黄昏のカデンツァ エピローグ/アルカード第一話
96 名前: エピローグ/アノレカード 第一話1/12 投稿日:
2006/11/08(水) 19:57:35
「アルカード、……アルカード?」
気がかりそうな呼び声に、ようやくアルカードは現実に引き戻された。ふり返ると、金髪の、緑の目
によく似合う装いの愛らしい少女が心配そうにこちらを見あげていた。
「どうたしの、ぼんやりして? 気分でも悪い? やっぱり昼間の旅は、あなたにはあまりよくない
のかしら」
「いや、そんなことはない」
なかば上の空で答えて、アルカードは外套を引き寄せた。
曇った寒い日で、陽光はさしてきつくはないし、半分は人間であるアルカードには陽光自体さしたる
問題を起こさない。ことに、闇の血が鎮まっている今はそうだ。彼は凍るような青い目を少女に
向けて、もう一度、何も問題はない、といってきかせた。
「ただ……少し、昔のことを思い出していただけだ。ぼうっとしていたのなら、もうしわけない、
マリア」
「そう、それならいいの」
マリア・ラーネッドは小さくため息をついた。
「でも、本当に調子が悪いのなら言ってね? 私たちが、特に、リヒターがこうして無事に家に戻れる
ことになったのは、なんと言ってもあなたのおかげなんだから」
アルカードは黙って頷いた。乗っている馬は漆黒の牝馬で、彼がその馬に乗ることに難色を示した理由
を連れの二人は知りたがったが、どうしても言う気にはなれなかった。
「俺がどうかしたか?」
「あら、リヒター、ちょうどよかったわ」
自分が呼ばれたのを聞きつけて、一人の青年が馬に拍車をいれて追いついてきた。
栗毛の去勢馬にまたがり、腰に鞭を提げ、広い肩に濃い色の髪をなびかせたその姿に、一瞬、
アルカードの心臓がはげしく拍った。
だがすぐにそれは、復活したドラキュラ城の中で出会い、結果的に生命を救うことになった、ベルモンド
家の現在の当主であることを思い出した。めまいがして、アルカードは思わず前鞍に手をつき、崩れかか
る身体を支えた。
97 名前: エピローグ/アノレカード 第一話2/12 投稿日:
2006/11/08(水) 19:58:18
「アルカードが疲れてるみたいだから、そろそろ休んだほうがいいかもしれないわ。明日にはベルモンドの
領地につくんだし、今日はここで泊まらない?」
馬を寄せていって、マリアがリヒターに野営を提案している。
アルカードはまた一人になり、二人がしゃべっているのを聞き流しながら、もう一度頭をあげてあたり
を見回した。
四百年、ともう一度心に呟く。
信じられない時間だった。あの薬を口にし、棺に身を横たえたとき、もう二度とこの目で見ること
はあるまいと思った生の世界を、自分は今また目の当たりにしている──。
ドラキュラ城は闇神官シャフトの策謀によってよみがえり、その波動が、ドラキュラの闇の血を継ぐアルカードを
四百年の魔薬による睡りから、ふたたび呼びさました。
シャフトは、かつてドラキュラを消滅に追いこんだベルモンド家の血筋を逆手に取り、その強靱な血脈を魔王
復活のための生贄にせんと、現ベルモンド家の当主、リヒター・ベルモンドをその呪力で操って魔城の仮の城主
とせしめた。彼は、五年前にも復活を果たしかけた魔王を、義妹のマリア・ラーネッドとともに殲滅した
当人でもあった。
復活した城に潜入したアルカードは、マリアからリヒターの失踪とその異常な状況を耳にし、シャフトの洗脳から
リヒターを解放することに成功した。
リヒターとマリアを城外に逃し、ふたたび迷宮のような魔の城の奥に進んだアルカードは、四百年前と同じく、
復活した父ドラキュラ公の姿をそこに目にする。息子のいさめる言葉すら耳に入れようとしない父は、
かえって彼から人の血を取り去り、自らの真の眷属にせんと、混沌の怪物に姿を変えて襲いかかって
きた……。
昏い思いを打ち切り、アルカードは手綱からはなした手をじっと見つめた。
二度、と彼は思った。
結局自分は二度までも、父殺しの血に手を染めることになった。
それも、自身にとっては、前回からほんの一年ほどの間しかたっていないというのに。
98 名前: エピローグ/アノレカード 第一話3/12 投稿日:
