黄昏のカデンツァ エピローグ/アルカード第二話

 

108 名前:エピローグ/アノレカード 第二話1/11 投稿日: 2006/11/24() 19:51:17

 ベルモンド家には翌日の夕暮れ時に着いた。
 傾きかけた陽光の中に、主人と客を出迎えるために居並んでいる使用人たちの姿を見て、アルカード
は軽いめまいを覚えた。
 すべてが四百年前と似通い、同時に、あまりにも違っていた。知っていた顔はひとつもなく、
屋敷自体も、大まかな輪郭は変わっていないながら、細部が微妙に立て増しされたり、修繕され
たりしている。
 なまじ似ていればいるだけ、そのわずかな違いが針のように心を突き刺した。いつのまにか、
馬の足が止まっていた。
「どうした?」
 気がかりそうに、リヒターが馬を留めて振り向いた。
「疲れたか? あと少しで屋敷だ、見えるだろう。着いたらすぐに部屋を用意させる。無理を
させて、すまなかったな」
「いい。別に、疲れたわけではない」
 アルカードは反抗する身体を無理に動かして、馬を先に進めた。
 見たくはない、しかし、見たい。四百年という年月、自分にとっては、ただ一夜のうちに過ぎ
去ってしまった長い年月を確かめることは、治りかけた傷口をわざとえぐるかのような痛みを
ともなった。だが、同時に、すてばちな気味の良さももたらしていた──自分は彼を裏切った。
ラルフを捨てて、逃げたのだ。
 その罰を、受けることになるのは当然だ。彼が裏切り者をどう思ったかも、どうやって、嘘つき
な魔性の者の蠱惑を追いはらったのか、その痕跡を自分で確かめられれば、きっと、この灼けつく
ような痛みも受け入れられるようになる。逢いたい、どうしても、たとえひとかけらでもいいから、
彼の形見を、ここにいた名残を目にしたいという、この身勝手な欲望に水をかけることができる……。

109 名前:エピローグ/アノレカード 第二話2/11 投稿日: 2006/11/24() 19:52:04

 リヒターとマリアが歓声をあげる使用人と村人たちにもみくちゃにされ、泣かれ、さんざんひっぱりまわ
されているあいだ、アルカードは気配を消して、ひっそりとただ後ろに立ちつくしたままでいた。
「ちょっと、もう、アルカード」
 半泣きの女中頭の抱擁からやっと身をもぎはなしたマリアが、上気した顔でアルカードの腕を引っぱりに
来た。
「そんなところでぼうっとしてないでよ! みんな聞いて、彼はアルカードよ。いい、彼はね、あの、
ラルフ・C・ベルモンドといっしょに四百年前に魔王を倒した、そのアルカードなの、本当よ!」
 大きなどよめきがあがった。アルカードは視線を下げたまま、そこから走って逃げたい誘惑と懸命に
戦っていた。
 四百年前も、このようだった。
 ──だが、あの時には、彼がいた……
「彼がリヒターを助けてくれたのよ。もし彼がいなかったら、リヒターが帰ってくることはできなかったわ、
そうよね、リヒター?」
「ああ、その通りだ」
 まったくこだわりなくリヒターは頷いた。
「恥ずかしい話だが、俺は闇の勢力に踊らされて、魔王の城の城主に据えられていた。しかし、彼が
やってきてくれたおかげで、洗脳から逃れて、こうして帰ってくることができた。復活しかけた
ドラキュラも、彼がふたたび眠りにつかせた。今回のことの功労者は俺じゃない、彼だ。アルカードだ」
 どよめきがひときわ大きくなった。集中する視線は、アルカードにとっては真夏の陽光よりも耐えがたく、
じりじりと身を灼いた。
「リヒター」低く彼は言った。
「リヒター、私は……」
「あ? ああそうだ、すまん。疲れてるのに、大勢でわいわい騒いじゃ悪いな」
 リヒターはまた少し赤面し、それじゃ、と声を高めて、
「俺は少し村のほうを回ってくるから、マリア、俺のかわりにアルカードの部屋を捜してやってくれないか。
ジウリア、任せられるか?」

