古歌-イニシエノウタ-【一の歌】

 

 

32 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】1/62010/06/23() 22:59:47


  ──はるか昔の物語である。

【一ノ歌】

 男がいた。神に叛いた男であった。かつては人であったが、いまやその身と心は闇に
浸されていた。〈死〉がその身近くに侍り、彼は闇の王と呼ばれた。
 男には妻がいた。何にもまして愛した女であった。その女は彼が戦に出ているあいだ
に、病にかかって死んだ。その胎内には産まれるはずの子が宿っていた。男の子であった
と聞かされた。戦は神の名のもとに行われ、彼は騎士として、神の名のもとにはたらい
た。しかるに神はその報酬として愛する妻と、息子を奪い去っていったのであった。
 男は激昂した。しかしその怒りは彼の気質として、深く心の中に沈滞し、昏く、陰険な
企みとなって実を結んだ。同胞のうちでも有名な智者であった彼は、夜の森を統べる赤髪
の吸血鬼と、おのが友と、その恋人とを駒にして将棋を演じた。
 駒は盤面を導かれたとおりに動き、吸血鬼の王は斃れ、彼はみごとその生贄のもとに闇
の王たる大いなる魔力と、永遠の生を得た。かつての友は彼を呪い、わが一族はこれより
闇を狩る一族となるであろうとさけんだが、去りゆく彼にその言葉はひびかなかった。も
はや人間の世は彼には遠く、神も、その神の支配する残酷な世に関することも、彼にとっ
ては意識のほかにあったからである。
 かくて、永きにわたる刻が流れた。永生を得た彼は、〈死〉を手中におさめ、永遠に生
き続けることによって、わが手より妻と息子を奪った神に叛乱をたくらんだのであった。
 闇の力の踏み台にした吸血鬼の性を継いで、彼は血を欲した。生きた者の血をすすり、
その恐怖や驚愕、陶酔、欲望、そして死を味わうことが、彼の若さをささえた。
 高位の闇の者がおおかたそうであるように、彼もまた美しかった。人であったときにも
美丈夫と称えられたものであったが、闇に身を浸すことによってその美はいや増した。黒
い髪はいよいよ艶をおび、瞳はときおり血いろの光をためてあやしく燃えた。血の気のな
い肌は透きとおるほど白く、石華石膏の彫像のように、なめらかにすきとおって固かっ
た。夜の底に、深く身を隠した彼のもとに、かつての友の追跡はとどかなかった。彼はす
でに、友であったものの顔や名前さえ忘れかけていた。……

33 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】2/62010/06/23() 23:00:32

 しかし、刻は復讐するものであった。いつのまにか彼は、おのれが生に倦みはじめてい
ることに気づいた。明日を知らず、昨日をおぼえない生粋の魔とちがって、いまだに人間
性を残していた彼のこころは、流れる刻の永さと無為に、我が身と心が侵食されつつある
のに気づいたのである。
 あたかも、寄せ波によって固い岩が少しずつ削られていくかのようであった。刻は、永
遠の生に凍りついた彼の肉体にうちよせ、魂に満ちていた力を少しずつ流し去っていっ
た。彼は知らぬ間に、出られぬ檻の中におのれを閉じ込めてしまったのではないかと、う
たがいはじめた。
 無為をうち払うために、彼はあらゆることをした。配下の魔物たちに乱痴気騒ぎをさ
せ、ありとあらゆる魔界の愉しみを目の前に繰りひろげさせた。地の底から大哲学者の幻
を呼び出し、亡霊の語る言葉に聞き入った。太古の英雄とその軍団の骸骨をよみがえら
せ、史書にある勇壮な攻城戦を演じさせてみた。神話に語られる恋人たちを見た。魔物ど
もを遣わして人間をさらい、あるいは誘惑させ、気まぐれに幸運と不運を、富と欠乏をふ
り撒いた。それによって人間たちが堕落していく様子を眺め、愉しもうと努力した。
 たしかにそうした遊びは、いっときは心の憂さを晴らしてくれるものであった。人であ
ったころ、尊崇していた神に仕える者どもが、俗人と同様あっさりと、否、俗人以上にた
やすく魔の者の手のうちに堕ちて、破滅してゆくのは心浮きたつものであった。
 しかし、そうした刺激にもすぐに厭いた。人間の目にあまる卑小さにうんざりし、上品
にとりつくろいつつ、下卑た素顔をさらけだす無様に嘔気をおぼえた。このような賤しい
ものどもをいかに堕落させたところで、神にむかって唾することすらできぬと悟った。
 神はあいかわらず手のとどかぬ高みに在り、彼をあざわらっていた。おのれの無力さ
に、彼は歯がみした。いよいよ無残で悪辣な計画を練り、巧妙な仕掛けをもっていくつも
の村を、街を、国をも破滅させた。だが、彼の感じる無力はかわらなかった。神に彼の爪
はとどかなかった。彼の精神はしだいに沈滞に陥りはじめた。
 母の胎内にあったときから魔であったかつての夜の王は永き無聊を戯れで埋めるすべを
心得ていたが、その精髄を奪った彼は、なかばは人の心を残していた。
 人にとって永遠の無為とは罰にひとしい。彼は陰鬱になり、さらに精神の淀みに沈ん
だ。もはや人の愚行も、魔物どもの血なまぐさい騒動も、彼を愉しませなかった。

