黄昏のカデンツァ エピローグ/アルカード第三話

 

120 名前:エピローグ/アノレカード 第三話1/18 投稿日: 2006/12/24() 23:44:57



『……覚えていますか、わたしは、サイファ・ヴェルナンデスです』
 と手紙は続いていた。
『どうしてわたしがここにいて、この手紙を書いているのか、あなたはきっと不思議に思う
でしょうね。
 わたしはあなたがここを去ったあと、教会から与えられたベルモンド家当主の妻として、この家に
入りました。
 いいえ、下げ渡された、と言ったほうがいいかもしれません。魔王ドラキュラ討伐の功績に対する
報酬という表向きの理由と、魔狩人のベルモンドが、教会の手に負えなくなるほど勢力を伸ばさぬよう
監視する意味もこめられていたのですから。
 だからと言って、わたしがここで幸せではなかったとは思わないでください。結婚にいたるまで
のさまざまなことはここに書くようなことでもないし、場所もありませんのではぶきますが、おお
むね、わたしたちはうまくやっていました。
 教会の目をごまかして、という意味です。ラルフとわたしはあなたのことを隠し、表向きは教会に
恭順の意を示しながら、弱められたベルモンドの力を温め、のばすことに力を注いでいました。あなた
が眠っていた、古い教会の所在を隠す必要もありましたし。
 教会の監視の目はきびしく、ひやりとさせられることも何度かありましたが、そのたびに、
わたしたちはうまく乗り切ってきました。そういう意味で、わたしたちはあの頃と変わらず、
いい仲間だったと思っています。
 ……ああ、でも、いつまで延ばしていても仕方がありませんね。書かなければならないことを
書きましょう。
 ──半月前に、彼の葬儀をすませました。
 わたしたちの共通の友人であり、ベルモンド家当主であり、わたしの夫であった彼──
 ラルフ・C・ベルモンドの、です』

121 名前:エピローグ/アノレカード 第三話2/18 投稿日: 2006/12/24() 23:52:14

 アルカードは鋭く息を吸いこんだ。
 それはすでに起こってしまったこと、四百年も昔に起きてしまった出来事であると頭では
解っていたが、こうして文字にして目の前に突きつけられると、心臓を貫かれたような衝撃と
痛みが襲ってきた。
 思わず胸から下げた金の指環を握りしめる。手の中で、肌に温められた指環はほのかに
ぬくもりを持ち、しっかりとした手応えを返してきた。その手ざわりに励まされるように、
アルカードは先へ進んだ。

『──突然のことでした』
 とサイファは書いていた。
『収穫祭が終わって、冬の準備に入ろうという秋の終わり、家畜たちが急にばたばたと死に
はじめたのが始まりでした。
 それまでにない、熱病の大流行でした。数日のうちに、弱い赤ん坊や老人をはじめ、村人たち
にも死者が出ました。何人もの頑健な大人たちも、高熱とひどい節々の痛みでベッドから起きあ
がれなくなり、村は一気に死におおわれてしまいました。
 人々の上に立つものとして、ラルフは先頭に立って村を襲った病と闘いました。感染を怖れること
なく病人のいる家に入り、手当ての指示を出し、薬を作らせ──あなたの書き残しておいてくれた
薬草の処方が、とても役に立ったことをここでご報告しておきます──それをすべての家に配って
歩きました。病気になった家畜や、その小屋は焼かせ、人間の食器やシーツは熱い湯で煮てきれい
にさせるよう、指示を徹底しました。
 だれかに任せることもできたのに、彼は、一切を自分の手でとりしきったのです。彼にとって、
村とベルモンド家は自分の命に替えても守らなければならないものでした。たとえ自分が生き残っても、
ベルモンド家がなくなってしまったら何の意味もないと、彼はそう考えていたようです。
 そしてようやく熱病の流行が収まったかと思われた矢先、ラルフは倒れました』

 自然に力の入った指が、古い羊皮紙に幾筋かの皺を入れた。

122 名前:エピローグ/アノレカード 第三話3/18 投稿日: 2006/12/24() 23:52:49

『いつものように、村の巡回を終えて屋敷へ帰ってきたとき、突然、気を失って落馬したのです。
 気づいた時には、もう手遅れでした。全体に回ったひどい熱が、身体のあらゆるところをとうの
昔にすっかり灼きつくしてしまっていたのです。
 薬草の備蓄は、村人たちのためにすっかり使ってしまっていました。できることは何もなく、
それから一度も目を覚まさないまま、三日後に、彼は息を引き取りました』

