サーヴァント・ワルツその3

 

 

173 名前:サーヴァント・ワルツその3 1/22 投稿日: 2007/09/30() 21:31:07



「バっ──」
「お言葉ですけれど、ペトラス修道士様」
 テーブルをひっくり返さんばかりにわめきかけたリヒターの怒鳴り声は、マリアの強烈な蹴り一発
で喉の奥へ押しこめられた。
 マリアの瞳もまた、押し殺した怒りと戦慄でらんらんと光っていたが、少なくとも、内心の動揺は
その燃える瞳以外のどこにも現れていなかった。震えてもいない声で、彼女はごく冷静に続けた。
「わたしは自ら義兄を探しに行き、ドラキュラ城で彼を発見しました。そして、それが闇神官の陰謀
であることを知って、確かに、ある人物に協力を求めました。同じくドラキュラ城の復活を察知し、その原因を探るために、城内に足を踏みいれていた人物とです。
 その人物が誰であったかは、ここでは申しません。すでにあなた方は答えを入手しておられるよう
ですし、たとえここでわたしが違うと言っても、けっしてお信じにはならないでしょうから」
 燃えるような緑の瞳をきっと三人の修道士に据える。
 ジェローム師はびくっとしただけでなんとか平静を保ったが、ペトラス修道士はあわてて目をそら
して何か祈りの言葉を小さく唱えた。まったく平気だったのはアンセルム修道士だけで、彼一人は食
堂の緊迫した空気にはかかわりがないといった顔をして、のんびりと葡萄酒の残りを味わっている。
「けれども、この場で彼の名前を出すことはお門違いです。彼とは崩壊したドラキュラ城の前で別れ、それきり、消息すら耳にしていません。いずれにせよ、ラルフ・ベルモンドの時代がいつだった
かご存じですか? 四百年も前の人間が、今の時代に存在などしているはずがないではありませんか」
「闇の血を継いだ者は、人間の及びもつかない長寿と呪われた力を持つのだ」
 ジェロームが毒々しい口調で言った。その目は動かないアルカードの姿を、なめるように上から下
まで見つめている。
「その魔王と人の女の間に生まれた闇の子は、体内に流れる呪われた血のために魔王そのものと同様
の不老不死の肉体を持ち、また、文書に遺された古い記録によれば、一目で人の魂を奪わんばかりの
美しい容姿を持っていたとある……長い銀髪、青い瞳、女にも見まがうばかりの、美しい青年の姿を
していた、と」
「ただの記録です!」
 やっきになってマリアは言った。自分がかなり危険な領域に入りこみかけているのは自覚していた
が、こうまではっきりとアルカードに矛先を向けられようとしていては、黙ってなどいられなかった。

174 名前:サーヴァント・ワルツその3 2/22 投稿日: 2007/09/30() 21:32:36

「四百年も前の、ただの記録です。その時のことを実際に見た人など、今はもういないのでしょう?
 銀髪の人も、青い瞳の人も、世の中にはたくさんいます。女性のように美しい容姿を持つ男の人
も、きっとあちこちにいるでしょう。だからといって、その人たちが魔王の末裔だなどと言えるので
すか? アルベールを、わが家の大切な家令を、どうしてそんな目でごらんになるのです?」
「少し黙るのだ、娘よ」
 高圧的な態度で命令すると、ジェローム師は立ちあがってアルカードに向かいあった。
 アルカードが顔をあげる。その輝くような美貌に、修道士はあらためてぎょっと身をそらしたが、
咳払いして落ち着きを取りもどし、高圧的な調子はそのままに命じた。
「アルベール・デュ=クールとやら! 汝の生まれはどこか」
「フランス、パリの、リュー・サン・トノレです」
 ぴんと張りつめた空気の中に、打てば響くように答えた静かなアルカードの声が、穏やかな波の
ように響き、広がっていった。
「両親は裕福な布地商でしたが、二人とも私が十五の歳にあいついで亡くなったので、私は親戚の
家に預けられて育ちました。成長した私はその当時、パリの市民たちがみなしたように、革命活動
に身を投じ、そのために、最後には故国を追われることになりました」
 それは前もってリヒターとマリアが考えておいた、フランス人亡命者の『アルベール・デュ=
クール』としての生い立ちだった。ジェローム師はさらに追求した。
「それで、洗礼を受けたのはどこでだ? 洗礼記録は残っているか? 両親の埋葬記録も、ちゃんと
そこにあるのだろうな?」
「洗礼を受けたのは母の実家の近くにあるモン・サン・ミシェル教会ですが、今はもうありません。
洗礼記録も、埋葬記録も、燃えてしまったでしょう。ご存じの通り、あの革命で、カトリックの教会
や聖堂はことごとく焼き討ちにあいましたから」
 ジェローム師がはっとしたように唇をかむのを見て、マリアとリヒターは二人とも会心の笑みを
浮かべそうになるのをなんとか抑えた。
 アルカードを『ロベスピエールによって追い出されたパリ市民階級の若者』としておけば、教会に
とっては戸籍と同じ働きをする洗礼記録や、係累の埋葬記録などがなくても、「革命で全部燃やされ
てしまった」ならば、それ以上追求はできなくなる。政府の方の戸籍も同じことだ。革命前後のパリ
はあまりにも変動と混乱が大きすぎて、身元をごまかすには絶好の場所と機会をアルカードに提供し
てくれている。

175 名前:サーヴァント・ワルツその3 3/22 投稿日: 2007/09/30() 21:33:22

「信仰告白を唱えてみるがいい」
 首からはずした大きな十字架を押しつけて、ジェロームは叫んだ。
「それから天使祝詞と、聖母の祈りもだ。早くしろ」
 アルカードは十字架を受け取り、額に当てて口づけすると、臆する風もなく、すらすらと信仰告白
を唱え、つづいて天使祝詞を、聖母の祈りを暗唱した。
 キリスト教徒であればもっともなじみ深い、日常的な三つの祈りは、この青年が口にすると、まる
で異国の美しい詩のように響いた。最後の一言を唱え終え、十字を切ってアルカードが十字架を持ち
主に差し出すと、ジェロームは腹立たしげに、もぎ取るようにして自分の持ち物を奪い返した。
「──ところで、のう、お若いの」
 十字架をふところに押し込みながら、ジェロームが次の言葉をさがして口を開いたとたん、それま
で黙っていたアンセルム修道士が、のんびりと口をはさんだ。
「お前さん、ずいぶんと苦労してきなさったようだが、どうだな、お父上とお母上というのは、
どんなお方だったかな?」
「そんな話は、今は──」
 ジェローム師が苛立ったように口を開いたが、アンセルム修道士が軽く手を挙げると、どうした
ことか、その声は急に小さくなってもぐもぐと喉の奥に消えた。太った修道士はたっぷりとした腹
の上で手を組み合わせ、笑みを浮かべて銀髪の青年を眺めている。
「どうだな、お若いの? よかったらこの年寄りに、昔の話を聞かせてくれんかね」
「──父、は──……」
 一瞬、アルカードは言いよどむ気配を見せた。だがすぐに、きっと頭を上げ、アンセルム修道士
の温顔をまっすぐに見返した。
「……立派な、父でした」
 静かに、だが、はっきりと、アルカードはそう言った。
「そして、優しい──美しい、母でした。
 二人の息子であったことを、私は今でも幸せであったと思い、誇りに感じております。もはやこの
世にはない両親ですが、十五歳までの私は、ひとつの小さな天国に住んでいたと、今でも思っており
ます」