110 名前:エピローグ/アノレカード 第二話3/11 投稿日: 2006/11/24() 19:52:35

「はいはい、だんなさま」
 さっきからマリアに抱きついて泣きじゃくって辟易させていた大柄な太った女が、派手な音をたてて
鼻をかんで、エプロンで目をぬぐった。
「喜んでご用意させていただきますとも。まあ、なんて、おきれいな若様なんでございましょう
ねえ。ベルモンドのお家の年代記は年寄りの者から昔話で聞いておりましたけれど、まさか、その中
でもいちばんの勇者のお一人を実際この目で見ることがあるなんて、それも、こんなにお美しい
殿方だなんて、考えもいたしませんでしたよ」
「行きましょ、アルカード」
 マリアがまた手を引っぱった。
「馬は馬番のじいやに任せておけばいいわ。とにかく、用意ができるまで、客間ででも休んでて
ちょうだいな。何か、お茶でも飲む? ワインとか?」
「構わないでくれ」
 心底そう言ったのだが、マリアはほとんど聞いていない様子で、大きなお尻をふりふり歩くジウリアと
にぎやかに部屋やベッドや新しい椅子のことをしゃべりながら、ずんずん本館のほうへ引っぱって
いく。アルカードとしては従うしかなかった。
 四百年前とは取っ手が付け替えられている正面玄関を通り、少し飾りつけの変わったシャンデリア
の下をくぐって、この位置にはあった覚えのない広い廊下を歩く。
 自分が眠っていたあいだに、ベルモンド家はかなり富裕になったらしかった。かつてはかっちりと
した実用本位のものが多かった調度が、見た目にも上質さをうかがわせる品のよい品物になっている。
 かつては貴重品扱いだったガラスが、大きな窓いちめんに張りめぐらされているのには少々驚か
された。窓にかかった重いカーテンには金糸の縫い取りがあり、東洋趣味の美しい飾り壷が猫足の
卓にさりげなく置かれている。足もとの絨毯はふかふかと柔らかく、疲れた足を気持ちよく受け
とめる。
 ──ふいに、その足が止まった。
「アルカード? どうしたの?」
 気づいたマリアが戻ってきた。

111 名前:エピローグ/アノレカード 第二話4/11 投稿日: 2006/11/24() 19:53:15

 アルカードは壁に掛けられた一枚の肖像画の前で凍りついていた。どうしても、視線を動かすことが
できなかった。
 見あげて、マリアは「ああ」と頷いた。
「ラルフ・C・ベルモンドの肖像ね。そうね、あなたは、彼とは直接の知り合いだったんですもの。
見入るのは無理ないわ」
 その一角には、歴代のベルモンド家の当主の肖像画がずらりと掛けならべられていた。
 魔狩人の一族としての初代のレオン・ベルモンドから、リヒターの父に当たるのであろうアルカードが名前を
知らないベルモンドまで、何枚もの絵が壁面をおおっている。おそらく、リヒターの絵もいつかはここに
飾られることになるのだろう。
 アルカードは熱い火に近づくように、ためらいがちにラルフの絵に近づいた。膝が、全身が、熱病に
でもかかったように震えてとまらなかった。
 いくらか後世に描かれたらしく、筆遣いはラルフのいた時代からすれば見慣れないものだったが、
画家は驚くほどよくモデルの顔立ちを再現していた。
 覚えている彼よりも、少し年齢を重ねていた。だが、高い鼻と秀でた額、左目に走る傷痕と、鋭い
眼光は少しも変わっていなかった。
 唇をきつく引き結び、画面の外の何者かを射抜くような視線でじっと睨みつけている。大きな拳
は握ったまま膝の上に置かれ、何かを握りしめているようにも見えたが、はっきりとはわからなかった。
 考えるより先に、手が出ていた。握りしめられた拳は、アルカードのすぐ目の前にあった。のばした
手が一瞬ためらい、震え、指先が画面に触れた。
 とん、と乾いた感触があった。
 アルカードは身震いし、灼けた石に触れたかのように身を引いた。
「アルカード?」マリアが呼んでいる。
「どうしたの? 行くわよ。絵なら、またいつでも眺められるわ」
「……ああ」

