審判の鎮魂歌

 

 

199 名前:審判の鎮魂歌1/18 投稿日: 2010/04/20() 21:56:21

             1

 どこまでも続く灰色の森の中を、彼は歩きつづけていた。
 いつからここに踏みこんでしまったのか、そもそもここがどこなのか、明確なことは何もわからない。かなり進んだように感じるが、あたりの景色はなにひとつ変わらない。霧の中に亡霊のように並ぶ陰気な木々の群れ、冷たく湿っぽい空気、どこか奇妙な、時間と場所の感覚が逆転していくような、胃のねじれる感覚。
 霧の水滴が睫毛の先に滴を結ぶ。襟元から忍びこんむ湿気を締め出すため、コートの前を締め、襟を高く立てる。腰の武器と、ベルトに刺した小武器を確かめる──聖なる水を詰めた小瓶、十字架、投擲用のナイフ、そして、何よりも重要で、かつ、最大の武器である、先祖伝来の、使い込まれた革の長鞭。
 足もとは乾いた落ち葉と岩から、水を含んだ苔と腐葉に変わっている。足を下ろすたびにじくじくとしみ出してくる水がブーツを濡らし、彼は、短く呪いの言葉を吐いた。
 確かなことは、自分はラルフ・C・ベルモンド、吸血鬼殺しの聖鞭〈ヴァンパイアキラー〉を継承する魔物狩人の血筋を継ぐ最後の一人であり、魔王ドラキュラを討伐するために、たった今も魔王の城へ向かう旅の途上にあること、そして、こんな場所で道に迷ったりしている暇などないということだ。
 あるいはすでに自分は魔王の支配する領域に入りこんでおり、この森もまた、魔王の用意した罠の一部ということか? そうかもしれない。ついさっき──それとも、もうずいぶん前のことなのだろうか──巨大な狼の姿をした魔物に襲われ、応戦するときに、敵の牙にふくらはぎをかすめられ、傷を負ったのだ。
 さほど深い傷ではないし、敵を倒したその場で応急処置はしたが、一歩ごとに引きつれるように痛む。魔物の牙は、たいてい瘴気の毒を含んでいる。手持ちの聖水で洗ってはあるが、これから行く場所では大事な武器にもなる聖水を無駄遣いはできない。自らの鉄の体力と回復力を信じて、このまま進み続けるしかない。
 ラルフの生家ベルモンド家は、その魔物狩りの血による異能力と、常人離れした体力とのために異端視され、断絶寸前の危機にある。

200 名前:審判の鎮魂歌2/18 投稿日: 2010/04/20() 21:57:04

 もし、ラルフが魔王を倒して帰らなかったならば、あの教会のクソ坊主どもは、遠慮なしにすべての責任をベルモンド家におしつけて、一族を火あぶりの刑にかけるだろう。そんなことを、当主として許しておくわけにはいかない。
 先年、父が死んでから当主を継いだばかりのラルフはまだ二十歳の若者でしかないが、その戦闘力と、魔狩人としての能力の高さは、幼いころから父を凌駕し、一族の系譜でも一、二を争うと言われていた。
 それまでベルモンド家を悪魔呼ばわりしていた坊主どもも、この点は認めざるを得なかったに違いない。でなければ、狼に変身して赤子を喰うとまで噂されるベルモンド家の若造に、魔王討伐などという大任を与えるわけがない。
 単に、もはや他に打つ手がなくなった、というだけかもしれないが。おそらくそうなのだろう。三年ほど前から始まった、魔王ドラキュラによる突然の人間への猛攻は、すでに大きな被害をヨーロッパ全土にもたらしている。
 東欧一帯を支配する東方正教会としても、威信にかけて打てるだけの手は打ったのだろうが、それでも、この異端視された魔狩人の一族に頼らなくてはならなくなったということは、それだけ教会が追いつめられていること、もはや体面すら気にしている状況ではなくなっているということだ。
 やわらかい地面に足をとられて木に手をつき、自嘲めいてラルフは唇をゆがめた。
 まったく、虫のいいことだ。これまで魔狩人としてのベルモンドの力に守られながら、平和なときにはその力を怖れて封じ込めようとしてきた坊主や偏狭な村人たちなど、勝手に魔物に喰われてしまえ、と、正直なところ思わないでもない。
 自分たちの身に危険が迫ったからといって、それまで悪魔呼ばわりしてきた相手に、頭をこすりつけんばかりにする人間にはほとほとうんざりだ。どうせ内心では、悪魔の相手は悪魔にやらせればいい、自分たちは御免だとでも思っているのだろう。
 とはいえ、ラルフはやはりベルモンドの魔狩人の血を引く者であり、何よりも、戦いの中に喜びを見いだす、戦士の魂を身に宿していた。悪魔呼ばわりされながら、自分の力を存分にふるう機会も与えられず、うつうつと暮らす日々に飽き果ててもいた。
 魔王はどれだけ強いのか、そして、そこにたどりつくまでに待ち受ける大量の敵との死力をつくした戦いを考えると、愉悦にも似た慄えが身体を走りぬける。