34 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】3/62010/06/23() 23:01:12

 地上にあるあらゆる智識、いまだ人の手の触れぬ、また触れられてはならぬすべての智
慧という智慧に、彼は通じていた。この世で彼が知るべきことも、なすべきことも、もは
やどこにも無いように思えた。
 暗黒に閉ざされた城の玉座に身を置きながら、彼は、倦怠の重い鎖が身を取り巻いてい
くのを感じた。この鎖は目には見えなかったが、どんなものよりも重く、強く、ふりほど
きがたい鎖だった。美しい額に指を置き、長い髪が流れ落ちるのをうつろに見つめなが
ら、彼はみずから選んだこの鎖が、じわじわと我が身を締めつけるのを感じていた。
 ──主よ。
「呼んだか。〈死〉よ」
 ──城の門前に娘が置かれている。
「そうか」
 彼は目をとじた。おおかた近隣の村人の差しだしたものであろう。彼の配下の魔物の襲
撃を逃れるために、ときおりこうして、自らの仲間のうちから犠牲を差しだすものがいる
のだ。これもまた人間のおろかさと下劣の見本であった。
「要らぬ。帰らせよ。余はいま血を欲しておらぬ」
 ──娘は帰らぬと言っている。
 暫時姿を消したあと、もどってきて〈死〉はそう復命した。
 ──帰ったところで戻る家もなく、受け容れてくれる人もないと言った。
 彼を動かしたものがなんであったのかは判らない。魔窟と怖れられる城の門前に置きは
なされてなお帰らぬと言い放つ娘の無謀さか、それとも愚かさか、絶望か。いずれにせ
よ、娘の言葉は彼の沈滞しきった興味をわずかに惹いた。
「出よう」彼は言った。
「余が顔を見てやる。余を見てなお逃げぬとあれば、少しは気のまぎれる玩具であるかも
しれぬ」
 彼はゆき、〈死〉はあとに従った。
 黒い玄武岩できざまれた魔城の門前に、娘は頭から面紗をかぶり、布を巻いた長い棒状
のものを膝に横たえて座っていた。わずかに見える柄頭から、剣であると知れた。彼は思
わずほほえんだ。人間の娘の力弱い細腕で、人ならぬ闇の主に一太刀なりと浴びせられる
と考えているのだろうか。

35 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】4/62010/06/23() 23:01:45

