黄昏のカデンツァ 第14

 

47 名前: 第14話1/8 投稿日: 2006/06/07() 20:04:25

「アルカード──アドリアン。いったい……?」
「ベルモンド」
 声は、鋭い針のようにラルフを突き刺した。ベルモンドと呼ばれたこともつい忘れて、ラルフは思わず足を
止め、もう一度まじまじとアルカードを見つめた。
 いつか見た金色の瞳の闇の公子が、そこにいた。人知を超えた力と美をあつめた、闇の中に輝く
星だった。黄金の炎を宿した瞳は、ラルフの胸まで貫きとおすようだった。
「私は今夜、この屋敷を去る」
 低い声で公子は告げた。
 ラルフは息を呑んだ。
「アルカード、それは」
「誰の指示でもない。これは、私の意志だ」
 淡々とアルカードは続けた。
「たとえ父と血に背いた身とはいえ、人間に命令されて諾々と従うほど私は誇りを失ったわけでは
ない。──ラルフ・C・ベルモンド」
 白い手がゆるりと上がってラルフをさす。
「おまえは以前、なにがあろうと常に私とともにあると言った。私を、けっして独りにはしないと
誓った。それは、本当か」
「本当だ」
 反射的にラルフは答えていた。凍りついていた脚を動かし、ゆっくりと部屋に入る。
 後ろ手にドアを閉めた。部屋が閉ざされると、空間に充ち満ちたアルカードの魔力が、ちりちりと耳の
後ろを灼いた。
 アルカードは微動だにせず卓の後ろに立ちつくしていた。その姿は闇の公子としての血をすべて解放
し、仮面のような白い顔には、人間らしいところなどどこにもなかった。

48 名前: 第14話2/8 投稿日: 2006/06/07() 20:05:06

 それは美しくはあったが、暴風の、雷鳴の、すべてを灼きつくす、超自然の炎の美だった。生身の
人間が持つべきものではなかった。身にまとっているのはいつもと同じラルフの古いシャツだったが、
それでさえ、触れている肌の光をうつして、何かあやしいほどの光をおびているようにさえ見えた。
「なぜ、今さらそんなことを訊く? さっき、エルンストがここに来ていたようだな。あいつに何を
言われた、アルカード」
「私とともに来る気はあるか、ベルモンド」
 質問には直接答えずに、アルカードは言った。
 ラルフは大きく目を見開いた。
「──なんだって?」
「私は、この場所を去る」
 抑揚のない声でアルカードは言った。
「その理由について、おまえに話す必要はない。ただ、おまえは以前、私とともにあることを
誓った。妖魔にとって、一度かわされた誓約は永遠のものとなる。おまえは、私との誓約を
かわした。闇の公子の、この私と」
 卓を回って、アルカードはラルフに近づいた。
 すべるような動きは、まるで宙を飛んでいるかのようだった。またたきの間に、ラルフは金色に
燃えるアルカードの目を間近くのぞき込んでいた。
 それは、魂をも灼きつくす業火の渦だった。声もなく、ラルフは黄金の炎の淵に見入った。甘い
アルカードの体臭に混じって、かすかな血の臭いが鼻をついた。
「これが、私だ」
 ささやくように、アルカードは言った。
「私の、もう一つの顔、──父から受け継いだ、私の、真の顔だ。