 知らないうちに呼吸を止めていたことに気づいて、アルカードは大きく吐息した。
 ラルフらしい、と心の中に呟いた。おそらく、身体の変調を感じたときにも、今はそんなことに
構っている場合ではないのだと頭から追い出して、だれにも気づかせることなく、目の前の人々を
救うことだけに集中していたのだろう。
 手の中の指環をあらためて強く握りしめ、先へ進む。

『……馬鹿なこと、ほんとうに馬鹿だわ』
 それまではきちんとしていた筆跡が、ここから先はしばらく乱れていた。
『妻であるわたしにさえ気づかせなかったなんて、まったくどういうつもりかしら。もう少し早く
気づけば、なんとかできたかもしれないのに──せめて、まだ熱がひどくならないうちに、無理に
でもベッドで休ませていれば、こんなことには。
 あと一か月で、彼は四十になるところでした。早すぎる、とだれもが言いました。わたしもそう
思います、でも、彼の身体はもう以前ほど丈夫ではなかったのです。
 あなたが去ってから三年後、もとドラキュラ城のあった場所である事件があって、彼は出かけ、瀕死
の重傷を負ってもどりました。
 魔力を持った武器でつけられた傷の治りがどういうものかは、あなたもご存じでしょう。わたし
も何度か治療のわざを行いましたが、傷に残った毒と瘴気を完全に取りのぞくことは、結局
できませんでした。

123 名前:エピローグ/アノレカード 第三話4/18 投稿日: 2006/12/24() 23:53:48

 傷は、その事件で知り合った人たちの協力と手厚い治療もあって、見た目の上ではうまく
ふさがっていました。でも、それ以来、冬になると彼はよく痛みをこらえるように胸を押さえたり、
こっそり咳きこんだりしていました。口数も前に増して少なくなり(これはいつものことでした
が)、少し痩せてもいました──他人にはうまく隠していたようですし、わたしも、何も言いは
しませんでしたけれど。

 ……ごめんなさい。つい取り乱してしまいましたね。
 わたしもまだ、心の整理がついているわけではないのです。あの傷がなければ彼が生き残れたか
どうかは、正直、わたしにもわかりません。
 今となっては、悔やむことばかりです。でも、どうしようもありません。彼は逝ってしまい、
わたしには、遺された子供たちとベルモンド家、そして、まだ病の流行から立ちなおりきっていない
村の存続が遺されています。
 教会は当主のラルフが死んだことでいよいよ、まだ幼い子供たちを、自分たちのいいように扱おうと
するでしょう。そんなことをさせておくわけにはいきません。
 ラルフのためにも、そして、わたし自身のためにも、これからはさらにきびしい戦いが続くことに
なるでしょう。ラルフが自分の身体を省みることをしなかったように、わたしにも今、自分の感情に
かまけている暇はないのです』

 蝋燭がかすかにジジ、と音をたてた。
 アルカードはまばたきもせず、次の紙をめくった。

『亡骸は、火葬にしました。熱病がふたたび広がることを防ぐためには、そうするしかなかった
のです。
 薪の上に寝かされたラルフの手に接吻するふりをして、わたしは、彼の手の中に指環をひとつ
すべり込ませておきました。
 彼が生前、ほとんど肌身離さず身につけていた品です。銀に似ていますが、それよももっと
白く輝く金属でできていて、美しい透かし模様に飾られた小さな指環です。

124 名前:エピローグ/アノレカード 第三話5/18 投稿日: 2006/12/24() 23:54:18

 彼はそれを鎖に通し、服の下にいつも下げていました。人に見られていないと思った時には
取りだして、長いあいだ見つめ、そっと唇を触れることもありました。
 指環をおさめてわたしが下がると、教会から派遣されてきた司祭が祈りを唱え、さっきわたしが
指環を入れた拳の上に十字架を置いて、火をかけるように命令しました。
 燃えあがる炎が生命のない肉体を包み、やがて、すべてが灰になりました。お墓に入れるため、
燃え残った骨とその他のものが拾い集められましたが、ただひとつ、見つからないものが
ありました。あの指環です。
 司祭が置いた十字架は、装飾も剥げ、黒こげになって灰の中に埋もれていました。
 けれども指環は、あの小さな指環だけは、どこにも見つからなかったのです。溶けた塊と思える
ような残骸すら、見つかりませんでした。まるでだれかが立ち去る時、炎の中からいっしょに持ち
去りでもしたように。
 ──だから、彼があちらへ持っていったのはただひとつ、あの指環だけなのです。
 あの小さな銀色の、透かし模様の美しい、きゃしゃな指環。
 その指環がだれのものか、あなたはきっとご存じだろうと思います』

 心臓が早鐘を打ちはじめた。
 アルカードは握りこぶしをぎゅっと胸に当て、飛び出しそうな心臓を抑えようとむなしく努力した。
そんなはずはない、そんなはずは──頭の中で言葉がぐるぐる回る。
 ラルフが指環を? あの指環を?
 ずっと持っていた、持っていてくれた──大切に、肌身離さず……?

