黄昏のカデンツァ エピローグ/ラルフ第三話

 

87 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話1/9 投稿日: 2006/10/12() 18:47:24

 ──それからちょうど一か月後、ベルモンドの若当主と、コンスタンティノープルから来た高位の貴婦人との
婚約が発表された。
 人々の前にあらわれた女性は美貌もさることながら、小作人たちにはわけへだてないやさしさを、
物珍しさでやってきた客には高い知性と当意即妙の機知とを発揮し、たちまちみなの心をとりこに
した。
 夫となるはずの若い当主も、無難にその役をこなしていた。誰も見ているもののないと確信できる
ときには、その顔は曇り、どうしようもない苦渋が噛みしめた唇ににじむことがあったが、それを
彼はとうとう最後まで自分以外のものに見せることはなかった。
 結婚式はそれからさらに一か月後、収穫祭を終えて、そろそろ冬の準備にかかろうかというころに
行われた。
 花嫁がもたらした多額の持参金と、新しい広い土地とのおかげで、ベルモンド家は一気にこのあたり
に類を見ない大地主に成長していた。婚礼のお客は若当主とその美しい妻をたたえ、気前のいい
ふるまい酒に酔いしれた。
 式では、総主教庁からわざわざ届けられた総司教からの祝福の言葉と、天なる主の加護を祈る
祈祷が数人の修道士によって捧げられた。花嫁と花婿は頭を低く垂れ、一度も顔をあげなかった。
花嫁はひとこと「誓います」とだけ口にしたが、花婿のほうは、ただ沈黙によってだけ同意を示した。
 格式張った儀式が終わり、陽気な騒ぎが周囲で渦を巻くなかで、花嫁と花婿だけは静かだった。
黙ったまま並んで座り、これから先に待ち受けていることに備えるかのように、しっかりと手を
握りあっているのが唯一結婚した男女らしいといえばいえる仕草だった。
 そのことについてからかう客も多かったが、明るい冗談とはなやかな笑顔で話をそらしてしまう
のは、いつも花嫁の役目だった。花婿はときおり、かすかに唇をゆるめるだけで、ほとんど言葉を
発しなかった。
 おかわいそうに、と人々は言いあった。まだあの魔物にとりつかれていた疲れがお残りなのだ。
それでもあんなにお美しい、しかも総司教様の祝福を受けられた奥さまがいらっしゃるなら、すぐ
に回復なさるだろうが。
 宴が果てて、花嫁と花婿は客たちの喝采と野次を背に、連れだって寝室に引っこんだ。
 初夜の見届け役を買って出た何人かの客があとに続こうとしたが、それはこの家の老家令によって
厳しく押しもどされた。

88 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話2/9 投稿日: 2006/10/12() 18:47:56

「世間のしきたりがどうであれ」
 白髪の老家令は侵しがたい威厳をもって言い切った。
「当家には、当家のしきたりがございます。初夜の見届け役は、家の者が責任を持っていたします。他家の方には、どうぞご遠慮いただきとうございます」
 酔っぱらった客たちはぶつぶつ言ったが、それでも、老家令の堂々とした態度と、無理にでも
押し通れば力ずくも辞さないという気概に負けて、すごすごと退散した。そのころには広間に
新しい酒と料理が運ばれ、主賓たちがいなくなったということもあって、さらなるらんちき騒ぎが
始まっていたこともあった。
 ……老家令は小さく息をつき、主人とその新妻が消えていった奥の間を悲しみと気づかいのない
まぜになった目で見やった。もちろん、彼らのあいだに他の誰かを見に行かせるつもりなどなかった。
 ある意味では、彼もまた、主人たちが立ち向かおうとしている戦いの戦友でもあるのだ。しかも、
若い主人の心を深く引き裂くことになったあの別離を、用意したのは自分なのだ。その事実は、消し
ようのない負い目として彼の老いた背にのしかかっていた。主人は二度と彼を責めるような態度を
とらなかったが、自分を見つめる彼の目に、もはや消しようのない痛みが浮かぶことに、気づかない
ような彼ではなかった。
 言葉はなかった。何を口にしたところで、欠けてしまった主人の心は永遠に欠けたままだろうし、
若い妻がそのかわりになるはずもないことは承知していた。ましてやその妻が教会から派遣されて
きた監視者でもあるということを聞かされていてはなおさらだった。
 彼にできるのは、ただ祈ることだけだった。誰に、何に対して祈るのかは、すでにわからなく
なっていた。あの輝かしいまでに高貴で純粋だった青年を、体内についだ闇の血のために迫害して
やまない人間の神に祈る気にはとてもなれない。
 それでも祈らずにはいられなかった。ある意味では息子のように、息子以上に育ててきた若い当主
のために、黙って去っていったあの美しい公子のために、教会から寄こされてきたにもかかわらず、
そのことをありのままに話してくれた花嫁のために。

