Circle of the moon 無題 ヒュー→ネイサン

 

12 名前:無題(6/1 投稿日: 2007/01/04() 03:26:26

「やめてくれ! お前をこれ以上傷つけたくない! ヒュー!!」
 戦いに疲れた顔で、悪魔城の展望閣に響き渡る悲痛な叫びを上げた青年の目の前には、
己の得物――退魔の聖鞭によって衣服のあらゆる箇所が破れ、その間から夥しい血液を
流した痛々しい姿で膝をつき、己を見つめている彼の兄弟子の姿があった。
「ネイサン? ウウッ、お、俺は…」
――俺は何を……? それに、何故お前はそんな悲しそうな目で俺を見ている? そうか
 妄執に取り付かれた俺は、カーミラに完膚なきまでに打ちのめされた後、ネイサンに対する嫉妬
と言う見苦しい感情と欲望を魔に曝け出してそれから……仮初めの力を手に入れる代わりに
自分の意思を真祖ドラキュラに預けた。何と無様な姿か。
 ネイサンは痛みに顔を歪ませながらも、鋭利な刃物のような切れのある端正な容貌を真っ直ぐ
自分に向けているヒューの姿に、彼の自尊心をこれ以上傷つけたくない一心で、抱き起こそうか
どうか、手を差し伸べるべきか逡巡して動けない自分に苛立ちを感じた。
 そして、自分の魔力が低いばかりに、ラテン語の退魔の祈祷文詠唱だけでは何の効果もなく、
恩義ある師匠の息子を魔の呪縛から解くためとはいえ、彼の体力を削りつつ祈祷文の効果を
上げるために己の得物……
 本来は目の前にいる青年が継承すべき聖鞭で彼を、普通の人間ならとうに骨が折れて、
死んでいるくらいの回数以上に打擲しないと、洗脳が解けなかった己の不甲斐なさに、
改めて、悔しさと涙が込み上げてきた。
 普段の彼なら周りに心配させまいと感情を心の中に押し留めて平気な表情に造るのだが、
疲れから気が緩み、その感情を顕にするかのように目に涙を溜めると、それにつられるように
彼の引き締まった容貌が歪んできた。

13 名前:無題(2/6 投稿日: 2007/01/04() 03:27:22

――こんなに傷ついても「痛い」の一言も、見苦しくのた打ち回る事もしない。
あの聖鞭で数十回も打擲したにも関わらず、だ。
 ヒュー、そこまでの体力と精神を持ち合わせておきながら、お前は何故魔に
取り込まれたりしたんだ? 
「ヒュー……気が付いたのか……?」
 ネイサンは本当に解呪したかしないか判らないが、叫び続けて嗄れた咽喉から
確認のためかどうかも自分で判断できないまま、ただ、声を漏らした。
――声が掠れている。俺と戦っている間、ずっと声を掛けていたのか?
 何と苦しく、今にも泣き出しそうな貌をしている? 俺は何時からお前に
そんな表情をさせていたのか皆目分からない。
 ヒューは泣きそうになって、じっと自分を真摯な眼差しで見詰めている弟弟子――
ネイサンの傷ついた輝きを放っているグレーブルーの瞳を理解出来ずに、辛そうな表情を
しながらも呆と不思議そうな眼差しで仰ぎ見た。
 そして、どうして良いか解からず、だが目の前の弟弟子に対してこれ以上
悲しませたくない気持が先走り、抱き留めて自分が思いつく限りの感謝の言葉を
彼に伝えようと思い手を動かそうとしたが、筋が傷ついているのだろう指先しか、
それでも痛みを伴っているが動かなかった。
「…ありがとう…。聞えたよ、お前の呼ぶ声が」
 動かない躯の替わりに先程までの苦渋に満ちた表情を掻き消し、微かな笑みを湛えた
柔らかい顔付きと、低いながらも緩やかな口調で伝えた。
 まるで罪を償い、総てを赦された罪人のように清々しい心持で。
 それに伴い、一筋の涙がヒューの頬をつたった。彼に、ネイサンに己の愚かな行動を取った
経緯を包み隠さず話し、もう元には戻れないかもしれないが親友として心の声を伝えたい。
そう決意したゆえの涙でもあった。
 今までの自分であればいい年をした男が、己の恥かしい部分を他人に見せるのは
情けない事だと頑なに拒否していた。
 そして、この躯は痛みで動かない。死期を覚悟したがヒューはネイサンに心残りが無いよう、
敢えて気丈に伝えようと思った。

