黄昏のカデンツァ 第15

 

55 名前: 第15話1/9 投稿日: 2006/06/29() 20:04:26

 アルカードは目を開き、ラルフの腕からゆっくりとすべり出た。
 夜明けが、すぐそこに来ていた。早朝のうす青い空気が、閉ざした窓のすきまからかすかに忍び込んで
きていた。
 振り返らないようにして、アルカードは手早く身を清め、震えながら服を着た。きのうまで着ていたラルフの古い
シャツではなく、衣装箱の中の新しい服でもなく、ただ、ここに来た日に着ていた、黒と金の、闇の者の
ための服を。
 壁からマントを外して身につけ、腰に剣をさげる。
 そこまでして、ついに絶えきれなくなった。彼はふりかえった。
 静かな顔をして、ラルフは眠っていた。
 ゆったりとした寝息が聞こえた。彫りのふかい顔立ちはおだやかに和み、唇には夢見るような、かすかな
微笑みが浮かんでいた。喉からの血はもう止まっていた。
 腕は片方へ伸ばされて輪を作り、そこには存在しないものを、まだ抱きしめようとしていた。両腕のあいだ
のシーツに、かすかなくぼみが残っていた。
 さっきまで、自分はそこにいた、その考えにうたれた瞬間、アルカードはもはや自分を抑えきれずに、駆け寄って
ベッドのかたわらに跪いた。
 手は触れなかった。もしも触れたりしたら、二度と離れられなくなるのが自分でもわかっていた。ただ、
むさぼるようにその顔を、手を、たくましい肩と広い胸を見つめ、その感触とぬくもりを、耳もとでささやく
声を、よく響く笑い声を、口づけの熱さを、ひとつひとつ思いかえして、心の奥に強く刻みこんだ。これから
沈む永遠の闇の底でも、まぶたの裏で、いつでも小さな光になってくれるように。
 半分しか吸血鬼ではないアルカードに、もともと他人を同族にする能力などない。
 たとえどれだけ血を吸ったところで、相手はせいぜい四、五日ほど昏睡状態に陥るだけだ。ラルフなら、もっと
短いかもしれない。それでも、すぐに追いつかれないようにするためには、十分な時間がかせげるはずだ。
 そのあと彼は何事もなく目を覚まし、変わらず人間として生きていくだろう。
 人間として、と呟き、アルカードは一瞬強い憤りが、剣のように胸をつらぬくのを感じた。人間にでも、ラルフに
でも、自分に対してでもなく、対象のはっきりしない、ただ漠然とした、何かに対する怒りだった。

56 名前: 第15話2/9 投稿日: 2006/06/29() 20:05:14

 あるいはそれは、運命そのものに対する怒りだったのかもしれない。だが、憤怒はすぐにあきらめと悲哀、
そして孤独という、彼にとっては馴染みのものに席をゆずった。
 怒りなど、何の意味もない。ラルフは人であり、そして自分は人ではない。その事実は動かせない、あの老人の
言うとおりだ。
 彼は人として生きるべきであり、ベルモンドの当主として、その肩には多くの人の生命と責任がかかっている。
ともに同じ時間を生きることすらできない者が、独り占めしていいわけがない。ただそばにいることでさえ、
彼と、彼の背負う人々に害悪をもたらしかねないのであれば、もはや、自分はここにいてはならないのだ。
 ぽつり、とシーツに赤い花が咲いた。
 はっと見おろすと、またぽつりとべつの赤い滴が、先のものに重なるようにはねた。
 アルカードは頬に手をすべらせ、拭ったものを光にかざした。
 血だった。
 闇の血が完全に表に出た場合、半吸血鬼であるアルカードの身体は吸血鬼としての生理に支配される。流す涙を、
吸血鬼は持たない。もしも吸血鬼が泣くときには、その体内を充たす他人から吸った血が、涙のかわりに頬を
つたう。
 アルカードは急いで頬をこすり、目尻に指を走らせて、あふれてくる滴をぬぐい取った。震える指を口にはこび、
ついた血を丹念に舐めとる。
 たった今血を吸った者のわきに膝をつき、血のついた指をしゃぶっている姿がどれほどあさましいかはよく
承知していたが、それでもこれは、ラルフの血だった。一滴たりとも、失いたくはない血だった。
 舌の上で血は甘く濃く、愛している、と言葉ではない意志をアルカードにささやいた。愛している、愛している、
おまえ一人を、永遠に、と。
 血は常に、本当のことしか伝えない。吸血鬼にとって血は生命であり、ある意味では、その者の魂の精髄
なのだから。
 視界にうすく赤いもやがかかった。こみ上げてきたすすり泣きを懸命にかみ殺す。泣けば泣くだけ、ラルフの血
が外へ流れ出てしまうことになる。
 今もまだ、彼に抱かれているような気がする。吸ったラルフの血は全身をめぐり、冷えた身体をいまだぬくもり
で包みこんでくれていた。

