黄昏のカデンツァ 第15

 

64 名前: 第16話1/9 投稿日: 2006/07/21() 19:56:21

 ラルフは目を覚ました。
 初めのうちは目を閉じたまま呻き、唸り声をあげ、恋人の名を呟きながら、糊づけされたように
感じる瞼を手をあげてこすろうとした。まだなかば夢うつつのまま、いつものようにすぐそばに
寝ているはずの、温かい身体を無意識に引き寄せようとする。
 だが、手に触れたのは冷たいなめらかなシーツの表面だけだった。
 冷水をかけられたように意識が目ざめた。
 ラルフははね起き、ベッドが身体の下で大きく弾むのを感じた。
 一瞬にして心臓が氷と化した。
 狂気のように室内に目を走らせる。どこもかしこもきちんと片づき、眠ったときとかけらも
変わった様子はなかった──ただ、燃え切ってしまった蝋燭と、恐ろしいほどからっぽに見える
壁をのぞいては。
 そこにこの夏中ずっとかかっていたはずのマントと剣は、いつのまにか消え失せていた。衣装箱
の上にはインクの染みのついた洗いざらしのシャツと、やわらかい革の短靴が、きちんと重ねて
置いてあった。
 そこに、彼はひとりだった。
 寝床の半分はすでに冷えきって、そこにだれかがいたという痕跡すらなかった。水面のように
なめらかな表面に、かすかなくぼみと、ただ、黒ずんだ血の染みが一つ、枯れ落ちた薔薇のように
ぽつりと残されているきりだった。
「……アドリアン?」
 頭の半分では、まだこれはばかげた夢なのだと信じていた。自分をおいて、彼がいなくなる
はずはない。誓ったのだ、どこまでもいっしょに行こう、人も捨て、名も捨てて、永遠の黄昏を
ともに歩こうと、あれほどかたく約束した。
 そして、彼は自分の血を吸った。そのはずだ。
 そこで、ラルフは閉ざされた窓のすきまから、二度と見ることはないと思っていた陽光が、朝の
弱々しい光を流れこませているのに気がついた。

65 名前: 第16話2/9 投稿日: 2006/07/21() 19:57:02

 息をのんで首筋に手をやる。指にふれたのは、すでに治りかけた小さな二つのかさぶただけ
だった。それさえ、ひと触れしただけで乾いた膠のように剥がれおちた。
 舌でいくら探ってみても、闇の眷属の証拠であるはずの牙はなかった。
 彼は人間だった。人間のままだった。
 そして、アルカードは。
「……アドリアン!」
 ラルフはベッドを飛びだし、袖を通すのももどかしく服を身につけた。
 転がるように階段を駆け下りる途中、ボタンをはめないままのシャツが身体にまつわりついたが、
かまっていられなかった。
「アドリアン! ……アルカード! どこへ行った、アルカード!」
 塔の入り口に立って、彼は大声を上げた。
 あたりはしんとしていた。応えるものは誰もなかった。鳥でさえ、今朝は妙にひっそりとして、
さえずる声も聞こえなかった。焦燥が喉を締めあげた。
「出てこい、アルカード! どこにいる……!」
「──あの方は、すでにこの地を離れられました」
 ラルフははっと振り向いた。屋敷のほうから、ゆっくりとした足取りでエルンストが歩いてくるところ
だった。この時がくるのを予測していたかのように、老いた顔は厳しく引き締められていたが、
鋭い目にたたえられた悲哀と痛みが表情を裏切っていた。
「離れた? なぜだ! 俺は昨夜──」
「貴方さまは三日三晩眠っておられたのです、若」
 静かにエルンストはさえぎった。
「公子さまがそのようにはからわれました。そして、数日たてば何事もなく目を覚ますだろう、
とも。その通りに、貴方さまは目をお覚ましなさいました。あの方は、約束を守ってくださった
のです」
「約束? なんの約束だ、俺は」
 そこまで言って、ラルフは絶句した。エルンストはただ黙ってまっすぐ視線をこちらに向けている。