2006/11/08(水) 19:59:07
リヒターとマリアがベルモンド家へ立ち寄ってくれ、と熱望したのを受け入れたのは、それを断るだけの力
が残っていなかっただけなのかもしれない。今では彼は、二人に従って四百年前の道を辿っている
ことを後悔しはじめていた。
見わたす景色は、あのころとほとんど変わりがない。彼に──ラルフに連れられ、同じような黒い馬
に乗り、ベルモンド家への道をたどったあのころと。沈みかけた太陽はうすい曇り空にくすんだばら色
の光をにじませ、木々はかわらず風にざわめいて囁くような音をたてている。
──それでも、あのころからは、すでに長い長い時間が流れてしまったのだ。
あのころ知っていた人間は、今はもう誰もいない。
ベルモンドの人間であるリヒターや、マリアでさえ、アルカードのことは「四百年前にラルフ・C・ベルモンドとともに
ドラキュラを倒した人物」としか知らなかった。おそらく、ベルモンドの年代記には、その程度のことしか
触れられていないのだろう。
グラント、サイファ、ベルモンド家の人々、そして──彼。
ラルフ。
ラルフもまた、遠い昔にこの世を去ってしまっている。
当然のこととして受け入れるべきその事実を、理性は受け入れるべきだと主張するのに、感情は
どうしても受け入れようとしなかった。
おまえに彼を求める資格などありはしないくせに、とどこかで叱責の声がする。
自分は彼を裏切ったのだ。すべてを捨てると誓ってくれたあの愛に背を向け、あざむき、眠って
いる彼を置きざりにして、逃げた。
彼を失ったのは自ら選んだこと、彼が、自分を憎み恨んだだろうことも、すべて自分自身が引き
おこしたことなのだ。今さら後悔したところでどうなろう。
いずれにせよ、すでに四百年という時間が、あの時と今との間には横たわっている。何をしよう
とも取りかえしのつかない、深く広い、時間と死という名の深淵が。
「アルカード」
リヒターが馬を寄せてきた。
99 名前: エピローグ/アノレカード 第一話4/12 投稿日:
2006/11/08(水) 19:59:48
「マリアと話したんだが、あともう少し先に進むと、そろそろうちの領地の最初の集落につく。宿屋が
あるかどうかまではわからないんだが、少なくとも、泊めてくれる家は見つかるだろ。そこまで
なんとか行けるか? 無理をさせてすまないが」
「別に、無理などしていない」
目を上げてそう答える
「だが、気を使ってくれたのはありがたい。礼を言う、リヒター」
リヒターはいや、その、と口ごもり、具合が悪そうに視線を避けて口ごもった。
「……その、まあ、礼を言われるほどのことじゃないんだが。なんせ、まあ、あんたには迷惑かけた
し、すっかり助けられちまったしな」
その目の縁がうっすらと赤くなっているのを、アルカードはめずらしいものを見るような気持ちで
見ていた。
「リヒターのことは気にしなくていいのよ、アルカード」
追いついてきたマリアが、いたずらっぽく口をはさんだ。
「彼ったら伝説の存在のあなたに助けられて、その上、はじめて見たあなたがあんまり綺麗だった
もので、どういう顔をしていいかいまだにわかってないだけなの」
「おい、マリア!」
あわてたようにリヒターがさえぎった。
「あら、なによう。ドラキュラ城の外でアルカードを待ってるあいだじゅう、俺も行くんだ、あいつを、
アルカードを助けに行くんだって、さんざん駄々こねて始末に負えなかったのはいったい誰だった
かしら?」
唇をとがらせ、マリアは指を振ってみせた。
「そりゃあ、ベルモンドの男として人に助けられて、そのまま待ってろっていうのは不本意だったかも
しれないわよ。でも、いちいちあんな細っこい奴がとか、あんな綺麗な奴がとか、事あるごとに
言ってたのは誰だったかしらね? アルカードの強さは、操られてたとはいえ実際に戦ったあなたが、
いちばんよくわかってたと思うんだけど?」
100 名前: エピローグ/アノレカード 第一話5/12 投稿日: 2006/11/08(水) 20:00:36
リヒターはぐうの音も出ないようだった。目のふちの赤みはますます広がって、今では頬から耳から