89 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話3/9 投稿日: 2006/10/12() 18:48:29

 どうか、と呟いた言葉の先を見つめることはできなかった。エルンストは向きを変え、給仕たちが指示
を待って呼んでいる方角へ歩いていった。胸は鉛のように重かったが、彼もまた、それを表に出す
わけにはいかないのだ。主人たちと同じ、それは戦いだった。


「で、どうするの?」
 二人きりになった部屋でベッドに腰かけ、サイファは言った。結い上げた頭から乱暴にピンを抜きとっ
ては放り投げ、腹立たしそうに頭を振る。長い金髪が滝のように夜着の上に落ちた。
「どうって?」
 ラルフは黙ったまま小卓のそばに立ち、新婚の部屋には必ず用意される強い蜂蜜酒の杯を眉をひそめ
ながら口に運んでいる。
「みなが期待しているようなことをするかどうかよ」
 いらいらしたようにサイファは言った。
「子供のことなら、わたし、いろいろごまかし方も知ってるわ。なんだったら、いかにも妊娠した
ように見せる方法もね。しばらくそれでごまかしておいて、いざとなったら教会のつてで、どこか
から身寄りのない赤ん坊をひとり引き取ってきてもいい。たぶんそのほうが教会は安心するし、油断
もするわ。自分たちの選んだ血筋の者を、ベルモンド家の血に送り込めるんですからね」
「そういうことなら、奴らの計略に乗るのは気にくわないな」
 ラルフは言った。からになった杯を置いて、ゆっくりとサイファの隣に腰を降ろす。
「奴らとしては、ベルモンド家に血筋上でも首輪をつけて、自分たちの飼い犬にするのが最善の展開と
いうことなんだろう。そんなことになってたまるか。どうせなら俺は、俺の血をきちんと継いだ子
がほしいし、それでなければ結婚する意味なんぞない。
 これは戦いだ。そう言ったのはあんただぞ、サイファ。少しでも敵の意図に添うようなことなんぞして
たまるか。俺たちは戦い、そして勝つ。そのためには譲れる場所は譲っても、譲れない場所だけは
死守しなければならない、違うか」

90 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話4/9 投稿日: 2006/10/12() 18:49:03

「……そう。そうね」
 サイファは目を伏せた。
「ごめんなさい、さっきのは忘れて。あなたの言うとおりだわ、ラルフ。わたしたちは戦わなければ
ならないのだもの。ほんの爪先だって、つけいる隙は与えられない。勝敗が見えるとき、きっと
わたしたちはもうそこにはいないだろうけれど、それでも」
 さっと立ちあがって、服を脱ぎはじめる。
「悪いけど、後ろを向いててくれない? 小さいころから、人前で裸になることにはあまり慣れて
ないの。それを言うなら、こういう類のこともだけど。わたしの一族はなかなか妊娠しにくい体質
なの、知ってた? たぶん、魔法を扱うことが、何か身体に影響しているんだろうと思うけれど」
「別にいいさ。それならするまで続ければいいだけだ。俺に異存はない」
 無造作に言って向きを変え、ラルフは窓際に歩み寄った。後ろでサイファが服を脱ぐ衣擦れの音を聞き
ながら、服の中から細い金の鎖を引っぱり出す。
 鎖の先で、繊細な透かし彫りを施した小さな指環がほのかに光った。
 ラルフはしばらくそれを見つめ、両手に包んでそっと唇をつけた。
 鎖をはずして、小箪笥の引き出しに大切にしまいこむ。
 引き出しを閉める前に、指先でそっと、月のような光を放つその表面を愛撫する。
 まるで、恋人の髪を愛撫するかのように、やさしく、想いをこめて。