201 名前:審判の鎮魂歌3/18 投稿日: 2010/04/20() 21:57:39

 誰に依頼されたか、何のためか、そんな理由などどうでもいい。ましてや人間を守るためなどというご大層なお題目など、ちゃんちゃらおかしい。
 俺は、戦いたいから戦うのだ。この身体に蓄えてきた力と戦闘術を極限まで使い、生命を絞りつくすほどの戦いをくぐり抜けてみたいのだ。
 それは若さゆえの野心であり、傲慢であったかもしれない。しかし、長いあいだ、幽閉にも似た状態におかれていたベルモンドの若き魔狩人の血は、ようやくいましめを解かれた猟犬のように、奮い立って獲物を求めていた。さっきのあの地獄の猟犬一頭を倒したくらいでは、とても足りない。もっとだ。もっと戦いを。
 この全身の熱い血すら沸騰するような、死力をつくした戦いを。
 苔の生えた石が足をすくった。
 がくんと身体が傾き、傷ついた足にするどい痛みが走る。あやうく身を支えたラルフは、誰にともなく声高に悪態をついた。
 足を確かめると、傷口が開いたらしく、巻いた布にわずかに血がにじんでいた。思わず舌打ちする。いま足を妙なふうにひねったためだろう。
 立ちあがろうとしてまた腰を落とし、今度はもっと大声で罵った。傷のみならず、どこかの筋までひねってしまったらしい。これから行く場所は、万全の状態でさえ生きて帰れるかどうかわからぬ場所なのだ。なのに、そこへ行きつく前に、この程度で足止めをくっているようでは先が思いやられる。
 霧はしだいに濃くなってくる。冷たさが身体の芯に染みこんでくる。
 くそっ、とラルフは思った。せめて、ここから抜けることさえできれば──
 分厚い霧のむこうに、ぼんやりと黄色い光が現れた。
 にじんだような光の靄をあたりに散らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
 反射的に、ラルフは腰に手をやった。もしここがすでに魔王の領域で、この森も罠のひとつであれば、あの光の主もまた、友好的であるはずがない。鬼火か、それとも、もっと悪い別の何かか──
 光が揺れた。

202 名前:審判の鎮魂歌4/18 投稿日: 2010/04/20() 21:58:27

 霧を押し分けるようにして、人影がぼんやりとした輪郭をあらわした。片手に灯のともったランタンを持ち、頭から灰色の長いローブをかぶっている。顔はよく見えず、体つきもよくわからないが、すらりとした長身のようだった。フードの裾からこぼれ落ちた長い髪は銀色で、ランタンの光を、かすかな虹色に反射している。
「何者だ」
 立木に背を押しつけながら、ラルフは鋭く誰何した。
 少なくとも、殺気は感じない。
 だからといって、気を抜いていいわけではないのは骨身にしみている。生命のない自動人形に殺人を行わせることなど、魔王にとっては朝飯前なのだ。
 ランタンの主は数歩離れた位置で足を止め、傷ついた獣のように歯をむくラルフを値踏みするように見つめた。ラルフは唸り、血のにじんだ脚を隠そうとして、かえって不自然に関節をひねった。激痛が走る。呻きを押し殺したのは、ここが敵地だという意識と、目の前の相手に弱みを見せてはならないという意地の一念だった。
 ランタンの持ち主はなおもしげしげとラルフを見つめていたが、いきなり、すべるような動きで近づいてきた。
 迷いも警戒もいっさいないすばやく優雅な足取りで、ラルフに鞭を手にとる余裕すら与えなかった。気がついたときにはランタンはそばの木の根の上に置かれ、持ち主は地面に片膝をついて、傷ついた脚の上にかがみ込んでいた。
「お、おい……?」
 白くて細い、美しい手が傷をなぞるように調べている。垂れさがった銀髪は、ラルフがこれまで見たこともないような、透きとおる月光の色をしていた。
 かすかな香りが鼻孔をかすめる。相手の服か、それとも身体に染みついているのか、甘やかで、荒れた気持ちが自然になだめられていくような香りだった。
「おい……誰だ? お前──何者だ?」
 相手は黙ったままランタンを取りあげると立ち上がり、ラルフに手を差しだした。反射的に握ると、ぐいと引きおこされた。

203 名前:審判の鎮魂歌5/18 投稿日: 2010/04/20() 21:59:00

 華奢な手の造りから、相手を女だとなんとなく思っていたラルフは、思いがけない相手の力の強さに度肝をぬかれた。ラルフの体格の良さは、男としても群を抜いている。体重に加えて、装備の重さもかなりのものだ。それを、片手一本で、わら人形でも引っぱり起こすように軽々と引き上げてみせるとは──
「いい。自分で立てる」
 肩を貸そうとするランタンの持ち主を、すげなく振り払う。脚を引きずりながらではあるが、自力で歩けないわけではない。まだ敵か味方かもわからない相手に、安易に肩を貸されるほど、ベルモンド家の男は落ちぶれていない。
 ランタンの主は気を悪くした様子もなく、つと背を向けて、肩越しに視線を送った。
「なんだ? ついてこい、っていうのか?」
 返事はなく、ランタンはそのまま揺れながら、先に立って霧のむこうへ進みはじめた。
 一瞬ためらったのち、ラルフは思いきってあとに続いた。このままここにいても、事態がよくなるわけではない。それなら、たとえこれが助けを装う罠であっても、なにか変化のありそうなほうに掛けるのが上策というものだ。
 先に立つランタンの光に導かれ、ラルフは脚を引きずりながら、じくじくと水のしみ出す霧の森の中を抜けていった。

            2

 小屋は暖かく、炉には勢いよく火が焚かれていた。
 火の上には鍋がかけられ、いい匂いのする何かが煮立っている。壁には束ねられた薬草らしき、乾燥した植物の束がいくつもかけられ、さわやかな香気を放っている。飾り気はないが何もかもがきちんと整頓されており、あたたかな橙色の光が部屋のすみずみまで満ちている。湿って冷たく、うす暗い扉の外とは、まるで別世界だった。
 ランタンを消して机の上に置くと、主はラルフを背もたれのある木の椅子に座らせた。問いかけようとするラルフを手で制し、頭を覆っていたフードをさらりと落とす。
 ラルフは声を失った。