176 名前:サーヴァント・ワルツその3 4/22 投稿日: 2007/09/30() 21:34:26

「天国などという言葉をみだりに使ってはならん」
 ジェロームが不機嫌そうにぶつぶつ言った。
「それは神のご所有にのみ帰する言葉なのだ。罪に汚れた人間が、軽々しく使ってよい言葉ではない
のだ」
「父は、私に神と世界について学ばせ、母は、祈り方と愛する方法を教えてくれました」
 アンセルムもアルカードも、ジェロームについては一顧だにしなかった。最初はあわてて口をはさ
もうとしたリヒターとマリアも、いつのまにか、二人の間に流れはじめた奇妙に濃密な空気に、入り
込む術をなくしてただはらはらと見守るしかなかった。
「今も私は、両親の教育に従って生きております。そのことについては、一片の後悔も抱いたことは
ありません。今後も、おそらくそうでしょう。
 母はいまわの際に、私にこう告げました──『誰も、憎んではならない』と。
 憎しみは悲しみと、さらに大きな憎しみしか生むことなく、自らが生んだ子である憎悪と罪を餌に
して、さらに大きく肥え太っていきます。
 私はそのような実例を長い間見てきました。母が最後に告げたことについて、悩んだこともありま
した。けれども今は、やはり母は正しかったのだと確信しています。母は私を愛し、世界を愛し、何
よりも、父を愛しておりました」
 遠くを見るように宙に向けられていた青い瞳が、つと伏せられた。
「……本当に──母は父を、そして、父も母を──愛していたのです」
 しばし、間があった。広い食堂は、咳払いひとつなく静まりかえった。
「とにかく、昔の話はいい。今は──」
「で、その、天国のようだった子供のころというのは、どんなものだったかね」
 ジェローム師がじれったげにまた尋問をはじめようとしたとたん、またアンセルム修道士がゆった
りとさえぎった。
「……それは」
 アルカードは微笑んだ。夢見るように。
「ほんとうに、幸せな日々でした……私はほとんど屋敷の外へ出ることはありませんでしたが、たく
さんの書物と、やさしい母が、そして夜になれば父が、いつでも相手になってくれました。父の技術
を学ぶために、弟子入りしてきた二人の少年もいました……彼らは私の兄であり、友人ともなってく
れました。いっしょに母の薬草園の手入れを手伝ったり、剣の練習の相手をしてもらったり……夜に
なれば、父の前で机を並べて、その日学んだことの復習をするのが日課でした。

177 名前:サーヴァント・ワルツその3 5/22 投稿日: 2007/09/30() 21:35:29

 上手にできたときの父の笑みと、頭を撫でてくれた大きな手の感触を、今でもよく覚えています…
…そばではいつも母が、私たち三人をやさしく見守り、夜遅くなれば温かい飲み物を用意して、ベッ
ドへ入れてくれました。眠りに落ちるまで、静かに歌ってくれていた母の声──ああ」
 かつての幸福の影を追うかのようなアルカードの遠い目に、ふと笑みが浮かんだ。
「十歳かそれくらいのころに、夜中に目がさめてどうしても眠れずに、ヘクター──先ほど申しあげ
た少年の一人ですが──の部屋へ行って、無理にいっしょに寝かせてもらったこともありました。
 朝になって、私が部屋にいないのに気づいた母が捜しにやってくるまで、そこで丸くなっていた…
…ヘクターは私が叱られないようにいっしょうけんめい弁護してくれるし、私は、ヘクターが叱られ
てはいけないと思って同時に言い訳しようとするし──もっとも母にかかってはどちらの気持ちも
お見通しで、二人の額を同じようにそっとつついてから、両方をぎゅっと抱きしめて、いつもと同じ
ように朝食を用意してくれました……あの時は、面白かった」
 追憶が、かすかな苦みを含んだ微笑になって唇に浮かぶ。
「ほんとうに……あの時は、面白かった」
「それで、礼拝へはきちんと行っていたのか? 例祭の寄進や、十分の一税は欠けることなく支払
っていたのだろうな?」
 いらいらしたようにジェローム師が割りこむ。椅子から半分腰を上げかけながら、
「家から出たことがほとんどなかったというのならば、教会へ通うこともなかったというのか? 
それは、キリスト教徒として重大な背信であるぞ!」
「少し、静かにせんかね、ジェローム」
 アンセルム修道士がごく穏やかに言った。
 ジェロームはまだ大声を出そうとして口を開けていたが、そのとたん、開けたままの口をぴしゃり
と音がしそうな勢いで閉じ、どすんと椅子に腰を落とした。なおも口をぱくぱくさせていたがけっき
ょく何も言うことができず、うつむいて、指にはめた紫水晶の指輪を、猛烈な勢いでいじり始めた。
「のう、お若いの」
 この部屋には、もはやアンセルム修道士とアルカードしか存在しなくなっているようだった。ジェ
ロームとその腰巾着のペトラスはもちろん、リヒターとマリアも、二人の間に漂う緊密な空気に、
とうてい立ち入れないものを感じていた。

178 名前:サーヴァント・ワルツその3 6/22 投稿日: 2007/09/30() 21:36:21

「そんなに幸せだった暮らしがいきなり崩れ去ったとき、お前さんはどう感じたかね? 十五歳だっ
た、と言っておったな。それほど若くして両親を失い、また成人しては、さまざまにゆがんだ思惑が
渦巻き、血が流れ、怨嗟の声とどろく世間を渡り歩くこととなって、お前さんはどのように思ったね? 
 この世がこのようであるのは、すべて人間が犯した原罪のためであるという者もおる。そのことに
ついて、お前さんはどう思うかね? 幸福な日々をある日、いきなり奪い取られたことや、その後経
験した苦痛や、苦悩や、裏切りについてはどう感じるね? これまでに自分がなし、またなさねばな
らなかったことについては? 『罪』というものに対して、お前さんはどのように考えているかね?
 そこのあたりを、この年寄りにちと聞かせてはくれんかの」
「何が『罪』とは、神が決められることだ。人間が決めるものではない」
 ジェロームがまた口をはさんだが、その声は弱々しかった。
「神の御意に添わぬことこそが唯一の罪であり、それを赦すことができるのもまた神お一人にほか
ならぬ。人間はアダムとイヴの原初より、神の御意志にそむいて蛇の誘惑に負け、禁断の実を口に
した。それ以来、人は罪を負い、その負い目を払い続けねばならぬものとなったのだ。神の子キリ
ストの十字架の償いによって永遠の生命を得るものは、ひとえにただ神の威光の前にひれふし、
その赦しと加護を希うのみだ、そして、呪われたる蛇はもっとも深き地獄に堕ち、永遠の炎の中で
のたうつ!」
 ジェロームの怒りにぎらつく目が、蛇の鋭さをもってアルカードを射抜いた。しだいにまた声が
熱してくる。
「汚れた悪龍の息子めが、いつまでこのような問答を続けてわれわれを欺くつもりなのだ? 悪魔
がその業をなそうとする時には、美しい姿の仮面をかぶり、聖書の言葉すら平然と口にすることは
だれでも知っている! 罪! 貴様と、貴様を生んだ闇の者どもの存在そのものが罪なのだ、貴様
はそれを知っているのだ、魔王の子め! 知っていて、そのように人間のふりをして恥ずかしげも
なく頭をあげ、神の使者の御前に恐れ知らずにも立っている、それこそが神に対する最高の侮辱
なのだ! 貴様はこの世に存在してはならぬ、貴様こそが、この世に形をとった罪そのものなのだ!」
 リヒターの噛みしめた奥歯がぎりっと鳴った。
 無礼な『神の使者』に殴りかかろうと力のこもった腕を、マリアが急いで押さえる。
「落ちついて!」