112 名前:エピローグ/アノレカード 第二話5/11 投稿日: 2006/11/24() 19:53:56

 指に残る乾いた感触を痛みのように味わいながら、上の空でアルカードは答えた。
 埃のついた指先を見おろした。先ほど、絵に触れた指だ。
 そこにあったのは、アルカードが一瞬期待したような、あたたかく大きな手がやさしく握りかえして
くれるようなものではなかった。ただの、うすく埃をかぶった顔料と、画布の感触にすぎなかった。
 当然のこととはいえ、その事実は手ひどくアルカードを打ちのめした。あの時一種、心の、ほんの片隅
で、ラルフが、絵の中の〈彼〉が、あの頃のように笑いながら手を取って力強く引きあげ、隣に座ら
せてくれるかと思ったのだ。
 本当にそうなら、とぼんやりと思った。
 本当にそうなったら、どんなに幸せだろう。たとえ絵の中に永久に閉じこめられることになって
も、ラルフのそばに、静かに身を寄せていることができるなら、この呪われた生命など今すぐ捨て
てかまわない。ただ彼の肩に身を寄せて、何にも触れられない場所で永劫を過ごすことができれば
──。
 けれども、それはかなわぬ夢だ。ラルフはかつてそばにいた魔のことなど、思い出すのも避けて
いたにちがいない。結婚し、子を持ち、当主としての日常をこなす中で、あの戦いのことも、自分
のことも、きっと悪夢の中のことのように薄れていっただろう。
 そうあってほしい。むしろ、そうあるように祈るべきなのだ。人間と闇の者がともに刻を過ごす
ことなど、しょせんできはしないのだから。
 それでも指先はちりちりと疼きつづけた。お前など知らない、と、冷酷に告げられた気がした。
お前は、俺をたぶらかし、俺を裏切って逃げた、ただの魔物だ。その魔物が、今さら何を虫のいい
ことを、と。
 ──今夜、ここを出よう。
 そう、アルカードは心に決めた。
 歓待してくれるリヒターとマリアには悪いが、やはり、ここに来るべきではなかった。
 戻ってくるべきではなかった。ここは自分がいるべきではない、いてはならない場所なのだ。ここ
を去るとき、あの老家令にそう告げ、自らも、けっしてここには二度と戻らぬと誓ったはずだった
のに、なぜ、うかうかと戻ってきたりなどしたのか。