204 名前:審判の鎮魂歌6/18 投稿日: 2010/04/20() 21:59:31

 これほどまでに美しい人間──いや、本当に人間なのか?──を、ラルフは今まで目にしたことはなかった。
 細くすっきりと通った鼻梁に、磨きぬいた雪花石膏の肌。伏せた長い睫毛の下は、氷の底の淡青。小さな唇は完璧な曲線を描き、ほのかな朱色に息づいている。ゆるく波打つ銀髪は背のなかばを越すほどに長く、それが火明かりに照らされて、かすかな金色に照り映えながら流れ落ちるさまは、ことのほかすばらしかった。
 垂れかかる前髪をかき上げ、脱いだローブを壁にかけると、簡素な黒の胴着と細身の下衣、革の長靴という服装があらわになった。
 女……いや、男か、とラルフは見当をつけた。
 そこらへんの女など足もとにも寄れないほど美しいし、挙措のいちいちが見惚れるほどに優雅だが、服装を含め、体つきはかなり細身ではあるがれっきとした男のものだし、なにより、全体に漂う凛とした雰囲気が、女々しさを完璧に否定している。
 男であることを明らかにした銀髪の青年は、持ち手つきのカップに鍋の中身を注ぐと、ラルフに手渡した。
 眉をひそめて湯気を嗅いでみたが、別に怪しい匂いはしない。香草と肉のスープらしい、食欲をそそる香りがするだけだ。
 最初は用心しながら、やがて、夢中になってスープをすするラルフを、青年はどこか懐かしげな、愛情と苦痛のないまぜになった瞳で見ていたが、やがてつと背を向け、棚からいくつかの品物を取り下ろした。
「あ、こら」
 夢中でスープを飲んでいたラルフは、いきなり脚もとにかがみ込まれてぎくりとした。いつの間にか、ここは敵地で、相手が本当に味方かどうかわからないなどという疑念を、すっかり忘れていたのだ。
 青年はまたじっとしていろ、というような身ぶりをすると、ラルフの傷ついた脚の包帯を解きにかかった。反射的に身を引こうとしたが、断固とした身ぶりで止められた。
 手つきはごくやさしく、慎重だったが、乾いた血のこびりついた布が傷から剥がされるときは、さすがにラルフも唇をかんで声を殺した。

205 名前:審判の鎮魂歌7/18 投稿日: 2010/04/20() 22:00:03

 赤く腫れ上がった傷口がさらけだされた。やはり、聖水一本で洗ったくらいでは足りなかったらしい。浄化のきかなかった毒が治りを遅らせている。致命的ではないが、この先の戦いに、治りきらない傷をかかえて入っていくのは無謀以外の何物でもない。
 傷の状態を見て青年は眉をひそめると、立ち上がり、棚からさらにいくつかの瓶や道具を取り下ろした。
 小盥に熱い湯を入れてきて、湯に浸した布で丹念に傷を拭う。湯には何らかの効果があるらしい、砕いた薬草や、色のついた石のかけらが沈んでいた。
 湯は傷にしみたが、それよりも、布にぬぐわれるとともに、痛みに加えて足の痺れや引きつりまでもがきれいに消えていくのに、ラルフは驚愕した。見ている間にも腫れが引き、青黒く変わり始めていた傷口のふちがきれいになっていく。
 傷の処置が終わって、新しい包帯をきちんと巻き直してしまうと、今度は痛めた足首を調べにかかった。今度はラルフも警戒しなかった。
 足首の方はそれほどひどくなかったらしく、瓶からとりだした粉を何かの練り粉に混ぜ、布にのばした湿布を貼られるだけで済んだ。
 湿布の上からこちらも丁寧に布で巻いてしまうと、ようやくほっとした、というように、青年は床に座ったまま、ラルフを見あげた。
 その、あまりにまっすぐな蒼氷色のまなざしに、心臓にまともに一撃を食らったような気がした。
 なんという瞳だ! 見つめているとまるで魂もその中に吸いこまれてしまいそうな、身体ごとその底知れぬ深みに落ちこんでしまいそうな、神秘と憂いに満ちた瞳。
 ひどくもの言いたげなのに、言葉にしきれない想いがあふれてこぼれそうになっている。かみしめた朱唇がかすかに震えていた。ラルフは思わず手をのばし、青年の両頬をつかんで上向かせた。細いあごが上がって、襟に隠されていた喉もとがあらわになった。
 ラルフの口からはげしい呪いの言葉がほとばしった。
 青年はびくっとし、あわてて身を引いて襟をかき合わせたが、ラルフはすでに見るべきものを見てしまっていた。
「お前、その封印はだれにやられたんだ? 魔王にか? お前──お前ももしかして、魔王にここに閉じこめられてるのか?」
 青年は弱々しくかぶりを振ったが、ラルフは信じなかった。彼の目は、青年の白い喉首にまるで首輪のようにぐるりと刻みつけられた、茨の輪を思わせるまがまがしい呪印を、はっきりととらえていたのだった。