血を噴かんばかりになっている。
アルカードは少々申し訳なくなった。この、すぐに赤くなったり、言葉につまったりする癖のあるのは
別にリヒターの責任ではない。むしろその実直さと、生真面目さには好感が持てた。おそらくシャフトの呪い
に取りこまれたのも、その生真面目さゆえの使命感の強さが度をこしすぎたのだろう。
「そういえば──」
リヒターを助けるつもりで、ふとアルカードは口を開いた。
「ベルモンド家の領地がもし私の覚えているとおりなら、ここからもう少し離れた場所に、小さな泉の
湧き出ている場所があったと思うのだが。……森の中に、古い羊番の小屋があって、クローバーの花
がたくさん咲いていた」
言葉につれて、想い出が溢れるようによみがえってきた。自分の中では、まるで昨日のことの
ように思える日々。白い花の咲きほこる緑の野と、鳥の声、せせらぎの音、闇の中でちらちらと
燃える火、静かな話し声、ラルフの笑み、その──肌の熱さ。
「できれば休む前に、一度そこへ立ち寄ってみたい。ここからもし遠いのならば、別に無理にとは
いわないが」
「泉のわいてる所?」
マリアがいって、リヒターと顔を見合わせた。
二言三言話し合ってから、マリアがふたたびこちらに視線を向け、
「そこかどうかはわからないけど、泉のわいてた所ならあるわよ。昔の地図で見たことがあるわ。
確か、以前は羊を飼ってて、羊番の小屋があったってことも聞いてる。違ったら悪いけど、どうせ
だから行ってみる?」
「ああ、それならたぶん俺も知ってると思う。そんなに遠くないしな」
どこかほっとしたようにリヒターがつけ加えた。
「こっちだ。まだ日没には時間があるから、十分行けると思う」
101 名前: エピローグ/アノレカード 第一話6/12 投稿日:
2006/11/08(水) 20:01:25
数刻後、アルカードはただ茫然と立ちつくして目前の光景を見ていた。
そこは、完全に掘り返され、開墾された広い畑地だった。
掘り起こされた黒い土がどこまでも続き、石と何本かの鍬や鍬が放り出されたままになっている。
さらさらと音をたてていた木立はすべて伐りはらわれ、泉も野原もあとかたもなく、かわりに、掘り
出された大きなごろた石が、畑の横に投げ出されていた。空に響く鳥の声だけは変わっていなかった
が、それさえ、今のアルカードには自分をあざける笑い声のように聞こえた。
「こりゃあ……」
ついてきたリヒターも言葉がないようだった。
「すまん、アルカード、どうやら俺たちが間違えてたみたいだ。ここじゃないよな? あんたの言ってる
ところは」
「──いや」
そう言うのがやっとだった。ここだ。確かにここなのだ、と、人ではないほうの血が持つ鋭い感覚
が告げていた。
ここがまちがいなく、四百年前、ラルフとひとときの幸福な日々を過ごした場所に間違いないのだ。
どんなに様子が変わっていても、ここに漂うかすかな水の気の残滓と、肌に感じる風の匂いは同じ
だった。
だが、この様子は……
「ありゃあ、御当主様!」
遠くから、あわてたような叫び声がした。
遠くから、あぶなっかしい足取りで畝を飛びこえ飛びこえ、一人の農夫がこちらへ走ってきた。
大きく身体をかしがせて急停止すると、無精髭だらけの顔から目玉がこぼれ落ちんばかりに大きな
目をむいて、馬上のリヒターを上から下まで穴があくほど見つめる。
「間違いねえ、確かに御当主様だ! 帰ってきなすったんですかい、御当主様、お屋敷のかたがた
も、あっしらも、そりゃあもう心配して──」
102 名前: エピローグ/アノレカード 第一話7/12 投稿日:
2006/11/08(水) 20:02:02
「おまえ──ええ、と、そうだ、テオドールだっけ」
弾丸のように喋りつづける農夫に、リヒターはいささか辟易したふうだった。
「へえ、さいで」
藁屑だらけの帽子を胸もとで握りつぶしながら、テオドールは誇らしげに胸をはった。
「こいつあいい幸先だ、一年ぶりに、御当主様がお帰りになったのをあっしが一番に目にしたと
なりゃあ、今後とも、息子や娘にうんと自慢の種ができまさあ。で、何ですかい、御当主様、また
ちょいと魔物退治に出かけてなすったんですかい?