57 名前: 第15話3/9 投稿日: 2006/06/29() 20:05:57

 尽きかけた蝋燭の灯のもとで、深い陰翳がラルフの顔を彩っていた。腕はまだ、離れていった恋人を誘うように
伸ばされている。
 今にもそこへ倒れこんでしまいそうになる身体を必死に押さえつけながら、アルカードは、いくらぬぐっても
あふれてくる血の涙を、何度も口に運びつづけた。


 霧の濃い朝だった。雲のようにうすく光る大気が、ベルモンド家を包みこんでいた。切れ切れな鳥の声が
聞こえ、冷たい空気のヴェールを通した朝の光が、水の底のような青さと静けさであたりをくるんでいた。
 アルカードはゆっくりと階段を下りてきた。靴の踵がカツカツと刻むような音をたてた。涙はもう影もなく、
白い顔には超自然の美と、刻を超える静謐だけがあった。
 庭を横切って門に近づこうとして、ふと立ち止まる。石の大門の横に、背筋をぴんと伸ばして立っている
一人の影があった。
 霧のむこうから見えてきたのは、エルンストの白髪と謹厳な顔だった。
 彼はアルカードが近づいてくると、ただ黙って、深々と頭を下げた。
 おそらく、ほぼ一晩中、ここに立ちつくしていたのだろう。髪は靄のためにべっとりと湿りけを帯び、
毛織りの黒い上着には水晶をちりばめたように小さな水滴がびっしりと貼りついていた。
 アルカードは無言で彼の前を通りすぎようとして、ふと足を止めた。
「──彼は、塔の部屋で眠っている」
 エルンストははっと顔をあげた。
「数日は目を覚まさないかもしれないが、大事ない。目を覚ませば、何事もなく健康な身体になっている。
彼に、もう闇が触れることはない。
 私は、これから永い眠りにつく」
 エルンストは何か言おうとしたが、声にはならなかった。
 アルカードは淡々とつづけた。

58 名前: 第15話4/9 投稿日: 2006/06/29() 20:06:30

「二度とはさめぬ眠りだ。生と死の境界、どちらともつかぬ領域に、私は自分自身を封じる。永遠に、この世
に目覚めることはない。この地に、戻ることも」
 エルンストはしばらく身を震わせていたが、言葉を見つけることができず、もう一度、うめくような声をたてて
深々と礼をした。
「──そして……、彼に伝えてほしい」
 一瞬ためらって、アルカードはさらに言葉をつづけた。
「私は、ドラキュラ城が落ちた時、死んだ、と」
 エルンストは小さく息をのむ音を立てた。
「ただ、死の瞬間に、──夢を見た」
 アルカードは目を閉じた。
 できるものならもう一度、あの、夢の日々を呼びもどそうとするかのように。
「幸福な、夢だったと──彼に、そう」
「……お言葉、必ず──」
 頭を垂れたままのエルンストの声は、震えていた。
 アルカードはもはや何も言わず、その前を通りぬけて、門を出た。
 霧が、濃く全身にまつわりついてきた。ひとり、アルカードは歩を進めた。
 その姿が完全に霧にまぎれてしまうまで、エルンストは頭をあげず、肩を震わせ、うちひしがれたようにただ
うなだれていた。