206 名前:審判の鎮魂歌8/18 投稿日: 2010/04/20() 22:00:36

 目にしただけでも、そこにこめられた魔力の質と強さはわかった。あれは闇──それも強力な闇、魔王自身か、それに準ずる魔族でもないかぎり、あんな封印をかけられるものはいない。
「お前、そういえば、出会ったときから一度も喋らないな。その封印で、声も封じられてるのか──そうなんだな?」
 青年は視線をそらし、うつむいた。それが答えだった。ラルフの胸に新たな瞋恚のほむらが燃え立った。
「俺は魔王を討伐しに来たんだ。魔王ドラキュラを」
 口早にラルフは言った。
「魔王を倒して、お前のその封印を解いてやる。魔物も魔族もぜんぶ始末して、お前をここに縛りつけている鎖を切ってやる」
 青年はふたたびかぶりを振った。
 絶望と哀しみのこもったそのしぐさに、ラルフはよけい怒りをつのらせた。身を引こうとする青年の腕をつかみ、その細さに背筋にあやしいおののきが走るのを感じた。
「ここで待っていてくれれば、俺は必ずもどってきて、人間の世界にお前を連れて帰ってやる。そうだ、行くところがないなら、俺のところに来ればいい。これでもいちおう土地持ちなんだ、そうは見えないかもしれないが──
 いきなりふわりと銀髪が顎をかすめて、ラルフは言葉を切った。
 青年がラルフにすがりつき、胸に頭を押しつけていた。痛いほどに両腕に指を食いこませ、垂れかかる髪に表情を隠している。細い背中が震えていた。
 ラルフはそれを、解放への希望と、それが裏切られるかもしれないことへの恐れだと解した。なだめるように背筋をさすってやる。
「心配するな。俺は強い。魔王だろうがなんだろうが、必ずこの手で討ち破ってみせる」
 子供に言いきかせるように言葉をつぐ。
「なあ、魔狩人のベルモンドの名を聞いたことがあるか。俺はその一族の末裔なんだ。ほとんど絶えかけてはいるが、血はまだ衰えていない。魔王は魔物の群れを放って、手当たり次第に人間を殺しまくっている。俺が魔王を討伐すれば、怪物呼ばわりされているベルモンド家の再興にもつながる。俺は、負けるわけにはいかない──
 負けるわけにはいかない。その言葉が、はじめてラルフの中に実感を持ってひびいた。

207 名前:審判の鎮魂歌9/18 投稿日: 2010/04/20() 22:01:13

 そうだ、俺は負けるわけにはいかない。人間を守るためでも、ましてやあの教会の坊主どもの命に従うためでもなく、ここで、今この胸にすがっている、銀色の美しい生き物を呪いの軛から解き放つために、俺は、勝たなければならない。
「だから、大丈夫だ。怖がらなくていい」
 すがりついてくる青年の肩をそっと押して、顔を上げさせる。氷の蒼の瞳に、涙があふれていた。なめらかな白い頬に、ひとつ、またひとつ、涙が筋をひいて落ちる。
「泣くな」
 涙を拭ってやろうとして、ふと手がとまる。この、壊れやすい細工物のような繊細な生き物に触れるには、あまりに自分の手は無骨にすぎるように思われた。
 一本の指をそっと伸ばして、注意深く涙をすくい取る。
 それでもまだ乱暴に感じられた。戦いに荒れた指は、この傷一つない薄い肌にはざらつきすぎている。
 ほとんど何も考えずに、身を乗り出し、唇で目尻をたどった。塩辛い、苦い滴が舌に触れた。こんなものを彼に流させた者に対する怒りが、あらためて燃え立った。
──……お前が泣くと、俺は──
 自分は何をしているのだろう。ここはどこなのだろう。
 そんなことはほとんど意識の外に追い出されていた。ラルフの胸にあるのは、今、腕の中で震えているきゃしゃな生き物を捕らえている者への怒りと、苦しいほどの──自分でも、なんと呼ぶか知らない──心臓が引き絞られるような、痛みだった。
──俺は、……どうしていいか、わからなくなる……
 囁きながら、ラルフの唇は涙のあとをたどって、ゆっくり頬をすべっていった。
 震える睫毛が頬をかすめ、青年のしなやかな身体のおののきがそのまま腕に伝わってきた。何かを告げようとしてかなわぬまま、なかば開いた唇に、ラルフは誘われるように、自らの唇を重ねていた。

208 名前:審判の鎮魂歌10/18 投稿日: 2010/04/20() 22:01:47

 夢を見ているのだろうか、と思った。
 だが、手の下で大きく上下しているなだらかな胸と、絹のようにしっとりとした汗ばむ肌の感触は確かにそこにあった。
 長い銀髪が床に広がり、銀糸で織られた敷布のように周囲をおおっている。火の燃える炉端は汗ばむほどに暖かく、体内に高まる熱をますますあおり立てた。のけぞった白い喉に、黒々と刻まれた呪いの首輪が見える。ラルフは身をかがめ、魔のしるしの枷に歯を立てて、ぴくりとひきつる身体と舌を刺す魔力の波動を同時にあじわった。
 本来なら、あるべきことではなかった。あるはずもないことだった。
 聖書のもとで育てられた人間として、ラルフも人なみに禁忌の感覚は持っている。教会に盲従する人々ほど厳格なものではないにせよ、いま自分がしていること、男として、同じ性を持つ相手を性愛の対象にすることが、教会の教えのもとで、どれほどの重罪かを知る心くらいはある。
 加えて、普通の健康な男として、ラルフはもっぱら女性に興味があるのであって、男や少年を相手にする男色家など、頽廃の末に禁忌を破ることにしか興奮を見いだせなくなった貴族か、偽善者の坊主どもがなるものだと思っている。ましてや実際に自分が男を抱くことがあるなど、考えてみたこともなかった。
 なのに今、自分はそれをしている。
 服や武器は床に投げ出され、大事な鞭は椅子の背にかけられたままだ。もしこの相手が敵であり、この小屋自体が罠だったとしたら、今、ラルフの喉をかき切ることは子供の手をひねるようなものだろう。
 だが、やめることはできなかった。甘く、若木のようにしなやかな肉体に、我を忘れてラルフは溺れた。愛撫をほどこすごとに切なく喘ぎ、吐息をもらす唇から、かすれた呼吸音しか漏れてこないことを残念に感じ、声を聞きたい、その唇から、甘いすすり泣きとともに自分の名前が呼ばれるのを耳にしたいと、心の底から思った。
「泣くな」
 涙はまだ流れつづけていた。ラルフに抱かれながら、青年はずっと、声もなく涙を流しつづけているのだった。裸の胸をあわせ、唇をかさねて、やわらかな濡れた舌を味わって、ラルフはまたくり返した。