49 名前: 第14話3/8 投稿日: 2006/06/07() 20:05:45

 私はしょせん、人間ではない。私の体内には、父から受けた闇の血が流れている。父の血は、私
を人間と同じ生にはけっして導くことはない。おまえが誓約をほんとうに守ろうとするなら、おまえ
は、人間であることを捨てなくてはならない。
 もう一度、問う。私とともに、来るか、ラルフ・C・ベルモンド」
 アルカードはゆっくりと口を開け、見せつけるように息を吐いた。
「おまえを頼る人々に背を向け、聖鞭の使い手、英雄ベルモンドの名を捨て、人であることを捨て──
すべてを捨てて、おまえは、私とともに来るか。
 闇の顔をした私を抱く勇気はあるか、ベルモンドの男。この、闇と血と死に呪われた身体に、触れる
勇気はあるか」
 麝香の香りと濃い血の臭いが漂い、その薄い唇の中に人ならぬものの細く、白い牙が、ナイフの
ようにひらめくのをラルフは見た。
「人が闇とともに歩むことなど、しょせんできはしない。これまで敵としてきた者と、おまえは同じ
者になれるか、ベルモンド。死を超えて、永遠の生命を保つ存在となる気はあるか。この私とともに、
果てなき久遠の黄昏を歩いてくれるか」
 血の気のない手が、強くラルフの二の腕を握りしめた。
 普段の、おずおずとした触れ方からは想像もつかない、まるで万力で締めつけられるような力
だった。細い指に押しつけられた腕の骨が軋むのを、ラルフは感じた。
「答えよ、ベルモンド」
 やわらかく、アルカードは囁いた。吸血鬼の声、父が使ったのと同じ、絶対の支配者としての、残酷
にして強力な、闇の王の声だった。
「答えよ」
 ラルフはつかの間黙って、自分に据えられた二つの黄金の瞳に見入っていた。
 それからやにわに手をあげ、力任せにアルカードの細い身体を抱きこむと、有無を言わさず深く唇を
重ねた。

50 名前: 第14話4/8 投稿日: 2006/06/07() 20:06:22

「……!」
 アルカードは一瞬抵抗しようとしたが、たちまちラルフの腕に押さえ込まれた。
 軋むほどラルフの腕をつかんでいた手がゆるみ、やがて、すがりつくように服の胸もとを握るまでに
時間はかからなかった。
「……ラ、ルフ、待っ」
「やかましい」
 ラルフは息をつぐために唇を離しながら、アルカードの牙に軽く舌を走らせた。
 アルカードは身震いし、かすれた呻きを洩らした。尖った牙の先がどこかを傷つけたのか、どちらの
ものともわからない血の味が、舌の上に広がった。
「俺を、甘く見るな」
 ようやく唇を離して、ラルフは低く言った。抑えきれない怒りと苛立ちが、彼の濃い青の瞳をアルカード
のそれにも増してはげしく燃え立たせていた。
「俺が、心にもないような誓いをするとでも思っていたか。おまえの闇の顔を見たからと言って、
怖じ気づいて泣いて逃げ出すとでも思ったか。ふざけるな。
 俺は一度言ったことは必ず実行するし、する気がないなら最初から口になど出さん。おまえが
闇の血を持ってるなんてことは、初めからわかってる。それも考えずに、俺がただ人間のおまえ
だけしか見ていないとでも思っていたなら、大間違いだ」
「ラルフ、私は──」
「答えは決まってる。訊かれるまでもない」
 もう一度、かすめるようなキスをして、ラルフは言った。
「おまえが行くというなら、俺も、おまえといっしょに行く」
 アルカードは鋭く息を吸いこんで、何か言おうとした。
 だが、その言葉はふたたび降ってきた口づけに途中で塞がれた。アルカードは力なくラルフの胸を押し
返そうとしたが、その手も、やがてぐったりと下に垂れた。