にしても、誰にも言わずに武者修行なんてのはちと頂けませんぜ、そりゃあ、男ってえのはたま
にゃあ女子供を放りだして、どっか遠くで、うんと羽根を伸ばしてみたいもんだってのは、あっし
だってお察ししますがね……」
「あ、あのね、テオドール」
リヒターがまた困惑のあまりまっ赤になって口がきけなくなっているのを見かねて、マリアが割って入った。
「ちょっと訊きたいんだけど、この土地、前は泉がわいてる空き地じゃなかった? 古い羊番の小屋
があって、前にクローバーが咲いてる」
「はあ、こりゃ、マリア嬢さま」
また目を丸くして、テオドールはいっそう帽子をもみくしゃにした。
「そいじゃ、ほんとに御当主様を見つけて連れてきなすったですかい! こりゃあおでれえたね、
さすがの御当主様も、マリア嬢さまに耳ひっつかまれて引っぱり戻されちゃたまんねえってこってす
かい。まったく女ってえのは恐ろしいもんだ、くわばらくわばら──おっと、ごめんなさいましよ
嬢さま」
「そ、そんなことはどうでもいいの」
マリアも少し赤くなった。
「私もよく知らないんだけど、このあたりって、ずっとベルモンド家の地所だったわよね? その中
でも、昔からここだけはあまり手のつけられてない場所だと思ったんだけど、いつ開墾したのかし
ら、ここ」
103 名前: エピローグ/アノレカード 第一話8/12 投稿日:
2006/11/08(水) 20:02:43
「はあ、そりゃ、御当主と嬢さまのご存じねえのは無理もありましねえ」
なぜそんなことが気になるのかといった顔で、農夫は目をぱちくりさせた。
「ありゃあ確か御当主様のお父っつぁまの代のこったと思うんですがね、ここに、そりゃあどえれえ
雷が落ちやしてね。
それまでは確かにここに泉もありゃあ、ぼろっちい番小屋もありやしたが、そいつでみんな焼け
ちまって」
離れたところで黙って聞いていたアルカードの肩がぴくりと震える。
「まわりの森も火事になっちまうし、泉もそれっきり涸れちまったもんで、こいつあしょうがねえっ
てんで、お屋敷の方にお許し頂いて、あっしがこうして畑にしたってわけでさ。そら、そこに切り株
がなんぼか残ってるでがしょうが」
と、ぐいと顎をさした先には、黒こげになった大きな木の株や炭になった太い樹の幹が、斧を突き
立てたまま無造作に積みあげられていた。
「なんせ数が多いもんで、ちょっとずつ割っちゃあ焚きつけだのなんだの使っちゃおりますが、なか
なか太え、年の経った木が多いもんで、割るにもいささか苦労が多うがすよ。
で、御領主様は、なんだってお屋敷へ戻る前にこんな所へお寄りになっただかね?」
「あ、それは……おい、アルカード!」
その時には、アルカードは話を最後まで聞かないまま、馬首をめぐらしてもと来た道を戻りはじめていた。
「アルカード、ちょっと待って!」
マリアが急いであとを追っていく。「へえっ!」とテオドールが目を丸くした。
「ぺっぴんのお人だね、ありゃあ! お姫様だか旦那様だか、よくわからねえけんど、どえらい美人
だよ、まったく。いったいどこのお人ですね? 服からしたらまあ、旦那様でがしょうが、それに
したって、あんな綺麗なのは女でもなかなかねえや。うちのかかあに見せたら、仰天して目の玉
ひっくらかえすでがしょうよ。いったい、どちらのお方ですかね? もしかして、マリア嬢さまのいい
お人とかですかい?」
104 名前: エピローグ/アノレカード 第一話9/12 投稿日:
2006/11/08(水) 20:03:20
「そうじゃない」
さすがに切れ目のないお喋りにつき合うのにいらいらしてきたのと、アルカードを追うほうに気も
そぞろになっていたリヒターはいささか乱暴に話を打ち切った。
「あれは俺を助けてくれた友人で、しばらくベルモンド家に滞在してもらう。すまないが、誰か屋敷に
使いを出して、明日の午後には屋敷に客を連れて帰るから、用意していてくれと伝えさせてくれ。
今夜はもうひと晩、休んでから帰るから」
