黄昏のカデンツァ エピローグ/ラルフ第二話

 

80 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話1/7 投稿日: 2006/09/24() 20:05:21

 不穏な沈黙が流れた。
 稲光のあと、雷鳴がとどろくまでの間の張りつめた静けさのようだった。ぴんと張った沈黙の糸
を切ることを恐れるかのように、ラルフが低い声で言った。
「──なんだと?」
「わたしはここに、ただ旧交を温めに来たわけではないのよ」
 きちんと両手を膝にそろえたまま、サイファはまっすぐにラルフを見つめていた。
「わたしは今日、東方正教会からの使者としてここに来たの。正式なね。
 教会はあなたの魔王ドラキュラ討伐の功績に対して、最大の栄誉と報償を与えることを決めたわ。
つまり、高貴の身分の新しい妻と、莫大な報奨金を。
 わたしの今の身分は、ウォランド辺境伯の三番目の息女で、いま生き残っている中では唯一の
遺産継承資格者ということになっているわ。ウォランド伯というのはもう五十年ほど前に絶えて
しまった家名だけど、そんなことは教会にとってささいなことだわ。要はわたしというただの女に、
魔王を討伐した英雄に与えるのにふさわしい箔をつけなければならなかっただけだもの。
 それから、報奨金という名を出すのも避けたいのよ、彼らは。それは、教会が結局魔王を自分の
手で倒すことができずに、ベルモンド家の──自分たちが悪魔と同じ扱いをしてきた魔物狩りの一族の
力を借りなければならなかったことを、公に認めることを意味するのだもの。
 だから、わたしという女に適当な身分と十分な財産を与え、それを持参金として、あなたのもとに
妻として送りつけることにした。
 今のわたしは大金持ちよ。荘園が二つといくつかの港湾ギルドの株が相当数わたし名義になってる
し、それからフィレンツェの銀行には、十万デュカートの金貨が唸ってる。
 結婚すれば、それはすべて夫であるあなたのものになるわ。若くて身分の高い、大金持ちの妻。
しかも、総主教が自ら選んで祝福した女と結婚できるなんて、なんてベルモンドの当主は光栄な幸せ者
だろう、とそういうわけね」

81 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話2/7 投稿日: 2006/09/24() 20:06:02

「──で?」
 ラルフの声は危険なまでに低かった。
「それで、その他には何を命令されてる? ここへ来て、俺の目の前に財宝と地位をぶらつかせて
たぶらかせと、その命令のほかには?」
「……一年に一度、必ず総主教庁に報告をしろ、と。もちろん秘密裏に」
 サイファはわずかにうつむいて、ラルフの視線を避けた。
「あなたと、あなたのベルモンド家が教会に対して何か不穏な動きをするようなら、すぐに報せろ、
とも命令されてる。アルカードについてもいろいろと言われてきたけど、彼がもうここにいない以上、
わたしは言わないし、言う必要もないでしょう。
 教会はまだあなたを信用しているわけではないわ、ラルフ。むしろ、自分たちのできなかったことを
あなたがなしとげたおかげで、今では、以前よりよけいにベルモンドの血を警戒するようになっている。
 でも、まだ魔物やドラキュラの眷属が地上を徘徊している以上、あなたと、あなたの所有する鞭の力
を手放したくはない。かといって、このまま英雄呼ばわりされるベルモンドの者を、野放しにして──
言い方が乱暴なのは勘弁してね──教会以上の尊敬を集められるようになるのは、絶対に困る」
「それで、出された妥協案が、あんたというわけだ」
「ええ。わたし」
 サイファは椅子にゆっくりともたれて指を組み合わせた。
「大金持ちで身分も高い、一緒に戦ったことで気心も知れている、美しい若い女」
「そう」
「で、教会には忠誠を誓わされている」
「その通りよ」
「そして、そいつと結婚させることで、俺とベルモンドに教会につながる首輪と鎖をつけ、鼻先を
つかんで、いいように引きずり回そうとしている」
「まあ、そういうことになるわね」

82 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話3/7 投稿日: 2006/09/24() 20:06:43