66 名前: 第16話3/9 投稿日: 2006/07/21() 19:57:35

 ようやく、アルカードが去ってしまったこと、そして、これが夢ではない本当のことなのだという
理解が、じわじわと頭にしみわたってきた。
 そのとたん、突きあげてきた、はげしい憤怒が喉をふさいだ。
 指がねじれ、拳が疼いた。あともう少し自制心のないものなら、表情を消し、いつものように
鉄の人形めいた姿勢を崩さないエルンストの首を締めあげていたことだろう。
 だが、そのかわりに彼は踵をかえし、馬房に向かって大股に歩きはじめた。
「どこへ行かれます!」
 あわててエルンストが追いすがってきた。忠実な老家令は、ここで主人に殺されるのもやむなしと
覚悟を決めていたらしかった。
「知れたことだ。あいつを追う。追って、連れもどす」
「お止しくださいまし!」
 エルンストがつかんだ袖を、ラルフは乱暴に振りはらった。
「もはや時が経ちすぎております。あの方がどこへ赴かれたのか、わたくしも存じません。
手がかりすらもありません、去られるとなればあとすら残さぬお方であるのは若もご存じのはず、
なのに、どうやってお探しになるおつもりなのです」
「そんなもの知るか。見つかるまで捜す、それだけだ」
「なりません!」
 馬房から馬を引き出そうとするラルフの腕に、懸命にエルンストはすがりついた。隣の馬房ではアルカードに
与えた黒い牝馬が、相棒の主人が来たのになぜ自分の主人は来ないのかと、濡れた黒い目で不思議
そうにこちらを見ている。
「あの方はおっしゃっておられました。私は、これから二度と醒めぬ眠りにつく、と」
 馬具を乱暴に縛りつけていたラルフの手がぴくりと止まった。
「二度とは醒めぬ眠り、生と死の狭間にあって、二度とこの世に戻ることはない、と。そのような
魔法に、どうやって対処されるおつもりなのです」
 ラルフは煩げに首を振った。
「あの方は、貴方さまを深く眠らせて立ち去られた。人間である貴方さまが追われぬよう、追った
とて、追いつけぬようにするためです。あの方のお気持ちを無駄になさるおつもりですか、若!」

67 名前: 第16話3/9 投稿日: 2006/07/21() 19:58:18

「そんな眠りなら、俺がたたき起こしてやる」
 手が止まったのはほん一瞬だった。すぐにラルフは作業を進め、鞍の腹帯を締めて、馬を外へと
牽きだした。
「このふざけた真似のつぐないもかねてな。どけ、エルンスト。俺は行く」
「およしなさい!」
 馬にまたがろうとするラルフの腕をつかんで、エルンストは必死に声をふりしぼった。
「幸福だった、とおっしゃったのです。あの方は」
 今度こそ、ラルフの動きは止まった。鐙に片脚をかけた姿勢で、愕然として彼はふりかえった。
「……なんだと?」
「自分は、ドラキュラ城陥落の時に死んだ、と」
 夢中で主人の裾に取りすがりながら、エルンストは言葉をついだ。
「ただ、死の瞬間に、夢を見た、と。幸福な、夢だったと……そう、貴方さまにお伝えして
欲しいと、言いおいてゆかれました」
 ラルフはただ茫然としていた。
 全身がこわばり、名付けようのない感情が荒れ狂って、手足を凍りつかせていた。
「どうぞ、あの方のお心をお察しくださいまし」
 拝むようにエルンストは言った。
「あの方が、軽い気持ちで貴方さまのもとを去られたとでもお思いですか。偽りが、本心から出た
ものだとでもお思いですか。
 責めもお怒りも、わたくしがすべて負います。どうぞ好きなだけお打ちください、命を取られ
ようとかまいませぬ、ただ、どうか若、お聞き入れを。あの方は誰よりも貴方さまのお為に、
何より辛い選択をなされたのです」
「──どけ」
「若!」
「どけ!」
 弾けるようにラルフは叫んだ。
 エルンストを突きのけ、馬にまたがる。なおも取りすがろうとするエルンストを押しのけて、馬に拍車を
入れた。馬ははね上がり、ようやく明けそめたばかりの街道めがけて、まっしぐらに駆けだした。

