若百合(J)×アル
20 名前:若百合(J)×アノレ1/3
投稿日: 2007/01/16(火) 21:27:46
白い部屋だった。
彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、それら
はみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、遠ざかり、
近づいてはまた離れていった。
自分は誰なのか、あるいは、何なのか?
生きているのか、死んでいるのか?
ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわからなかっ
た。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらはすべて彼の
知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど変わりのない
単なる事実でしかなかった。
ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、暗黒
の中を駆け抜けていった。
そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり哀しげ
な蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、小さな
ひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのかどうか
あやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。
21 名前:若百合(J)×アノレ2/3
投稿日: 2007/01/16(火) 21:28:24
……光がさした。
白い空虚の中に、一筋の、銀色の光が射し込んできた。
彼はまばたき、自分に、目があったことに気がついた。まぶたがあり、顔があって、
顔には頬があり、その頬に、ひやりと柔らかい銀色の月光が流れ落ちていた。
夢の中の月が、自分を見下ろしていた。
彼は口を開けた。
何かが喉のすぐ下まで上がってきて、つかむ前に消滅した。苦痛と、それに倍する
どうしようもない胸の痛みが突き刺さってきて、彼は思わずうめき声をあげた。
「……動かない方がいい」
ごく低い声で、月は言った。その髪と同じく、やわらかく、ひやりとした、透き通る
ような銀色の声だった。
「お前はひどい傷を負った。命を取り留めたのが奇跡だと言っていい。自分の名はわか
るか? 言ってみろ」
「――……」
もう一度口を開けようとしたが、声は出なかった。彼の中には空虚しかなく、答えに
なるような何物も、そこには残っていなかった。
「――わ、から、ない」
ようやく、そう言った。
月の白い顔に、かすかな翳が走ったようだった。
「本当に、わからないのか?」
しばしの間をおいて、思い切ったように月は言った。
「――私の、名も?」
わかる、と叫びたかった。わかる、あんたは月だ、夢の中でずっと俺のそばにいた。
だがそれもまた、言葉になる前にこなごなにくだけて白い闇の中にのまれていった。
彼はただ弱々しく首を振った。
「……そうか」
22 名前:若百合(J)×アノレ3/3
投稿日: 2007/01/16(火) 21:28:56
銀の月はつと視線を外した。
長い髪からのぞく肩がかすかに震えているように思えて、彼は思わず手を伸ばそうと
したが、やはり身体は動かないままだった。全身が包帯に包まれ、ベッドに縛りつけ
られていることに、彼は突然気がついた。
ここは病院だ。俺は生きている。そして怪我をしている。
だが、何故だ?
――そして、俺は誰だ?
「あんた……は……誰だ?」
ようやく声を絞り出して、彼は言った。
銀の月は目を上げ、彼を見た。その蒼い瞳に、夢の中と同じ哀しみが浮かんでいるの
を見て、彼の胸は貫かれるように痛んだ。
「……そのことはあとで話そう」
低い声でそれだけ言って、月の髪をした青年は立ち上がった。
「今はまだ眠れ。傷が酷い。考えるのは、身体が治ってからでも遅くはない。ゆっくり
養生しろ」
違う。待ってくれ。
そう声にしようとしたが、その前に、全身が砕けるような痛みが走った。白い闇から
あわてたように影が一つ走ってきて、肩を押さえてベッドに押し戻そうとする。
(だめですようごかないであなたはなんどもしにかけたんですよだれかちんせいざいを)
うるさい。うるさい。
俺はあいつを知ってる。俺はあいつを知ってるんだ。
言わなければ。ちゃんと言わなければ。忘れたりなんかしていない、と。約束した、
俺はおまえを、おまえを、おまえ、を――
腕に注射針が突きささり、流し込まれる薬液が視界に霞をかけていく。伸ばそうとした
手は無理やり下ろされ、点滴の管が突き立てられる。
銀の月は哀しい目をして立ちつくし、闇のむこうから自分を見ている。
(……ア、ル、)
引きずり込まれるように意識が暗闇に包まれる。
最後まで見えていたのは、仄かに輝く銀色の月と、哀しみをたたえた二つの瞳――。