113 名前:エピローグ/アノレカード 第二話6/11 投稿日: 2006/11/24() 19:54:32

 言うまでもない、それは、自分の心の弱さだ。裏切りと罪を自覚すると言いつつ、そこから少し
でもいい、赦しの言葉を得たいという、いじましい心根からだ。
 けれどもそれはかなわぬ夢だと思い知った今、もはやここにいる意味はない。
 家の者が寝静まった頃を見はからって、屋敷を出ればいい。霧や蝙蝠に姿を変える魔導器もまだ
持っている。霧に身を変えれば、誰の目にもとまることはあるまい。
 そして遠くへ行って、今度こそ、二度と目覚めることのない強力な薬を作ろう。どんな事があって
も破れることのない、永遠の眠りを与えてくれる薬を。
 体内に流れる闇の血を、あらためてアルカードは呪った。この黒い血さえなければ、短剣一つですぐに
でも、死の向こうにいる彼のもとへ逝けるのに。
 呪われた血の子である自分には、その道すらも閉ざされてしまっているのか。
「こっちよ、アルカード」
 扉を開けてマリアが待っている。
「ちょっと待っててね、今、ジウリアがお茶とブランデーを取りに行ってるから。ワインはこの部屋に
あるから、私、用意するわね。赤がいいかしら、それとも白?」
「いや、私は……」
 どうか、構わないでくれ。
 そう言いかけて、ふとガラス張りの窓に視線をあげたとき、暮れなずむ空に、ちかりと小さな光が
灯るのを、アルカードは見た。
 星?
 だが、距離が近い。暖かな橙色の光がちらちらと揺れながら、窓から見える屋敷の屋根のすぐ上
あたりにぽつりとかかっている。ふわりとした虹のような暈を広げ、まるで、窓に灯された蝋燭の
光のような──。
「アルカード!?」 
 いきなり、身をひるがえして走り出したアルカードの背中を、驚いたマリアの声が追いかけてきた。
「ちょっと、どうしたの!? アルカード? アルカード!」
 何も、アルカードの耳には入っていなかった。すれ違う家人の驚いた顔も、目に入らなかった。頭が
熱を持って膨れあがったように感じられた。耳の後ろで血がずきずきと鳴り、せり上がってきた
鼓動で息もできないほどだった。
(あの光。あの、光)

114 名前:エピローグ/アノレカード 第二話7/11 投稿日: 2006/11/24() 19:55:08

 四百年の間にいくらか建物の配置は変わっているが、あの場所、あの、高さ。
 そして、藍色に翳りはじめた空に浮かんでいた、あの、とがった屋根のかたちの影。
 つむじ風のように廊下を駆けぬけ、庭へ出る。足に刻みつけられた記憶をたどって、増築された
新しい東翼のはしを回り、屋敷の古い部分に出る。
 きれいに整えられた小さな薔薇の植え込みに囲まれて、それはあった。
 見るからに古びた、石造りの古風な塔で、ごつごつした壁面には蔓薔薇がくまなく枝を伸ばし、
なごりの白い薔薇をぽつぽつと星のように咲かせている。
 階段の上がり口に付けられた扉は、開いたままだった。ほとんど何も考えることなく、階段を
駆けのぼる。
 一歩ごとに、時間が巻き戻っていく。配された真鍮の燭台、ところどころに切られた明かりとり
の窓、まわりながら、ゆるやかに上がっていく長い階段……
 途中で、籠にシーツやリネン類を山と入れた女中が降りてきて、血相を変えて駆けあがってくる
銀髪の青年にぎょっとしたように口を開けた。
 だが、相手をする気も、その余裕もアルカードにはなかった。彼女を押しのけてさらに上りつづけ、
ようやく、階段のてっぺんにたどり着く。
 扉は閉まっていた。覚えているのと同じ、がっしりした樫の、鋲と彫刻とで装飾した美しい扉
だった。真鍮の取っ手は古びて、少しすり減っていた。
 ためらいが頭を走りぬけた。そんなはずはない、と誰かがささやいた。そんなはずはない、そんな
はずはない、そんなことがあるはずはない──
 だがそれでも、アルカードは扉に手をのばした。
 取っ手をつかみ、まわして、引いた。
 扉が開いた。