テオドールがどうしても自分の家に泊まれ、と言い張るのをなんとか断り、一行は、ふたたび街道脇の
木陰の草地に寝場所を作った。
皆、言葉少なだった。もとから無口なアルカードは言うにおよばず、リヒターも、普段はよくしゃべるマリア
も、なんとなく胸のふさがるような思いにとらわれがちだった。
「その……ごめんね、アルカード」
食事を済ませて皆で火を囲んでいたとき、おずおずとマリアが口を開いた。
「あんなことになっているなんて思わなかったの。聞いてよければだけど、あそこは、どういう場所
だったの? 以前、あそこに行ったことがあったとか?」
「そのようなものだ」
平坦にアルカードは答えた。
「だが、長い年月の間には、いろいろなことが起こる。誰の責任でもない。別にマリアが謝る必要はない」
それきり会話は途切れ、沈んだ沈黙の中、火の燃える音だけがパチパチと響いていた。
マリアは力を奮い起こすように頭を一振りすると、これから行くベルモンド家と、自分の子供のころと
あわて者リヒターに関する愉快な逸話を、元気な口調で語りはじめた。
105 名前: エピローグ/アノレカード 第一話10/12 投稿日: 2006/11/08(水) 20:03:53
「……なあ」
夜が更けて、しゃべり疲れたマリアがあくびをして自分の寝床にもぐってしまって少し経ったころ、
リヒターが、遠慮がちに口を開いた。
「その、俺の顔、……なんか、ずっと見てるんだな」
アルカードはまばたいた。心臓が大きく跳ねた。
マリアがしゃべっているのを聞こうと努力しつつも、小鳥のようなおしゃべりはいつの間にか、
右から左へ抜けてしまっていた。そしてこの時ようやく、火のむこうにほのかに浮かぶ、リヒターの顔を
じっと見つめていたことに気がついたのだった。
「その……何だ」
どう言っていいのかわからない、といった顔で、リヒターはがりがりと頭を掻いた。
「助けてもらったことに、まだちゃんと礼を言ってなかったよな。ありがとう、感謝してるよ。もし
あのままシャフトに操られてたら、俺は、俺がいちばん憎んでいるものに変えられちまうところだった
んだ。その上、あんたにまた……辛い思いをさせて」
アルカードは応えなかった。どう応えようがあっただろう?
二度までの父殺し、ふたたび、目の前で混沌の怪物となって消滅してゆく父の姿を目の当たりに
したのは、確かに思い出すことさえ胸をかきむしられる記憶だった。
だが、それはこの青年の責任ではない。あの小さな楽園がいつのまにか掘り返された畑地に変わ
っていたように、人間には、そして人間ではないものにすら、どうしようもない宿命というものが
ある。自分はたまたま、その自らの宿命の網に、またもやからめとられただけにすぎない。
そう、ただ、それだけのことにすぎないのだ……
「……なあ、その」
長い沈黙をはさんで、リヒターがまたおずおずと口を開いた。
「俺は、似てるのか? あんたと、一緒に戦った──その、ラルフ・C・ベルモンドと」
ふいにするどい痛みが胸を走りぬけ、無意識のうちにアルカードはぎゅっと服の下の、小さな固い物
を握りしめていた。
「ア、アルカード!?」
いきなり立ちあがったアルカードに、あわてたようにリヒターは腰を浮かせた。
「すまない、何か気にさわることを言ったか? もしそうなら謝る、すまん、だから座ってくれ。
こんな夜中に、火のそばを離れると危ないぞ」
106 名前: エピローグ/アノレカード 第一話11/12 投稿日:
2006/11/08(水) 20:04:40
「別に、怒ってはいない。少し風に当たりに行くだけだ」
感情の表れにくい自分の声を、この時だけは嬉しく思った。
「心配する必要はない。私の血のなかばは夜と闇に属している。闇は私を傷つけはしない、ことに、
魔王がふたたび地上から消えた今、私を害するものはいない」
リヒターはさらに口を開いて何か言おうとしたが、皆まで聞かず、アルカードは外套をひるがえして、足早
に闇の中に踏みいった。
