうどいい。鎖をつけて服の中に入れておけばいいだろう。帰ったら、それに合うような鎖を作らせ
よう。受け取ってくれるか?」
「喜んで」
 再び手渡された指環を抱いて、アルカードはベルモンドの紋章に軽く唇を触れた。
「うまくは言えないが……ありがとう、ラルフ。感謝する。これまで、これほど大きな贈り物を貰ったことがない
ような気がする。本当に、嬉しい」
「何を言う。まだまだこれからだ」
 指環を抱いたアルカードをそのまま抱きこんで再び横たわりながら、ラルフはその耳を噛むようにして、そっと囁いた。

27 名前: 第11話8/9 投稿日: 2006/04/07() 21:46:38

「これからもっと、いろいろなものをおまえにやる。俺のものは、どんなものでも皆おまえのものだ。命でも魂
でも、なんでも好きなものを持っていけ、もともとそれはおまえのものだ。そのかわり、おまえは全部俺のもの
だぞ。ほかの奴になどくれてはやらん。
 なんだ、笑っているな。いい声だ。おまえが笑う声を初めて聞いた。いい声だ、もっと笑ってくれ、いや、
もっと笑わせてやる、俺がずっとそばにいて、おまえをうんと笑わせてやる。だから笑ってくれ、アルカード、
アドリアン、俺の……これからもずっと、そばで……ずっと……ずっと──」


 やがて、屋敷へ帰る日が来た。
 荘園の村では例年の五月祭が始まり、荘園主であるラルフは当主として、祭りに顔を出さないわけにはいかないの
だった。
「そんなに寂しそうな顔をするなよ、アルカード」
 荷物をまとめ、馬の鞍に振り分けながら、ラルフは慰めた。
「また暇ができたらここへ来よう。なあに、秋の収穫期が過ぎさえすれば、あとの時間はたっぷりある。雪が降る
と少し難しいかもしれんが、もう一度や二度、ゆっくりしに来る機会はある。近いうちにまた来られるようになる
さ、な」
「ああ……」
 アルカードは自分の牝馬の手綱を取ったまま、陽光に輝く泉と咲き誇る白い花の野原をどこか遠い目で見つめていた。
 まるで、もう二度と見られないと思っているかのような翳りのある表情に、ラルフの胸に一瞬の不安が走りぬけた
が、彼はそれを意識的に笑い飛ばした。

28 名前: 第11話9/9 投稿日: 2006/04/07() 21:47:37

 そんなはずはない。またいつでも、来年も、再来年も、アルカードはここへ来る。俺が、連れてきてやる。誰にも、
文句は言わせない。
「さ、行くぞ。そろそろ出発しないと、屋敷に着くまでに暗くなってしまうからな」
 ラルフは馬にまたがった。
 続いて馬に乗り、あとに従ったアルカードは、森の小径に入っていきながら、耐えきれなくなったように後ろを
振り返った。
 重なりあった木立の向こうに、小さくなっていく光の輪があった。
 その向こうに、楽園がある。澄んだ泉の上に光が踊り、白い花と小鳥の唄がある場所。せせらぎが緑の野を
流れ、緑の梢に風がわたる、あの場所。
 アルカードの手が上がり、服の上から胸もとをぎゅっと握った。ひとまず見つけてきた革の切れ端で、ラルフの指環を
下げている場所だった。
 最後まで聞こえていた水音がとうとう聞こえなくなった。アルカードは何かを振りきるように視線をそらし、手綱を
とりなおすと、前を行くラルフに追いつくために、軽く馬の腹を蹴った。