209 名前:審判の鎮魂歌11/18 投稿日: 2010/04/20() 22:02:37

「なあ──泣くな。泣かないでくれ。何が哀しい? どうして泣いているんだ……?」
 青年はかたく目を閉じ、滴が散るほどに強くかぶりを振ると、はげしい力をこめてラルフの胸に顔を埋めた。新たな涙が熱く肌を濡らす。
「おい……?」
 言いたくないのか、それとも言えないのか。細い喉を締めつけている環から解きはなってやることさえできれば、答えを得ることもできように。
 そう思うと、いっそう愛おしさがつのった。つい半刻まえまでは顔も見たことのなかった相手を、なぜこれほどまで愛しいと思えるのか不思議だった。この気持ちにくらべれば、今までしてきた恋愛など、遊戯に等しい。
 止まらない涙をもう一度接吻で拭ってやる。この涙を止めてやれるならどんなことでもしたいと思い、彼を縛っているあらゆるものから自由にしてやりたいと思う。そして相反するように、自分の手の内に閉じこめて、だれにも見せたくない、触れさせたくないという欲望が胸に蠢く。
 その昏い思いが独占欲と呼ばれるものであり、ともすれば、いま彼の喉を締めつけている黒い呪いの首輪と同質の影を帯びるものだという自覚もある。誰にも触れさせたくない、見せたくない。守ってやりたい、どんな傷からも、痛みからも、苦しみからも──
……ん? 指環?」
 両手で頬を包まれながら、青年が、ラルフの指にはめられた大ぶりの金の指環に愛おしげに頬を寄せているのに気がついたのだった。まるで旧知の者の形見にでも出会ったかのように、懐かしさと苦悩の入りまじった表情で、幾度も頬をすりよせる。
「指環か? こんなもの欲しいのか? だったら」
 抜きとって渡そうとするラルフを、あわてたように青年は首を振って押しとどめた。もとどおり指にはめさせ、安心したように、またそこに頭を寄せる。
 わけもわからず、ラルフは拍子抜けした。別に特別な指環ではない。単に、ベルモンド家当主の印として父から受け継いだ古い印章指環で、金製ではあるがさほど上物ではないし、すり減って傷だらけで、ほとんどなんの価値もない。今はめているのも習慣のようなもので、欲しいのなら別にやってしまってもよかったのだが……

210 名前:審判の鎮魂歌12/18 投稿日: 2010/04/20() 22:03:12

 ラルフが眉根を寄せているのに気がついたのか、青年は指環から離れ、伸び上がるようにしてラルフに口づけてきた。小さな舌に唇をたどられると、ささいな疑問などすぐに消しとんだ。ふたたび青年を床に横たえ、伸びやかな脚をつかんで広げる。
 その間に、自分と同性であるあかしが息づいているのを見ても、嫌悪感はまったくなかった。むしろ、淡い銀色の茂みから何かの花のつぼみのように勃ちあがり、薄紅色に染まってふるえている性器を目にして、なんと美しいのだろうと思い、再度、荒々しい欲望が身のうちを突きあげるのを感じた。
 引き締まった臀をたどり、その奥処に指をすべらせる。青年は身じろぎして半身を起こすと、逃れるように身体をずり上げ、自らラルフの首に両腕を巻きつけて、腰を脚で巻いた。ラルフはあわてた。
「おい、待て、それは──
 本来受けいれる場所でない部分に異物を押しこまれるのがどれだけ辛いかは、経験がなくとも想像はつく。男相手にではないが、以前寝たことのある娼婦がそこを使いたがる客についてひどく愚痴っていたこともある。何か潤滑剤を使うか、でなければ、指でよく解してからでないと、ひどい苦痛を強いるはず──
 しかし青年は強く首をふると、自分から、ラルフの猛り立ったものの上に、自分から腰を落とした。
 あまりの快美に、喉の奥から声がもれるのを押さえることができなかった。青年の中は狭くてきつく、絞り上げるようにラルフを包んでいた。挿入した一瞬、なめらかな背筋がびくりと引きつるのを感じて、思いきり強く抱き寄せる。
 びくびくと震える身体は、さすがに慣らしもせずにいきなり奥深くまで男を迎え入れたせいだろう。苦鳴をこらえているのか、耳元をくすぐる呼吸が荒い。愛しさと快楽に息もつまりそうになりながら、ラルフは何度も髪を梳き、背をさすって、自分でもほとんど意味のわからない言葉をささやいた。少しずつ、腕の中の身体から力が抜けていく。
 動きはじめたのがどちらからだったのかはわからなかった。きつく締めつけていた内壁はやわらかく絡みついて、気の遠くなるような快楽の淵にラルフを誘った。
 あぐらをかいた膝の上に軽い身体をのせて揺すぶりながら、ラルフは乱れる銀髪に頬ずりし、耳朶に口づけて、泣くな、もう泣くな、と囁きつづけた。
 俺がここにいる。だから、もう泣くな。