『──彼は生前、時間が空くとよく図書室に行って、長いあいだ腰を降ろしていることが
ありました。とくに何か調べものをしたり、本を読んだりということではなく──もともと、
仕事以外の書類をのぞいては読んだり書いたりするのは好きではなかったようです──ただ、
本を読むための大机に肘をついて、窓際の書見台を何時間もだまって眺めているようでした。
そういう時にはだれも近寄せず、日が暮れてようやく時間を過ごしたことに気がつき、立ち上がる
といったふうでした。

125 名前:エピローグ/アノレカード 第三話6/18 投稿日: 2006/12/24() 23:54:58

 ときおり、何か書き物をしていることもありました。仕事以外には読み書きはしなかった、
と先にいいましたが、眠れない夜や、何か落ちつかないことがあると、夜遅くまで灯りをつけて、
ひとりで黙々とペンを走らせていました。
 彼はそういう時に書いたものはインクが乾くとすぐ、鍵のついた樫の手箱に──今、あなたの
手もとにあるその箱です──収めて、鍵をかけてしまいこんでいました。
 何を書いていたのかは知りません。読んだこともありませんし、その機会も、尋ねるつもりも
ありませんでした。彼が他人の目に、少なくとも、たった一人をのぞいては人の目に触れさせたく
ないものなら、わたしには、それを守る義務があります。
 この手紙を書き終わったらすぐ、わたしはその箱と鍵といっしょに、今は家令職を退いて隠遁して
いる老エルンストの所に持っていくつもりです。
 わたしがこの屋敷に来てしばらくすると、彼は家令職を自分と同じ名前の長男に譲り、地所の中の
自分の屋敷に隠棲してしまいました。自分の姿を目にすることが、傷ついた主人の心をさらに傷つけ
ることを慮ったのでしょう。
 わたしはこの手紙と箱を彼と、彼の子孫に託し、渡すべき人がこのベルモンド家にもどってくる
まで、守っていてくれるよう頼むことにしました』

 指先に、ふと固い感触があった。アルカードは手紙を支える指を動かし、重なった羊皮紙のいちばん
下に、糸で縫いとめられている一本の鍵を見いだした。
 小さな金の鍵は歳月にやや輝きをくすませていたが、アルカードの指に触れられると、かすかに鈍い
光を放った。古くなった糸はふつりと切れ、鍵はおのずからアルカードの手のひらの上に転がり落ちて
きた。

『老エルンストもまた熱病にかかり、死はまぬがれたものの、ベッドから起きあがれない身になって
います。けれどもこのことを話したところ、その場で息子たち娘たちを全員集め、わたしの言葉に
従うことを天地にかけて誓わせてくれました。あなたがいつここに戻ってきたとしても、きっと
彼らは、誓いを守ってくれたことと思います』

126 名前:エピローグ/アノレカード 第三話7/18 投稿日: 2006/12/24() 23:55:49

 アルカードは手紙を机に置いた。
 小さな鍵をつまみ、そろそろと箱の鍵穴に近づけていく。苦しいほどに胸が高鳴っていた。
 鍵を鍵穴に入れ、回す。カチッと音がする。
 鍵をさしこんだまま、重い蓋に手をかけて、アルカードはそろそろと古い箱を開けた。
 中には、ぎっしり文字が書かれた羊皮紙が縁まで積みかさなっていた。インクと、かすかな埃の
匂いがした。角張った、癖のある字が目に飛びこんできた。
『アドリアン』とそれは書いていた。
 ──アドリアン。
 今はもう、だれも知らないはずの、自分の、人としての名前。
 震える指で一枚を取りあげ、おそるおそる目を落とす。