 霧のただよう森の中を、すべるようにアルカードは歩いていた。
 すでにベルモンド家は、遠かった。彼のとった超自然の道は、人間のためのものではなく、その世界に属する
法則にも支配されるような場所ではないのだった。
 きしるような啼き声が騒ぎながら近づいてきた。ベルモンド家にいた時には魔狩人を怖れて近づけなかった、
たくさんの小魔たちの群れだった。

59 名前: 第15話5/9 投稿日: 2006/06/29() 20:07:06

 彼らは自分たちの公子が還ってきたことを祝うように空中を踊りまわり、鈎爪をならし、嘴を打ちあわせて
われがちに歓喜の意を示した。蝙蝠の羽が、鱗のある手足がすれあって、ざわざわと木の葉のような音を
立てる。先頭を切ってやってきた、あの赤いひとつ目の小魔が大胆にも公子の肩に舞い降りて、高い声で
何度か啼いた。
 アルカードはさびしく微笑んだ。
「……駄目だよ。私は、そちらへは行かない」
 小さな魔物は首をかしげて、理解できないとでも言いたげに、公子の銀髪をつかんで引いた。アルカードは
そのままにさせておいた。
 彼らにはけっしてわからないだろう。ベルモンドを離れたアルカードが行くべき場所を、彼らは知っている、
あるいは、知っていると思っているのだから。
 魔王の子、ドラキュラの息子。人間世界を逐われた魔の公子が、還るべき場所はただひとつしかない。
 あの、闇の城、──城主の滅びとともに崩壊した、魔王のための城。
 ドラキュラ城がけっして本当には消滅することがないのを、アルカードは知っていた。
 城の存在はその城主の存在と固く結ばれており、城主となったものが求めさえすれば、城はいつなりと
再びその威容を顕すのだ。
 もしアルカードが今ここで、われは城の主なり、ドラキュラの息子にして、正統なる魔王の後継者なりと名乗りを
あげれば、城はすぐさまこの場に現れて、新たな城主を迎えるためにその鉄の門をひらくだろう。
 なぜそうしないのかと、小魔たちはいぶかっているのだ。彼らにとってみれば、アルカードが今までベルモンド家に
身をおいていたことこそが異常なのであって、むしろ、あの魔狩人の一族に囚われ、幽閉されていたのだと
考えているのだろう。
 せっかく幽閉の身を抜けだしたというのに、なぜ正統な権利を主張して、自分たちの王となってくれない
のか。懇願するように小さな魔物たちが啼きさわぐ。ドラキュラの血を継ぐものとして、空位となった魔王の座を
占め、再びこの世に闇と血と破壊の影を呼びおろしてくれるようにと、耳もとで赤い眼の魔物が必死に身体を
すりつけてくる。
 ──もしも、そうしたら、とアルカードは考えた。

