黄昏のカデンツァ 第13

 

41 名前: 第13話1/6 投稿日: 2006/05/10() 20:20:48

 扉をしめ、向かいあって座ったあとも、アルカードは顔すらあげられなかった。
 いま自分に向けられているだろう、さげすみと嫌悪の視線を思い、大切な当主を罪の
道に引きずり込んだ悪魔の子として、激しい断罪の言葉が今にも叩きつけられるだろう
と、身を固くしてその瞬間を待っていた。
「……本当に、眩いばかりの御方だ」
 だが、長い沈黙のあと、聞こえたのはごく小さなため息と、静かな一言だった。
 アルカードは思わず顔をあげた。そこにあったのは、年を重ねた老家令の、慈父のような
おだやかなまなざしだった。
「どうぞ、誤解なさらないでくださいまし、公子」
 エルンストは言葉を続けた。まるで実の息子に対するような、包みこむような声は、アルカード
が実の父親であるドラキュラ公からさえも聞いたことのないものだった。
「わたくしは、何も貴方さまを非難するためにこちらに伺ったのではございません。
むしろ、これから申しあげねばならないことに、自ら嫌悪を抱いておりますほどです。
しかし、どうしても申しあげねばならないことがあるのです」
 しばらく言葉を切って、考えるようにエルンストはアルカードを見つめた。
「貴方さまが、また貴方さまの御父君が、どのようなかたであられたかは承知しており
ます、公子アルカード」
 ──また、世間の者どもが、御父君にどのような悪名をかぶせているのかも」
 自然に身がこわばるのを、アルカードは抑えられなかった。
 しかし、とエルンストはほとんど調子を変えずに続けた。
「しかし、ドラキュラ公は奥方様の亡くなられる三年前までは、かえって妖魔どもの跳梁
を手控えさせ、人間の学徒も受け入れるなど、むしろ賢者としての、気高い王侯にふさわ
しい暮らしをいとなんでおられたと聞き及んでおります。
 また、貴方様がこちらに来られてからの、家中の者へのなさりよう、下々の者への慈愛
のお深さを見申しあげて、貴方さまがどのような御血筋をお持ちの方であれ、そのおやさ
しさ、蔵書の数々にむけて示された学識のお深さは、こう申しあげては失礼かも知れませ
んが、感服いたしました。

42 名前: 第13話2/6 投稿日: 2006/05/10() 20:22:42

 わたくしはこのような辺境の田舎者ではございますが、幾人かは高位の貴族や聖職者と
称する者の相手をすることもございました。しかしその中でも、貴方さまほどきらぎら
しい、気高い姿と御心をおもちの方はおられません。世辞で申しあげているとはお取りに
なってくださいますな。わたくしはただ、この半年間、貴方さまを見申しあげて感じた
ことを、そのままお話ししたばかりでございますから」
「わかっている」
 細い声でアルカードは言った。この老家令は、たとえ相手を籠絡するなどという考えが
起こったとしても、心にもない言葉など並べることも考えないだろう。
 若当主のラルフが連れてきた身元不明の客を監視するためにも、口には出さずとも、さま
ざまなことを調べさせ、それとない観察を続けていたに違いないのだ。その上で、これ
だけのことを口にするということは、エルンスト自身がどれだけアルカードを高く評価しているか
の証明のようなものだった。
「──けれども、公子、貴方さまの輝きは、曇りがちな人の目には眩しすぎるのです」
 声を落として、エルンストは静かにつけ加えた。
「貴方さまはお美しく、聡明でいらっしゃる。優しい御心と、誇り高い魂を、常人を超越
した力を兼ねそなえた、生きた宝石でいらっしゃる。
 もし人で、そしてできるなら女性であられたならば、わたくしは喜んで若と貴方さま
とが共に人生を歩まれることを望んだことでございましょう、しかし」
 徐々に、老人の声に抑えていた苦渋がにじみ出してきた。
「先ほどの話を耳になさったのであれば、今、若と貴方さまとのことに関して、どのよう
な風説が流されているかおわかりでしょう。
 あのようなお話を耳にお入れしたことは、わたくしの過失として重ねてお詫び申し
あげます。それでも、若と、今のベルモンド家のおかれている現実を見た上で、わたくし
は、累代の義務と理性の命じるところに従って、お願い申しあげなければなりません。
 ──どうぞ、公子、若を」
 必死のおももちで、老家令は闇の血を継ぐ公子を見あげた。
「若を──わが当主、ラルフ・クリストファー・ベルモンド様を、われら、人間の手に
お返しくださいまし」