179 名前:サーヴァント・ワルツその3 7/22 投稿日: 2007/09/30() 21:37:33

 鋭くマリアは囁いた。
「落ちついて、リヒター。アルカードは大丈夫よ。これは、わたしたちが口出ししてはいけないこと
だわ。見て」
 視線だけでアルカードを指す。
「彼はちっとも動じていないわ。あんなジェロームみたいな馬鹿のことなんか、アルカードは最初
からちっとも気にかけてない。それよりも、問題はあのアンセルムっていう修道士だわ。彼は手ごわい」
 マリアの言うとおりだった。アルカードも、アンセルムも、ジェロームのわめき立てる声など少し
も耳に入ってはいないようだった。
 二人はそちらを見もしなかった。アルカードは青い目を考え深げに太った老修道士の温顔にそそ
ぎ、修道士は盛りあがった腹の上に手を組んだまま、ゆったりといつまでも答えを待つ姿勢でいた。
「『……もし人間が決して罪を犯さなかったとしても、人間は死の苦しみを受けなければならなかっ
たろうか』」
 やがてアルカードが口を開いたとき、流れ出たのは流暢なラテン語だった。
「『また神も、人間にそれを要求したまわなければならなかったろうか。……』」
「おや、お前さんは聖アンセルムスを読んでいるのかね」
 修道士の顔がほころんだ。ラテン語のわからないリヒターとマリアは顔を見合わせ、ジェロームと
ペトラスもそろって面食らった顔をしている。
「『神は何故に人間となり給ひしか』。……何ゆえに神の子であり、ご自身が神でもあられるキリス
トが、人として肉の身を受けられ、死の苦しみを耐え忍ばれる必要があったかを論じた書だの。あれ
を読んでいるとは、若い者には珍しい」
「父の図書室には、ほとんどどのような書物でも蒐められておりましたから」
 控えめにアルカードは答えた。
「私は、その本をどれでも、好きなように取って読むことが許されていました。判らない箇所があれ
ば、父が書物の管理を任せていた老人が、手をとって読み方を教えてくれました。聖アンセルムスも
その一冊です──貴方さまと同じお名前でいらっしゃいますね」
 老修道士に笑みを向ける。アンセルムは微笑んで、軽く一礼した。

180 名前:サーヴァント・ワルツその3 8/22 投稿日: 2007/09/30() 21:38:30

「あの書物には、罪というものの重さについて、このように書かれていました。『神の意に反する
行為──もしそれが、神の命令に背いて何かを一瞥するというような小さな罪、あるいは、それを
犯さなければ全世界が消滅し、無に帰するというような罪であっても、神の意志に背くということ
はいかなる損害にも比較せられぬものである。──どんな小さなことにもせよ、われわれが承知し
ながら、神の意志に背いて何かをなすならば、いつでも、われらの罪は重いのだ。われわれは常に
神の目の前におり、神は、われわれに罪を犯すなということを、常に命じ給うのだから』」
 目を閉じて、眠っているような顔をしながら、アンセルムは静かに聞き入っていた。
「……罪、とは何なのか、私にはもうよくわかりません」
 目を伏せて、アルカードは低く言った。
「もし、私がこの手で父を殺したとしたら、それは世の中の基準においては、まぎれもない大罪でし
ょう。しかし、もし父を殺さなければ、その数千倍、数万倍の無辜の人々が、無惨に殺されることに
なると知っていたならば、私が父を殺すのは、罪でしょうか、それとも、そうではないのでしょう
か。……また、私が傍らにいることで、不幸に陥るとわかっている相手に、嘘をつき、その心を踏み
にじって身をもぎ放すことは、罪でしょうか、それとも、違うのでしょうか」
 指がかすかに震え、無意識に手が胸元をさぐる。
「──病の人々に、善意をもって薬を配っていた女を指弾し、捕縛して魔女と呼び、その子の目の前
で生きながら彼女を焼き殺すのは、罪ではないのでしょうか。そして、女を愛していた夫が、妻を殺
した人々を、人間を、悲しみのあまり無惨なやり方で皆殺しにすることも、また罪なのでしょうか」
 しばらくの間、アルカードは言葉を捜すように口を閉ざした。
「……私には、わかりません」
 やがて出た声は、ため息のように遠くかすかだった。力なく両手が垂れる。
「聖アンセルムスとボソーのように、罪とそうでないものを判定し、常に迷いなく従うことのできる
神が目の前にいると信じられるのならば、どれほど楽かと思います。けれども、私の目は曇り、耳は
塞がれ、神の声はこの身に届くことはありません。あれが罪か、これが罪かと迷うことも許されない
まま、私は生きてきました。
 ジェローム師は、私自身の存在が罪だとおっしゃる。そうかもしれません。けれども、私は母の臨
終の言葉を破ることが、どうしてもできないのです。『誰も、憎んではならない』──燃えあがる炎
の中から、母は何もできずにうずくまる私に、そう叫んだのです。そのような言葉に、背を向けるこ
となどどうしてできるでしょうか。──

181 名前:サーヴァント・ワルツその3 9/22 投稿日: 2007/09/30() 21:39:27

 今、母の言葉が、どれだけ正しかったかわかります。憎悪は憎悪を生み、血と殺戮を拡げつつ、自
ら呼び起こした悲惨と残虐を餌に、ただただ肥え太っていくのです。どこにも赦しはなく、出口など
存在しない。なぜならそれは、指からこぼれた麦粒ほどの、ほんのささいな、人間的なあやまちから
呼び起こされたことだからです。
 もし、人間に原罪が存在せず、アダムとイヴが永遠に楽園にとどまったままなら、そのようなこと
はなかったとおっしゃるでしょうか。けれども、蛇の誘惑に屈したのは、確かに人間の意志であり、
彼と彼女は、蛇の誘いに背を向けてその場を歩き去ることもできたはずなのです。
 神の意に服従することが善、意に反することが悪であり、罪であるというのならば、意志を持って
なされた最初の行為が、服従であることもありえたはずです。なぜなら、服従とは単なる思考停止を
さすのではなく──何も考えずに神の言葉に従うだけなら、主人の指示に従う犬と、ほとんど変わら
ないでしょう──『自分はこのものの意に従う』という、断固たる決意をもってなされるのでなけれ
ば、意味のない行為なのですから。
 聖アンセルムスは神たるキリストが人としての死を耐え忍んだことについて、『それは父なる神に
命じられ、強制されたがためではなく、自らの意志をもって、辱めと苦痛に身を任せ、父の命を果た
すことを望まれたからだ』と述べています。そして、『最初の人間の罪が、意志を持って神への不服
従を選んだことであるのならば、その償いが、再び人間の意志によって絶対の服従が選びとられる行
為となるのは、必然である』とも述べておられます。それが、神たるキリストが受肉して人間とな
り、人としての死を甘受された真の理由であるのだ、と」
 一息にしゃべりつづけたアルカードはふと言葉を切り、部屋にいる人々を順番に眺め渡した。リヒ
ターを見、マリアを見た。ジェロームとペトラスを、周囲で息をつめているベルモンド家の雇い人た
ちを見た。そして最後に、じっと目を閉じたまま動かないアンセルム修道士に、澄んだ瞳をそそいだ。
「……私には、わかりません」
 そっと、吐息のようにアルカードは言った。
「何が罪で、何が罪でないのか。何が善で、何が悪なのか。悪が善を生み、善が悪を生むことがあるのか。
 自分や他人の正邪を質すには、私はあまりにも、多くのことを見過ぎ、多くの血でこの手を染めて
きました。けれども、もし自分のしてきたことが悪であり、罪であるとなった時には、私はすすんで
その責めを負おうと思います。それも、そうせねばならないからではなく、自ら選び取った者とし
て、罰を受けるのです。