 季節はめぐり、秋が過ぎ、冬が来て、春が訪れた。
 表面上、ベルモンドの当主の結婚生活はうまくいっているように思われた。新夫人となった奥方は
てきぱきと家政を指示し、領地や財産が増えたことによって複雑さを増した夫の仕事にも、的確な
助言者としてふるまった。小作人たちにもやさしく、貧しい者や病気の者には欠かさず見舞いの品
や滋養のある食べ物、薬草をたずさえて訪れ、その美しさもあいまって、まるで聖母様のようだ
とうやまわれた。
 その一方で、村人たちの記憶から徐々に薄れていくものもあった。昨年の春から半年ほどベルモンド
家に滞在していた、美貌の貴公子の姿だった。

91 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話5/9 投稿日: 2006/10/12() 18:50:06

 一時はあれほど人の噂の種となっていたさまざまなことが、風に吹かれる塵のように、少しずつ
人々の記憶から消えていった。
 屋敷で、直接彼と接していたはずの使用人たちでさえ、すでのその年の冬には、そのような客人が
滞在していたのかさえあいまいになっていた。しばらく当主が姿を消し、その後、ひどく憔悴した
姿で戻ってきたことも、彼らの頭の中ではとりついた魔物のしわざなどではなく、単に、当主が
重い熱病にかかってあやうく命をとりとめた、というごく簡単で納得のゆく記憶に変更された。
 これはまた安堵できることでもあった。すでに魔王はなく、闇の勢力ももはや人間には手出しでき
ない。魔物はもう存在せず、自分たちに手出ししてくることもない。村人たちはただそれを喜び、
魔王殺しの英雄ベルモンド家に敬意を払った。
 そのベルモンドの奥方が毎夜少しずつ送り出す夢の魔術が、あの貴公子の記憶を少しずつ消し去り
つつあるのだということに、ついぞ気づくものはなかった。アルカード、というその名さえほとんど
の者にとっては、ベルモンドの年代記において、魔王討伐の旅に同行した者のひとりと記載されるだけ
の意味しか持たなくなっていった。
 彼らは闇を忘れつつあった。
 ──ただ、その闇を守るために、戦いつづける者たちを除いては。 


 ある五月の午後のことだった。
 空は晴れていた。やわらかな木漏れ日のさす中を、ひとりの騎乗者が、ゆっくりと馬を進めていた。
 栗毛の去勢馬にまたがり、後ろにはもう一頭、黒毛の牝馬を牽いている。腰には使い込んだ革鞭が
まるめてつけられ、鞍袋からは膨らんだ革の水筒が突きだしていた。
 男らしい、鋭い顔立ちの左半面を、白い傷あとが縦に走っている。広い肩を、木々の葉の落とす影
がさまざまな色に翳らせ、また輝かせた。
 あたりは緑に充ちていた。一時は廃墟となっていたと思われる、崩れた家や朽ちた井戸のあとが
そこここに残っていたが、それも今はすっかり萌えだした草に埋もれて、眠るようなおだやかな表情
を見せていた。

92 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話6/9 投稿日: 2006/10/12() 18:50:55