51 名前: 第14話5/8 投稿日: 2006/06/07() 20:06:59

「けっしておまえをひとりにはしない、いつでもそばにいて、おまえの名を呼んでやる、──そう
言っただろうが。アドリアン」
 荒い息をつくアルカードを、ラルフは強く揺さぶった。
「おまえは俺のもので、俺は、おまえのものだ。それが必要だというのなら、どんなものでも持って
いけ、血でも、命でも、魂でも。英雄の称号なんぞ、俺にはなんの意味もない。ただおまえだけだ、
アドリアン、俺にとって必要なのも、大切なのも、意味があるのも、ただひとり、ただ、おまえだけ」
「だが、──だが、それでは、村の人々は。この、屋敷の、荘園の人々は」
 強く胸に頭を押しつけられながら、ようやくアルカードは問いかけた。
 ラルフの目が一瞬、深い苦渋に満ちて閉ざされた。
「……それは、俺がこの先、ずっと背負っていかなければならない呪いの一つだ」
 ややあって、ごく低い声でラルフは言った。
「俺は、自分が属していた場所を捨てる。それも、自分がいなければ多くの人間が苦しむだろうと
いうこともわかっていて、捨てるんだ。おまえの血の中の呪いと同じくらい、彼らの苦痛は、呪い
となってこれから俺を苦しめるだろう。
 だが、それはおまえとは関係ないことだ。これは俺の罪であり、呪いであって、おまえに気に
されるような筋合はない」
「しかし、おまえは私のために人を捨てると言った。ならば、それは私の」
「たとえそうであっても、家より、称号より、村人たちよりもおまえを選ぶのは、ほかならぬ、この
俺自身の意志だ」
 いよいよかたくアルカードを抱きしめながら、ラルフは言い切った。手をあげ、小さな顔を両手で包み
こむ。金の瞳の闇の公子は、今にもこわれそうなうすいガラスの細工物のように、震えおののいて
いた。
「おまえは、俺を止めようとした。それでも、俺はおまえを取ると言った。決めたのは俺だ、おまえ
じゃない。俺のすべてはおまえのものだが、俺の罪までも自分のものだとは思うな。俺の罪は、俺だ
けのものだ。誰にも、背負うことはできない」

52 名前: 第14話6/8 投稿日: 2006/06/07() 20:07:36

「──ラルフ」
「おまえの運命を俺にも分けてくれ、アドリアン」
 なめらかな銀髪を唇でたどりながら、無限の優しさをこめてラルフは囁いた。
「いっしょに行こう、どこまでも、いっしょに──。おまえは独りじゃない、俺がいる。ずっとそば
にいる、アドリアン。だから、いっしょに行こう。連れていってくれ、おまえの世界へ。おまえの見て
いるものを、今度は、俺にも見せてくれ」


 ベッドへ、と息を殺してアルカードは囁いた。
 喉を締めつけられるような、かすれた、細い声だった。まるで火花のように、それはラルフの心臓を
燃えあがらせた。
 腰に手を回し、奪うように抱きあげてシーツの上に放り出す。身をくねらせ、身体を起こそうと
したアルカードに、覆いかぶさるようにしてはげしく唇を吸った。血の味が、とろりと蜜のように下に
まつわった。それは解放された闇の血がもたらす、誘惑の味かもしれなかった。
 麝香の香が強い。引きちぎるようにラルフはアルカードの服を脱がせ、自分のそれを投げすてた。裸の胸
が合わさったとき、首にそれぞれに提げた二つの指輪が触れあって幽かな音を立てた。たがいの鼓動
が、嵐のように胸郭をたたくのをはっきりと感じた。餓えたように舌をからめあいながら、しなやか
な身体が蛇のように腕の中ですべるのをしっかりと抱きしめる。
 離れるとき、アルカードが追うようにちらりと舌を出して、唇を舐めた。下腹部を一撃されたように、
かっと熱が全身に広がった。
 すでにしっとりと濡れはじめた白い肌にしゃにむに手をすべらせ、かたくとがった乳首を、かたち
のいい臀のまるみを、彫り込んだような鎖骨の窪みを、知りつくしたすべての部分に狂気のように
愛撫を加えていく。ほとんど何も考えることができず、ただ、この目の前のいとおしいもの、たとえ
ようもない美と蠱惑をそなえたものへの欲望に、ラルフはほとんどわれを忘れた。