14 名前:無題(3/6 投稿日: 2007/01/04() 03:28:02

「…ヒュー。大丈夫か?」 
 ネイサンは、今まで自分が見たことがないヒューの優しく、どこか悲しみを帯びた
微かな笑みに少々不安を感じながらも、彼の次の言葉を待つつもりで恐る恐る訊いた。
――本当に呪縛は解けたのか? そうでなかったら俺は……師匠には大変申し訳ないが
この土地のしきたりに従い、お前の全身の腱を断ち、心臓にサンザシの杭を打ち込まな
ければならない。俺はこれ以上の解呪の方法を知らない。
 そう思いネイサンは予測がつかない攻撃に備え、全身を硬くして身構えた。
「ネイサン…。俺はお前に嫉妬していた」
「!?」
――ヒュー!? 一体なにを言い出したんだ? 嫉妬? お前が俺に? 能力も知識も
膂力も何もかもが俺より上回っているお前がか? 
 予想外の科白にネイサンは唖然として二の句を継げることができず、目を丸くした。
「親父がお前を認めることで、俺は要らない存在になるのが怖かったんだ」
 そしてヒューは息を呑み、瞼を閉じると切なく呟いた。
「ただ認めて欲しかった…」
――それだけではない。俺はお前にも認めて欲しかった。もっともそれは俺自身の
エゴを伴った感情だが。
 もし、お前が洗脳された俺に負けて倒れたら、問答無用で押し倒して力任せに何度も
唇を奪い、何が起ったか解からず呆然としているであろうお前の顔を尻目に、
卑怯だが痛みで動けなくなっているお前の躯から、衣服をすべて剥ぎ取り、力無く抵抗
しようとしているお前の姿に嗜虐心をそそられながら、前戯も何もせずに無理矢理、
己の欲望をお前に何度も何度もぶちまけ、力尽きて物言わぬ躯になってもなお続けるだろう。
穢れて爛れた思考と感情のままに……
 男の身でありながら、それほどまでに同性であるお前が欲しかった。そして、その思いを
遂げるために絶対的な力が欲しかった。その象徴があの聖鞭であったのに、それをお前が
継承したことで俺は父親から己の努力を否定され、お前を親父に取られた心持がした。
逆にお前に親父を取られたとも思い、お前を愛する気持と独占欲が綯い交ぜになって俺は、
俺より能力も無く簡単に聖鞭を手に入れたお前を、あからさまに見下すようになっていった。
だが、いつも他者のことを思い、一歩引いて優しく見守るお前をずっと愛し、護っていきたかったのは嘘ではない――

15 名前:無題(4/6 投稿日: 2007/01/04() 03:28:40

やはり幾ら包み隠さず話すとは言っても、その想いだけはネイサンに
告げるべきではない。彼が余計混乱するだけだと思ったヒューは言葉を切った。
 と同時に行き所の無い想いは、彼の漆黒の瞳から止め処なく涙をこぼれさせ
赤い絨毯の上に雨のように滴り落ちた。
――聞きたくなかった。力を持っている矜持を誇り、自尊心が高いこの男から、
そんな自虐的な感情を曝け出した言葉なんて。
「もういい…」
 ネイサンはこれ以上、師匠のモーリスの元で一緒に育ってきた親友の痛々しい姿を
見聞きしたくなかった。幼い頃から力強く、その上で人よりも何倍も努力してきた
青年の弱音など。
 そう思うと自然に耳目を閉ざしたい気持になり、ヒューの後悔の念を遮りたい衝動に
駆られた。
 しかし、死を覚悟したヒューはネイサンが聞こうが聞くまいが、総てを言うつもりで続けた。
 己の愚かしい感情のためにこの身は魔道に堕ち、その所為で愛する者の行く手を
遮って時間を取らせてしまった事への後悔と、いまだに己の心の強さを自覚して
いないネイサンに、真祖ドラキュラを倒す事のできる自信と、傷ついた自分の代わりに、
ドラキュラに捕らえられ生贄にされかけている自分の父親を助けてくれと、
どうしても伝えたかったから。
「そんな俺の心の闇を、親父は見抜いていたんだろう。だからお前を…」
「よすんだ」
――それは闇でもなんでもない。人間誰しも持ちえし感情だ。挫折を知らないお前が
陥った感情の罠だ。それを自覚せずただ、己が処理できない感情を闇雲に力で捻じ
伏せようとしたから……心が折れたんだ。師匠は決してお前を見捨てたりしない。
無駄に死なせたくなかったから敢えて力を持たせなかっただけだ。
 力強くネイサンはヒューの自虐的な科白を否定した。しかし、ヒューは今もって弱音を吐いている。