 そこここに野生の薔薇のひかえめな白い花が揺れ、緑の情景にやさしい色を添えていた。騎乗者は
少し馬を止めてあたりを見回し、周囲に変化がないことを確認してから、指先を噛みやぶり、ひとし
ずくの血を崩れかけた石畳の上に振り落とした。
 血は石の上ではじけ、火花を散らして燃えあがった。とたん、数歩離れた空間が陽炎のようにゆら
めき、ふいにその先に、きちんと整地された小道が現れた。
 それまでそこには、周囲と変わらぬ草に埋もれた村のあとが続いていたはずだった。騎馬の男は
指先の血をなめると、ふたたび手綱を取り、馬を進めて現れた小道に進んだ。
 そこもまた、濃い緑の気配に充ちていた。だがここの緑は外のものよりはるかに濃く、いきいきと
して、あざやかな生命の輝きを誇っている。小道の先は開けた場所になっていて、奥には古い礼拝堂
が、青い空に尖塔をのばしていた。
 礼拝堂もまた、すっかり緑におおわれていた。つやつやとした蔦の葉が重なりあってひび割れた壁
を守り、からみついた野薔薇の蔓が、ここでも清楚な白い花弁を星のようにきらめかせている。ささ
やかな前庭にはクローバーの緑の絨毯が広がり、咲きそめたばかりの白い花が、風にゆったりと小さ
な頭をうなずかせていた。
 ラルフは馬を止め、鞍を降りた。
 二頭の馬の首を当分になでてやり、そばの木にゆるく手綱を結びつける。魔法によって閉ざされた
この場所から迷い出ることはないはずだったが、旅の多い人間のくせのようなものだ。馬たちは
さして不服そうでもなく、親しげに鼻面を寄せあうと、肩をならべて、足もとの草を食みはじめた。
 鞍袋から葡萄酒の入った水筒と杯を二つだし、ラルフは階段を上がった。
 礼拝堂の扉は、以前に来たときとかわらなかった。この場所に充ちる緑の精気も、この扉を閉ざし
たものの意志の力にはかなわなかったらしい。分厚い扉はかたく閉ざされたままで、蔦の葉も、薔薇
も、そこだけが切り取ったようになにもなかった。
 ラルフは苔の浮いた階段にかがみこみ、杯に葡萄酒を注いで、扉の前に置いた。
 手近に咲いていたクローバーの花を一輪摘み、杯に浮かべる。濃い赤の酒の上で、白い星がゆった
りと回った。

93 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話7/9 投稿日: 2006/10/12() 18:51:29

「アドリアン」
 静かな声でラルフは言った。
「元気か、アドリアン。──また来たぞ」


「サイファに子供ができた」
 閉ざされたままの扉に背中をもたせて、ひとりごとのようにラルフは言った。
 この地所が、ベルモンド家に買い取られて数年になる。最初は、荘園からも遠く、その上村の廃墟
しかないこんな場所をなぜ欲しがるのか、それも別に開墾するわけでもなくと不思議がられたが、
ベルモンドの当主夫妻はそんなことは意に介さなかった。
 買い取ったあと、別に手入れをほどこすわけでもなく放置したままになっているのを見ると、
いよいよ噂と憶測がかしましくなったが、やはり夫妻は放っておき、せっかく手に入れた土地が
蔦とつる薔薇に占領されるにまかせた。ただ一つ、奥方があたり一帯とその中心の礼拝堂のまわり
に封印をほどこし、限られた人間をのぞいては入ることも、発見することすらできなくしたのを
のぞいては。
 流れた年月は、いくつかの爪痕をラルフの上にも残していた。以前より厳しくなった顔立ちと、
そして、胸に刻まれた新しい傷あとがその主なものだった。昨年、ドラキュラ城にまた不穏な動きが
あるという情報を得て、遠征したときの名残だった。
 一時は生命も危ぶまれた深い傷だったが、強靱な肉体と、胸にかかえた強い意志が、死の淵から
彼を引き戻した。この礼拝堂で眠りつづけるものが生きている以上、まだ死ぬわけにはいかないと
いう、苛烈な意志が彼を支えたのだった。
「結局、四年かかったが。──家じゅうそれこそひっくりかえるような騒ぎで、俺はうろうろする
ばかりでいるだけ邪魔だから、どこか遠乗りにでも行ってこいと奥方じきじきに屋敷から蹴り
出された。ひどい話だと思わんか。これでも一応父親なんだが」
 言葉を切って、ひとり笑う。
「来年の春には生まれるそうだ。みな喜ぶあまりかけずり回ってどうしていいかわからない始末だ。
落ちついているのはサイファだけだ。大変なのはこれかららしいし」
 しばらく間が空いた。

94 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話8/9 投稿日: 2006/10/12() 18:52:06