43 名前: 第13話3/6 投稿日: 2006/05/10() 20:23:40

 ついにその言葉が発された。
 アルカードは反射的に立ちあがっていた。
 ほとんど何も考えることができず、窓辺に歩み寄る。胸の裡で不穏なざわめきが起こ
り、口の中が鋭くうずいた。自分の目が、わずかな金色を帯びはじめているのが見ずとも
わかった。アルカードは強く唇を噛みしめ、疼きに耐えた。
「人は弱く、もろいものです、公子」
 アルカードの雰囲気が変化したことは察知しただろうに、老人は微塵も怖れる様子を見せ
なかった。むしろ、目を伏せ、組んだ両手に悲しげに目を落とした。
「事あれば大勢に流され、根も葉もない噂を愚かしくも信じこむ。ベルモンド家はその
ような輩によって長きにわたる屈従を余儀なくされ、一時は廃絶寸前まで追いこまれて
おりました。若は、ラルフ様は、世間にも、教会にもうとまれ、怪物の血筋として火をかけ
られる瀬戸際から、このベルモンド家をお救いになった方なのです。
 しかし、まだ完全ではない。もしあの方にふたたび背教者の烙印が押されれば、あるい
は、ただあの方が子孫を持たずにこのベルモンド家を去られるようなことがあれば、教会
はこれ幸いとベルモンドを廃絶に追いこむことでございましょう。申しあげにくくは
ございますが、貴方さまの御父君、ドラキュラ公を倒したことで、妖魔狩人である
ベルモンドの存在価値はなくなったと考えているむきもあるのです。
 英雄ラルフ・ベルモンドの名があるうちは世間も手を出しにくうございましょうが、聖鞭
ヴァンパイア・キラーの遣い手を手の内に収めておきたい者は、教会以外にも多くおります。
もし今、跡継ぎもないままにラルフ様が廃嫡されるようなことになれば、当主をなくした
ベルモンド家は、たちまち屍肉をあさる狼の群れに食い散らされて、跡形も残らなく
なることになりましょう」
 アルカードは何も言わなかった。答えようもなかったのだ。老人が口にすることのひとつ
ひとつが、正しいことはわかっていた。
 おそらく、ずっと昔に、そのことは理解していたのだが、ただ愛し、愛される幸福に
酔いしれて、見ないようにしてきただけだったのだ。

44 名前: 第13話4/6 投稿日: 2006/05/10() 20:24:35

 だが、いつまでも見ないふりを続けられるわけもなく、押し寄せてきた現実は、抗弁
のしようもなくアルカードを打ちのめした。語りつづける老人の声に、ただ疲れと悲しみと、
虐げられてきたものだけが知っている痛みがこだまするのが、余計に辛かった。
「村にはまだ、乳飲み子をかかえた家族もおります」
 沈痛にエルンストは言った。
「立って歩くこともできない老人をかかえた者も、ただ食うための盗みを犯したために
首を吊られそうになったよるべのない罪人もおります。もしベルモンド家がなくなれば、
彼らはみな庇護者も、家も土地もないまま、流民として最低の生活を送らねばならない、
しかも、それはまだ、彼らにとってはましな運命でしかないのです。
 どうぞ、公子」
 エルンストは椅子を降りると、窓辺に立ちつくして動かないアルカードの足下に跪いた。
「貴方さまは賢く、美しくお強い。そうしておそらく貴方さまのお命は、なみのどのよう
な人間よりも長く、遠くまで続くのでございましょう。
 しかし公子、ベルモンド家が、そしてラルフ様がおられねば明日の暮らしさえおぼつかぬ
ものが、ここには大勢おります。乳飲み子や、老人や、世間から追われる者のたくさんの
命が、あの方の肩ひとつにかかっているのです。
 この弱く、あまりにもろい人間どもに、どうぞ哀れみをおかけくだされ」
 エルンストはすがるようにアルカードの手をとらえた。アルカードは反射的に手を引っこめかけたが、
すぐに力を抜いて、なすがままにさせた。ざらついた老人の指の感触は、衝撃的だった。
それは幾多の艱難に耐えてきた者の手、辛い運命を乗りこえてきた手、長年の辛苦と苦悩
にさらされた、人間の手だった。
「勝手なことを申しあげていることは承知しております。貴方さまにも、また、若に
とっても、おそらく、地上でもっとも酷いことをわたくしは求めておりましょう。
 この年寄りの首ひとつで気がお済みならば、どうぞお取りくださいまし。しかし、
やはり申しあげずにはおけないのです。たとえ今、若が貴方さまを愛し、貴方さまも
また若を愛しておられても、公子、貴方さまが人ではない者の血を引いておられること、
そして、若が普通の人間でしかないことは、変えようがないのですから。