68 名前: 第16話5/9 投稿日: 2006/07/21() 19:59:26





 幾日幾夜を駆けぬけたのか、ラルフはほとんど意識していなかった。
 馬が疲れていると感じたときだけほんのしばらく小休止を取り、草を食べさせ、水を飲ませたが、
自分では、せせらぎで唇を湿す程度のことしかしなかった。飲む気もなければ、食べる気すら
起こらなかった。考えることはアルカードのことだけだった。彼の顔、彼の手、彼の髪、唇──
 最後の夜、彼がなぜあんな態度をとったのか、いつものように恥ずかしげにではなく、すべての
抑制を捨てて乱れたのかが、今になってわかった。すべてが計算のうちだったのだ。自分を闇の
眷属に引き入れる気など、彼にはみじんもなかった。
 ただ、ベルモンドを出れば、どれほど目を忍ぼうと必ず追ってくる自分を足止めするために、
手の届かぬ場所に身をかくす時間を稼ぐために、あんな芝居を打ったのだ。それがかえって、
自分自身が余計に苦しむことを意味するのも承知しながら。
 ──あの、馬鹿野郎が。
 短い休息が終わると、ラルフは休まず馬にまたがって先を急いだ。
 手がかりもなくどうやって捜すつもりか、とエルンストは言った。だが、アルカードに与えられたひと
噛みは、いまだにラルフの中になにがしかの影響を残していた。
 吸血鬼への変化はなされなかったにせよ、吸ったものと吸われたものの一種の血の絆が、
薄いながらも二人の間には存在していた。漠然とではあるがラルフは、アルカードがいる方角を、
距離を、その想いを感じることができた。
 彼は昏い場所にいる。そして、ひどく悲しんでいる。
 絶望に胸を塞がれ、すべてをあきらめて、もとの暗い森に帰っていこうとしている。たった
ひとりで道に迷いつづけたあの暗黒の森に、今度は自分から閉じこもり、すべての道を閉ざして
しまうつもりなのだ。
 光のない森の奥に、蕭然と歩み入っていくアルカードの姿が見えるような気がした。その細い背中を
おおうように、パキパキと音をたてて伸びる黒い枝とイバラが絡み合い、戻る道を永遠にふさいで
しまおうとしている。

69 名前: 第16話6/9 投稿日: 2006/07/21() 20:00:03

「そうはさせるか」
 ラルフは呟いて、胸もとに揺れる小さな指環を強く握りしめた。それだけは、アルカードも取り返すのを
忘れていったらしい。二人で交換した、あの指環。
「お前は俺のもので、俺は、お前のものだ。夢になんぞ、されてたまるか。お前は死んでなんか
いない、必ず見つけ出してやる、俺が──馬鹿め。馬鹿野郎め」
 もうひと蹴り拍車を入れた。馬は高くいなないて速度を速めた。時間と風景は灰色の縞となって、
またたくまに後方に飛び去っていった。


 どれほどの日々を走りつづけたのか、ラルフにはもうわからなかった。
 どんよりと曇った午後だった。馬は、見捨てられた村の廃墟にたどり着いていた。
 何かに引かれるようにラルフは馬を進めた。ぼろぼろの掘っ立て小屋の跡をぬけると、廃墟の奥に
位置する、古びた礼拝堂にたどりついた。外壁は黒く焼けこげ、とがった屋根の上の傾いた十字架
が、灰色の空にやせ細った手のように伸びていた。
 正面の扉はしっかりと閉ざされている。
 ここまで来て、馬がついに限界を迎えた。ラルフが鞍を降りると、馬はふらついて口から白い泡を
吹いて座り込んでしまった。ラルフは忠実な馬の首を叩いてやり、枯れ草を踏みしめて、壊れかけた
礼拝堂に近づいた。
 まちがいない。ここだ。あいつはここにいる。
「アドリアン!」
 ラルフは叫んだ。声はむなしく反響し、曇り空に吸いこまれて消えた。
「アドリアン、俺だ! 迎えに来たぞ! アドリアン!」
 返事は、なかった。閉ざされた扉はぴくりとも動かず、中で何かが動く気配もなかった。礼拝堂
はただ、沈黙を保っていた。それは絶対的な沈黙、死の沈黙だった。
「──アドリアン!」
 耐えきれずに、ラルフは正面階段を駆けあがった。飛びあがるひょうしに足を捻ったが、もうそんな
ことにかまってはいられなかった。