60 名前: 第15話6/9 投稿日: 2006/06/29() 20:08:11

 彼は、来てくれるだろうか。魔王となった、私のもとへ。
 そう、彼は必ずやってくるだろう。それが魔狩人としての、ベルモンドの使命であり、宿命なのだから。
 復活した魔王を再び塵に帰すために、吸血鬼殺しの聖鞭を手に、彼は来る。
 そして、私を殺してくれるだろう。その時には、おそらく人の心をなくして完全に闇のとりことなっている
だろう、私を。
 身体の半分を占める闇の血は、アルカードに自死の道を選ばせてはくれない。
 もし、首尾よく命を絶つことに成功したとしても、それはただ自分の人間である部分の息の根を止めるだけだ。
 残った不死の闇の血は、人の心という枷をはずされていよいよ猛り狂うだろう。完全な闇の者となった自分
は、この小魔たちが運ぶ夢で見た姿と同じ、恐怖と血と殺戮の宴に酔いしれる者になる。もはや愛も知らず、
生きとし生けるものの苦痛と死に対して、嫌悪も、罪も、哀れみも感じることのない、父と同じ怪物となって。
 ──そうなった私を、きっと、ラルフは殺してくれるだろう。
 そしておそらく、最後の瞬間まで傍にいて、ともに滅びることを選ぶだろう。
 なぜアルカードが魔王となることを選んだのか、城を復活させてその城主となったのか、すっかり承知した上で、
彼はやってくるのだろうから。
 どこまでも一緒だと、耳もとにささやかれた声がまだ胸の奥にひびいていた。自分がベルモンド家を去り、
やがて、魔王として再びドラキュラ城に君臨するようになったことを知れば、ラルフはきっと、そうしたことの理由を
正しく理解する。
 たとえ呪われた怪物となっても、彼の手で殺され、その腕に抱かれて冥府へ墜ちていくことを考えると、ただ
それだけで魂は歓びにおののいた。
 魔王を殺した者が、同じくその戦いで相打ちになったとしても、責めるものは誰もいない。たとえ行く先が
燃えさかる地獄の底だとしても、ふたり手を取りあい、ともに黄泉路を往けるのなら、どんなにか幸福なこと
だろう──。
 だが、けっしてそうはならないことを、アルカードは知っていた。
 もしそうすれば、あのエルンストをはじめ、ベルモンドがなければ生きていけない人々から、命綱である当主を
奪い取ることになるのは同じことだ。

61 名前: 第15話7/9 投稿日: 2006/06/29() 20:08:56

 彼は、ラルフはあのままあの荘園で、人間として生き、子を作り、もはや闇とはかかわることなく、おだやかな
生を営むべきなのだ。
 自分のような、闇の者とかかわったこと自体が、あってはならないことだった。
 夢からさめる時が来たのだ。自分にも、それから彼にも。
 眠りからさめれば、彼は裏切られたことに気づき、怒り、悲しむだろう。
 だが、おそらくそれも一時のことだ。今もまだ、身体が熱いほどの愛を手ひどく踏みにじった相手に、もはや
向けておく愛情などないにちがいない。
 彼はやがて自分を忘れ、相応の女性をめとり、人間としての生を生きる。
 それでいいのだ。
 そう、あるべきなのだ……。


 霧が晴れ、視界が開けた。
 啼きながら周囲を飛びまわっていた小魔たちが、急に悲鳴をあげて飛び去った。
 廃墟となった集落の、奥まった場所に位置する古びた礼拝堂だった。見捨てられてからかなりの年月がたって
いるようで、焼けこげた石の壁は苔におおわれてひび割れ、屋根の上の十字架は傾いて転げ落ちかけている。
 だが、ここには何かがあった。魔が触れることを忌避する生命の力、大地を流れる純粋な白い生命力の流れ
が、ここに集中している。
 充溢する力の感覚が、なかば闇の者であるアルカードの肌にも針で刺すような刺激を与えていた。おそらくここは
古代の聖地であり、今もまだそうなのだ。人がこの地を見捨ててからも、大地は変わることなくこの地に力を
渦巻かせ、つきせぬ生命力を発している。
 アルカードは崩れかけた石段を登った。
 ちょうつがいが壊れて垂れさがった扉に指をふれ、いくつかの言葉を唱えると、まるで時間が逆転したように
朽ちた木の扉はがっちりとした分厚い昔の姿を取りもどした。
 扉を開け、中にはいる。内部もまた、荒れ果てていた。