182 名前:サーヴァント・ワルツその3 10/22 投稿日: 2007/09/30() 21:40:15

 どのようなものがそこに待っているかは、知りません。しかし重要なことは、これまで私がしてき
たことは、ただ生まれてきたことを除いて、すべて私自身の意志のなすところであり、それが善であ
れ悪であれ、私自身の意志意外に帰すべきものではない、ということです。それを罪と呼ばれるので
あれば、仕方がありません。しかし、それもまた、私自身の意志であることを、はっきりとここでお
話ししておきたいと思うのです」
「傲慢だ!」
 顔を真っ赤にしてジェロームが怒鳴った。
「これは許されぬ傲慢の罪だ、この悪魔の子は、自らの闇の血を恥じ入るどころか、その生まれを誇
り、とるに足らぬおのが意志などというものを、至高なる神の上に置こうとしている! もはや猶予
はならん、この悪魔めをとらえ──」
「黙るのだ、ジェローム!」
 雷鳴のような叱責が食卓にとどろいた。
 ジェロームは片手を振り上げ、口を半分開けた状態でぴたりと凍りついた。
 もはやこれまで、といっせいに立ち上がろうとしていたリヒターとマリアも同様だった。ペトラス
修道士はひっと声を上げて、こそこそとテーブル掛けの下に潜り込みそうな様子を見せ、アルカード
だけが、泰然としてその場を動かなかった。
「ペトラス修道士。わしの指輪をここへ」
 静まりかえった食堂に、アンセルム修道士の声が大きく響いた。温顔は別人のように引き締まり、
まるまるとした身体からは目に見えるほどの強い威厳が発されていた。
「ゆ、指輪でございますか」
 ペトラスがおどおどと卓の下から頭を覗かせる。
「しかし──」
「二度は言わぬぞ」
 有無を言わさぬ調子でアンセルムは命じた。
 ペトラスはあわててテーブル掛けの下をちょろちょろと走り出すと、固まっているジェロームのと
ころへ走り寄って、その指から高位聖職者の印である紫水晶の指輪を抜き取り、小走りにアンセルム
のところへ持っていった。アンセルムは軽くうなずいて指輪を受け取り、慣れた手つきで左手の中指
にはめた。

183 名前:サーヴァント・ワルツその3 11/22 投稿日: 2007/09/30() 21:41:15

「お騒がせして申し訳ない、リヒター・ベルモンド殿。それに、御妹御」
 指輪をはめたアンセルム修道士、いや、もはや単なる修道士ではないことをあきらかにした聖職者
は、椅子から立ち上がって、事の成り行きについて行けずにぽかんとしているベルモンド兄妹に向か
って深々と頭を下げた。
「あらためて名乗りいたそう。わしは聖グレゴリウス修道院の院長にして、コリント主教職について
おる、アンセルムなる生臭坊主じゃ。──そちらのジェローム修道士、それに、ペトラス修道士は、
それぞれわしの修道院の者。こたびモスクワ総主教のご命令にて、聖鞭ヴァンパイア・キラーの授受
と、そして、四百年前に現れたという、魔王ドラキュラの息子が再び姿を現したという噂の真偽を確
かめるために、派遣され申した」
「じゃあ、あたしたちを騙してたっていうの!?
 黄色い声をあげてマリアが立ちあがった。リヒターはすでに椅子を蹴り、食卓越しに食いつかんば
かりに身を乗り出している。
「それに対しては、心の底より陳謝いたす。申し訳ない」
 両袖をあわせて、アンセルム修道士──今は、コリント主教アンセルムと言うべきか──は、もう
一度深く頭を垂れた。
「だが、いまだに疑い深い正教会の主教ども──わしもまた、ここに到着するまではこれに入ってお
ったことは、正直に白状せねばなるまいが──を納得させるには、はっきりとした証拠と、確信とが
必要だったのでな。
 いつわりを述べたこと関しては、幾度謝罪しても足りなかろう。しかし、今までの話で、やっと確
信が持てたて。──のう、この若いのは、の」
 かたわらに立つアルカードに、目を細めるやさしい微笑を向けて、アンセルム主教はそっとその白
い両手を取った。
「よき両親のもとに生まれて、高い教育を受け、過酷な運命を耐え忍びつつ、雄々しくまっすぐに生
い育った、実に気持ちのよい聡明な若者じゃ。われらが抱いておった、愚かな疑いを許しておくれ、
アルベール・デュ=クール殿」
 アルカードの手を軽く押しいただくようにして、額に当てる。
「お前さんのような有能な家令を抱えることができたベルモンド家は、実に幸運であったという他な
い。わしらとしては、さまざまな無礼に関して陳謝し、今は受け取るべきものを受け取って、静かに
この場を引き上げるのみじゃ」

184 名前:サーヴァント・ワルツその3 12/22 投稿日: 2007/09/30() 21:42:04

「アンセルム様、それは、しかし」
 ジェロームがまだ懲りずに、飛びあがって異議を申し立てようとする。
「黙らぬか、と申したぞ、ジェローム」
 アンセルムの氷のような一瞥で、叫びだそうとしたジェロームはたちまちへなへなとなって椅子に
崩れおちた。
「今回の件に関して、すべての決定権を総主教猊下より預けられたのはこのアンセルムじゃ、お前で
はない。そもそも、この指環のいつわりの一件も、お前が言い出したことであった。はかりごとを許
した点についてのわしの罪は明らかであるが、無辜の者にいわれなき疑いをかけ、あまつさえ罠まで
はろうとするとは、まことに恥ずべき行いである。この場ではもはやこれ以上問うまい、だが、この
ように立派な若者を非道な策略にかけようとするとは、わしらこそ神の怒りを受けてしかるべきであ
ろう。神を畏れるのならば、もはやその口を開かず、黙りおれい、ジェロームよ」
 指環とともに虚飾も虚勢もはぎとられたジェローム修道士はがたがたと震え、椅子の張り地の中に
そのまま溶け込んで消えてしまいそうな風情だった。
「ペトラスよ、聖鞭ヴァンパイア・キラーを、これへ」
 雷に打たれたように直立していたペトラス修道士がはっとわれに返り、ジェロームの前に置かれて
いた聖鞭箱をとって、ちょこちょことアンセルムの前へ運ぶ。「うむ」とひとつ頷くと、ろくに中を
確かめもせずにアンセルムは蓋を閉め、小脇にかかえた。
「それでは、わしらは部屋に引き取らせていただいてもよろしかろうか、リヒター・ベルモンド殿。
これにて聖鞭の授受はつつがなく終了した。ドラキュラの息子とかいう妄言に関しては、一顧するだ
に意味なしと言うべきであろう。この年寄りじゃ、あまり夜更かしすると、頂いたうまい夕食をこな
すのに苦労する」
「御案内いたします、アンセルム様。そちらの箱をお持ちいたしましょうか」
「おお、これは助かるの、アルベール殿。ぜひお願いいたそう。これ、ジェローム、ペトラス、ぼう
っとせずについて来ぬか。ヘクター殿、マリア殿、まことによきおもてなし、感謝いたす。有難うご
ざった」
 指の紫水晶をきらめかせて、もう一度頭を垂れるとアンセルムは十字を切り、聖鞭箱を持ったアル
カードに先導されて、悠々と食堂を出ていった。魂を抜かれたような歩き方のジェロームがあとに続
き、ペトラスがちょろちょろとあわただしく後を追う。

185 名前:サーヴァント・ワルツその3 13/22 投稿日: 2007/09/30() 21:42:48

 四人が出ていき、食堂の扉が閉まると、一気に緊張の糸が切れた。リヒターとマリアは同時に椅子
にへたり込み、目を合わせて、おたがいの顔の中に自分と同じ混乱と、疑念と安堵が複雑に交錯する
のを見てとった。
「ほんとうに、ごまかし切れたと思っていいのかしら。アルカードのこと」
 ささやき声でマリアが尋ねる。
「ごまかせた、とは思わないほうがいいだろうな。だが、あのアンセルムとかいう爺さん、もうアル
カードに手出しする気はないらしい──何故だかはよくわからんが」
 閉まった扉を、リヒターは透かすように目を細めて見つめた。
「とにかく、明日になれば、奴らは鞭を持って帰っていく。追い払えれば、それで万歳だ。後から何
か言ってくるようなことがあっても、今回のことが証拠になって、反駁することもできるようにな
る。とりあえず今は、それで我慢するしかない」


