黄昏のカデンツァ 第12

 

29 名前: 第12話1/12 投稿日: 2006/04/22() 00:06:46

「結婚?」
 耳のはしに引っかかった言葉に、ラルフ・C・ベルモンドは思わず顔をあげた。
「誰と、誰が結婚するって?」
「貴方さまとヒルシュさまのお娘御がです、御当主」
 エルンストの返事にはまったくためらいがなかった。
 ラルフは慌てた。
「待て、なんの話だ、それは。俺はそんな話、聞いた覚えがないぞ」
「先ほどそれに関する書状を手にしていらっしゃいましたが、開けずに脇へ放られましたな。そちらの、処理済み
の箱の上から四番目ほどに入っていると存じますが」
 署名や捺印をすませた書類を収めた箱をいまいましそうに見て、ラルフは中へ手をつっこんだ。
 問題の書状はかんたんに見つかった。実用本位な仕事関係の書類とちがって、わざわざ書状を結ぶのに赤い
ビロードのリボンを使い、その上どうやら香水までふりかけてあるらしい悪趣味さに辟易して、差出人の名前を
確認する以前に処分のつもりで放りこんでしまったのだ。
「で、こいつの内容をなんでおまえが知ってる?」
 ナイフを取って封蝋を剥がしながら、エルンストに不機嫌な声を出す。
「届けてきた使者がそう申しました。ヒルシュ様は、来年の春をめどに、ご自身の末のお娘御を正式に御当主の夫人、
もしくは、少なくとも婚約者としていただけないかというお話でございます」
「断れ」
 ラルフは言下に言い捨てると、音を立ててナイフを投げだした。
「俺は、もともとあいつは気にくわんと前にも言ったはずだぞ。その上、顔を見たこともないような娘と婚約
なんぞできるか。結婚というならなおさらだ。だいたい、その娘というのはいったいいくつなんだ?」
「再来月で確か十四になられるとお聞きしております」
「問題外だ」
 再び巻き直した書状にリボンを結びかけ、思い直して、くしゃくしゃに丸めてねじった上で床に放り捨てる。

30 名前: 第12話2/12 投稿日: 2006/04/22() 00:07:34

「ほんの子供だろうが、ばかばかしい。顔も知らないそんな子供相手に、ままごとみたいな夫婦をやるなんぞ、
考えただけでうんざりする」
「世間には十歳の誕生日より先に嫁ぎ先が決められている娘は珍しくございません」
「かもしれんな。しかし俺は、そういうことは趣味じゃないんだ」
 頬杖をついて、ラルフは床に転がった書状にむかって腹立たしげに顎をしゃくった。
「とにかく、断る。歳がどうこう以前に、あの脂ぎったにやけた男と親戚になること自体、ぞっとする。その娘
に関しては気の毒に思うべきかもしれんが、どうせ、あっちも顔も見たことのない相手のことだ。すぐに忘れる
だろうさ」
「では、ご結婚も婚約も、なさるつもりはないと」
「ない」
 きっぱりと言って、ラルフは次の書面に目を落とした。
 くだらぬことで時間をとられた、という不満でいっぱいだった。残った書類を片づけて外出を一件こなせば、
あとは蔵書室にいるはずのアルカードのもとを訪ねられる。今日はことに裁可しなければならないことが多くて、
ラルフを苛つかせていた。
 いつも昼の少し前には顔を出せるのに、もう正午をかなり過ぎている。アルカードのことだから騒ぎたてはしない
だろうが、心配してはいないだろうかと考えると、胸の奥で鼓動が少し早くなった。
 無意識に、指が胸もとを探る。そこには、しっかりした金鎖を通した繊細な白金の指環が、人知れず肌に触れて
かかっていた。
 夏は終わりに近づき、作物の多くが刈り入れの時を控えていた。果樹園の林檎は今が収穫のまっ最中だし、
それにそなえてたとえばヒルシュのような、仲買商人との取り引きにそなえて決済しておかなければならないことが
たくさんある。荘園主としては、実際に作業にたずさわる小作人たちとは別の意味で、忙しい時期だった。
 しばらく書面に目を通していたあとで、ラルフは眉根にしわを寄せて視線をあげた。
「なんだ? 言いたいことがあるならさっさと言え。そこで黙ってじっと立っていられると、気分が悪い」
「ご結婚なさるつもりはない、とおっしゃられましたな」
 エルンストの顔は石のように動かなかった。