62 名前: 第15話8/9 投稿日: 2006/06/29() 20:09:42

 どうやら有力者の寄進によって墓所として建てられたものらしく、正面の祭壇のわきには巨大な石棺が据えら
れていた。天井といわず壁といわず蜘蛛の巣があたりを覆いつくし、床にはぶあつく埃が積もっていた。一歩
歩くごとに、かすかに埃が舞い立った。
 石棺の蓋はずらされ、中身はからだった。略奪にあったのか、祭壇の装飾品のほとんどは奪いさられ、
ぼろぼろになった綴織が蜘蛛の巣とさほど変わらない姿でひっかかっている。木の十字架は金箔をはがされて、
虫食いの木肌をさらしていた。魁偉な悪魔の姿を模した燭台がいくつか、壊れた椅子のそばに投げ出されている。
 アルカードは閉じた扉にかがみ込み、指先を噛み破って、扉を封印する形で流れ出た血で魔法陣を描いた。
「ここにおいて、われはわが名でこの扉を封じる」
 小さくアルカードはささやいた。
「われならぬ者にこの扉を開けること能わず、いかなる力も、術も、われならではこの封印を破ることは叶わ
ぬ。刻を知らず、変化も知らず、ただわれの名のみに応えよ」
 言葉にしたがって魔法陣は蒼白く燃えあがり、光の輪となって落ちついた。
 アルカードはそっと封印に唇をつけ──そこにもまたラルフの血は交じっているのだ──立ちあがって、からの石棺
に近づいた。
 石棺もまた埃をかぶっていたが、アルカードが蓋を動かすと、中はほぼ綺麗といっていいほどだった。蓋がずれて
いただけなので、あまり埃も積もらなかったらしい。
 蓋は重かったが、なかば吸血鬼であるアルカードにとっては軽い木も同じことだった。
 蓋をどけ、中にはいる。超自然の道は、そこを往く者が心に望む場所へと彼を導く。まさに相応の場所へ導
かれたのだ、とアルカードは思った。死者のための礼拝堂、見捨てられた棺、生からも死からも拒まれた者の家とは。
 腰をさぐり、小さな鉛製の小瓶を引き出した。
 まだ父の城にいたころ、父への叛逆について思い悩んでいたころに、作り出して持っていた薬だった。口にし
た者に、永遠にさめぬ眠りを与える秘薬。この薬を口にすることで、すべてから目をそらし、永遠の無感覚に
逃げ込んでしまおうかと思い悩んだ時もあった。錬金術の奥義から引き出されたその薬を、もう使うこともない
と思いつつも持ち続けていたのは、いつかこういう日が来ると知っていたからだったのだろうか。

63 名前: 第15話9/9 投稿日: 2006/06/29() 20:10:21

 ……どうでもいいことだった。
 指先ほどの小瓶の蓋を外し、口にあてて、一息に中身を飲みほす。重い水銀のようなしずくが、ねっとりと
喉をくだっていった。
 瓶を置き、横になった。早くも冷たい無感覚が、つま先のほうからゆっくりと上がってきていた。
 これが心臓まで達したとき、夢のない眠りが降りてくるはずだ。まだ動く腕をあげて、ずらしていた蓋をもと
に戻す。視界が闇に包まれ、埃の匂いがした。
 固い石棺の底を頭の下に感じながら、アルカードは服の襟元を開き、鎖の先についた大ぶりの金の指環を、そっと
取りだした。
 ベルモンドの印章。ラルフの、指環。
 あそこで得たものは、すべて置いてくるつもりだった。だがただひとつ、これだけは、どうしても手放すこと
ができなかった。何度も首からはずそうとして、そのたびに手を離すことをくり返し、結局、肌につけたまま
持ってきてしまった。
 これだけでいい。かまわない。
 アルカードは思った。
 なにもかも、死の前に見た夢だった。ならばせめて、幸せだった夢のかけらを抱いて眠ろう。それだけは、闇
を呪うあの神も許してくれるにちがいない。夢の幻の中から、たったひとつ、幻でないものを持って出てくる
ことができたのだから。
 しだいに感覚を失いはじめた指に鎖をからめ、大きすぎる指環を手のひらに包みこむ。
 目を閉じると、その指環をはめていた者の笑い声が、かすかによみがえってきた。かたいあの指先が、手を
そっと撫でたように感じた。
 やがて、暗黒がおりてきた。
 静寂と闇に沈むその一瞬、かすかに遠く、荒々しい馬蹄の音を聞いたような気がした。