黄昏のカデンツァ エピローグ/ラルフ第一話

 

73 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話1/6 投稿日: 2006/09/16() 19:56:20

「ここまででいいわ。ご苦労様」
 前を歩いていた下女はとまどったように振り返った。黒い目にはとまどいと、それに入りまじる
安堵の色があった。
「お部屋まで御案内するように言われてるんですけど」
 おずおずと彼女は答えた。
「いいえ、それはもういいの。ここからはわたし一人で行きます。あそこに見える、あのドアね?
 奥から二番目の?」
 彼女は再びうなずいた。この、威厳に満ちあふれた若い女はいったい誰なのだろう、という疑問
がまたちらりと頭をかすめた。
 もちろん、それは彼女のような身分の者が考える問題ではなかった。だが、今、かつてない波乱
におおわれているこの屋敷に、ほとんど供の者も連れずに突然やってきて、自信に満ちた口調で
てきぱきと家の者に指示を与えているこの女性が、ただ者であるとはとうてい思えなかった。
 本来なら、彼女を当主の部屋まで案内するのは家令のエルンストの役割のはずだった。
 だが、半月ほど前からエルンストは当主の身辺に近づくことを禁じられ、エルンストもまた、
黙ってそれを受け容れていた。
 あの謹厳な老家令が、汚れてやつれきった若当主を連れてもどってきて以来、ベノレモンド家には
ずっと嵐の気配、雲の奥にこもった見えない雷電のような、ぴりぴりした雰囲気が漂っている。
それは主に、ずっと閉じこもったままほとんど姿を見せない若当主の部屋から発していた。
 彼は起きられるようになるが早いか、屋敷にあるだけの酒を持って、自室にこもりきりになって
しまった。酒のなくなったときだけ誰かを呼びつけて代わりを持ってこさせるが、それ以外には
けっして人を近づけようとしない。食事や掃除を、せめて新しいシャツやシーツを届けようとした
使用人さえ、怒鳴りつけて追いはらった。以前の闊達な彼を知っている者からすれば、別人としか
思われぬ変わりようだった。

74 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話2/6 投稿日: 2006/09/16() 19:56:57

 真相を知っているのはエルンストと、彼に同行した忠実な使用人頭、そして、若い当主本人、
ただそれだけだった。
「心配しなくてもいいのよ」
 義務と恐れの板挟みになって立ちすくんでしまった彼女をなだめるように、貴婦人はやさしく
声をかけた。
「何かあったらすぐに呼びます。でも、しばらくはこの近辺には誰も近寄らせないようにして、
わかったわね? 彼はわたしには何もしないわ。古い馴染みなんだもの」
「はい、ヴェルナンデス様」
 彼女はやっと細い声をしぼり出し、あわただしく頭を下げて背を向けた。
 逃げるような足取りになったのが恥ずかしく、罪悪感に胸が痛んだ。だが今の当主に近づくのは、
ましてやその姿を目にするのは、彼女のような普通の娘には、荷が重すぎた。
「お救いくださいまし、主よ」
 胸に下げた十字架を取りだしてこっそり十字を切る。
 御当主様はお元気になられるだろうか。そうなればいい、と願わずにはいられなかった。彼が
失われれば、彼女と家族が住む、この荘園もばらばらになってしまうのだ。
 土地を持たない農奴が生きていくには、どこか別の荘園の下働きになるか、ぼろをまとった流浪民
になって盗みや売春に手を染めるしか道がなくなる。ベルモンド家ほど、家作の人々を扱うのに寛大な
荘園主がそう多くいるとは思えない。
 あの美しい貴公子には、彼女も何度か飲み物を運んだことがあった。やさしい物腰と、思わず
見惚れるほどの美貌にはいつも魂を奪われる心地がした。ほほえみかけられるとその日一日、
すべてのものが輝いているような幸福感を感じたものだった。
 今でも、あの美しい者が魔だったとは個人的には信じられなかったが(だって、あんなに綺麗で
おやさしかったのに!)男たちがそう言う以上、そうなのだろう。町の司祭様もお説教でたびたび、
悪魔は人間をたぶらかすために美しい姿をまとい、甘い言葉を使うとくり返していらっしゃる。

75 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話3/6 投稿日: 2006/09/16() 19:57:28

 彼女の単純な頭の中では、男たちと聖職者がそうなのだと断言すればそのことに間違いはないので
あり、彼らに反論したり反対することは、ささやかなその思考の中には含まれていなかった。
 男たちは貴公子と若い当主についてさらに下卑た噂も交換しあっていたが、そのことに関してだけ
は、彼女は断固として頭から閉め出していた。それが彼女にとっての、できるかぎりの小さな抵抗
だった。
 小さな十字架をしっかり握りしめて、娘は躓かんばかりに階段を駆け下りた。