31 名前: 第12話3/12 投稿日: 2006/04/22() 00:08:27

「──それは、あの西の塔におられる若君の御為ですか、若」
 ラルフは一瞬、動きを止めて老家令の顔を見つめた。
 そして、叩きつけるようにペンを投げすてると、椅子をけたおして立ち上がり、机を回ってエルンストに詰め寄った。
「それはどういう意味だ、エルンスト。俺が結婚しないのと、アルカードと、どういう関係があるんだ。ぐずぐずせずに、
はっきり言え、どうなんだ」
「家の者が申しますには、このごろ、若はほとんどご自分のお部屋でお寝みになっておられないとか」
 今にも首を締めあげんばかりの若主人の剣幕にも、エルンストは一歩も引かなかった。
 青銅製の兵士のようなぴんと突っ立った姿勢を崩さず、怒りにぎらついている主人の目をまっすぐに見返す。
「一度は寝室にひきとられても、その後、そっとどこかへ忍び出てゆかれることが多いと聞きおよびます。そし
て、明け方ちかくになると戻ってこられて、いかにもそこで寝ていたように振る舞われるとか」
「それがどうした」
 ラルフは思わず揺れた声に気づき、また猛然と自分に腹を立てた。
 あの森の古い番小屋で過ごした数日以来、アルカードと過ごすことはラルフにとって、何にもまして代えがたい時間と
なっていた。
 夏のあいだは妙に事件が多く、くだらない争いの調停やちょっとした行事にかりだされることが続いて、結局
彼とまたあそこへ行くことはできずにいたのだが、だからといって、アルカードに触れずに日々を過ごすなど、もはや
考えられないことだった。
 いちおう家人の目をごまかすために自室に入りはするが、その後、家中が寝静まったのを見計らってこっそり
と部屋を出て、西の塔のアルカードの部屋の戸を叩く。
 そしてそこで明け方まで過ごし、召使いたちが起き出す前にまたそっと部屋へもどって、寝ていたように
よそおってみせるのが、最近のラルフの日課になっていた。
 ラルフとしてはできれば堂々とアルカードと朝まで過ごしたかったが、それはさすがに家人の手前いささかまずい
だろうし、妙なうわさでも立って、アルカードの家の中での立場を悪くしはしないかということが心配だった。
 何より、アルカードがラルフを心配した。彼は彼なりに、自分たちの関係が世間では認められないものであることを
うすうす感じとっているらしい。夜明け前に身を起こし、眠っているラルフを揺り起こすのはいつもアルカードだった。

32 名前: 第12話4/12 投稿日: 2006/04/22() 00:09:13

 もう少し、あの蝋燭が尽きるまでだけ、と引き延ばしにかかるラルフを厳しくとどめて、また午後になれば顔を
合わせるのだから、とうつむく横顔に、自分以上の寂しさと隠してはいるがこぼれる心細さが伺えて、よけいに
離れがたい気分にさせる。
 戸口のところで強く抱きしめて唇をかさね、ではまたあとで、と囁くとき、淡く微笑むアルカードのはかない顔は、
いつもラルフの胸を締めつける。もう一度、なんの心配もなく笑わせてやりたい、あの小屋にいたときのようにと、
そればかりが最近の、ラルフの願いだった。
「だからそれと、アルカードとなんの関係がある。部屋を空けることくらい、これまで何度もあっただろう。俺だって
たまには気晴らしに出ることもある。これまでは、三日続けて戻らなくてもおまえは一度も口出ししたことは
なかっただろうが」
「その時はそもそも、最初から部屋で寝るような芝居などなさいませんでしたな」
 はっきり指摘されて、ラルフは返事に詰まった。
 エルンストは続けて、
「あれだけ頻々と部屋を空けられているのに、リンクィストの酒場でも、あちらで以前通われていた宿屋でも、
若はこのごろ一度もお見えにならぬとのことでした。いったい、そこでないとしたら、毎晩どこで夜をお過ごしに
なっていらっしゃるのです?」
「どこでもいいだろう。別の場所だ」
「別とは、どちらのことです」
「おい。いいかげんにしろ、エルンスト」
 激しい音をたててラルフは机を殴りつけた。
「俺は誰だ? ベルモンドの当主じゃないのか? それをいつまでも十歳のガキみたいに、夜は何をしただのどこで
寝ただの、いちいち訊かれなきゃならんのか。御当主御当主と持ちあげるくらいなら、俺のやることにいちいち
口を出すな」
「どこへいらっしゃるのか、どうしてもお教えいただけませんか」
「ああ、そうだ。言わなけりゃならん道理はないからな」