『──アドリアン、
 今朝、雪が降った。今年はじめての雪だ。
 ひと晩でえらく積もったので、屋敷の庭では子供たちが雪合戦だの雪人形を作るので大騒ぎして
いる。果樹園のほうで雪で枝が折れていないか見回ってきたが、大丈夫そうでほっとしている。
 ともあれ、この雪が溶けるまでは、おまえの所へ行けそうにない。秋に植えた新しい薔薇の苗が
いささか心配なんだが、根づいていてくれることを祈ろう。サイファは、あの土地でならどんな植物でも
丈夫に育つと保証してくれている。そうだといいんだが。
 そこは寒くないか、アドリアン。冷たくはないか。
 雪の晴れ間のいい天気で、氷柱がガラス細工みたいにきらきらしている。おまえが見たらどんなに
喜ぶだろうと思う。おまえには結局、降誕祭の祭りは見せてやれなかったな。あの祭りの市場や、
広場の芸人たちがやる踊りの輪はずいぶん見物なんだが。
 考えてみれば、おまえに会うまでは、冬も、雪も、これほど綺麗なものだとは思っていなかった。
おまえに見せてやりたいと思うたびに、自分の住んでいる世界が、どれだけ美しかったかに今さらの
ように気づく。たとえそばにいなくても、アドリアン、おまえは、俺にこの世界の美しさを教えてくれる。
 アドリアン、逢いたい。おまえに逢いたい──』

127 名前:エピローグ/アノレカード 第三話8/18 投稿日: 2006/12/24() 23:56:47



 長い、震えるような吐息をついて、アルカードは手紙から目を引きはがした。
 そんなはずはない、とまた小さな声が胸の中で呟いている。自分は彼を捨てたのだ。ひどいやり方
で騙し、裏切り、置き去りにしたのだ。それなのに彼が、こんなことを言ってくれる理由はない。
四百年の時をへだてて、苦手なはずの文字を綴って、こんな──。
 別の一枚を取りあげる。蝋のしみがついたその一通は、夜遅くに灯をともして書かれたもののよう
だった。


『──アドリアン、
 さっき、おまえの夢を見た。眠れなくなったので、下へ降りてきてこれを書いている。
 夢の中でおまえは、ただ悲しそうな顔をしたまま、いくら呼んでもどんどん遠くへ行ってしまっ
て、少しも手が届かなかった。夢の中でくらい抱きしめさせてくれてもいいだろうに、まったく
ひどい奴だな。
 とても静かな夜だ。燭台の明かりにぼんやりと、いつもおまえが使っていた書見台が見える。
ここでいつも、おまえに叱られながら書き取りの練習をしていたことを思い出すと、妙な気がする。
 あの時はただもう面倒なのと腹が立つばかりだったが、今、こうしてペンをとって字を書いている
と、少しだけ、おまえに近づける気がする。気持ちが乱れた時、どうしてもおまえに触れないでは
いられない気分になった時、ペンを持って書くことが、いくらか気分を鎮めてくれる。
 不思議なものだ。あの時のおまえのくそ生意気な先生ぶりに、今になって感謝の気持ちを抱くと
は、まったく思ってもみなかったんだが──本当にあれは苦行だったぞ、アドリアン。おまえはきっと
笑うだろうが。わかっているか?』

128 名前:エピローグ/アノレカード 第三話9/18 投稿日: 2006/12/24() 23:57:26

 手紙は何枚も、何枚もあった。
 日常のちょっとしたことを報告する手紙もあり、子供が生まれた日のとまどいと喜びを記した
ものもあった。アルカードの眠っていた教会跡がベルモンド家によって買い取られ、大切に補修されていた
ことも、この手紙ではじめて知った。
 恋しさに苦しめられ、いたたまれずに乱れた文字で書き殴られた手紙も何通もあった。黒くて
大きなくせ字が、そういった手紙ではいよいよ乱れ、ほとんど判別不可能なものもあった。きちん
とした紙ですらなく、手近にあった切れ端や、裂き取った布の一片に叩きつけるように書かれた
ものもあった。
 内容も書かれたものもさまざまな、雑多なその束のどの一枚の中にも、必ず一度は書かれている
言葉があった。
『逢いたい』。
 かさかさと音を立てる羊皮紙一枚一枚を広げているうちに、紙束の間から、小さな紙片がはらりと
落ちた。
 拾いあげてみると、それも手紙だった。大きな、乱れた文字で、ほんの数語が紙からはみ出さん
ばかりにいっぱいに、黒々と殴り書きされていた。


『アドリアン、逢いたい。逢いたい。逢いたい。
 逢いたい、逢いたい、逢いたい』


 ──ただそれだけを紙いっぱいに書き殴られた、手紙とも呼べないような紙片だった。
 アルカードはしばらくの間、呼吸することすら忘れていた。紙片を持った手がはげしく震えだし、はっ
としたように胸に抱きかかえる。
 胸の上に、握りしめられていたためにすっかり暖かくなった指環があった。金の指環と小さな
紙切れは、そこにこめられた同じ響きの叫びを響かせ、共鳴しあって、アルカードのもはや失ったと
思っていた部分の空洞に、幾重にも反響するようだった。