17 名前:無題(5/6 投稿日: 2007/01/04() 03:30:21

「いいんだ。今では愚かな俺にも親父の選択が正しい事がよく判る」
――ヒュー……俺は今までお前の何を見てきたんだろう? いつものお前なら語気を
強めた口調で「さっさと行け! グズグズするな」と人が戸惑っていようがいまいが、
状況に応じて一瞬で判断し的確な指示を出して俺をいつも護ってくれていたお前が
……こんなにも弱くなるなんて。
「抱き起こそうか?」
 ネイサンは惰弱な精神の持ち主に堕した彼に、手を差し伸べようとした。
余りにも痛々しい姿になった彼を放って置く事が出来なくなり、今度は自分が護ろうと
考えたからだ。
「フッ…。これ以上、俺に恥をかかせるな」 
 しかし、ヒューはそんなネイサンの甘さを見抜くと、共倒れを避けるために敢えて愛する
者の申し出を揶揄した口調で拒絶した。
――それがお前の弱点だ。目の前の悲劇にすぐ対処しようとする。お前の目的はなんだ?
 ヨーロッパの全キリスト者を救うためにその聖鞭を振るうんじゃないのか? 
お前が与えられた使命を果たせ……
「親父を…。師匠の手助けをしてくれ。頼んだぞ」
 そして、儀式の間の扉にかけられている封印を解除するための鍵の在処を教えると、
ヒューは瞳と同じ漆黒の長髪を痛む手で掻き揚げ、いつもの自信に満ちた顔付きに戻って
ネイサンにその顔を向けた。
 ネイサンは今までであれば、「俺が一人で助ける!」とがむしゃらに息巻いて一人で事を
なしていた彼が、他人に事を任せたことに軽い驚きと、何故だか判らないが、いつも自分に
見せる、眩しいくらいの自信溢れる表情に戻った事を嬉しく思い、
「分かった」
 と満面の笑みで答え、鍵のある部屋へと走り去っていった。

18 名前:無題(6/6 投稿日: 2007/01/04() 03:30:56

――これで俺も安心していける。だが簡単には死ねない。
 ネイサンが真祖を打ち倒し、無事に親父を助けるまで俺はひとまず消えるとしよう。
あいつに心配掛けさせたくないから――
 体の痛みはまだあるが、動かせないほどではなくなると、また愛する者を見守り
たいと願い、生きる活力が漲ってきた。
 そしてネイサンが部屋から戻って来るまでには消えたいと思い、ヒューは体の重心が
定まらないながらも歩き始めた。
 だが、何故だか自分でも解らないが違和感を覚え、ふと、展望閣を見回した。
そして奇妙な感覚の原因が、通常ならば一対である筈の玉座が一つしかない事に気付き、
歩みを止めた。
 すると突然、己の知識の中の分厚い本の頁がめくられる様な感覚に陥った。
それからドラキュラに関する事象を紐解き始めると、感慨深く夢想した。
――この城の城主、真祖ドラキュラは最愛の妻を亡くした後、他には娶らず孤閨を
守ったと言われている。貞淑なその彼が何故魔道に堕ちたかは、俺は知らない。
ただ、孤独を自分の物に出来なかったのが罪なら……止そう。ドラキュラが厄災を
振り撒く存在であるのは変わり様の無い事実だ。
 
 ヒューは己を魔道に落とした憎むべき相手に、己の遂げられない孤独な想いを重ね
合せると、うら寂しさが漂う悲しげな面持ちで感傷に浸った。
そして独り、痛む躯を庇い、ネイサンが追って来ないことを確認しながら振り返りつつ、
生きるか死ぬか分からない己の身をあても無く動かすと、魔物が蠢く城内を探索していった――