Rhapsody in Blood〜朔〜

 

 

24 名前:Rhapsody in Blood 〜朔〜 1/6 投稿日: 2008/04/05() 17:02:08

 朱く焼けていた西の空が少しずつ薄闇に染まっていくのを、アドリアンは自室の窓から
眺めていた。
 もうすぐ、父が目を覚ます。
 薄紫から群青に移りゆく空の色。そこに星の瞬きが見つかる頃合いに、自室を出て玉座
の間に向かう。
 ここ数日、アドリアンは父親に会えずにいた。
 人間を襲撃するのを諫め、母の遺言を守ってくれるよう説得し続けていたのを疎まれた
のだろう。
 今日も無駄足かもしれない。
 それでも、父の元に訪ねていく以外、今アドリアンに出来ることはないのだった。
 玉座の間とは言っても、取り次ぎはない。城内に数少ない人間は父に呼ばれない限りこ
こに来ることはなく、元来外からの来客などアドリアンの知る限り無かった。
 両開きの重い扉を開けて、中を見渡す。
 真紅の絨毯の延びる先、数段高くしつらえられた玉座に、今夜も父の姿はない。
 そのことに、落胆と共に安堵を覚える。
 あの日以来、父と対峙するのはアドリアンにとって辛いことだった。
 母の遺志は守りたい。しかし、父の気持ちもまた、痛いほどにわかるのだ。母を亡くし
た哀しみと、手にかけた人間に対する憎悪。
 憎んではいけない、と母が最期の瞬間まで訴えたのだから、憎むまいと思う。思いはす
るが、そう簡単に割り切れないのも事実だった。
 ともすれば父の狂気に流されてしまいそうな自分を自覚していればこそ、アドリアンは
母の遺言を口にし続けた。父にというよりむしろ、自分自身に向かって。
 空の玉座をしばし見つめ、踵を返す。
 父に会えない日は母のために祈りを捧げて過ごすことにしていた。母を亡くして以来神
に祈ったことはなかったが、死者の安寧を願う行為を祈りの他に何というのか、アドリア
ンは知らない。
 生前、母が丹精した花園の一角に墓碑がある。その墓前に向かおうと扉に手をかけた時
だった。

25 名前:Rhapsody in Blood 〜朔〜 2/6 投稿日: 2008/04/05() 17:02:48

『また世迷い言を云いに来たか』

 肉声ではなく、部屋全体の空気を揺るがすような声にアドリアンが振り返ると、無数の
蝙蝠が玉座に集まり、その暗がりから父、ドラキュラ伯爵が現れた。
 闇の眷属であることを見せつけるようなその出現は、おそらく自分に同じ血が流れてい
ることを思い起こさせるためにわざと行ったのだろうと、アドリアンは思う。
 母を亡くして以来、父は吸血鬼としての本性を隠そうとしなくなった。自分の前では特
にそうだ。今も、母と共に在った頃には想像も付かなかった父の姿がそこにある。人と同
じ姿形を持ちながら、人ではないものなのだと悟らざるを得ない、冷たく凄惨な魔王の容
貌。こちらを見据える紅い瞳に、かつての情など欠片も見いだせはしない。
 それを寂しいと思ったこともあった。しかし今は、恐ろしいと思う。父がではなく、こ
こまで父を変えた絶望というものが。もしそれに侵されたならば、自分もまた父と同じ道
を辿るのだろう。だからこそ、母の言葉を決して忘れてはならない。
「何度でも申し上げます。無意味な虐殺などお止めください、母上は復讐など望んではい
ませんでした」
「幾度繰り返そうが無駄なこと。リサが何を望んでいたとしても、今となっては何の意味
もない」
 父の言う通り何度も同じ問答を繰り返すだけでしかなくとも、それを無駄とは思いたく
なかった。たとえ父に届かなかったとしても、語りかけることを諦めてしまったら父との
絆をも無くしてしまう。
「母上の望みを叶えることが、なぜ無意味なのです。何でも叶えてやりたいと仰っていた
ではありませんか」
 まるで揺るがないように思えたその瞳に、一瞬影が差したように見えた。
 そしてわずかの沈黙の後、唇を嘲けるように歪める。喉の奥で押し殺したような笑いが
響いた。
「そうだ、何でも叶えてやろうと思った。──その結果がこれだ!」
 玉座の肘掛けを叩きつけ、その勢いのまま立ち上がった。
「昼に出歩くのも、疫病に苦しむ人間に薬草を与えるのも、好きにさせた」
 ゆっくりと段差を降りこちらに向かって来る。全身から立ち上る激しい怒りと憎悪に気
圧されて、アドリアンは思わず後ずさった。しかしもともと扉の前まで来ていたのだ、す
ぐに背が扉に触れてしまう。
「それが仇になったのだ」
 徐々に距離が詰まる。背後の扉を開けて逃げたい衝動を必死に押さえ、目を逸らさぬよ
う自らを叱咤する。父を説得するために来たのではなかったか。たとえ何があろうとも、
逃げることはできない。自分から背を向けるようなことだけは、断じて。