129 名前:エピローグ/アノレカード 第三話10/18 投稿日: 2006/12/24() 23:58:09

「……ラ、ルフ」
 言葉が、こぼれた。
 けっして口にはすまいと、自分に言い聞かせつづけていた言葉だった。自分にはもうその名を口に
する資格はないのだと、何度も言い聞かせ、胸の中で暴れまわる思慕を、むりやり凍りつかせようと
努力を重ねてきた。
「私、の、ラルフ」
 だが、その小さな紙片に刻まれたむき出しの愛情と恋人を求める叫びは、いやおうなしにアルカードの
心を揺り動かした。堅固だと思っていた防壁はあっさり突き崩され、まるで、その手紙の主自身に
抱きしめられたように、身体が燃えるのを感じた。その手の、腕の、胸のぬくもりを感じ、熱い唇が
触れてくるのさえ感じるような気がした。
「私、の、愛する──ラルフ……!」
 限界は、ふいにやってきた。視界が曇り、あふれてきた涙に耐えかねて、アルカードは指環と手紙を
握りしめたまま、ベッドに身を投げるように身を伏せた。抑えきれない嗚咽がもれ、子供のように
身を丸めて、声をあげてアルカードは泣いた。
(愛されていた。愛してくれていた。あの裏切りの後でも。裏切りの後でさえ)
 想いは、ずっとそばにいた。そばにいて、今もなお、ここに、そばに形をとっている。
 明るい部屋と暖かな火、あの頃と少しも変わらない室内、窓辺にともされた目印の灯、季節ごとに
入れかえられる衣装箱、毎日運ばれていた食事。
 四百年間、変わらず続いてきた想いが、今ここにある。両腕を広げて、アルカードを迎え入れてくれて
いる。愛に背を向け、闇と沈黙の年月をくぐり抜けて、もはやどこにも帰る場所などないと思ってい
た自分に、変わらず差しだされる温かい腕がある。
(もっと笑わせてやる、俺がずっとそばにいて、おまえをうんと笑わせてやる。だから笑ってくれ、
アルカード、俺の、アドリアン……)
「私の──ラルフ」

130 名前:エピローグ/アノレカード 第三話11/18 投稿日: 2006/12/24() 23:58:48

 彼を、自分のものだとはあえて考えないようにしてきた。ラルフ自身はいく度もそう口にし、誓った
ものの、アルカードの中にある小さな怯えが、彼を自分のものだと宣言することをいつもためらわせて
きていた。
 自分がラルフと同性であり、男であること、世間にはとうてい認められないであろう関係であること、
彼が荘園主として大勢の人間に責任を負う身であること、何よりも、なかばしか人ではない、この
呪われた闇の血のこと──それらすべてが、自らのすべてを差しだすと言ってはばからない、ラルフの
心を受け取ることをためらわせてきた。
 だがもう、そうした障壁は取り払われてしまった。長い年月の前に、人の世の雑事は流れ去り、
ただ、強い想いだけが残った。
(俺がおまえの還る場所になる、アドリアン)
 いつの日か、彼はそういった。あの、白い花と光に満ちた小さな楽園、二人だけの、ささやかな
箱庭の天国で。
 そして、彼はその通りにしたのだ。命を継ぎ、想いを継ぎ、いつになるかも判らない恋人の帰りを
待つために、人間としてできるかぎりのことを──苦悩も、寂しさも、すべて呑みこんで──よるべ
ない自分のための、居場所を作っておいてくれた。
「私の、愛しい、ラルフ」
 涙はとめどなく流れ、四百年間の闇と寒さを、あとかたもなく流し去っていく。
 愛しいものの想いの結晶をかたく抱きしめて、アルカードは、ただの人間アドリアン・ファーレンハイツ・
ツェペシュとして、やわらかいベッドに頬を埋め、あふれる涙をシーツに吸わせながら、自分の身内
にかたく凍りついていたものが、静かに、ゆるやかに解けていくのを感じていた。