33 名前: 第12話5/12 投稿日: 2006/04/22() 00:10:06

 エルンストは深いため息をついた。彼がベルモンドに仕えてきた年月をすべて凝縮したような、重い、疲れと苦悩に
満ちたため息だった。
「──女中のひとりが、こう申しております」
 ごく小さくひそめた声で、エルンストは言った。
「深夜、西の塔の上の部屋へあがっていかれる御当主を見た、と」
 みなまで言わせず、ラルフは老家令の襟首をわし掴みにしていた。
 相手が年をとっていることも、自分に長年仕えてきてくれた忠臣であることも、年頭から吹き飛んでいた。
「誰だ」
 獣の唸りをもらしながら、ラルフは鋭く囁いた。
「そんなことをおまえにしゃべった奴は誰だ。言え」
「申せません」
 若主人にぎりぎりと襟を締めつけられながらも、老人はかすれた声ながら、きっぱりと言い切った。
「その娘は、村に住む愛人と逢い引きに屋敷を抜けだす途中で、貴方さまをお見かけしたと申しております。その
後も何度か、朝方に帰るときにも、あの塔から降りてこられる御当主をお見かけしたと。
 わたくしはその娘に厳しく口止めしておきましたが、すでに噂は広がっております。あの御方は、人としては
あまりにお美しすぎる。
 あれはもしや、ドラキュラ城で貴方さまに魅入った魔性なのではないか、御当主はあの魔の者とソドムの罪を犯して
いらっしゃるのではと、口さがない者が──」
 ラルフの拳が、色を失うほど強く握りしめられた。
 締めつけられた喉もとに、エルンストが耐えきれずに細いうめき声を絞り出す。ラルフははっとして手をゆるめ、後ろに
下がったが、両手ははげしく震え、頬が蒼白になっているのを自分でも感じていた。
 ソドムの罪とは聖書でその悪徳のために灼かれたソドムとゴモラにちなんで、同性愛のことを意味する。
 はたから見ればラルフとアルカードの関係は、確かにそれそのものだろう。互いに男でありながら情を通じ、夜ごとに
肌をあわせて悦びに酔いしれることは、教会の定めた道徳に従えば、もっとも深い堕地獄に値する罪悪となる。

34 名前: 第12話6/12 投稿日: 2006/04/22() 00:10:56

 だが、あの銀髪の貴公子のことを考えるとき、そのしなやかな身体を抱き、髪に触れ、やわらかな微笑を見る
ときに全身にわき上がる幸福とぬくもりを、なぜ罪とされなければならないのかラルフにはとうてい納得がいか
なかった。
 だいいち、彼をあの孤独な境遇に落としたのは誰なのだ。それは狭量な人間たちであり、自らの権威をふり
かざす教会の僧侶どもが、おのが名誉欲といつわりの正義を隠れみのに、罪もない女性をよってたかってなぶり
殺しにした結果ではないのか。
 罪というなら、そちらのほうがよほど罪と呼ぶにふさわしい。あるいは、年端もいかない娘を、ただ自分の都合
をはかるためだけに、顔も知らない男のもとへ人身御供同然に妻に差し出そうとすることは、罪ではないというのか。
「お応えをいただけないのですな」
 しばらく喉を押さえてあえいでいたエルンストが、ようやく声を出した。
 大きく肩で喘いではいるが、その鷲のような瞳は、蒼白い顔でかたく口を引き結んだ若い主人を容赦なく
射抜いている。
「どうか、ご分別を願います、若。わたくしは何も、あの御方が貴方さまを誑かしているなどという愚かな噂を
信じているわけではございません。そのような妄言は、あの御方を身近に見ている者なら信じるはずもないこと
だと、よく承知しております」
 聞きたくない、というようにラルフは背を向けた。
 だが、エルンストの厳しい声は、容赦なく彼の耳にも降りそそいできた。
「しかし、あの御方はドラキュラ公の御子なのです。魔王の血を継いだ、闇の公子であられる方なのです。そのことは
先日、貴方さまもお認めになりました。
 もしこの妄言が村の外まで広がり、それが呼び水となって、あの御方の真の身元があきらかになればどうなさい
ます。魔王の子を匿っていたという事実の前では、ソドムの罪など、その半分にも及びませんぞ」
 ラルフの肩がぴくりと震えた。
「以前にも申しあげましたことを、どうぞよくお考えください」
 動かない主人の背中にむかって、懇願するようにエルンストは言った。