 ──部屋の中の空気が一点に凝縮するかのような、一瞬の間が開いた。
「ふざけるなアッ!
 すさまじい音がした。
 怒声とともにラルフは全身の力をこめて腕をなぎ払った。破片が飛び散り、こぼれた酒が壁と床に
叩きつけるような音をたててしぶいた。
 サイファはまばたきひとつしなかった。
「俺からあいつを引き離しておいて、今度は、初めから教会の回し者だとわかってる女と結婚しろ、
だと?」
 振り抜いた手をわななかせながら、ラルフはまだ肩で息をしていた。
 小卓が吹き飛び、乗っていた杯や瓶といっしょに、壁際でこなごなになっていた。乱れた前髪の
間から、憤怒に煮えたぎる目が狂おしくぎらついている。
「たわごともいいかげんにしろ、この教会の犬め。出て行け。二度と来るな。あんたの顔も声も、
二度と見たくないし聞きたくない。俺があんたの首をへし折らないうちに、今すぐ、とっとと
ここから出て行ってくれ」
「……そうね。わたしもそう思う。自分で言っていて吐き気がするわ」
 両手を膝に置いたまま、サイファはわずかに視線を下げて呟いた。
 だが、意を決したようにすぐにきっと頭を上げて、再びラルフを見据える。
「でも、よく考えなさい、ラルフ・C・ベルモンド。これが現実なのよ。
 教会は、あなたを信用していない。もし、この話を拒絶してわたしを送り返せば、総主教は即座
にあなたを背教者として糾弾し、ドラキュラと同じように狩りたてるつもりよ」
 ラルフはただ黙って顔をそむけた。
「アルカードを保護していたことも、いい方向には働いていない。わたしがコンスタンティノープルを離れるのが
遅れたのも、実はそのせいなの。できるかぎり彼の──アルカードのことについて弁護して、その働き
を訴えてみたけれど、彼の身体に流れる闇の血を恐れる人間の本能を押さえることはできなかったわ。

83 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話4/7 投稿日: 2006/09/24() 20:07:18

 もうこうなれば言ってしまうけれど、わたしは、ここへ来てアルカードを殺すか、少なくとも、捕らえ
てコンスタンティノープルへ引き渡すようにとも命じられてきたの」
 聞きたくないとばかりにまた酒に手を伸ばしかけていたラルフの動きが止まり、喉が、鋭く空気を
吸う音をたてた。
「もちろん、もうここに彼がいない以上、その命令は実行不可能なのだけれど」
 彼の口が開いて声を発する前に、サイファがすばやく言葉をついだ。
「彼がどこへ行ったのか、わたしは訊かない。探す気もないわ。教会にも、その通りに言うつもり。
だけど、あなたの問題は変わらず残ってる」
「俺の問題? 問題がどうしたっていうんだ」
 今にも爆発しそうな感情をむりやり押し込めて、震える声をようやくラルフは抑えた。
「出て行けと言ったのがわからないか。奴らが俺を背教者呼ばわりするなら、勝手にそうさせるが
いい。こんな家名も、あのむかつく鞭も、教会も魔物ももうたくさんだ。
 何がどうなったって構いやしない。どっちにしろ、あいつにはもう二度と会えないんだ。俺の──
アルカード──には」
「あなたは、そうでしょうね。ラルフ」
 きちんと座った姿勢を崩さずに、サイファは言った。
「でも、彼は? アルカードのほうはどうなるのかしら」
「アルカード?」
 恐ろしい勢いでラルフは振り返った。
「今さらあんたにその名を口にされたくないな、サイファ。教会のイヌに成り下がったあんたに、たとえ
昔は友人だったとはいえ、あいつのことを呼ばれるのは我慢できない」
「アルカードは死んでいない。まだ生きているのよ、ラルフ」
 ラルフの怒りは無視して、あくまでも平静にサイファは言葉をつづけた。

84 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話5/7 投稿日: 2006/09/24() 20:07:59