「……あれは、偉い女だな。サイファは」
 ややあってぽつりと言った。
「俺には、……過ぎた女だ」
 そう言うと、静かに向きを変え、扉に肩をあずけるような姿勢でよりかかって、静かに目を閉じた。
「──なあ。そろそろ起きてくれないか」
 目を閉じたまま、ささやくように唇を動かす。
「ちょっとだけでいいんだ。ほんの少し顔をのぞかせてくれるだけでいい。ひとこと返事をくれる
だけでもいい。おまえの顔が見たいんだ、アドリアン。おまえの声が聞きたい。手に触れたい。抱き
しめたい。おまえに逢いたい、アドリアン。逢いたい」
 ひとりでに手が胸をさぐり、小さな銀色の指環を取り出す。
「おまえに、逢いたい──。」
 そのまま、眠ったようにラルフは動かなくなった。
 昨年のドラキュラ城遠征の時、そこで出会った悪魔錬成士は、なぜベルモンドの者がその指環を持って
いるのかと不思議がった。ラルフはその問いには答えなかった。彼が生きのびられたのはある意味で
その男のおかげでもあったが、この指環と、その持ち主との間のことは誰に話すようなものでも
なかった。
 手の中で、白金の指環は繊細な手ざわりを伝えてくる。指の間をすべる、あの輝かしい月光の髪を
思い出させるなめらかさと冷たさ。
 陽が、徐々に移ろっていった。動かないラルフの影がしだいに伸び、木々の影が傾いて、ささやき
あいながら木漏れ日を濃くしていく。
 そそがれた酒に浮いたクローバーの花が、ほんのりと葡萄酒の色を移して暁のようなピンクに
染まっていった。一匹の小さな蜂が上を飛びまわり、あきらめたようにまた飛び去っていった。
二頭の馬は仲むつまじく肩を寄せあい、うつらうつらと眠っていた。
 やがて、西の空にかすかな茜色があらわれはじめた。涼しい夕風が立ち、まどろみからさめた
黒い牝馬が、鼻を鳴らして甘えるように栗毛の相棒に身をすり寄せた。すぐに目を覚ました栗毛が、
応じるように相手の耳に頭をこすりつける。

95 名前: エピローグ/ラノレフ 第三話9/9 投稿日: 2006/10/12() 18:52:40

 ラルフはふっと目を開いた。
「──頑固な奴だ」
 あいかわらず閉まったままの扉を見あげて、微笑する。
「これだけ通ってきているんだから、少しくらいいい顔をしてくれてもいいだろうに、まったく──
つれないな」
 大儀そうに身体を動かし、立ちあがる。
 一年前の傷は、まだ完全に治っているわけではなかった。なにしろ一時は、生命にかかわるほど
のものだったのだ。今も冷たい風にあたったり、少しでも限界を超えた動きをすると、たちまち
するどい痛みが走る。
「だが、覚悟しろよ。俺はしつこいぞ。おまえの還る場所はここだ、俺がおまえの還る場所になる、
そう言ったろう。だから」
 沈黙を続ける扉の前に立ち、ふと微笑む。
「だから──しっかり生きて、それから来い。
 百年でも二百年でも、五百年が一千年でも、俺は──ちゃんと、待っているから」
 扉に手をつき、封印が施されているはずの場所にそっと唇をあてる。かたい木の奥に、確かに、
彼と、彼の力の存在が感じられた。
 名残惜しげに指を走らせ、置いた杯を取りあげて、中身を飲み干す。すっかり薄紅色に染まった
クローバーを中に戻し、また、扉の前に置いた。
「また来る。それまで、いい子にしていろ。寂しがって、泣いたりするんじゃないぞ」
 背を向け、階段を下りる。
 もう振り返ろうとはしなかった。馬の手綱をはずし、鞍にまたがる。
 黒毛の牝は、かつての主人がここにいることをうすうす感じとっているのか、名残惜しげに目を
またたかせて礼拝堂のほうを振り返ったが、ラルフが首をなでてやり、馬を進めはじめると、おとなしく
あとに従った。
 蹄の音が遠ざかる。
 やがてその音もすっかり絶える。緑のざわめきと、降りてきた黄昏に包まれて、古い礼拝堂は
眠れる者を裡に抱き、再び、静かな刻を迎えていた。