211 名前:審判の鎮魂歌13/18 投稿日: 2010/04/20() 22:03:47

 追い上げられた快楽が、やがて極限にまで達する。白い身体を抱きしめ、その奥深くに精を吐きだした瞬間、ふっと意識が遠くなった。かすんだ視界に、こちらを見つめる青年の氷蒼の瞳と濡れた頬が映った。
 泣くなよ、なあ、とかすれた声で呟き、その頬を拭ってやろうと手をのばしかけたところで、ラルフの意識は途切れた──最後に、相手の唇が、『ラルフ』と、教えたはずのない自分の名を形づくったという、奇妙な印象を残して。

                3

──お済みですか。涙の再会は」
 背後から、からかうような声がした。
 灰色の霧にとざされた森に、〈彼〉はいた。
 小屋はなく、燃える火も、明かりも家具もない。荒涼たる単色の光景に、一点、にじむように黒衣の姿がある。
 長い銀髪には霧がしがみつき、露がおりたようにしっとりと湿っていた。頭をあげ、反論するように唇を開きかけたが、声が出ないのに気づいて、つと首筋に手をあてた。そこには黒々ときざまれた封印の印が、茨の首輪のようにからんでいる。
 細い指はこともなげにそれをつまみ、引きはがした。はがされた呪印はいっとき指先で生き物のように鳴いてのたうったが、〈彼〉はそれを小虫でも扱うように握りつぶした。小さな悲鳴と硫黄の臭いが漂い、黒い粉が散った。それだけだった。
……再会ではない」
 ようやく出た声はかすれていた。小さく咳きこんでから、〈彼〉はまた、「再会ではない」とくり返した。
「彼はまだ、私に会っていない。彼は、『これから』私に会うのだ。だからこれは再会ではない。ただ、彼が旅の途中で夢を見ただけのこと」
「しかし、あなたにとってはそうではないでしょう、公子殿?」
 ──アルカードは振り返って、相手を睨んだ。
 奇妙ないでたちの男だった。淡い金髪で、抜けるように白い肌をしている。年齢はおそらく若いのだろうが、眼鏡の奥の容易に感情をのぞかせない瞳は、妙に老成した色をもっていて、正確な歳は判断しがたい。
 上下ともに白ずくめの衣装をまとい、巨大な時計に剣をつけたような、異様な武器とも杖ともつかないものを手にしている。懐から出した懐中時計を片手でもてあそび、唇にはいつも、人を小馬鹿にしたような冷笑があった。
「あなたは彼に出会った。あなたにとっては四百年も前の昔に。彼はあなたと出会い、ともに戦い、愛し合った。だが人間と魔族とでは、棲むべき世界が違いすぎる。彼のためにあなたは身を引き、永遠に醒めぬと──ま、その点はあなたの計算違いだったわけですが──きめた眠りについた。違いますか?」
 アルカードは無言だった。答える必要のない質問に応じる気はない。ただ片手を出して、「返せ」と短く告げた。
 相手は肩をすくめ、どこに隠し持っていたものか、見事なこしらえの一振りの長剣と、鎖につけた大ぶりの金の指環を取りだした。
「はい、どうぞ。確かにお返しいたしますよ」
 ひったくるようにアルカードは二つの品物をとり、剣を腰に提げ、頭から鎖をかけた。
 先についた重い印章指環を両手で受けとめて包み、そっと唇を触れてから、服の内側に大切に落とし込む。胸の上に指環が落ちついたのを触って確かめ、ほっとしたように深い吐息をついた。相手は面白そうに眺めている。

212 名前:審判の鎮魂歌14/18 投稿日: 2010/04/20() 22:04:25

「それにしてもわかりませんね」と彼はまた言った。
「何もあなたが出てくることはありませんでしたよ。まあ、我々としては、強い精神の持ち主であれば別に文句はないですし、その点、貴方なら申し分ないのはもちろんですが、むしろ貴方の時代からは、リヒター・ベルモンドを呼び込もうと思っていたんですがね。
 ベルモンド家の一統は、人間の血のうちでは最強と言っていい力を持っている。ことに、あのリヒターという若者の力は端倪すべからざるものだ」
「リヒターはまだ死神に受けた洗脳の痛手から立ち直りきっていない」
 強い口調でアルカードは相手の言葉をさえぎった。
「あれは、まっすぐな男だ。かえって自分のためにならないほどにまっすぐで、純粋で、繊細な心を持っている。たとえここの記憶が夢のようなものになるとしても、一度魔の力に精神をいじくられたリヒターを、ふたたび危険にさらすことはできない。マリアがいるというならなおさらのことだ。彼はいくら夢や幻であっても、自分の義妹に向かって武器をふるうような真似のできる男ではない」
「あれは貴方の知らないマリア嬢ですよ。まだ十歳です」
「ならばなおさらだ。できることならマリアも、他の人間も連れてこさせたくなかった」
「それは申し訳ないことをしました。しかし、貴方のお申し出を受けたのはずいぶん遅かったのですよ。まあ、早い遅いというのは相対的な話で、我々にとってはあまり意味を持たないのですがね。ここに来ていただいたという意味では、あなたはほぼ最後のお一人なんです。貴方のお父上もすでにいらっしゃっていますよ、そのことは最初に申しあげたはずですが。二度までならず三度までも、貴方がお父上と剣を交えることを承諾なさるとは、正直言ってこちらも思っていなかったのですがね」
 アルカードは唇をかみ、空中にむかってさっと手を振った。
 虚空から、巨鳥の翼のように黒いマントが取り出されて身をおおう。飾り気のない黒い胴着に、花のように飾り襞や装飾品、金糸の縁取りが萌え出でた。
 瞼を閉じ、ふたたび開くと、現れたのはすでに人間の目ではなく、解き放たれた魔力によって黄金に煮えたぎる、魔性の瞳だった。
 瞳孔は縦に長く切れ込み、灰色の薄闇の中に爛々と燃えている。豪奢な衣装に身を包んだ闇の貴公子が、長い銀髪をなびかせてそこにいた。