70 名前: 第16話7/9 投稿日: 2006/07/21() 20:01:02

 閉ざされた扉に、身体ごと思いきり体当たりする。まるで分厚い鉄板にぶち当たったような
ものだった。扉は軋みもしなかった。
 はじき返されて、ラルフは地面に腰を落とした。理解できずに扉を見あげる。
 ただの木の扉だ。これよりずっと堅牢な扉を、何度も力まかせに打ち破ったことがある。それ
なのに、たわみ一つできないとは──
「アドリアン……アドリアン! 開けてくれ!」
 おそらく、中から彼が魔力で封じてしまったのだろう。魔の力によって封じられた扉は、
選ばれたものにしか開けることができない。いくら力で打ち破ろうとしたところで無駄だ。
おそらく、一見崩れやすそうに見えるこの礼拝堂全体に、封印は行き渡っているにちがいない。
 この中には入れない。
 眠れるアルカードが目を覚まし、自分で中から開けてくれる以外には。
「アドリアン! アドリアン、俺だ! ラルフだ!」
 血を吐くように叫んで、ラルフは扉に拳を叩きつけた。
 扉はぎしりとも言わなかった。
「応えてくれ、アドリアン! どうしてこんなことを……頼む、話をさせてくれ! 出てきてくれ、
頼む、声を聞かせてくれ、アドリアン──アルカード……」
 拳が裂け、血が流れた。痛みはまるで感じなかった。ここを打ち破れるのなら、手の一つや
二つ、くれてやってかまわなかった。
「せめて……もう一度──顔を見せて……」
 ──返事は、なかった。
「……アドリアン」
 扉の表面に濃い血の筋を残して、ラルフはずるずるとその場に崩れおちた。
 疲れはてて、その場に身を丸める。走りつづけた疲労と絶望が、今になって鉛のように全身に
のしかかってきた。流れる血がゆっくりと石の上に溜まり、ねばい流れを作ってしたたり落ちていた。

71 名前: 第16話8/9 投稿日: 2006/07/21() 20:01:48




 エルンストが馬車と家のものを連れてやってきたときにも、ラルフはまだその姿勢のままでいた。
「若」
 幼い子供に呼びかけるように、エルンストはそっと呼びかけた。
「お迎えにあがりました。私どもといっしょに、お戻りくださいまし」
「嫌だ」
 ラルフは顔をあげようともしなかった。
 扉の血はすっかり黒ずんで、石に流れた血も固まっている。血まみれの拳は、まるでナイフで
切り裂かれたようにずたずただった。
 だがおそらく手よりも、身体の傷よりも、心の傷のほうがはるかに致命的だったろう。裂けた
手のひらに、血に染まった細い銀色の指環がしっかりと握りしめられていた。近づいてきた老家令
から、ラルフは顔をそむけた。
「……どうして、ここがわかった」
「人に尋ねました。疾風のような勢いで、馬を駆っていく若い男を見なかったかと」
 ラルフはなにか低く呟いた。罵り言葉のようだった。
「さ、ここにいてもあの方を目ざめさせることはお出来になりますまい。また、あの方もそれを
望まれないでしょう。お戻りくださいまし、若。家の者はみな、貴方さまのお帰りをお待ちして
おります」
「そんなものは全員地獄に堕ちろ。お前もだ、エルンスト」
「承知しております」
 悲しげにエルンストは言った。そして若い主人をやさしくかかえ上げようとした。
「放っておいてくれ」
 ラルフは乱暴に振りはらった。

72 名前: 第16話9/9 投稿日: 2006/07/21() 20:03:07

「俺はここにいる。ここにいなきゃならないんだ。あいつはここにいるんだ……ここに。俺は
約束した……あいつを独りにしないと。だから、俺はここにいなきゃならない。ここに、いて
やらなきゃならないんだ」
「しかし今、ご自分がどのように見えるか、貴方さまはおわかりでないでしょう」
 エルンストは振りはらわれた手をそのままに、おだやかな声で言葉をついだ。
「こう申しあげてはなんですが、まるで幽鬼か死霊、いえ、彼らでももっと精気のある姿を
しておりましょう。このままここにおられては、いずれ、餓えと渇きでお命を失われることは
目に見えております」
 ラルフは唸っただけだった。そうなった方がましだ、というように聞こえた。
「貴方さまはそうかもしれません。けれども、あの方は眠っておられるだけなのです」
 辛抱強くエルンストは言葉をつづけた。
「もし、ここで貴方さまがお亡くなりになれば、結局ここに、生の世界にひとりあの方を
置き去りにすることになりますぞ。それでもよろしいのですか」
 はじめて、ラルフの肩がぴくりと動いた。
 わずかに頭をあげて、家令のほうを見あげる。乱れきった固い髪の下で、濃い青い目が
憑かれた者のように爛々と輝いていた。
 エルンストは静かにただ見返していた。
「……あいつは、死んでいない」
「はい」
「だが、生の世界でも逢えない」
「少なくとも、今、この地上では」
 苦しげにエルンストは言った。
 彼自身、そんなことを言わずにすめばいいのにと思っている口調だった。
「そして、おそらくは──死の世界でも」
 ラルフは再び顔を伏せた。肩が震えた。
 血で染まった石段に額を押しつけ、やがてその口から、長い、獣のような慟哭がほとばしった。