 お仕着せの娘の背中が階段に消えるのをたしかめて、彼女はそっとため息をついた。
 状況は、予想していたよりずっとひどかった。せめてもうあとひと月早く着いていれば、と
悔やまずにはいられなかったが、もはや取り返しのつかないことを考えても意味はない。過ぎ
去ったことをくよくよ思い悩むことは、彼女のやり方ではなかった。
 憔悴しきった顔の老家令は、どうぞ若をお救いください、と懇願した。
『わたくしがお側に参るわけにはまいりません。そんなことをすれば、ますますあの方のお苦しみ
を増すばかりでしょう。貴女様のみが頼りです、ヴェルナンデス様、どうぞあの方の苦悩をなだめて
さしあげて下さいまし──たとえ、癒すことはできずとも、せめて』
 彼女の手をとり、祈るように言った老家令の手は震えていた。彼もまた、自分の主人の苦痛が
誰にも、すでにこの生命の世界からは消えてしまったある者をのぞいて、誰にも、癒し得ぬことを
知っているのだった。
 彼女もまた、そのことを熟知していた。二人と別れてからほぼ一年、こうなることは予測が
ついていたはずだったのに、何もしてやれなかった自分に怒りがわいた。そう感じることは
理不尽だったが、どうしても抑えることができなかった。
 ドアの前に来た。雑念を払いのけ、彼女はしゃんと頭を立てた。

76 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話4/6 投稿日: 2006/09/16() 19:57:59

 ゆたかな金髪は凝った形に結い上げられ、真珠の飾り櫛がつつましく輝いている。白鳥のような
首にはレースと金の襟飾りがまとわりつき、耳にはサファイアの小さな耳飾りが光る。ふくよかな
胸と腰の線をさりげなく見せる青いドレスには、彼女のしなやかな肢体を最大限に美しく見せるよ
う、手の込んだ裁断がなされていた。
「ラルフ・C・ベルモンド」
 はっきりした声で彼女は言った。
「わたしよ。ヴェルナンデス。入るわよ、いいわね」


 ドアを開けたとたん、むっとするような温気と、それを凌駕する強い酒精の臭いが吹き
つけてきた。
 窓は固く閉ざされ、何重もの分厚い布で覆いかくされていた。まるで、板のすきまから入る
光さえ厭うかのようだった。
 床は砕けた酒杯や素焼きの壷、瓶、踏みつぶされた革袋で足の踏み場もない。あちこちに衣類
や靴が脱いだまま放り出され、絨毯が酒の染みでべっとりと汚れている。
 小さな家具類はことごとく投げ倒されるかひっくり返され、中身を床に吐き出していた。椅子や
小卓は壁ぎわで残骸になっているのもいくつかあった。壁に下げられた綴織が、ずたずたに引き
裂かれて海藻のようにだらりと垂れさがっていた。
 かろうじて残った奥のひじ掛け椅子で、一人の人物がうっそりと目をあげた。
 部屋の闇にしずんでほとんど顔の輪郭もわからなかったが、何かにとりつかれたようにぎらぎら
と光る眼は大きく見開かれて、血走った瞳で侵入者を凝視した。
「──サイファ」
 声はしわがれ、まるで百歳の老人のようだった。
 それから突然、ひきつったような笑い声をあげた。長いあいだのけぞってげらげらと笑いつづけ、
ふいに静かになって視線を戻した。

77 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話5/6 投稿日: 2006/09/16() 19:58:37

「いったいなんだ、その格好は? まるで宮廷貴婦人そのまんまってとこじゃないか。前に着てた、
あのくだらない灰色の僧服はどうした? 道中で物乞いにやったのか、それとも、ドラキュラを倒した
ご褒美に総主教の後宮にでも入ることになったか?」
「残念ながら、そのどちらでもないわね」
 冷静にサイファは言った。
「とりあえず、座っていいかしら。疲れてるの。ここへ来るのにまる一週間、馬車の中で寝泊まり
しなくちゃいけなかったから」
 ラルフはいいかげんに片手を振った。どこへでも勝手にどうぞ、という仕草だった。
 だが部屋には主自身が座っている椅子以外、無事なものがほとんどない。ごみや木ぎれの散乱する
中、サイファはあたりを見回し、ぼろぼろの綴織の下に隠れて難を逃れた細長い背もたれの木椅子を目に
とめ、それを起こして腰を降ろした。
「散らかっててすまんな」
 小さくしゃっくりをしながら、どうでもよさそうにラルフは詫びた。頬が削れたようにそげ落ちて、
鋭い顔つきをよけいに恐ろしげに見せていた。
 まるで、折れる寸前まで研がれた剃刀の刃だった。尖った顎にまばらに無精髭が見え、服は何日
替えていないのか、酒と汗とで汚れ放題の悪臭を放っている。
「ただ、今はちょっとばかり取りこんでてな──わかるだろう──どうでもいいことさ。家の中の、
どうでもいいことだ。あんたの気を悪くさせたなら謝るが」
「別にいいわ。わたしも、べつに遊びに来たわけじゃないから」
 そっけなく言って、サイファはしばらく黙った。
 ラルフは彼女の存在を無視して、手にした革袋から直接葡萄酒をあおった。
「ずいぶん呑んでいるようね」
「ん? ……ああ」
 口に運びかけたのを止めて、ラルフは手にした革袋を、汚いものでも見るかのように見つめた。