213 名前:審判の鎮魂歌15/18 投稿日: 2010/04/20() 22:04:59

「しかしまあ、人間というのは奇妙なものですね」
 相手は奇妙な武器に顎をあずけて、感慨にふけるようにしみじみと言った。
「もっとも、あなたは半分だけ人間でいらっしゃるから、よけいに奇妙なお振舞をなさるのかもしれませんが。……なぜまたリヒター・ベルモンドの代わりになる交換条件に、こんなおかしなことを出されたんです?」
 アルカードは答えなかった。視線はどこか遠くをさまよい、灰色の霧のむこうに何を捜しているのか、茫漠としたまなざしを木々の間にむけている。
「我々が連れてきた『ラルフ・C・ベルモンド』は、最初にドラキュラ城にたどり着く前の旅の途上、つまり、貴方と出会う前の人間であるということは最初に申しあげましたね。たとえ会っても相手は貴方のことなど知らないし、こちらとしても、貴方が未来を彼に告げることは、たとえそれらしいことを匂わせるような一言でさえもらしてはならない、と言っているのに、あなたはそれをお望みになった。
 自らの手で、自らの声を封じる封印までかけて、自分を知らないかつての──まあ、ここではそう言っておきましょう──かつての恋人に、会うことを望まれた。これから彼がどうなるのか、彼と貴方自身がどう出会い、どのような道を進み、どのような別れを迎えるのか、すべて知っていながら、それでも。まったく理解できませんよ」
 肩をすくめて、白衣の青年はかぶりを振った。
「自分を知らない恋人と会って、何が楽しいというんです? それも、相手と言葉を交わすこともできず、この先何が起こるかも告げることも許されないというのに。傷口に塩を塗りこむどころか、生傷にナイフを突きたてて抉るようなものじゃありませんか。
 それにどうせ、ここでの記憶は夢になって消えてしまうんです。貴方のように魔力を血に受けついだ方は違うかもしれませんが、ラルフ・C・ベルモンドは完璧に忘れますよ。ベルモンド家の者とはいえ、しょせんは彼も人間にすぎませんからね。どうせ消え失せるほんの一時の逢瀬のために、わざわざ自分の苦痛を増すような真似をなさるとは、いやはや、自虐的というか、自罰的というか──
 ヒュン、と空気が鳴った。
 白衣の青年は言葉をとぎらせ、目の前に光る白刃を見た。アルカードは振り返りもせず、片手で抜きはらった長剣を、相手の喉につきつけていた。

214 名前:審判の鎮魂歌16/18 投稿日: 2010/04/20() 22:05:35

「その、よく動く口を閉じろ」
 抑揚のない声でアルカードは言った。
「私の行動の理由など、貴様には関係のないことだ。貴様と、貴様の仲間が何を企んでいるのかは知らないが、これだけは言っておく。貴様は私が倒す、アイオーン。たとえ誰と、父やラルフと剣を交えることになっても、貴様だけは。必ず」
──たいそうなご立腹で」
 喉元に手をやりながら、アイオーンと呼ばれた青年はよろめくように数歩さがった。あざけるような冷笑はまだ唇のはしに貼りついていたが、きちんと締めたタイをつかんだ指先は、かすかに震えていた。
「まあなんにせよ、やる気になってくださったのはいいことだとしましょうか。──では、闘技場でお待ちしていますよ、闇の公子殿」
 ふっと声が遠くなった。
『他の方々もそろそろお揃いのはずです。最後の舞台で、貴方にお会いできるのを楽しみにしていますよ、魔王ドラキュラの嫡子にして父殺しの、──公子、アルカード様』
 マントが大きくひるがえった。
 長剣の一閃はあたりの草をなぎ払い、渦巻く霧に一瞬はっきりとした裂け目を作った。一瞬遅れて、幹を両断された大木がゆっくりとずれ、重々しい音をたてて倒れた。
 だが、人間の姿はどこにもなかった。遠く、はるか遠くから、楽しくてたまらないといった笑い声がかすかに木霊してきた。
 アルカードはしばし剣を振りぬいた体勢を崩さなかった。
 しばしののち、ようやくゆっくりと身を起こし、剣をおさめた。天を振り仰いで瞳を閉じた横顔は、うって変わった寂寥と苦悩にいろどられていた。
 あのアイオーンと名乗る男が現れたとき、精神的な傷の癒えないリヒターの代わりに自分を使えと言った言葉は嘘ではない。本来ならば、自分自身もここに赴くつもりはなかった。最初に出会った時に、追い払っておくべきだったという悔恨はいまもある。
 だが、ただひと言が、絶対拒否を固めていたアルカードの心をつらぬいたのだ。
『いいでしょう。もし貴方が私と来てくださるというのであれば、公子、貴方のお望みをひとつだけ叶えてさし上げましょう。亡くなられたお母上にお会いになるのでも、まだ正気でおられたお父上のもとをお訪ねになるのでも、どうぞ、ご随意に』