26 名前:Rhapsody in Blood 〜朔〜 3/6 投稿日: 2008/04/05() 17:03:28

「そもそも人間のままにしていたのが間違いだったと、今にして思う」
 血の気のない白い手が伸びて頬に触れられた瞬間、身が竦む。その冷たさにだけではな
く、身に纏う殺気にも似た憎悪とはあまりにかけ離れた優しさに恐怖を覚えて。まるで壊
れ物に触れるかのように、冷え切った手がそっと頬を撫でていく。
「闇の眷属にしておれば、私の目の届かぬところで死なせることはなかった」
 もう片方の手が、肩に置かれた。頬に触れていた手は首筋を辿り、襟元の飾り結びをほ
どいて開く。
 アドリアンは誰に教わるわけでもなく本能として、獲物の抵抗を封じる魔力が身の内に
備わっていることを知っていた。それが父から受け継いだものであることは疑いようもな
い。今、間近に父の目を見ながら、自分は既にその魔力に捕らわれているのかもしれない
と思った。先刻、逃げてはいけないと思ったことさえ、あるいは自分の意志ではなかった
のかもしれない。
 父が何をしようとしているのか、ここまでされれば嫌でもわかる。
 怖くないわけではない。それがどれほど背徳に満ちた行為かも知っていて、それでもな
お振り払って逃れようとは思えないのだ。
「お前はあまりにリサに似過ぎている。人に甘いところなどは特に」
 首周りにまとわりつく髪を父の手が背に流した。首筋を曝されただけなのに、まるで裸
にされたかのように心許ない。
「人間の血がそうさせるのか……ならばその血を、全て抜いてやろう」
 首筋を辿りつつ後ろに回された手が襟足を撫でるように軽く掴み、髪を引かれる。顎が
上がり、自然と首を曝す姿勢を強いられた。
 無防備に曝されたそこに父の唇が寄せられていくのを、ただ見ていることしかできない。
あまりの不安と恐怖で、震える吐息が無様に漏れるのを押さえることもできなかった。
 それに気づいたのだろう父が、わずかに視線を上げる。
「案ずるな。何も恐れることはない。私に任せて、お前はただ全てを受け入れていればよ
い」
 再び下に向かう父を、もう見ているのも辛くて目を閉じる。
 冷たい唇を首筋に押し当てられて震えた身体を、力強い腕に抱き竦められた。
「お前に、闇に生きる者の愛し方を、教えてやろう」
 耳元で囁かれた声は、夢見るほどに甘やかで優しく、一瞬、不安も恐怖も忘れさせる。
 張りつめていた力を抜いて身を任せたその時を逃さず、父の牙は容赦なく突き立てられ
た。