35 名前: 第12話7/12 投稿日: 2006/04/22() 00:11:45

「貴方さまはベルモンドの御当主でいらっしゃる。もしベルモンド家が消えれば、ここにすがって生きているものはみな
行き場を無くした流浪民になるか、背教者の罪に連座して村ごと焼き払われるか、二つに一つしかないのです。
 結婚、いえ、せめてご婚約でもなされば、たわけた噂などたちまち消え失せましょう。婚儀そのものは、まだ
まだ先の話でもよろしいのです。
 だいいち、跡継ぎのことはどうなさるおつもりなのですか。貴方さま以外に、いま、ベルモンドの血を継ぐべき方
はおられません。貴方さまが今もし断罪されるか、個人としてでも罰を受けられれば、そこでベルモンド家は断絶
いたします。
 もしそうなればいずれにせよ、教会は聖鞭と荘園を取りあげ、村人たちを追いはらうでしょう。教会は未だに、
かつ決して、ベルモンドに気を許してはいないのですから。
 同じことです、若。今はたとえ方便としてでも、ヒルシュ様のお申し出を受けて、婚約なりともしておかれるほうが」
「黙れ」
 短く吐き捨ててラルフは机を離れ、部屋の扉にむかった。
「若! お聞きください、せめて話だけでも」
「断る、と言ったはずだ」
 扉に手をかけながら、首だけで振り向いてラルフは鋭く言った。
「俺は罪と思わなければならないようなことは何もしていない。年端もいかない娘を、顔も知らない男と勝手に
結婚させるような父親に荷担するなら、それこそが罪だ。ヒルシュの話は断れ。今後、同じような話が来ても同じだ。
俺は結婚などする気はないし、婚約など結ぶつもりもない。それがただ世間の目をくらますためだけだという
なら、なおさらだ」
「ならばせめて、あの御方を屋敷からどこかへお移し申しあげてくださいまし」
 必死のおももちでエルンストは追いすがってきた。
「ただ、どこか別の街にでも、隠棲場所をご用意してそこへお移りいただけばよいのです。あの御方が屋敷をお出
になれば、少しはたわけた噂も」
「駄目だ」
「若、どうぞお聞き入れを」

36 名前: 第12話8/12 投稿日: 2006/04/22() 00:12:29

「俺はあいつを手放す気はない」
 ラルフの傷のある側の目が危険な光をおびた。
「いいか、エルンスト。もしあいつがここから出ていくようなことがあれば、俺は、ベルモンドを捨てるぞ」
 エルンストの顔から血の気がひいた。
「なんということをおっしゃいます」
「本気だ。ベルモンドという名前に縛られるのも、あの聖鞭をつかんで離さない教会の坊主どもにいいように踊らさ
れるのも、俺はもううんざりだ」
 怒鳴るようにラルフは言った。
「俺にとって、あいつ以上に大切な者などいない。あいつが屋敷を出れば、俺はためらわず追いかけて、つかまえ
る。あいつのいる場所が、俺のいるべき場所だ。ここにあいつがいられないというなら、俺ももうここにはいられ
ない、そう思っておけ」
「なんということを──若!」
 それ以上は聞かず、ラルフは部屋を出て乱暴に扉を閉めた。
 荒い息をつきながら誰もいない廊下を見回したとき、少し先の曲がり角で、きらりと銀色の光がひらめいて、
さっと隠れるのが目の端に映った。
「アルカード?」
 はっきりと息を呑む音が耳に届いた。
 ラルフは駆け出し、角を曲がった。きらめく銀髪が揺れ、アルカードの白い顔が怯えをあらわして振り返った。急いで
逃げようとするのを、手をつかんで引き止める。
「なぜここにいる。蔵書室にいたんじゃなかったのか」
「ラルフが遅いので、何か、間違いがあったのかと思って」
 少し、ようすを見に来た、と蚊の鳴くような声で言った。
 うつむいたアルカードのうなじは、ほとんど色を失って震えていた。
「聞いていたのか。さっきの話を」
 一瞬の間があり、すぐにはげしくかぶりを振った。