115 名前:エピローグ/アノレカード 第二話8/11 投稿日: 2006/11/24() 19:55:44



 ──なんだ、遅かったな。


 窓のそばで、誰かが笑ってふり返るのを、アルカードは確かに見たと思った。
 だが次の一瞬、幻影は消え去り、明るく照らされた室内に、アルカードは一人で立っていた。



「これ……は」
 自分の眼が信じられなかった。何度もまばたき、あたりを見回す。
 まるでここだけが、四百年前からそのまま引き抜いて持ってこられたかのようだった。
 覚えているとおりの家具調度が、そっくりそのままそこにあった。大きな、黒光りする天蓋の
ついたベッド、そこから下がる重たげな金襴、しわひとつなく整えられたシーツ。
 壁をおおうこまかなタペストリと、優雅な寝椅子や異国風の小箪笥。書き物机には何冊かの書物
と数か国語の辞書、金のペンにインク壷が揃えられ、白い紙束がいつでも使えるように、きちんと
重ねて置いてある。
 壁ぎわに据えられた、今では骨董品に近いであろう頑丈な衣装箱の上には、白いシャツとやわらか
そうな革でできた靴が一足、きちんと揃えて置いてあった。
 よろめくように近寄って、取りあげる。
 何度も洗ったシャツはやわらかく、かなり大きな体格の男物だったと思われたが、袖と腰回りだけ
は、なぜか全体とつり合わないほど細く短めに詰めてあった。
 声も出ないままシャツを置き、窓辺へと向かう。
 以前は木戸だった窓の扉が、本館と同じくガラスになっていることだけが、以前と違う箇所だっ
た。暖炉にはすでに火が焚かれていて、大きな薪が快い音をたてて楽しげに燃えている。
 ちょうどその温みがあたるように置かれた窓辺の小卓に、一人分の軽い食事が用意されていた。
冷めないように布に包んだパンと、何種類かのチーズ、スープと果物、冷肉に葡萄酒。パンは焼き
たてで、まだパチパチと皮が弾ける音をたてている。

116 名前:エピローグ/アノレカード 第二話9/11 投稿日: 2006/11/24() 19:56:38

 つやつやした皮に、窓ぎわに置かれた燭台の投げる、ほのかな光が照り映えていた。
「アルカード?」
 息を切らせながら、やっと追いついてきたマリアが戸口に顔を出した。
「もう、どうしたっていうの、アルカード? 急に走り出すから、わたし、びっくりしちゃって──
アルカード? ねえ、聞いてる?」
「どういうことだ」
 自分が何を言っているのか、アルカードはほとんど意識していなかった。
「これは──どういうことなんだ? 私は、ここを去った──何もかも捨てて、四百年前に。私と
来ると言ってくれた者に背を向けて、裏切り者としてここを出たのに。なぜ、ここはなにひとつ
変わっていない? まるで、あの夜のまま、時が止まっていたかのように。これは、私に罪を忘れ
させないためなのか? どうして……」
 マリアがとまどったように眉をひそめた時、戸口で、「失礼します」と声がした。
「あら、エルンスト。どうしたの?」
 アルカードは息をのんで振り返った。
「──エルンスト!?
「ええ、そうよ。ベルモンド家の家令」
 目を見開いているアルカードをけげんそうに見返して、マリアは戸口に近づいた。
「彼の家系はずっと、仕事を継ぐ長男にはエルンストと名前をつけることになっているの。それで、どう
したの、エルンスト? その手の箱はなに?」
「は、それが、うちの家系に伝わる伝言がございまして」
 扉にくっつくように立っているのは、むろんあの白髪の老家令ではなかった。
 まだ四十がらみの、黒髪に少し白いものの交じりかけた実直そうな男で、明るく照らされた部屋に
すらりと立つ銀髪の貴公子に目をこぼれ落ちそうにしつつも、古びた箱をひとつ、大事そうに腕に
捧げていた。
 マリアは眉をひそめた。
「伝言?」
「はい。このお部屋に住まわれるお方がお戻りになったら、その時には、これをお渡しするように、と」
 箱を差しだす。その手はまっすぐ、アルカードに向かっていた。