 翌朝、東方正教会からの使節一行は、来たときと同じ二頭のロバと一台の馬車を仕立てて帰って
いった。それぞれに載る人間の顔ぶれが二つほど入れ替わっていはしたが。昨夜、食堂で交わされた
舌戦のありさまは、食堂にいた給仕や女中たちの口からあっという間に下働きの少年の最後のひとり
に至るまで広まり、だれしもがひそかに快哉を叫んだが、むろん、完全に危険物が屋敷を出ていく
まで、そのような様子を表すような不用意な真似は誰もしようとしなかった。
「いやいや、用が済んだとなれば、長居は無用よ」
 もう数日の滞在を、と形ばかりは勧めるリヒターとマリアに、アンセルムは笑って手を振った。
「よい客とは、邪魔にならぬ程度に席を温め、相手の重荷になってきたと感じたら、即座に腰を
上げるものじゃて。わしらはすでに十分もてなしてもろうた。これ以上の歓待はお前さま方以上に、
わしらにも毒というものよ。不実ないつわりを責めずに甘やかしてもろうたは言うに及ばず、なにし
ろ、かわいい娘さんに囲まれて葡萄酒と菓子を食べさせてもらうというのは、僧院の中ではなかなか
体験できぬ良いものじゃでのう」
 ほっほっ、と笑いながら、上機嫌で馬車に向かう。扉の足台のそばではまだ家令姿のアルカード
が、きちんとかしこまって貴人の客が乗り込むのを待っていた。
「そうじゃ、お前さんにも謝らねばならんな、お若いの」
 足台に片足を乗せかけて、アンセルムはふとアルカードを振り返った。

186 名前:サーヴァント・ワルツその3 14/22 投稿日: 2007/09/30() 21:43:21

「あのような策略を弄したことは、非常に恥ずかしいことと思っておる。笑うておくれ、人間とは、
かように愚かなものなのじゃ。疑心に曇った目で欺瞞を繰り出そうとしても、いずれ真実は顕れるも
のじゃというのにな」
「何もおっしゃる必要はありません、アンセルム師」
 アルカードは微笑して言った。
「それに、私は一度も騙されてなどおりません。あなたさまが、ただの修道士ではあられないこと
は、ここに来られたときからうすうす見当がついておりました」
「ほ、ほう」好奇心にアンセルムは目を輝かせた。
「よければ、いったいどうしてそれに気づいたのか、聞かせてもらえるかな? なに、今後の参考に
しようなどというのではない、ただ、面白いなぞなぞの答えを聞くのみじゃ、──いったい、わしは
どこの何をしくじっていたのかな?」
「最初にあなた様がここへ来られて、手を取ってロバからお下ろししたとき」
 とアルカードは言った。
「あなた様の指に、つい最近まで指輪をおつけになっていたと思われるあとがあるのが目に入りまし
た。単なる修道士ならば、そのようなものを身につけるはずもありません」
「おお」
 とアンセルムは言って、むっちりした指にはめた紫水晶の指輪を上げた。太い指に指輪の食い込ん
だあとが、はめ直した今はわずかにずれて下からのぞいている。
「それに、肝心の指輪をおつけになっていたジェローム様は、どう見てもそういうものに慣れていら
っしゃらないご様子で、しきりに指輪を回したり、いじったり、落としはしないかといつも気にして
おいでとお見受けしました」
 手を裏返してしげしげと眺めているアンセルムに微笑んで、アルカードは続けた。
「それに指輪がぐるぐる回るというのは、大きさが合っていない証拠です。指輪を身につけるのが
許されるとなれば司祭か、それ以上のご身分であることは確実のはず。そのようなお方が、指に合
わぬ指輪にそれほど長い間我慢なさっているものでしょうか?」
「なるほど。いや、これは、やられた」
 ぴしゃりと額を叩いて、アンセルムはそっくりかえって笑った。
「それでは最初から、様子をうかがわれていたのはわしらの方だったというわけか。いやはや、これ
は、いい教訓であることよ。結局のところ、何であれいつわりは正しき者の目には何の意味ももたぬ
ということが、これでよくわかった。今後はけっして思い上がらず、真実のみを口にするのが最上
と、肝に銘じておこうよ。──のう、お若いの」

187 名前:サーヴァント・ワルツその3 15/22 投稿日: 2007/09/30() 21:44:02

「はい」
「お前さんの背負うた重荷は、わしらには想像もできぬほど、大きいのであろう」
 足台の上から腰をかがめて、アンセルムは慈父の笑みを浮かべて囁いた。
「生あるすべての生き物はみな、創り主なるお方に光の種子を心に撒かれて地上に下されたとわしは
思うておる。ほとんどの者が一生その種子に気づかず、生なる長き道のさまざまなよしなしごとに盲
い、耳ふたがれて生きておる。その光に気づき、自らの裡に芽吹かせることのできる者はまことに
少ない、しかし、お前さんの魂は、この年寄りの目にも、星より眩しく輝いていると思われる」
 アルカードはまたたきもせず、じっとアンセルムの目に見入っていた。
「のう、その輝きを消すではないぞ、お若いの。お前さんはきっとこの年寄りよりも、想像もつかぬ
ほど長く生き、多くのことを見るであろう。そのことをわしはうらやみはせぬ、だが、どうぞその
途上で、わしが今見ているその輝く光を消すことのないよう、誓ってはくれまいか。わしが、今日、
安心してこの場を去ることができるように」
「お誓いいたします」
 短くアルカードは入って、アンセルムの手をとり、紫水晶の指輪に軽く唇をあてた。
「これは神に誓うのではなく、あなた様に、そして、私の心に抱くもう一人の人間のために誓うので
す、アンセルム様。私はけっして闇に囚われることはいたしますまい、たとえどのような絶望や孤独
に襲われようとも、あなた様や、彼らのような人間がいるかぎり」
 離れたところで、心配そうに手をもみ合わせているリヒターとマリアを振り返る。
「──私は、けっして父のように、人であることを捨てたりはいたしません」
「よしよし。……よい子じゃ。よい子じゃの」
 アンセルムは温顔をさらに笑み崩れさせ、幼い子供にするように何度もアルカードの髪を撫でて、
祝福の十字を切り、悠々と馬車に乗りこんだ。
 あとから、ジェロームとペトラスがやってきた。昨晩、部屋にひきとってからかなりの叱責を受け
たらしいジェロームは、来たときの勢いはどこへやら、青ざめた顔で視線も定まらず、ふらつく足を
なんとか前へ運ぶのがやっとというありさまだった。
 ロバにまたがるのにアルカードが手を貸そうとしたのをぎろりと睨んだが、馬車の中のアンセルム
に聞こえているかもしれぬと気づくと、それ以上呪いの言葉を発することはできなかったらしい。ア
ルカードが差しだした手綱を腹立たしげにひったくり、鞍の上にかがみ込んで背中を丸め、ぶつぶつ
口の中で不平を鳴らすことでなんとか自分を抑えた。