37 名前: 第12話9/12 投稿日: 2006/04/22() 00:13:29

 だが、嘘なことは歴然としていた。青ざめて震える肩と、顔もあげられない風情で両腕を抱いている姿から
して、ほとんどの話を耳にしてしまったことは確かだった。
「アルカード──」
「若。お待ちください、若」
 執務室のほうから、エルンストの声が近づいてきた。
「お願いですから、話をお聞きください。せめて書状に返事なりとも」
 そこまできて、断ち切られたようにエルンストは口をとざした。
 凍りついたようにうなだれたアルカードと、そのかたわらでけわしい顔をしている若主人を目にしたのだ。この
老家令もまた、西の塔の麗人が何を耳にしてしまったのか、はっきりと悟ったようだった。
「アルカード様、若、わたくしは」
 ラルフは刺すような視線を老家令に注ぐと、いきなり、アルカードを強く抱き寄せた。ぎょっとしたようにアルカードは
もがいた。
「ラルフ、何──を、んっ」
 細いあごに手をかけて持ちあげ、ラルフは強引にアルカードの唇に唇をかさねた。
「ラ、ルフ、よせ、こんな……ッ、あ」
 懸命に押し離そうとするアルカードの手が少しずつ力を失っていく。
 幾度も角度を変えて重ねられる唇は、二人だけの時よりさらに深く、熱かった。夜ごとの愛撫に慣らされた躯
は、口づけひとつで容易にとろかされる。急所を心得た手がうなじや背を這い回り、かすかな抵抗も容赦なく
抑えこんでいく。
 ようやく解放されたとき、アルカードはかすかに目尻に涙をためて、荒い息をついていた。白い頬はあおられた熱
と、他人の目の前での乱れた姿に対する羞恥にほんのりと血の色をのぼせている。力の入らない膝をラルフの腕で
ようやく支えられながら、蒼い瞳は、責めるような色を浮かべてラルフを見あげていた。
「見たとおりだ、エルンスト」
 しっかりと銀髪の恋人を抱きしめながら、ラルフは言った。

38 名前: 第12話10/12 投稿日: 2006/04/22() 00:14:14

「俺は、アルカードを愛している。心でも、そして、身体でもだ。
 それを罪だとは俺は思わないし、思うやつには勝手に思わせておけばいい。こいつに手を出す奴は、俺が許さ
ん。手放すことも、しない。もしもあくまでそれが罪だというなら、俺はそいつらと戦ってやる。ベルモンド家も、
教会も、こいつに害をなすというならみな俺の敵だ、覚えておけ。たとえ相手がおまえでもだ、エルンスト」
 燃えるような主の視線を身に受けて、老家令はなにも言わなかった。
「ラルフ、やめろ。私はなにも」
「おまえはなにも心配することはないんだ、アルカード。──アドリアン」
 うってかわってやさしく囁き、ラルフは軽く恋人の額に唇をあてた。
「今日はもう部屋へ帰れ。あとでまた行く。今日はまだ、いくつか他に用事があってな」
 ほら、とそっと肩を押してやり、もう一度家令のほうに鋭い目を向けてから、ラルフは大股に廊下の向こうへ
消えていった。
 アルカードはしばらく茫然と壁に身を寄せかけてその後ろ姿を見送っていたが、やがて、はっと気づいて飛びあがる
ようにエルンストのほうを見た。
 老家令はまだそこにいて、哀しげな目で彼を見ていた。その瞳に怒りも、嫌悪すらもなく、ただ悲しみの色
ばかりがあることが、よけいにいたたまれない思いにさせた。
 アルカードは逃げるようにその場をあとにした。狭い石の塔の階段を上るときも、あの老人の哀しげな目が、ずっと
背中をついてきているような気がしていた。