215 名前:審判の鎮魂歌17/18 投稿日: 2010/04/20() 22:06:10

 剣をおさめた手を額にかざし、きつく押さえる。
「ラルフ」と、声にできなかったその名を、か細くひとり呟いた。
 傷に塩を塗り込む。生傷にナイフを突き立てる。その通りだ。
 あの『ラルフ』は、アルカードを知らない『ラルフ』だ。これからドラキュラ城へ赴き、その場内で、過去のアルカード自身と出会うはずの、過去の『ラルフ』。
 あの『ラルフ』には、顔の傷がなかった。当然だ、これから彼はその傷を、魔王ドラキュラとの戦いによって負うのだから。
 そして指には、指環があった。いま、アルカード自身の胸に下がっているのと同じ指環だ。あの短い箱庭の天国の日々で、たがいに交換した指環のかたわれだ。
 これから彼と出会い、ともに戦い、愛し合うようになる過去の自分にすら、嫉妬せずにいられない自分が呪わしい。その先に何が待っているか、あの、胸に食い入る苦悩と生身を引き裂かれるより辛い別離を知っていてすら、もう一度彼に会えるのならば、どんな代償を払っても惜しくはない。
 たとえそれがかえって自分の苦痛を増すだけの行為だとわかっていても、アイオーンの誘惑するような囁きを聞いたとき、もう一度、かの声を耳にし、かの腕に抱かれ、かの肌に触れたいという望みを、どうしても口にせずにはいられなかった。
 なんという、未練な、あさましい、醜い執着心──
 ……あのアイオーンという男は、ある理由から、さまざまな時代から強い精神と肉体の持ち主を集めていると言っていた。
 その強者どうしが戦うことによって生み出される一種の熱量が、彼らの求めるものらしいが、その使い道をうんぬんすることは、まだ今のアルカードにはできない。それができるのは、おそらくすべての対戦相手を倒し、最後の戦場で待っているはずの、あのアイオーンを倒した時だろう。
 戦いの場として設定された闘技場は一種の時間のはざまのような場所で、闘争に負けたものは死ぬのではなく、ただもとの時間に戻されるだけという話だった。
 どこまで信じられるかはわからないが、確かなのは、すでにこの空間に連れてこられた者たちを解放して在るべき場所に戻してやるには、彼らをすべて打ち倒さなければならないということだ。ラルフや他の人々、ここにもいるという父、ドラキュラも含めて。

217 名前:審判の鎮魂歌18/18 投稿日: 2010/04/20() 22:17:10

 服の上からもう一度、そっと指環に触れる。今ではラルフそのもののように思える愛の証は、たのもしく、しっかりと、胸の中心に収まっている。
「私を導いてくれ、ラルフ」
 そっと、彼は呟いた。
「愚かな感傷に、もはや、私がまどわされぬように──私を知らぬおまえが、正しく『私』と出会えるために──すべてを正しい場所に戻し、人を弄ぶあのアイオーンとやらの意図を叩き潰すために、見守っていてくれ。私の、ラルフ」
 もはや、迷いはなかった。もう一度胸の上から指環をさすり、決然として、闇の公子は頭を上げた。金色に燃える瞳は闘志に満ち、迷いをその裡に灼きつくして。


 ラルフ・C・ベルモンドは、ふと眠りから覚めた。
 はね上がるように身を起こす。敵地で眠ってしまうとは、油断するにもほどがある! ベルモンド家の男として、あってはならないことだ。ことに、ここがどのような場所かも、どんな罠が張りめぐらされているかもわからない場所で……
 ふと、動きを止めた。脚が痛まない。
 脚をさぐってみると、巻かれた布が手に触れた。
 自分で巻いたのだろうか? どうもよく思い出せない。何か、夢を見ていたような気もするが、はっきりしない。どれくらい眠っていたのか、俺は?
 布はずいぶんきっちりと巻かれていて、自分で処置したにしてはずいぶん丁寧に手当てされているように思えた。確か、足首も痛めていたような気がするが、そちらもきちんと布が巻かれている。どちらもまだ巻き立てのように白く綺麗で、巻いたまま長い距離を歩いたようにも思えない。
 どうなっているのだ?
 首をかしげたとき、ふと、左の頬を温かいものが伝うのを感じた。
「あ……?」
 指でぬぐって、かざしてみる。透明な雫が、ゆっくりと手を伝い落ちた。
──……?」
 拳でぐいと拭う。しかし、止まらなかった。涙、しかも、左目からだけ。とめどなくこぼれて頬を伝い、顎からしたたり落ちて服を濡らす。
「なんで──涙、が……
 何か、ひどく大事なことを忘れてしまったような気がしていた。左目からだけ流れる涙が、ますますその思いを強くした。流れる銀色の髪がちらりと頭をよぎった。それから哀しげな氷の青の瞳、橙色の火に照らされた、白くしなやかな裸身が。
 しかしそれもすぐに、あたりをぼんやりと覆う霧同様、灰色の記憶のむこうに、ばらばらになって消えてしまった。
「行かなくては……
 かすれた声で呟く。灰色の霧はいつのまにかラルフの思考にまで侵入し、先へ進むという意志、そして、闘争心以外のすべてに覆いを掛けてしまっていた。
 左目の涙はまだとまらない。
 胸に空洞が開いたような、ひどくうつろな気持ちを抱いたまま、ラルフはよろよろと歩きはじめた。霧の漂う時空のはざまを、まるで手招きするかのように彼方に見え始めた、黒々とした、闘技場の鋼鉄の門に向かって。