131 名前:エピローグ/アノレカード 第三話12/18 投稿日: 2006/12/24() 23:59:39




「ヴァンパイアキラーを手放す?」
 朝の香草茶を淹れる手をとめて、マリアは驚きの声をあげた。
「本気なの、リヒター? だってあれは、ベルモンド家の宝なんでしょ? ヴァンパイアハンターとしての
ベルモンド家の象徴って言ってもいいくらいなのに、どうして」
「本気だよ。聞いてくれ、マリア、アルカード」
 一夜明けた、朝食の席だった。自室に運ばれた食事をすませたアルカードも、茶をともにしないかとの
招きを受けて、窓際の長椅子に茶器を手にして足を伸ばしている。何か考えにふけっているような
横顔は、リヒターの声を耳にしたのかしていないのか、表情からはうかがい得なかった。
「俺は今回、シャフトに操られてドラキュラの復活に手を貸すことになった……少なくとも、そうなる
はずだった。アルカードが俺を、洗脳から叩き起こしてくれなければ」
 窓辺に頭を寄りかからせている麗人をちらりと見やる。アルカードは自分のことが話されているのにも
注意を払っていないふうで、開けた窓から入ってくるひやりとした風に、けだるげに銀髪をなぶらせ
ていた。
「これは、ベルモンド家の家長としては重大な失態だ。いずれ、教会のほうからも、その点について
糾弾の使者がやってくるだろう。そうなる前に、こちらから手を打っておこうということさ。先に
こちらから恭順の意志を見せれば、あちらも行き掛かり上、それ以上の詮索はできなくなる」
「でも……でもリヒター、失態って言ったって、結局大事にはならなかったんだし、教会の奴らにああ
だこうだ言われる筋合いなんてないわよ」
 ポットを乱暴に置いて、マリアは口をとがらせた。
「だいたい前の事件の時だって、リヒターと、それからあたしに何もかも押しつけといて、全部終わって
からやってきてなんだかんだ役にも立たないこと言ってっただけじゃない。何もあんな奴らに気を
使うことなんてないわよ、リヒター、あなたはただシャフトに利用されただけだわ。もう二度とそんな
ことがない今は、堂々としてればいいのに」

132 名前:エピローグ/アノレカード 第三話13/18 投稿日: 2006/12/25() 00:00:23

「いや、そういうわけにはいかないさ」
 マリアの言葉を片手を上げて止め、リヒターはいかにも彼らしい真面目な口調で、
「どう理由をつけたとしても、俺が心の隙をつかれて、シャフトに操られていたことは明白な事実
なんだ。もしアルカードが来てくれなかったら、そのままドラキュラ復活の道具にされて、ふたたび闇の世
の再来になっていたかもしれない。だから俺も、ベルモンドの家長としてなんらかの責任を取る必要は
ある──
 ──と、ここまでは、あくまで表向きの理由だ」
「え?」
 不服そうに頬を膨らませていたマリアは、意味ありげにリヒターがつけ加えた最後のひとことに、けげん
そうに目をまたたいた。
「表向き? 表向きって、どういうこと?」
「前の事件から五年間、少しずつ考えるようになっていたんだが」
 食卓に肘をついて、リヒターは組んだ両手に顎を乗せた。
「ベルモンド家──それから、ヴェルナンデス家の血統は、これまでずっと東方正教会の監視下に置かれて
きた。それは俺たちが唯一、吸血鬼殺し、魔物殺しの聖鞭を持つ一族だからだ。教会にとっては
手放せない便利な武器、そういうわけだ。教会の威信を保つためにも、俺たちみたいな魔物狩りの
道具をかかえておく必要があった、反乱を起こされないように、しっかりと監視の目を利かせて
おくことも。
 そういうことは、たぶんアルカード、あんたのほうが身にしみていると思うが」
 アルカードはわずかに肩をすくめ、カップの中に目を落として静かに茶をすすった。
「だが、時代は変わってきている」
 リヒターは話を進めた。
「もう昔ほど、教会は強い力を持っていない。人々に対する影響力も、田舎じゃともかく文化の
進んだ都会では、馬鹿みたいに弱くなってる。それなのに、教会は変化を認めたがらずに、今でも
人間を、世の中を支配していると思いこみたがり、俺たちベルモンドやヴェルナンデス、異能の力を持った
血筋を管理して、自分たちが邪魔だと思ったものに闇雲に殴りかからせる道具にしている。