53 名前: 第14話7/8 投稿日: 2006/06/07() 20:08:18

 細いひやりとした手が、胸を、肩を、背中を、執拗に何度もたどっていく。まるでその輪郭と
手ざわりを、すべて手のひらに収めてしまいたいとでもいうようだった。
 その手をつかんでラルフは口元に引き寄せ、口づけて、歯を立てた。何もそんなことをする必要は
ないのだ。これから先、彼らはけっして離れない、別れることなど二度とないのだから。
 ラルフ、と途切れがちに呟いた口を、もう一度強引にふさぐ。絡ませた舌に、噛みつくようにアルカード
も答えてきた。両腕をラルフの首にからめて、荒い息をつきながら何度も自ら唇を求めてくる。いつも
恥じらいがちに、おずおずと愛撫に応じる彼にはめったにない態度に、一瞬ラルフは疑問を持ったが、
その思いも、押し寄せる快楽と欲望の波にたちまちのうちに押し流されてしまった。
 後ろを慣らす余裕さえ、今は持てなかった。腰を持ちあげ、逞しいものをあてがったとき、アルカード
はびくりと身をすくませたが、拒みはしなかった。むしろ、誘うように脚を開き、ラルフの腰に自ら
からみつかせた。
 突き入れると、高い嬌声があがった。苦痛と悦びのないまぜになった喘ぎがとぎれることなく漏
れ、ますますラルフをあおり立てた。
 身体をつなげたまま細い背に手を回し、抱き起こして、足を組んだ膝の上に腰を降ろさせる。自ら
の体重と、下からの突き上げのふたつの責めに同時にさらされて、白い背が弓のように反り返る。
「も……っと、強く、ラルフ」
 ラルフの胸に、顔に残る傷痕に幾度も唇を押しあてながら、うわごとのようにアルカードは呟いた。
「もっと、強く……深く。深く……欲しい、ラルフ。おまえが、欲しい──」
 その願いに応えるように、ラルフは叩きつけるように激しく腰を突き上げた。ひときわ高い嬌声と
ともに、反った背中に弾かれた弦のような震えが走る。
 恋人の熱い迸りが腹の上に飛び散るのを感じた瞬間、ラルフも達していた。狭く熱い内部に、煮えた
ぎる欲望がどっと注ぎこまれる。
 アルカードははげしい息をつきながら、ラルフの肩に身をあずけてきた。まだ余韻にとらわれて動けずに
いるラルフの首筋に顔をうずめ、一瞬、目を閉じる。

54 名前: 第14話8/8 投稿日: 2006/06/07() 20:09:00

 その頬に、ほとんどわからないほどの苦悩の震えが走りすぎたかと思うと、アルカードの口が大きく
開いた。白い牙が、かっとむき出された。
 ラルフが感じたのはちくりとしたほんのわずかな痛みと、脱力感だけだった。
 予想していたような苦痛は少しもなかった。最初の針で刺されたような痛みもすぐに消えて、あと
は眠りに引きこまれていくときの快いだるさと、忘我があるだけだった。
 アルカードの唇を首筋に感じる。ラルフはそっと小さな頭をかかえ込み、彼がより吸いやすくなるように
首をのけぞらせて、ゆっくりベッドに身をたおした。
 猫がミルクを舐めるような、かすかに舌を鳴らす音がしていた。舌のなめらかさが心地よかった。
やわらかな髪を撫でながら、ラルフはこれまで感じたこともなかった充足と、やすらぎに充たされて
いく自分を感じていた。
 恐怖はなかった。不安も、なかった。
 人でなくなること、この生命の世界に居場所を持たないものになることは、彼の孤独な恋人ととも
にあることに比べれば、ものの数ではなかった。
 ラルフの目には、ただ、次に来るであろう新しい夜の世界が映っていた。アルカードが拒まれていた昼の
世界を自分が案内したように、今度は、アルカードが彼を案内するだろう。次に目を開けたとき、自分
は、恋人と同じ目で世界を見るようになるのだ。
 ただ今は、それが待ち遠しかった。独りきりで世界と向きあってきたアルカードと、同じ世界を分かち
合う者となることが。
 いっしょに行こう、アルカード、アドリアン──夢心地で彼は呟いた。
 おまえはもう独りじゃない。俺がいる。ずっといる──いつでも、そばに。
 けっしてこの手を離しはしない。二人で行こう、どこまでも、いっしょに──おまえとともに、俺
は、永遠を往く──。
 暗黒が、しずかに降りてきた。意識を失う瞬間、ラルフが見ていたものは、恋人の銀髪に映る火灯り
のゆらめきと、肩を並べ、手をたずさえて黄昏を歩く、二人の旅人の後ろ姿だった。