45 名前: 第13話5/6 投稿日: 2006/05/10() 20:25:26

 どれほど共にありたいと願おうと、いつか必ず、年月が復讐にやってきます。もろい
人間の血の、それが定めです。貴方さまはご自分が、人間と同じように年をとり、老いて
いけると、本当に思っておいでなのですか」
 思わずアルカードは老人にとらえられた自分の手に目を落とした。
 白くなめらかな、女でさえうらやむような美しさを備えた手。人と妖魔、それぞれの血
を継ぐ者の、奇跡のような美。そのすべてが、アルカードという存在に結晶している。
 人と魔のあいだに生まれて、その双方の美質を一身に兼ねそなえた宝石、とエルンストは
言った。その大理石のような白い指のとなりに、皺ぶかいエルンストの手がある。
 ごつごつと皺が寄り、岩のように黒ずんだ、老いた人間の手。
 アルカードは無言でエルンストの手から指を引き抜いた。
 窓辺をはなれて壁の燭台のもとにもたれ、灯りに照らされた室内を見回す。
 重い綴れ織をかけたベッド、鉄で四隅を補強した衣装箱、優美な装飾をほどこした椅子
や書き物机、その上に重ねられた、読みかけの書物や走り書きの束。
 暖炉で薪が暖かな炎をあげている。静かな、初秋の夜の光景だった。
 昨晩までは普通のことと見過ごしていたその室内が、今は、ひどく遠いものに思えた。
「……私は明日、この場所を去る」
 低く、ごく低く、アルカードは言った。
 まだ跪いていたエルンストが、はっとしたように頭をあげた。
「公子、それでは」
「ただ、今夜ひと晩だけ」
 アルカードは言葉をついだ。
「今夜、ただ一夜だけの猶予がほしい。明日の朝、私はここを去り、二度と戻らない。
 だがその前に、今夜、今夜だけ、彼とともにいさせてほしい」
 しばらくためらって、アルカードはつけ加えた。
「叶えて、もらえるか」
「……感謝、いたします──」

46 名前: 第13話6/6 投稿日: 2006/05/10() 20:26:05

 エルンストはアルカードの手を取って再び押しいただき、貴人にするように手の甲に唇を押し
当てた。声はかすれ、震えていた。声を殺して、老人は、泣いているようだった。

 老家令が出ていったあと、アルカードは崩れるようにベッドに腰をおろした。
 両手で顔を覆い、しばらくは身じろぎもしない。頭が割れるように痛んだ。心と、身体
のすべてが、はげしい慟哭の声をあげていた。
 口にはっきりと感じられるようになった疼きを、舌先でさぐる。血の味がした。長い
あいだ忘れていた尖った牙の先が顔を出し、唇の内側の肉をわずかに傷つけていた。


「アルカード……?」
 その夜、ラルフはかなり遅くなった。
 昼間の一件が、まだ重く胸に引っかかっていた。また彼のことだから、自分が悪いのだ
と思いこんでうつむいているに違いない、早く行ってやらねばと考えながら急ぎ足に階段
をあがり、扉を押し開けたとき、そこにあったのはちろちろと燃える消えかけた暖炉の火
と、あとは、漆黒の闇だった。
「アルカード──アドリアン? どうした? 灯りもつけないで」
 もしかして、またいなくなっているのでは。
 そんな不安が胸を走りぬけた瞬間、誰かが動く気配がした。
「なんだ、いるじゃないか。いったい何を──」
 言葉はそこでとぎれた。
 ぽっと灯りが灯った。
 卓に置かれた燭台の横に、黒衣のアルカードが立っていた。
 ──その瞳はまるで溶けた黄金を流したように、妖しい、金色の光を放っていた。