78 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話5/6 投稿日: 2006/09/16() 19:59:24

「こんなもの、……少しも効くもんか」
 吐き捨てるように呟いて袋を振る。液体の揺れる音が重たげに響いた。
「呑めば呑むほど頭が冴えるばっかりだ。呑めば呑むほど、あいつの顔ばかり頭に浮かんで」
 唐突に言葉を切って、一気に中身を喉に流し込む。
 黒ずんだ滴が顎を伝って流れるのを無造作にぬぐった。さらに呑もうとして、もう袋が空なのに
気づいた。腹立たしげに床に叩きつけ、かたわらに積んだ別の袋に手を伸ばす。
「話は聞いたわ。アルカードのこと」
 サイファは言った。
 ラルフの手が一瞬止まり、また取りあげた新しい酒の封を乱暴に切る。
「もっと早く来られなかったこと、申しわけなく思ってる。総主教の裁定が下るのに、ずいぶん
時間がかかったの。許可が出てすぐコンスタンティノープルを発ったんだけど、山を越えるのに
天候が悪い日が続いて、余計に遅れてしまった」
 ラルフはどうでもいい、と言いたげに鼻を鳴らしただけだった。
「──行ってしまったのね、彼は。アルカードは」
「ああ。それも見事に、な」
 できるかぎり無関心を装ったつもりらしかったが、喉を絞められたような声と震える唇が言葉を
裏切っていた。ごまかすようにラルフはまた一口酒をあおった。
「俺は行くつもりだった。本当に、そのつもりだったんだ。あいつが行くと言うならどこへでも
いっしょに行くつもりだった、それが人でない者の世界でも──永遠の闇でも──最悪の地獄の
底でも、俺は、必ず……行くつもりだったのに」
「ええ。あなたならそうでしょうね、ラルフ」
 ほとんど聞こえないほどの声でサイファは呟いた。

79 名前: エピローグ/ラノレフ 第一話7/6 投稿日: 2006/09/16() 20:00:01

「あなたは嘘をつけない人、ついたところで、すぐにその嘘に耐えきれなくなってしまう人だわ。
アルカードもきっと、それを知っていた。むろん、わたしも」
「それが目を覚ましてみれば、あいつはもうどこにもいない」
 ラルフはサイファを無視して呟き、口の端から大半がこぼれるのも構わずにがぶがぶと酒を流しこんだ。
はだけたままの裸の胸に、酒が血のように筋を引いた。
「どこにもいない──この地上にいるのに、その場所も知っているのに、もう二度と声を聞くこと
も、顔を見ることもできない。死んで追いつけるのなら喜んでそうするのに、あっちに行っても、
あいつはいないときている」
 酒を持っていない方の手が何かを探るように伸ばされ、強く握りこぶしを作った。そこにない
ものを、むなしく引き寄せようとするかのような仕草だった。
「俺の心も、魂も、ぜんぶ持って行くことはわかっていたくせに、──なんで、命は持って行って
くれなかった。そうすれば少なくとも、あいつの命の一部に溶けて、ずっといっしょに眠れたのに」
 短く、しゃくり上げるように笑って、ラルフは酒臭い息を吐いた。
「まったく、見事に置いていかれたもんだ。この俺がな」
 サイファは黙ってゆっくり首を振った。
 ラルフが死を口にしたことを咎めているようにも、認めているようにもどちらにもとれる仕草だった。いずれにせよ、ラルフの述懐を、彼女が一片の疑いもなく信じていることは疑いようがなかった。一年
の間をおいても、共に戦ったものとしての共感はまだゆるんではいなかった。
「とにかく、わたしがここに来た用事を伝えるわね」
 無関心に酒を飲み続けるラルフに目を戻して、サイファは言った。
「単刀直入に言うわ。
 ──わたしと結婚しなさい、ラルフ・C・ベルモンド」