188 名前:サーヴァント・ワルツその3 16/22 投稿日: 2007/09/30() 21:44:48

 ペトラス修道士はといえば、自分からちょこちょこと、小ネズミのような走り方でアルカードに駆
け寄ってきた。
「のう、アルベール殿、アルベール殿、ちと話があるのだが」
 自分よりはるかに背の高いアルカードをちょいちょいと手招きし、身をかがめさせてわざわざ耳も
とへ口をもっていく。
「どうやら、アンセルム主教はたいへんそなたをお気に召されたようですぞ」
 両手をこすりあわさんばかりに、ペトラスは得々としていた。ジェロームがアンセルムの信用を失
い、昇進の望みも失った時点で、腰巾着の役割は放棄したらしい。
「昨夜、ジェローム修道士に投げつけられた叱責ときたら、魂の底まで凍りつくようであった。実の
ところジェローム修道士としては、ここで魔王の息子を捕縛して、一気にアンセルム様を飛びこえ、
どこか大都市の主教職を手にするおつもりだったのだろうが、その計画は見事に失敗に終わったとい
うわけでの」
 けっけっ、とカエルが何かを吐き戻しているような、いやな笑い方をペトラスはした。
「それでじゃ、そなた、この機会に、このような辺境の魔狩人の家など出て、アンセルム様の持童と
してコリントへ出てみぬか。身元ならば、アンセルム様にお頼みすればどうともなるであろう、なに
しろ、あのなかなか他人に腹を見せぬお方が、そなたに対してはあれほどはっきりと賞賛の言葉を述
べられた、──これは、なかなかあることではない。
 それに、そなたのあの教養に、見事な物腰、月のごとき美しさときては、モスクワの総大主教猊下
さえ魅了せずにはおくまいて。このような、没落するを待つばかりの家などさっさと見捨てて、自ら
の身の立つことを、考えたほうがよくはないかの……」
 さて、これらの会話は、すべてリヒターの耳にも入っていた。生粋のヴァンパイア・ハンターとし
て、分厚い石の壁のむこうのかすかな物音ひとつを聞き分けることが、生死を分けるというのが骨身
に染みているのである。思い上がった修道士が、身の程知らずに、破廉恥な提案をアルカードに持ち
かけているのが聞こえないわけがない。
 握りしめた拳が、不気味な音を立ててぎしっと鳴った。
 ペトラスがいやらしく目を細めて、アルカードの白い耳朶にささやきかける。
「そうとも、そなたならばかならず総大主教のお目にもとまり、いずれは、この世のどんな栄華も思
うがままの地位にも──」

189 名前:サーヴァント・ワルツその3 17/22 投稿日: 2007/09/30() 21:45:28

 ──耐えに耐えていたリヒターの中で、ついに、最後の堤防が決壊した。
「……──……ハ・イ・ド・ロ・ス・ト・ー・……ッ!」
「あら。あんなところに鳩の群れが」
 マリアがふと横を向いて、なにげない口調で言った。
 とたんに、嵐のような白い翼ととがったくちばしと鋭い爪の乱舞が、ペトラスとジェロームの二人
にむかって突進してきた。
「うわっ!? な、何だ!? やめろっ、痛っ、痛いっ!」
 二人は両袖をあげて頭を庇おうとしたが、とうていそんなもので避けきれるような騒ぎではなかっ
た。鳩たちはぐるっぽーぐるっぽーと喉を鳴らしながら、剥げた剃髪に猛烈に爪を立て、耳を突っつ
き、翼で頬を叩き、黒い僧衣に好きなだけ糞の雨をまき散らして、勝ちほこったようにぽっぽーぽっ
ぽーと飛び回った。
「しっ! しっ! あっちへ行きなさい! ……大丈夫ですか、ペトラス様」
「大丈夫でなどあるものか!」
 手を振って鳩の群れを追いはらい、いかにも心配そうにマリアが駆け寄る。耳やら頬やら脳天やら
から血を流し、糞まみれになって半べそをかいているペトラスは、怯えと怒りが入りまじった声で、
自分より背の高いマリアにつま先立って噛みついた。
「あれはいったい何なのだ? あんな凶暴な鳩など、聞いたことがない! あれは、この家で飼って
いるものなのか、ええ!?
「とんでもありません。あれは、野生のハトです」
 マリアは断言した。
「ただ、どこかでタカかワシかの血を拾ってきてしまった種類らしくって」
「タ、タカ!? ワシだと!?
「ハヤブサかもしれませんわね、大きさを考えると」
 考え深げに唇に手をあてて、マリアは眉根を寄せてみせた。
「うちとしても困っていますの、何しろウサギや、リスなんかをみんな取ってしまうもので……巣作
りしているときに近づいた人間がつつかれるのなんてしょっちゅうですし、何しろ数がたくさんいま
すから、なかなかいい手も打てなくて。ああでも、おかげでネズミの害はほとんどありませんの、
そこだけはいいところですわね。なにしろ、あのハトたちがみんな取って食べてしまいますもので」

190 名前:サーヴァント・ワルツその3 18/22 投稿日: 2007/09/30() 21:46:12

「ウ、ウサギ!? リス!? ネズミ!?
「最近は、ネコや犬まで狙うようになってきたと聞いてますの」
 心配そうな口調で、マリアはもう一押しした。
「実際、あの凶暴なハトのことは、何とかしなくてはといつも思っていましたの、こんな被害にお合
わせして、ほんとうに申しわけありませんわ。このごろ、仔牛や子ヤギもさらわれそうになったとい
う話を聞いていますし、お耳を食いちぎられずにすんだだけ、ご幸運だったと申しあげてもいいかも
しれませんわね」
 ペトラスとジェロームの顔が紙より白くなると同時に、まだ逃げずにじっと近くの木にとまってい
たハトの一羽が、嘴にくわえた一房の髪を、挑戦的にぺっと吐き捨てた。
「し、出発! 出発だ!」
 糞だらけの僧衣の裾をからげたジェロームが、ロバの首にしがみついて叫んだ。
「こんな呪われた場所にこれ以上一秒たりともいられるものか、ええい、出発! 出発だ、馬車を出
せ! 御者! 馬車を出すのだ!」
 豪快な笑い声が馬車の中から轟いた。扉ののぞき窓から、中でアンセルムが腹をかかえてひっくり
返っているのがちらりと見えた。
 ペトラスもアルカードのことなど放りだし、ほうほうの体で鞍に這い上がると、ゆっくりと動き始
めた馬車に必死の勢いで食いついていく。待ってましたとばかりに、門の前で扉に手をかけていた下
男たちが戸を開ける。馬車は大きな笑い声と、車輪が石畳を踏み鳴らす音を残して、東方正教会の一
行は聖鞭ヴァンパイア・キラーをたずさえ、予定どおりにベルモンド家をあとにした。


 喜びの歓声をあげるのは、用心深く轍の音がすっかり消えるまで控えられた。
 がたがたいう車輪の音がすっかり聞こえなくなってしまうと、ついに耐えられなくなったベルモン
ド家一同は、いっせいに喜びの声をあげて手を叩き、帽子を放りあげ、誰彼なしに手近にいた者同士
で抱き合った。
「アルカード!」
 きちんと手を胸に当てたまま、出ていった馬車のあとを遠い目で見送っているアルカードに、マリ
アはドレスの裾をからげて急いで近づいた。
「もう大丈夫よ! よかったわ、途中で何度も心臓が止まるかと思ったけど、それでもなんとか、最
初の予定どおりに──っっっ!?

191 名前:サーヴァント・ワルツその3 19/22 投稿日: 2007/09/30() 21:49:01

 残念ながら、最後まで言うことはできなかった。雲ひとつない空から、いきなり大桶で水をぶちま
けたように、大量の水が一瞬にしてどっと降りそそいだのである。
「……な、なに!? 何なの!?
 驚きの声と「ひゃあ!」「冷てえ!」という悲鳴がこだまする。
 ぽたぽた水の垂れるとっておきのドレスを唖然と見おろして、それからマリアはくるりと振り向
き、怒りに目を燃やして叫んだ。
「リヒター!」
「──あ……いや──その……」
 リヒター自身ももちろんずぶ濡れであった。雇い人たちも同様。アルカードもむろん。
 どうやら発動を途中で止められたハイドロストームが、不完全なまま、緊張のとけた今ごろになっ
て、中途半端に威力を発揮したらしい。
「まったくもう!」
 ばしゃばしゃと水を撥ね散らかしながらリヒターのところへ突進して、義兄の胸ぐらをつかまんば
かりにマリアは怒鳴った。
「いったいなんなの、ほんとに! あいつらが帰っていったあとでよかったわ! なんとかごまかし
たと思ったのに、あともう少しでだいなしになるところだったじゃないの! 
 それに、見なさい、こんなにどこもかしこも水浸しにしちゃって! アルカードまでもよ、かわい
そうに! みんなの晴れ着はどうしてくれるの? あたしのドレスも! これ、とっときの服だった
のに、もう二度と着られやしないじゃない!」
「そ……その……なんだ……すまん……」
 安堵と怒りのないまぜになった義妹の勢いに、今はひたすら小さくなるしかないリヒターだった。
「マリア。リヒターをあまり怒らないでやってくれ」
 見かねたアルカードが小走りにやってきた。頭の先から足の先までぐっしょり濡れて、長い髪は額
に貼りつき、細い顎の先から水滴がしたたっている。
「いずれにせよ、リヒターは私を守ろうとしてくれたことなのだ。マリアのドレスや、服のことは、
私からも謝る。どうか、許してやって欲しい」
「そ……それは」
 アルカードに言われると、マリアもそれ以上強くは出られなかった。むっと唇を突き出しはした
が、しぶしぶリヒターを離して、水でへたったドレスの襞をつまみあげ、ため息をつく。