117 名前:エピローグ/アノレカード 第二話10/11 投稿日: 2006/11/24() 19:57:19

 雲を踏むような足取りで、アルカードは近づき、箱を受けとった。
 箱は木彫りで、見かけのわりにはずっしりと重たかった。銀と真鍮で縁取りがしてあり、しっかり
鍵がかかっていた。蓋の上には、封蝋にベルモンドの紋章が捺された巻紙が一つ、青いリボンで結んで
置いてある。
「あ……」
 マリアが声をあげた。
 アルカードが手をのばすと同時に、蓋の上の巻紙の封印がひとりでに解け、リボンがほどけたのだ。
まるで待ち続けた人の手に、ようやく渡って安堵したかのように。
「手紙、が──」
「……そうか。そう、だったのね」
 開いた手紙を見ながら、しみじみと、マリアが呟いた。
「あのね、アルカード。この塔と、このあたりの一画だけは、昔からずっと、せったいに手をつけない
ように言い伝えられてきたの。他はどんなに増築したり改築したりしても、ここだけは、けっして
何一つ変えてはいけないって。
 塔も、もちろん、塔の部屋の家具も、調度も、たとえ壊れて修理したり、新しいものを入れると
きでも、前のものとかけらも違わない、すっかり同じ意匠のものを入れるように、って厳しく言われ
てたって聞いてるわ。
 それも、ただ変えないだけじゃなくて、毎日、きちんとベッドを整えて、掃除して、窓を開けて
風を入れて。朝と夕方には温かい食事を運んで、季節ごとに、衣装箱の中身を新しく入れかえて。
夜になれば暖炉に火を入れて、窓辺には明かりをともして、──まるで、誰かがここでずっと暮らし
てでもいるみたいに。
 いったい、何のおまじないかしらって、ずっと思ってたんだけど」
 顔をあげ、マリアはやさしい目でアルカードを見つめた。
「でも、やっとわかったわ。ここは、あなたのための部屋だったのね、アルカード。あなたがいつ帰って
きてもいいように、いつでも、迎える用意ができているように。
 この部屋は、あなたの帰るのをずっと待っていたんだわ──四百年の間、ずっと」
 言うべき言葉を、アルカードは見つけられなかった。声すらも、喉の奥で形にならないまま、ただ
慄えていた。

118 名前:エピローグ/アノレカード 第二話11/11 投稿日: 2006/11/24() 19:57:59

 開かれた手紙の黄ばんだ羊皮紙の上に、細いペンで書かれた文字が見える。Alucard、と読める。
自分宛の手紙であることは、もはやまちがいなかった。
「ジウリアに、部屋は用意しなくっていい、って言ってくるわね。だってもう、あなたの部屋はここに
あるんだから」
 箱を持ったまま立ちつくすアルカードに、マリアは声をかけた。
 だが、耳に入っていないらしいことは明白だった。マリアは面白がるような笑みを浮かべ、おろおろ
している若いエルンストをひっぱって、さっさと部屋を出ていった。
「リヒターには、わたしからちゃんと言っておくから。ゆっくり休んで、その夕食、良ければ、冷めない
うちに食べてね」
 扉が閉まった。
 アルカードは箱を持ったまま、ふらふらとベッドに腰を降ろした。
 何もかもが信じられなかった。自分は城で死んで、あるいはまた眠っているのではないか、死の
まぎわに、ふたたび幸福なあの日々に戻れたという夢を見ているのではないかという思いが、
どうしても捨てきれなかった。
 だが、箱は確固として膝の上にある。
 おそるおそる、封を切られた手紙に手をのばす。歳月に色の薄れた文字は細く、繊細な女文字だった。
『──Alucard,』と手紙は始まっていた。


『──アルカード、

 あなたがいつ、どういう状況でこの手紙を読むことになるのか、今のわたしには見当がつきませ
ん。それでも、これを読んでいるあなたが、元気でいることを祈ります。
 覚えていますか、わたしは、サイファ・ヴェルナンデスです……』


「サイファ」
 アルカードは呟いた。魔王の城で戦った三人の仲間、美しく気丈な教会の魔女。
 そのまま、吸いこまれるように読みつづけた。暖炉は暖かく燃え、窓の外で夜は、橙色の灯りを
懐に抱いて、ビロードのような闇をしだいに濃くしていった。