27 名前:Rhapsody in Blood 〜朔〜 4/6 投稿日: 2008/04/05() 17:04:17


 痛みを感じたのは、皮膚を食い破られる一瞬に過ぎなかった。
 穿たれた箇所は痛む代わりに熱を持ち、そこから甘く痺れるような感覚が広がる。
 吸い上げられる度に、まるで血と共に登るかのように身体の中をその痺れが走り抜け、
肌にまつわりつき血を舐め取る舌のざらつく感触に粟立つような感覚を覚えた。
 脈打つ首筋から血の流れに乗ってその熱が運ばれ、体中に甘い痺れが回るような錯覚に
陥る。
 知らぬ間に息が上がり、もう自分の力で立っていることもできず、父の腕に支えられて
いるような有様だった。袖にかろうじて縋りついてはいるものの、まるで力が入らない。
 押さえることもできずに漏れる喘ぎが、静まりかえった部屋にやけに響く。いたたまれ
ない羞恥を覚えて身を捩れば、それを押さえつけるようにさらに深くまで抉るように牙が
食い込んだ。
「っ…あ……ぁ…………」
 一瞬、視界が白く灼けるほどの強烈な感覚に襲われて目を見開く。
 断続的に痙攣のように震えた身体は、それを宥めるように撫でる掌の感触にも敏感に反
応し、まるで収まる気配がない。
 何か、これに近い感覚を知っているような気がして、ふと思い当たった。
 射精の快感と、とても似ている。
 アドリアンは半分人間ではないためかあまり性的な欲求は強くはなかったが、普通の人
間と同じように精通も経験したし、幾度かは自慰もしてみたことはある。
 達したときの快感と先ほどの感覚は確かに同じ種類のものだ。
 これまで、吸血は性行為と等しいと知識では知っていたが実感はなかった。
 それを今、身をもって知った。
 そして理屈ではなく感覚で理解した途端、行われている行為のおぞましさに愕然とした。
 自分は今、父親に犯されているも同然なのだ。
 父の欲望をこの身に突き立てられ、貪られて。
「嫌……だ…………っ」
 力の入らない腕で押しのけようと突っ張ってみても、びくともしない。

28 名前:Rhapsody in Blood 〜朔〜 5/6 投稿日: 2008/04/05() 17:04:52

 その変化に気づいたのだろう、父は一端牙を抜き、名残惜しげに傷口から溢れる血を舐
め取ると、その感覚にすら耐えられず身を震わせる自分を見下ろして、血に染まった紅い
唇にうっすらと笑みを掃いた。
「余計なことは考えぬがよい。ただ快楽にのみ身を任せて、素直に受け入れているがいい」
 傷口を、舌でこじ開けるようにねぶられて身体が跳ねた。痛みではなく、もどかしいよ
うな疼きが思考までをも犯す。
 そこを埋めて欲しい。力尽くで押さえつけて、無理矢理ねじ込んで、この身を隈無く支
配して欲しい。
 そう思うのと同時に、自分の欲するものに嫌悪を覚える。気が狂いそうだった。
 内心の葛藤を知ってか、わずかに笑ったような気配の後、牙の先が首筋に宛われる。そ
れに穿たれる期待に歓喜する身体と、再び背徳に墜ちることに抗おうとする心とがせめぎ
合う中、一度閉じた肉を引き裂くように押し広げて凶器が埋め込まれた。
 初めに受け入れたときとは比べものにならない快楽がそこから湧き立つ。その行為が何
を意味するのかを知った心理的な要素もあるだろうが、何より身体が昂ったままだったの
が最大の要因だろう。ただ牙を突き立てられた、それだけで、アドリアンは再び達した。
 自慰ではすぐに冷めた感覚が、一向に引かなかった。達したとはいっても、実際のとこ
ろ下肢に濡れた感触もなければ、そもそも勃ってすらいない。物理的に出せば満足する類
のものと違って、その快楽は果てることがなかった。
 荒く息を吐き、懸命に余韻を逃がそうとするのを翻弄するかのように貪られて、また混
乱の内に快楽の波に突き落とされる。
 そんなことを繰り返される内に、いつの間にか意識を手放していた。

29 名前:Rhapsody in Blood 〜朔〜 6/6 投稿日: 2008/04/05() 17:05:31


 目が覚めると、自室の寝台に横たわっていた。
 室内は薄暗い。明るさの残る空の方角からして、夕刻だろう。
 普段、アドリアンは母の生前と同じように朝起きて夜眠りにつく。こんな時間まで寝て
いることはまず無かった。
 起きあがろうとして、あまりのだるさに断念する。
 霞がかったように頭が働かない。
 悪い夢でも見ていたのだろうか。
 夢の内容を思い出そうとして目を閉じると、瞼の裏にまるで悪夢そのもののような、し
かしまごう事なき現実の記憶が映し出された。
 父の紅い瞳、血を啜った紅い唇。
 息をのんで目を開き、震える指で首筋を確かめる。牙の痕は、傷と言えるほどには残ら
ないが、虫に刺されたくらいのわずかな痕跡は残る。指先でその場所を探ると、確かにか
すかな違和感があった。何より、指で触れただけで身の内に燠火が燻るような熱が疼く。
 見開いたままの瞳から、涙が零れた。
 枕に伏せて、涙を隠し嗚咽をかみ殺す。
 アドリアンはその夜、寝台から出ることは出来なかった。