39 名前: 第12話11/12 投稿日: 2006/04/22() 00:14:58




 部屋に戻ったアルカードは、しばらくベッドに腰かけたまま、両手で額を支えてうつむいていた。
 日が暮れかけていた。前夜の残りの蝋燭が、燭台の上で蝋涙をこぼしたまま固まっている。水色の黄昏が、
なかば閉じた窓の隙間から細く流れこんできていた。
 ふと、頭をあげた。氷の青の瞳に、かすかな金色の光がひらめいた。アルカードは立ち上がり、窓を開けて、低く
呟いた。
「──そこに、いるか」
 キィ、と応えがあった。
 濃くなっていくうす闇の中にぽつりと、赤い光が浮いていた。光は何度かまたたくと、静かに目の前まで飛んで
きて、命令を待つようにそこで止まった。
「村へ行ってきてほしい」
 と、アルカードは囁いた。
「そして、村人たちのあいだに流れている噂を聞いてきてほしい。手を出してはいけない、ただ、聞くだけだ。
ここのベルモンドの若当主と、私に関する噂なら、みな集めてきてくれ。終わったら戻ってきて、私にそれを教えて
ほしい。わかったか?」
 キィ、とまた返答があった。使命を与えられたのが嬉しいのか、赤い光は何度かその場で円を描くと、あっと
いう間に闇に溶けた。
 アルカードは窓を閉め、そのまま、崩れるように椅子に腰かけた。昨夜そこで、ラルフと向かいあってワインを飲んだ
場所だった。
 手を伸ばして、胸もとに触れる。固い感触があった。新しい金鎖を通されたごつい金の指環が、心臓のちょうど
真上にくるように吊されている。
 強く握りしめる。固く目を閉じ、その感触に、しっかりとした重みと厚みに、意識を集中した。室内はしだいに
闇に沈んでいく。

40 名前: 第12話12/12 投稿日: 2006/04/22() 00:15:43

 重苦しい時間が過ぎた。
 すっかり部屋が闇にとざされたころ、窓の木戸を、かりかりとひっかく音がした。飛びつくように立って、窓を
開ける。しばらくアルカードは微動だにしなかった。
「……わかった」
 やがて、静かに言った。
「よくやってくれた。いい子だ。礼を言う」
 美しい公子の手に頭をひと撫でされて、赤い眼の小魔は嬉しげにひとつ鳴き、くるりと宙返りして姿を消した。
 アルカードは窓を閉め、重い足取りでベッドに戻った。
 倒れるように腰を落とし、両手で顔をおおう。耳の奥で、たった今聞かされたばかりの、人間たちのうわさ話が
こだましていた。
 小さな魔物に人間の話を理解する知能はない、ただ、聞いてきたままを伝えるだけだ。
 だからこそ、嘘のないその報告に示された、人間たちのむき出しの恐怖と不安、想像力でゆがめられた下卑た
言葉が直接胸に突きささる。
 どれくらい、そのまま座っていたのかわからなかった。
 かすかに、扉を叩く音がした。
 アルカードははっと顔をあげた。
「ラルフ?」
 いや、ラルフではない。ラルフなら、いつも戸を叩くのといっしょに「俺だ」と声をかけてくる。
 アルカードはまっ暗な室内にようやく気づいて燭台に灯をつけ、それを手にして扉を開けに行った。
「お騒がせして申し訳ございません、若君」
 白髪の、謹言な顔をした老人がそこに立っていた。青銅の兵士のようにまっすぐ背を伸ばして立ち、鷹のような
鋭い目を、怖れげもなく魔の公子の顔に注いでいる。
「もしおさしつかえなければ、しばらく貴方さまとお話をさせていただきたいのですが、いかがでございましょうか」
 アルカードは一呼吸のあいだ、身じろぎもせずその目を見つめかえしていた。
 それから黙って頷き、一歩引いて、老人を中に迎え入れた。