192 名前:サーヴァント・ワルツその3 20/22 投稿日: 2007/09/30() 21:49:39

「リヒター?」
 棒立ちになったままのリヒターに、アルカードは気がかりそうに手を伸ばした。
「リヒター、大丈夫か? 私なら大丈夫だ、濡れただけでなんともない。迷惑をかけてすまなかっ
た、リヒター。……リヒター?」
 相変わらず目をむいたまま、棒を飲んだように突っ立っているリヒターをゆさぶる。
「リヒター? どうかしたのか?」
 水を吸って重くなった長い上着とヴェストを、アルカードは脱いでいた。自然、上は薄い絹地の白
いシャツだけという姿になる。
 シャツの飾り襞は水でしおたれてしまい、残りの薄い布地は濡れて肌に貼りついて、ガラスのよう
に透けている。なめらかなシルクはその下のしなやかな身体の線を、いささかという以上にはっきり
と浮き上がらせていた。
「リヒター?」
 銀髪をかき上げる指にも、きらめく雫が愛撫するようにまつわりついている。細い顎を伝った水滴
が首筋をたどり、形のいい鎖骨の間の、秘密めいた部分へ流れ落ちていく。
「……リヒター? リヒター!?
 ──大きく目を見開いたまま、リヒターはゆっくりと後ろにかしいでいき、直立姿勢を保ったまま
で、大音響をたててその場にぶっ倒れた。


「……マリア」
 片手にシーツをかかえたマリアが寝室から出てくると、壁にもたれていたアルカードが、すぐに心
配そうに駆け寄ってきた。もう家令のかっこうはしておらず、いつも通りの大きすぎるシャツに黒い
レギンスという質素な姿に戻っている。
「リヒターの様子はどうだ? まだ目を覚まさないのか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。ベルモンドの人間は殺したってそう簡単には死なないわよ」
 片手にシーツ、片手にびしょぬれの当主の晴れ着をぶら下げて、マリアはあははと笑って手を振った。

193 名前:サーヴァント・ワルツその3 21/22 投稿日: 2007/09/30() 21:50:24

「まあ、今回のことじゃ、リヒターもずいぶん気を張ってたでしょうからね。たぶんいっぺんに緊張
が切れたのと、普段あんまり使ってない頭をひさしぶりに全開で空回りさせたおかげで、知恵熱でも
出たんでしょ。アルカードが心配することないわ」
「そうだろうか……」
 それでもまだアルカードは気がかりそうな目をリヒターのいる寝室に向けている。
 マリアは廊下の窓を開けて、ちょうど下を歩いていたロベルタに、「ちょっとロベルタ、ごめん、
これお願い!」と叫んで、濡れた服と替えのシーツを放り投げた。お嬢さまのこんな振る舞いには慣
れているらしいロベルタは、飛んできた服とシーツを両方ともひょいと受けとめ、太い腕にかかえ込
んで、にっこりと笑みを浮かべて一礼し、堂々と洗濯場へ向かって歩いていった。
「まあ、これで少なくとも問題はひとつ片づいたわね。……あら、あなたたち」
 事件の大詰めにおける功労者である白いハトたちが、マリアの姿を見つけて集まってきた。甘える
ようにクークーと喉を鳴らして肩や指先に止まるハトにやさしく頬ずりして、
「ごめんなさいね、あんな口から出まかせ言って。でも、あんまり腹が立ったし、急いでリヒターを
止めないと、どうなることかわからなかったものだから。みんなは気にしていない? そう? だと
うれしいわ、本当にありがとう、みんな。あとで、厨房からパンの焼きたての、美味しいところをた
っぷり分けてもらってあげるからね」
 ハトたちはクークーぽーぽーと鳴き立て、順々にマリアに頭をこすりつけたり愛情をこめて耳を
ついばんだりしてから、次々と飛びたっていった。マリアは窓を閉め、壁によりかかってふとアル
カードを見あげた。
「ねえ、アルカード」
「なんだ」
「……あなたは──神を、信じてるの?」
「私が?」
 間髪入れずに返った言葉はあまりにも鋭く、苦かった。
 マリアは思わず息をのみ、息をつめて身を固くした。
「……すまない」
 だが、一瞬苦しげにゆがんだアルカードの顔は、春の氷が溶けるようにすぐにやわらかくなごん
だ。かすかな微笑に唇をゆるめて、アルカードは身をかがめ、マリアの額に兄のような接吻を与えた。

194 名前:サーヴァント・ワルツその3 22/22 投稿日: 2007/09/30() 21:51:02

「私が信じているのはおまえたちだよ、マリア、リヒター、それに、アンセルム主教……われわれに
とっては危険な勢力であるはずの正教会の中にさえ、あのような人物は存在している。私が信じるの
は人間だよ、マリア。私と出会い、ともに戦い、今再び、生きるための場所と理由を与えてくれる、
おまえたち、人間を、私はずっと信じている」
「でも、その同じ人間が、あなたを迫害し、はじき出そうとするわ」
 小さな震え声で、マリアは言った。
「だが、もし神がいるとして、私や父や母のことについてどうするかは誰にもわからないだろう。し
かし、今私の前にいるおまえたち、そして、私の出会ってきた人々は、私を受け入れ、愛し、こうし
てここにいることを許してくれる、……十分だ、それだけで」
 微笑は消さずに、アルカードはマリアの頬を軽く撫でて、踵を返した。
「さすがに私も少し疲れた。……しばらく休むよ。明日の朝、また様子を見に来よう」
 廊下を遠ざかるアルカードの後ろ姿を、マリアはぼんやりと見送った。すらりとしたその背中が、
急に小さく、そして、ひどく遠いものに思えた。



 塔の長い階段を登り、自室に足を踏みいれる。
 いつもどおり灯りは灯され、火は暖炉で楽しげに踊っていた。窓のそばの小卓には、温かいスープ
とパン、チーズ、果物や葡萄酒といった軽い夕食がすでに用意されている。まったくいつも通り、い
つもと同じ、夕暮れの風景だった。
 昨日と同じ、おとといと同じ、四百年前とも同じ。
 ──違っているのは、そこに、長身の、左目の上に傷痕を持つ、一人の男がいないことだけだ。
 アルカードはベッドに腰をおろし、胸元から鎖を引き出した。大きな、古びた紋章入りの指環が、
ずしりと手の上に転がる。
「……ラルフ」
 呟いて、そっと唇をあてる。
 神など、私は知らない。興味もない。
 私が信じるのは人間、そして、この指環の主。
 戦おう、おまえの血を継ぐ子供たちを、その愛する人々を守るために。そして私のために四百年の
時を留めていてくれた、この場所のために。
 そして、もし時が来て、おまえの前に立ったとき、その目を恥じることなく見返すことのできる、
私であるように。
 それが、私の祈り、私の信仰。
 私の信じる指針、私の持つ、唯一の光。
「──私の、ラルフ」
 愛しい、ラルフ。
 おまえに恥じることのない生を生きるためにのみ、私は、ここにいる。
 すり減ったベルモンドの紋章を愛撫し、頬に当て、固く胸に抱きしめる。
 低く頭を垂れたアルカードの銀髪に、あたたかく炎が映える。静けさの中で、四百年前と同じ夜が
また一つ、今夜も過ぎてゆこうとしていた。