「余がこの城の主である」
 彼は告げた。普通の人間であればそれだけで恐怖に凍りつく声だった。
「汝はいずこより参り、何のためにここにいるか。申せ。返答次第で汝の処遇は変わる」
 娘は身じろぎし、視線をあげた。面紗におおわれた下から細い顎がわずかに見えたと
き、彼は奇妙な胸騒ぎをおぼえた。人であることを捨ててから、絶えて感じたことのない
ものであった。娘は裸足で、粗末な白い服を着せられ、あたかも犠牲の仔羊のように小さ
く、無垢に見えた。
「わたしがいずこから参りましたかはもはや申しあげても意味のないことでございます、
尊いお方」
 細いが、涼やかな声で娘ははっきりと答えた。ふたたび強い胸騒ぎが、魔の血に浸され
て揺り動かされることなどないはずの心臓が、絞り上げられる心地すらした。
「わたしは家をなくし、家族をなくしました。友もおらず、支えてくれる者とて誰ひとり
おりません。金でわたしを買おうという者もおりましたが、そのような身に自分を置くこ
とは父母の教えに反すると感じて、断りました。すると彼らはわたしを捕らえて、こちら
のお城の門前に置き去りにしてゆきました。それがすべてでございます」
「その膝に持っているものは何か。剣ではないか。余をそれで討とうとでもするか」
「いいえ。ただの人間の女にすぎないわたしに、どうしてそのような大それたことができ
ましょう。これはわたしの亡き父母が唯一遺してくれた形見、わたしの家系に伝わる、か
つて名高い騎士であったお方の持ち物であったという剣でございます」
 娘は包みから布をすべり落として、中身を差しだした。男は低くあっと声をもらして、
われにもなく後ろに身をそらした。娘は気づかず続けて、
「そのお方はたいそう知略と知謀にたけたお方と伝えられておりましたが、聖地を奪回す
るための長い戦に出るおりに、奥方様のもとに遺してゆかれた剣がこれだと聞いておりま
す。それ以来、この剣はわたしの家の女の護り刀として、代々受け継がれてまいりまし
た。けれども今では、わたしがただ一人残るばかりです」
「汝──いや、そなた、名は」
 彼の言葉はほとんどあえぐようであった。
「エリザベート・ファーレンハイツと申します、尊いお方」

36 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】5/62010/06/23() 23:02:28

 涼やかな声がはっきりと答えた。
「歳は十五になります。──親しい者には、リサと呼ばれておりました」
 男はもはや自分を抑えることができなかった。つかつかと進み出て、娘の前に身をかが
め、垂れた面紗を引き上げた。
 薄闇に、月にもまがう白い顔があった。五月の空を思わせる透明な青色の瞳が、怖れげ
もなく彼を見返した。淡色のゆたかな金髪が細い肩に雲のように垂れかかり、身を飾るも
のひとつない彼女の、唯一の装身具となっていた。
 手を放し、蹌踉と男はあとずさった。ふだん、ほとんど拍動などすることのない胸が苦
しいほど早鐘を拍っていた。耳障りな呼吸音を意識した。どちらも、人でなくなってから
は久しく必要としたことのないものだった。
 耐えきれなくなって男は身をひるがえした。娘は剣を抱いたまま、黄金の髪をいただい
た美貌を無邪気にあげている。態度にも、言葉にも、恐れは微塵もなかった。見捨てら
れ、吸血鬼の餌食となるようにここに置かれたというのに、宮廷の椅子に腰かけるのと同
じように落ちつきはらい、堂々とした貴婦人のふるまいを崩さなかった。
「その娘を城内に入れてやれ」
 立ち去りながら男は命じた。
「瘴気のうすい場所──できるならば、影響のない場所を居室に選んでやれ。望むものが
あれば言うがよいと伝えよ。なんなりと与えようと」
 玉座の間にもどるまで男は足を止めなかった。何かに追われてでもいるかのように男は
玉座に身を投げ出し、両手に顔を埋めた。従者である〈死〉が、そばへ漂ってきた。
 ──主よ。あの娘がどうかしたか。
「あれはわが妻だ。エリザベータ」
 呻くように男は呟いた。
「あの剣はかつて余のものであった……十字軍のために東征する際、彼女の守り刀として
託していったものだ。忘れたことなどなかった……一度として、忘れたことなどなかっ
た。あれはエリザベータ、わが妻の血を引き、わが妻の魂を受けついだ娘だ」
 すでに遠い昔となった日々のことがあざやかに甦ってきた。まだ若い騎士であった彼
に、妻が嫁いできたのも娘と同じ十五のときであった。花嫁の面紗を持ちあげて口づけた
ときの、彼女の薔薇色に上気した頬と幸福にみちた微笑が浮かび、たったいま目にしたば
かりの娘の、なめらかな頬と重なった。

37 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】6/62010/06/23() 23:03:05