奇妙に頭は冴えていた。闇は四百年前と変わらず、木々の間から月光が差しこむ夜の森は、〈彼〉
とともに辿った道、〈彼〉から逃れて闇雲に走った道と同じだった。
一心不乱に茂みを分けていく闇の公子に、夜の木々はささやき合いながらそっと道を空けた。
小さな虫が葉の陰で歌い、夜の鳥が遠くでするどい叫び声をあげた。
火と灯りとリヒターから十二分に距離を置いたと感じたとき、アルカードはようやく足を止め、これまで
感じたことのないほど強い疲労に囚われて、短い草地に崩れおちた。
浅ましい、と思った。
リヒターを見ていたこと、そのことにすら気づかなかった自分自身に。彼を見つめ、その中に、ラルフの
面影を見つけようとしていたことに。しっかりした顎の形や、広い額や、高い鼻に、遠く受けつがれ
たベルモンドの血脈を捜していたこと、リヒター自身ではなく、今はいないラルフを、そこに見いだそうとして
いた自分の愚かさを、アルカードは心底嫌悪した。
そんな権利はないのだ。自分に、そんな資格はない。〈彼〉の名前を口にすること、思いうかべる
ことすら、本来ならば許されるべきではないのだ。
自分は彼を裏切った。
差し出された手を振りはらい、もっとも酷いやり方で信頼を踏みにじった。
彼はおそらくその後立ちなおり、かつていた魔性の者のことなど忘れて結婚したのだろう。ああ
して子孫がその血を継いでいるのがその証拠だ。
リヒターは確かに、ラルフの血を受け継ぐベルモンドの者だった。ラルフよりもいくらか生真面目そうな、実直
さが表に出ている顔立ちだが、ふとした時の仕草や横顔の線に、叫び出したくなるほどの類似を
ときおり見いだすことがある。
それを思うと、気が狂いそうだった。一夜のうちに流れすぎてしまった四百年という年月、自ら
捨てたにもかかわらず断ち切れない執着、影を落とす裏切りと拒絶の記憶、リヒターという一人の人間
に、今はいない人間の影を重ねて見てしまう罪悪感。
107 名前: エピローグ/アノレカード 第一話12/12 投稿日:
2006/11/08(水) 20:05:16
二度と戻らないと誓ったはずのベルモンド家への道をこうしてたどっているのも、もしや、〈彼〉の、
あのころの幸福の残り香の、そのかけらでもいい、見いだすことはできまいかというさもしい期待の
ためだ。あの小さな楽園の消滅は、そんな都合のいい期待に下された、天の鉄槌だったのだ。
見えない血を流して痛む胸を抱え、アルカードはかたく丸く身を縮めた。肌をさぐり、鎖につけた無骨
な金の指環を取りだして、かたく握りしめる。
四百年前にも、こうして闇の中、一人で隠れていた。混乱し、恐怖にとらわれ、どうすることも
できずに、夜の底で一人うずくまっていた。
(──いいか。選択肢は三つある)
(一つ。自分の足で立って、俺といっしょに歩いて火のそばに戻ること。二つ。俺にかつがれて火の
そばへ戻ること。粉袋みたいにな。三つ。俺に襟首つかまれて引きずられて火のそばへ戻ること。言
っておくが例外は認めん。十数えるだけ待ってやるから、その間に好きなのを選べ、わかったか)
探しに来てくれた者は、もういない。いつも、引きずってでも光の中に連れもどしてくれた、彼は。
(アドリアン)
――俺の、アドリアン。
そういってくれた彼は、遠い昔に、もう手の届かない場所に去ってしまった。
ここは寒い。ここは、昏い。
──私は、独りだ。
口を開けたが、声は出なかった。
もっとも呼びたい名は胸の奥に重く沈んだまま、ようやく出た言葉は、「何故」だった。
「──何故、」
とアルカードは呟いた。木々がざわめき、不安げな月光が地面を踊った。
「何故、目覚めてしまった。──何故、目覚めてしまったのだ。
目覚めたくなどなかった。永遠に、私は、目覚めたくなどなかったのに」
そのまま声もなく、俯せた。手の中には、爪の食い込むほどに握りしめられた、ベルモンドの紋章
指環があった。
涙は、出なかった。今、ここに生きているべきではない者に、涙など流すことはどのみち許され
ないのだ、と、そう思った。