133 名前:エピローグ/アノレカード 第三話14/18 投稿日: 2006/12/25() 00:01:15

 ドラキュラのことだってそうだ。奴らは結局、ドラキュラが復活するたびごとに俺たちに叩きに行かせる
だけで、どうすれば完全に魔王を封じることができるのかについてはかけらも考えようとしないし、
その手だても捜そうとしない。
 奴らにとって、ドラキュラは必要悪なんだ。自分たちのもとに民衆を惹きつけておくための、具合の
いい敵なのさ。そして、それを倒すための道具が俺たちで、握っているのは、あくまで自分たち
教会だと思わせたがっている。
 もし、ベルモンド家が魔王を倒す力を持ったまま自分たちの手を逃げ出そうとすれば、たちまち潰し
にかかってくるだろう。昔よりはかなり弱まったとはいえ、まだまだ、教会の力はあなどりがたい
からな」
「それはわかったけど」
 マリアはまだとまどっていた。
「それと、ヴァンパイアキラーを手放すのと、どういう関係があるの? 確かに、あれがなくても普通の
魔物は狩れるけれど、魔王を倒せる武器はあれだけしかないのよ。
 教会に頭を押さえられているのは本当にしゃくにさわるけど、情報は少なくとも手にはいるし、
何も普段から、ああだこうだ干渉してくるわけじゃなし」
「そうかもしれないな。だが、アルカードのことはどうするんだ?」
「あ……」
 はじめて気づいたように、マリアは窓辺の青年のほうを見返った。半魔の公子は聞いてはいるのだろう
が、注意は払っていない様子でぼんやりと庭を眺めている。
「今回、魔王の子のアルカードがまだ生きていて、ベルモンド家とふたたび繋がりを持ったとわかれば、
教会側はたちまちイナゴみたいにそこに飛びついてくるだろう。アルカードに引き渡せと迫るか、危害
を加えようとすること、少なくとも、身柄を拘束しようとすることは間違いないと見ていい。
 だから、そういう事態にならないうちに、先手を取ってヴァンパイアキラーを餌に、教会の注意を
そらそうというんだ。奴らはベルモンド家の力が、あの鞭に集約されているものだと思っている。
ヴァンパイアキラーがベルモンド家から離れれば、教会の監視は、なくなるとは行かないかもしれないが、
少なくとも手薄にはなるだろう。
 その間に俺たちには、やることがある」

134 名前:エピローグ/アノレカード 第三話15/18 投稿日: 2006/12/25() 00:01:58

「どんなことなの?」
 今ではマリアもすっかり興味をひかれた顔で、卓に手をついて身を乗り出していた。
「教会に縛られない形で、魔王や魔物に対抗できる組織を新しく作りあげる」
 力強くリヒターは言い切った。
「何年か前から、ヨーロッパに散らばったベルモンドやヴェルナンデスの血筋と、こっそり連絡を取りあって
きた。他にもいくつかの異能者の家系ともつながりがとれている。
 教会の監視さえはずれれば、それらを再編成して、新しい体系に作りあげることができると思う
んだ。もちろん、それにはずいぶん長い時間がかかるだろうし、もしかしたら俺一代では終わらない
仕事かもしれないが、それでも、やり遂げる価値はある。
 そして、アルカード」
 静かに座りつづけている青年に、リヒターは真摯な視線を向けた。
「あんたなら、たとえ俺が寿命尽きて死んだあとでも、その仕事を引き継いでくれることができる。
仕事が何代にもわたり、遠い子孫の時代になっても、あんたはすべての記録と知識と、力をたずさえ
て、そこにいることができる。
 どうか、俺たちに協力してくれないか、アルカード。このまま、復活するドラキュラをそのたびに封じ
直しているだけでは、いつまでたっても同じことの繰り返しだ。
 どうにかして、ドラキュラの魔力を完全に、そして永久に封じる方法を見つけなければならない。
あんたなら、教会なんぞ足もとにも寄れないほどの知識と、闇の力に対する深い理解を持っている。
 力を貸してくれ、アルカード。──ドラキュラを、あんたの父親を、本当に、闇の力から解放するために
も。どうか」
 アルカードはゆっくりと茶器を脇の小卓に置いた。
 白い顔がゆるやかに上がり、リヒターとマリアに向けられる。
 マリアははっと息をのみ、口に手をあてた。知らず、目尻にほのかな血の色がのぼり、リヒターは、先を
つづけようとして口を半開きにしたまま、真っ赤になった。
 アルカードは、微笑んでいた。
 まるで春風に、白い薔薇のつぼみがほころんだようだった。氷青の目はやわらかく和み、唇は
美しくゆるやかな曲線を描いていた。長い銀髪が朝の風になぶられ、微笑む貴公子の笑顔に、
明るい陽光が霞のような光をまとわせていた。
「──喜んで」
 ただ一言、彼は、そう応えた。