195 名前:サーヴァント・ワルツおまけ 1/3 投稿日: 2007/09/30() 21:51:51

「あ、アルカード、ちょうどよかった」
 翌朝、朝食をすませてリヒターの様子を見に母屋へ足を向けたアルカードは、盆を持っていきなり
出てきたマリアと正面衝突しそうになった。
「ちょっとすまないけど、リヒターの様子見ててくれない? 朝食と薬用の水は持ってきたんだけ
ど、額を冷やすのに使う布持ってくるの忘れちゃって。ほんとならだれかに取りに行ってもらうんだ
けど、ちょっと今近くに誰もいないみたいだし、家のみんなはあの教会のお坊さんたちがやってきた
ののあと始末で大わらわだし。もうこれ以上、仕事を増やすのは気の毒だしね」
「ああ、わかった。どちらにしろリヒターの様子を見に来たから」
「よかったわ! じゃあお願い。すぐに戻るからね」
 マリアは忙しそうに、フランネルがどうとか小麦粉がどうとか呟きながら、急ぎ足で廊下を遠ざか
っていった。見送って、入れかわりにアルカードはリヒターの寝室に入り、音を立てないようにそっ
とドアを閉めた。
 むろん、このやり取りはベッドの中のリヒターの耳にも入っていた。
 しょっちゅう義妹に対して、口に出せない憤懣を抱くことの多い(そしてすぐに忘れてしまう)リ
ヒターだったが、この時ほどマリアに対して言いようのない(そして口に出しようのない)恨みを抱
いたことはかつてなかった。
「リヒター?」
 心配そうなアルカードの声が聞こえてくる。
「リヒター、大丈夫か? 熱がまだ下がらないのか?」
「……あ、ああ」
 返事がひどくくぐもっているのは別に喉が痛いというような理由ではなく、単に、声の主がベッド
に深々ともぐりこんで、羽毛布団を頭からかぶっているせいである。
「お、俺は大丈夫だ。アルカードは心配しないでくれ、本当に。なんでもないんだ。なんでもないから」
 だいたい、あの場所で倒れた本当の理由が、びしょ濡れになったアルカード(しかも、自分のぶっ
放した中途半端なハイドロストームのおかげで)を見てしまったせいだなどと、どの面下げて言える
だろう。

196 名前:サーヴァント・ワルツおまけ 2/3 投稿日: 2007/09/30() 21:53:03

 恥ずかしすぎて、他人どころかマリアにさえも口にできない。マリアには特に。そんなことを白状
したが最後、それこそあのハトどもの餌食にされるか、四聖獣を一匹ずつ喚んで、それぞれに二、三
回ずつ、徹底的にこてんぱんにされるのが目に見えている。
 ましてやその理由の当人に、面と向かってなど言えるわけがない。
「まだ熱は高いのか? 薬は飲んだのか」
 頼むから早く出ていってくれ、とのリヒターの必死の祈りもむなしく、ベッドの端に軽い重みが乗
る気配がした。細い指が布団をつかみ、有無を言わさず引きはがす。
「あっ、うわっあっそのっ、アっ、アルカードっっ」
「ああ。なるほど。かなりの熱だな」
 反射的にがばっと起きあがったとたん、白いなめらかな頬と青い瞳がぎょっとするほど近くにあった。
 固まるリヒターの額に額をあわせて、アルカードは少し困ったように眉をひそめた。
「薬は……ああ、これか。どうやら、まだ飲んでいないらしいな。なぜ飲まない? 朝食はもう済ま
したのだろう。さっき、マリアが空になった食器を持っていた」
「そ、それはだな、あの、その」
「水はここにあるし、……もしかして、苦い薬は嫌いなのか? 薬は苦いから効くのだと、私の母も
よく言っていた。苦いからと言って薬を飲まないでいたら、いつまでたっても熱はさがらないぞ。よ
くないことだ」
 そばに置かれていた数粒の丸薬を手にとって、コップにそそいだ水をとる。
「い、いや、そういうことじゃないんだ、ただな、あの、アルカード、ア」
 ──ふいにやわらかいものが唇をふさいで、リヒターは今度こそ、完全に硬直した。
 ごくん、と喉が動いて、流しこまれたものを嚥下する。
「よし。飲んだな」
 満足そうにアルカードは言って、身を引いた。
「この調合はたぶん私が母から習ったものと同じだと思うが、飲むとしばらくして汗がたくさん出
て、身体にたまった熱をすっかり流し出してしまう。今日の夕方には、ずっと気分がよくなっている
はずだ。あとは二、三日、静かに寝ていさえすれば……リヒター? リヒター、聞いているか? リ
ヒター? ──リヒター?」

197 名前:サーヴァント・ワルツおまけ 3/3 投稿日: 2007/09/30() 21:53:44



「待たせちゃってごめんなさい、アルカード──あら?」
 布とその他、着替えやタオルを持って急がしそうに戻ってきたマリアは、枕の上で今にも湯気を噴
きそうな顔をして目を回している義兄と、そのそばで申し訳なさそうな顔で座りこんでいるアルカー
ドを見て、目をぱちくりした。
「ど、どうしたの? なんだかリヒター、さっきよりずいぶん顔が赤くなってるような気がするんだけど」
「すまない。たぶん、私のせい……だと思う。そこにあった薬を飲ませたのだが」
 薬の置いてあった脇の引き棚をさす。
「どうやら、違う薬を飲ませてしまったらしい。薬を飲んだとたん、気絶してしまった。熱もよけい
上がったようだし、……含んだ感じでは、間違っていないと思ったのだが」
「含んだ感じ、って」
 真っ赤ながらも、なにやら幸せそうな顔で失神している義兄の顔と、意気消沈したアルカードの顔
を見くらべ、マリアはおそるおそる、
「薬はそれで確かに合ってるけど、あの、もしかして、どういう飲ませ方したのか訊いても……っ
て、いい。いい、やっぱりいい。説明しなくていい」
「いや、どういうやり方、というか」
 ひたすら不思議そうに、アルカードは、
「私が小さいころに、苦い薬を嫌がったときに母が飲ませてくれたやり方で、その」
「うん、わかった。わかったから大丈夫」
 マリアは多少引きつり気味の笑みを作りながら、さりげなくアルカードを立たせて、ドアへ向かっ
て少しずつひっぱっていった。
「薬はそれでいいの、間違ってないのよ。ひっくり返ってるのは、うちの困った義兄さんの問題。ア
ルカードは心配しないで、またあとで来てあげて、ね。あの薬なら、夕方ごろにはもう熱が引いて元
気になるのは知ってるでしょ、だから、またそのころに来てあげて、ああもうまったくリヒターった
ら──あ、いえいいのよ、ほんとに。あの騒ぎで図書室の本の翻訳が止まっちゃってるとか言ってた
でしょ、だから、その続きをしてて。ね、それがいいわ、ほら、夕食の時にはリヒターももう起きら
れるから、ね」
 扉の外に出されても、まだ心配そうに背伸びして中をのぞこうとするアルカードを何とかなだめて
押し出し、扉を閉めて、もたれかかって、ほっと一息。
「ああもう、まったくもう」
 抱えてきた布とその他のものを床に投げだし、嘆く。
「ほんとにうちの義兄さんときたら──もう少ししっかりできないものかしら。怪物相手にはあれだ
け強くても、こういうことになるとまるで駄目ってわけ? 勘弁してよ。どうしてこんなに私が気を
使わなくちゃいけないのかしら、もう」
 義妹のこんな嘆きも耳に入らないまま、火を噴くほどのまっ赤な顔で、リヒターは、ふわりと押し
当てられたアルカードの柔らかな唇と、ちらりとかすめた甘い舌の感触を夢に見ながら、幸せ半分悪
夢半分の、複雑な眠りに沈んでいた。