「少なくとも、あなた──とわたし──が生きている間は、目覚めない眠りかもしれない。永遠の
眠り、と彼は言ったと、あなたの家令は話していたけど、でもラルフ、未来にはどんなことが起こる
か、誰にも正確なところは言えないのよ」
 ラルフは何かを言おうとして口を開き、そのまま閉じた。
「もしかしたら何かが起こって、ずっと遠い未来に、ふたたび彼が目を覚ますことがあるかもしれ
ない」
 サイファは言った。
「その時、彼はどうなると思うの? もし、ベルモンド家がもうなかったら?  彼を知っている者も、
愛している者も、だれ一人地上に残っていなかったとしたら? 
 そうなれば今度こそ彼は、だれも知るもののない地上で、たったひとり、けっして自分を受け入
れてはくれない世界に立ち向かっていかなくてはならないのよ。それこそあなたが、それから
わたしも、いちばん避けたかった事態ではなかったの?」
 ラルフはかすかに呻いたが、言葉の形にはならなかった。乗りだしたままわなわなと震えていた上体
からゆっくりと力が抜け、椅子の深みに沈みこむように腰を落とす。
「あなたは彼を守ろうとした」
 サイファは静かに言った。
「そしてわたしも、彼を守りたいの。これは真実よ、ラルフ、信じてくれようとくれまいとかまわない
けれど。
 そして、今わたしたちにできることは、なんとかしてベルモンド家を、たとえ教会の監視下であろう
と存続させて、彼が、アルカードが目覚めたときに、帰ってこられる場所を用意してあげておくこと
しかないの」
「帰ってくる。ここに……」
「そう。ここに」
 サイファはこの部屋に入ってきてはじめて背もたれから離れて手を伸ばし、投げ出されたままのラルフの
手に、そっと片手を重ねた。

85 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話6/7 投稿日: 2006/09/24() 20:08:48

「これは戦いだわ、ラルフ」
 押し殺した声で、彼女は囁いた。
「それも、あの魔の城でわたしたちが戦ったのとは違う。敵の姿も見えなければ、武器を使うわけに
もいかない、世界と、人間を相手にする戦いなのよ。
 でも、わたしたちは勝たなければならない。そして、生き残らなければ。
 いつまでも教会が今のような強権をふるう時代が続くとは、わたしは思わないわ。必ず、もっと
自由な時代が来る。アルカードが普通の人間に混じって暮らせる時代だって、いつかは来るかもしれない。
 その時のために、わたしたちは、彼が安心して身を寄せられる場所を用意しておかなくては
ならない。彼がいつでも、ここに、この家に、帰ってこられるように」
 ラルフの手がひきつり、強く拳を作った。
 反射的に振りはらおうとする手を、サイファはしっかりと握って放さなかった。
「彼のことを想うなら、協力して。ラルフ・C・ベルモンド」
 ラルフの手を握りしめたまま、もう一度サイファは強く言葉を重ねた。
「わたしのことは信じなくてもいい。でも、あなたの、彼へ気持ちを信じなさい。そして考えて、
何をするのがいちばんいいか。あなたはきっとわかるはずだわ」
 ラルフはなにも答えなかった。
 サイファはしばらくじっとそのかたく握られた拳の上に手を置き、やがて、そっと手をはずして、
立ちあがった。
「帰るわ」
 淡々と彼女は告げた。
「しばらく、この近くの街の宿屋に滞在することになってるの。十日ほどしたらまた来ます、その
間に、どうするか決めておいて。とにかく、わたしが言うべきことはこれで全部。アルカードは決断し、
そして、わたしも決断したわ。今度は、あなたが心を決める番よ、ラルフ・C・ベルモンド」
 黙ったままのラルフに背を向けて、サイファは戸口に進んだ。
 扉を半分開けたところで彼女はふと足を止め、振り向かないまま、「ラルフ」と声をかけた。

86 名前: エピローグ/ラノレフ 第二話7/7 投稿日: 2006/09/24() 20:09:38

「アルカードが姿を消したのは、あなたを信じなかったからじゃない。あなたを信じたからこそ、彼は
行ってしまったのよ。──そのことは、わかっているのよね」
 それだけ言い残して、彼女は静かに部屋を出ていった。
 扉が閉まり、ふたたびラルフは暗がりに一人残された。
 膝の上にぐったりと頭を垂らし、肉体の重みに耐えきれないかのように、だらりと手足を投げ
だしている。茫然と宙に目を投げていたが、無意識のうちに手が上がって、この数日、習い性に
なっていた動作を──酒袋をつかみ、口まで持っていく動きを──した。
 だがそれは、唇まで届く前に止まった。ラルフはまばたき、顔の前まで持ってこられたしみだらけ
の酒袋にじっと見入り、ふいにはげしい嫌悪をあらわに横に放りだした。
 再び、疲れたように椅子によりかかり、眼を覆う。
 握りしめたままの拳に、何かが光っていた。細い、金の鎖。その先には小さな、繊細な細工の、
白金の指環が通されているはずだった。
『彼』が、行ってしまう前に残していった、たった一つのもの。
「──アドリアン……!」
 絞り出すような呻きが、ひびわれた唇を割ってもれた。