135 名前:エピローグ/アノレカード 第三話16/18 投稿日: 2006/12/25() 00:02:39




『……わたしは、冷酷な女なのかもしれません』
 そう、サイファは書いていた。
『わたしにとって愛とは、神と同じ意味しか持っていませんでした。ただ言葉として教えこまれる
だけの、冷たい言葉と石像、他人を従わせるための口実であり道具、祈りと恭順だけを強要し、
何一つ与えることなく、ただ、すべてを奪い去るばかりのもの。
 そんなわたしが唯一、愛情らしきものを感じたのが、あなたがた、ラルフ、アルカード、それからグラント
──あの戦いで行動をともにした、仲間たちなのです。
 ラルフとわたしの結婚生活は、人によっては夫婦らしくないというものもあったでしょう。愛して
いなかったとは言いません。けれども、あの魔の城の中でと同じように、わたしたちは男女である
以前に、世の中と、そしてのしかかってくる教会という巨大な敵にともに立ち向かう、二人の戦友
だったのです。
 あなたの存在を世間から隠し、ベルモンド家に、わたしのヴェルナンデス家と同じ道をたどらせようとする
教会の策謀をはじき返すこと。その間に領地を安定させ、村人たちを守ること。そして、いつか
あなたが目覚める日のために、あなたの居場所を確保するために、血を次代に繋いでいくこと。
 やらなくてはならないことはたくさんありました。危険なことも、同じくらいたくさん。ラルフは、
ある意味、戦いの中で、戦士として斃れたのです。彼らしい死だったと、今では、わたしは思います。
 そして、あなたにお願いがあります、アルカード。

136 名前:エピローグ/アノレカード 第三話17/18 投稿日: 2006/12/25() 00:03:21

 どうかラルフの、ベルモンドの血を継ぐ子供たちの、力になってあげてください。
 この手紙がいつ、あなたの目に触れることになるのか、それはわたしもわかりません。もしかした
ら、結局あなたの手には渡らないまま失われることになるのかもしれない。
 けれどもわたしは祈る思いで、この言葉を記します。
 自分がほんとうに神に祈ることがあるとは思いもしませんでしたし、神が、だれかの願いを叶えた
りすることなどないと思っていましたが、それでも、祈らずにはいられません──神でなければ、
運命に、または、その他どんなものにでも。
 彼はあなたを愛していました、アルカード。それはきっとご存じですね。
 そしてあなたも、彼を愛しているのだろうと思います。
 もし、その愛が今でもあなたの心の中に燃えているなら、どうか、ラルフの子供たちを助けてあげて
ください。
 そこがいつの時代であろうと、ベルモンドがいまだに魔王と戦いつづけているのであれば、──いえ、
そうでなくとも、厳しい時代が続いているはずです。人間の住む世の中が、厳しくないことなど
あったでしょうか?
 けれどもラルフはその中に、どうにかして小さな平和を見いだそうと、弱い者たちが幸福に暮らせる
場所を、作り出そうと努力してきました。
 どうか少しでも、その夢に力を貸してあげてください。
 あなたの指環ひとつを抱いて、彼岸に旅立った、彼のためにも』

137 名前:エピローグ/アノレカード 第三話18/18 投稿日: 2006/12/25() 00:04:12




(俺がおまえの還る場所になる、アドリアン)
(──だから、もう泣くな。アドリアン。泣くな)
 ああ、ラルフ、私はもう泣きはしない。
 私はただ歩いていく、ラルフ。
 真っ暗だと思っていた世界に、今、一筋の道が見える。
 長い長い、旅になるだろう。道はどこまでもはてしなく続き、途中で傷つき、膝をつくことも、
立ち上がれないほどに打ちのめされることも、何度もあるだろう。
 それでも私は歩くだろう。立ち上がり、脚を引きずり、少しでも前に進むために、あらゆる力を
つくすだろう。
 どんなに道が遠くとも、けわしくとも、踏み出す足がどれほど苦痛に満ちていても、それが、
おまえのもとに還るための一歩だと思えるのならば、──
 私はきっと、最後まで──歩いていける。

 おまえは私を笑わせてくれると言った。だから今度は、私がおまえを笑わせよう。
 すべてが終わり、なすべき事をなし終えたら、最高の笑顔を持って、おまえのところに駆けていこう。
 目を閉じれば、おまえの笑い声が聞こえる。痛いほど強く抱きしめる腕の感触も、深く青い瞳の
やさしさも、広い胸のぬくもりも、すべて、私は覚えている。
 ──それから、その胸に今も下がっているはずの、小さな銀色の指環も。
(愛している、ラルフ)
 私の、ラルフ。
 また逢おう。必ず。
 永久の黄昏の果てる場所で、昼と夜が、光と闇が溶けあう場所で、──おまえと。

- END.-