 エリザベータとエリザベート。おお、そうとも、自分もまた妻をしばしばリサと呼んで
いた。幼いときから婚約の絆で結ばれていた二人は、たがいを子供のように愛称で呼びあ
うのを好んだ。それもまた愛のあかしの一つであった。聖地へむかって出立する朝も、彼
女は、おそらく感じていたであろう不安と寂しさを押しかくし、護り刀を抱いて、明るく
笑って接吻したのであった。二度と夫の手を取ることもなく、夫の接吻を受けることもな
いのだと知るよしもなく。
 ──たとえ魂が同じものであろうと、人は人。
〈死〉は骨ばかりの顎を鳴らして言った。
 ──かの娘がかつて主の妻であったとしても、その記憶を娘はもたぬ。人の記憶はもろ
い、わが鎌に一度かかったならば、前世のことなどまず憶えてはおらぬ。
「知っていたのか。あの娘がわが妻の魂を持つと」
 ──われは〈死〉。人の魂を刈り取るもの。魂の色を見分けるはわが力の内にて。
「たわけ」
 叫んで、彼は片手をうち振った。〈死〉は霧のように手応えなくあとずさった。
「余が何ゆえ汝と契約したか、判るか、〈死〉」
 ──われ、〈死〉を生み、地上に下した神に叛逆せんがために。
 いんいんとこだまする声で〈死〉は答えた。
 ──われを手の内に置きて〈死〉を否定し、わが身を神の意図に逆らう記念碑として、
黒い炎のごとく、地上にあって永遠に燃え続けるために。
「そうだ、それゆえに、余は汝を捉え、抑えつけ、抵抗できぬ術と交換条件で、わが足下
に跪かせた……契約により、汝はいかなることがあろうと、余に手出しはできぬ。余が命
令すれば従わずにはいられぬ。余は〈死〉を支配するものであり、汝の主だ。そのために
余は、わが妻といまだ生まれぬ子をその鎌にかけた汝をわがしもべとした、しかし」
 拳を固めて、玉座のひじ掛けをつよく打った。

38 古歌-イニシエウタ-【一ノ歌】6/62010/06/23() 23:03:54

「この度は許さぬぞ、〈死〉よ。あの娘に手出しはさせぬ。わが配下の魔ども、闇に棲む
すべてのものにも伝えよ。あの娘の身に毛ほどの傷を与えること、髪の毛一本なりとも損
なうことがあろうものなら、余がじきじきに、永劫続く苦痛をその者に与える。娘は安全
に護られねばならぬ。完全に。完璧に。聞こえたか、〈死〉」
 ──主の言葉である。われは従う。
「ならばゆけ。よいか、娘を傷つけてはならぬ、一指すら触れてはならぬ、ことに汝は
だ、〈死〉よ。汝は一度わが妻を奪った。同じ魂を持つものを、二度までその貪婪な鎌の
もとにさらす気はない。娘の世話は選べるかぎり快い姿を持つものに命じよ、娘が怯える
ことのなきよう。精霊界への扉を開けよ。城の瘴気も、あの地までは及ぶまい」
 ──人には寿命のあることを忘れてはならぬ、主よ。
 影のごとく漂いながら、呟くように〈死〉は告げた。
 ──娘はなるほど美しい。確かにかつてエリザベータと呼ばれたものの魂の姿を受けつ
いでいる。しかしまったく同じではない。時が経てばいずれ老いて醜い老婆となり、死
ぬ。それは主であろうと止められぬ。娘が人である以上は。われは主との契約に従うが、
自然の法則においての死は、枉げることができぬ。
「そのようなことは判っている。行け、今は汝の骸骨の顔など見たくはない。欲深な、く
だらぬ奴隷め、行け。行かぬか」
〈死〉は姿を消した。玉座にもたれかかり、男はいまだ受けとめかねる衝撃と立ち返って
きた記憶の渦に、身じろぎもできぬまま翻弄された。
 泣けるものならば泣いていた。だが人でないものに泣くことはできぬ。身も心も凍りつ
かせたまま、男は、暗黒の城の玉座で、とつぜん舞い込んできた輝く髪の娘を想い、ひと
り胸をとどろかせていた。