古歌-イニシエノウタ-【二の歌】

 

 

39 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】1/182010/07/12() 22:21:54

【二ノ歌】

 娘がやってきてからどれとほどの時間が経つのか、男は意識しなかった。そもそも時間
というものすら、男にとって意味を持たなくなってひさしい。しかし今は違った。時間は
生きているものの所有物であり、その生きているものがここにいた。
 夕暮れ、男は目覚めるたびにそわそわと歩き回り、すでに流れ過ぎた年月を数えようと
した。刻の砂は掴もうとする指から、あざけるようにさらさらとこぼれ落ちた。生きなが
ら不死となったものは、死んでいるも同然、とそれはささやいた。苛立ち、男は、歯を噛
み鳴らして誰にともなく咆哮した。主の怒りによって城は身震いし、中に住まう小妖ども
はいっせいに身をちぢめた。今にも主の気まぐれな怒りによって五体を引き裂かれるのだ
と信じて。しかし、そんなことはなかった。主は怒り、とまどい、どのようにすればよい
かもわからぬまま、ひとりの娘のことを思っていた。長い金髪を肩に垂らし、静かな青い
瞳で、怖れげもなく吸血鬼の王を見あげた娘。ひとふりの剣を、唯一家系に伝わる品だと
差しあげてみせた娘。なき妻と同じ姿をした娘。
 愛しいエリザベータその人の魂を宿した、娘。
 娘は城外と城内の境界線上に位置する、精霊界に属する土地に住まいを与えられてい
た。万が一にも血に飢えた配下が妙な気を起こさぬように、周囲には魔王の名において、
厳重な封印をほどこしてあった。
 姿も美々しく、気性の穏やかな侍女を数名選んで傅かせた。いかつい土霊に命じて、女
の住処にふさわしく飾った、瀟洒な離宮を建てさせた。内部は黒小人の手になる豪奢この
上ない調度で飾られ、空気の精たちの透明な指でぬいとったあでやかな衣装の靴の数々
が、彼女には与えられているはずだった。魔界の食物が人に与える影響を案じて、娘に
は、人間の世界から取りよせられるだけの贅沢な食物が、日に三度届けられた。
 それだけのことをしておいて、彼はまだ娘に会うだけの勇気をふるい起こせないでいる
のだった。彼、闇を統べる王、魔王と人にも呼ばれ自らも認めた強大な力の持ち主が、無
力な人間の娘に怯えているのだった。
 いくとも彼はみずからの怯懦を嗤った。従者たる〈死〉のいうとおり、娘はエリザベー
タの魂を持っているが、エリザベータその人ではない。たとえよく似た顔と姿をしていよ
うと、とどのつまりはただの人間の小娘にすぎぬ。何を怖れる必要があるのか。いくど自
問しても答えは出ず、娘のいるはずの離宮に足を向けようとしても、そのたびに、何かに
まつわりつかれるように、その歩みはとまってしまうのだった。

40 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】2/182010/07/12() 22:22:29

 以前よりも鬱々とした日々を、男は過ごすようになった。無為に玉座にあって石のよう
に無感覚でいるよりも、はるかにつらい時間であった。目を閉じれば娘の澄んだ瞳と、輝
かしい金髪が細い肩をすべり落ちるようすが浮かんだ。それはまた、遠い昔、若い妻との
婚礼のおりに、彼が見ていとおしく思ったすべてと重なった。
 しかし、ああ、彼女は死んだのだ。自分が神の名のもとに異教徒を殺している最中に、
神と、その走狗である運命の手で、〈死〉の骨の手に渡されてしまった。
 であるのに、彼女はふたたびここにいる。温かい生きた血肉をまとい、あの日と同じ
若々しくなめらかな頬と、やわらかな唇を彩るほほえみを浮かべて。
 そして剣。かつて騎士マティアスと呼ばれた男のものであった。
 最後に妻を見たとき、彼女は目に涙をためながらも、あの剣を抱いて気丈に微笑んでい
た。そしていま現れた彼女も、同じ剣を抱いて、まっすぐにこちらを見つめていた。
 もう一度、あのまなざしにさらされるのが恐ろしかった。太陽の光に耐えられぬ身にな
ったと同様、あの瞳に見られれば、この身は存在することもできず蒸発してしまうのでは
ないか。そんならちもない妄想が、脳裏を離れないのだった。
 娘は彼の心臓に刺さった棘であった。動きもせず、傷つくことも永久にないはずの心臓
が、そのために痛み、びくつき、血を流して悲鳴をあげていた。彼女を監禁したのは彼で
あったが、いまでは、監禁されているのは彼であった。
 娘がいる精霊界の近くに、足を向けることさえ最近の彼は避けていた。にもかかわら
ず、毎日、娘はどうしているか、身体に障りはないか、傷ついたり怯えたりしている様子
はないかと、尋ねずにはいられなかった。
「娘は元気にしております」と判で押したような答えが返ってくるばかりだった。
「精霊界に住むのも慣れたようで、妖精どもとたわむれては、森を散策して草を摘んだ
り、踊ったり、歌を聴かせているようでございます。人間界の歌を」
「妖精どもは娘をきらってはおらぬのか」
「いえ、むしろ、たいそう好いておりますようでございます。世話につけました樹精や水
精の娘どもも、できるかぎりよくしてやろうと心を砕いております。どのような貴婦人で
さえ、あのように侍女をとりこにはしますまい。羽根ある小妖精どもなどは、娘が戸外に
いようがいまいが、蝶のようにあたりを舞って、いっときも離れようとせぬとか」
「何か欲しがることはないのか。欲しいものがあれば何であろうと言うがよいと申し伝え
てあるはずだが」

41 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】3/182010/07/12() 22:26:12

「それが、何もほしがりませぬ。陛下のお与えになった衣装も装身具もほとんど手も触れ
ず、ここに来たときにまとっていた白い衣と裸足のまま、青草を踏んで歩くのが好きなよ
うに見えまする。端女どもが宝石や黄金を並べ、鮮やかな衣装に袖を通すように勧めて
も、それでは歩いたり走ったりするのに不便だから、自分はこれがよい、と。衣装の織り
手の空気の精たちは嘆いておるようでございますが」
 男は黙りこくった。報告者の小妖は、主の機嫌をそこねたのではないかと、はや戦々
恐々として身をちぢめていた。
 かなりの時間が経ったあと、はじめて男は、小妖がまだそこに縮こまっていることに気
がついて、そっけなく、去れ、と命じた。心底ほっとした様子で報告者は消え失せた。
 ──主よ。
「呼んではおらぬぞ、〈死〉よ。何用か」
 ──あの娘に、何ゆえ口づけを与えられませぬ。
 男は無言であった。広間の暗黒からにじむようにわいて出た黒衣の骸骨は、巨大な鎌を
肩にしながら漂うように玉座のかたわらに依った。
 ──あの娘がお気に召したか。ならば口づけを授け、側女となさるがよい。ほかの女に
したのと同じく。あの娘がかつて主の妻であった魂を持つならば、まして、そうなさるべ
きであろう。主はわれ、〈死〉の手に愛するものを渡さぬとお誓いなされた。主が口づけ
なさらば、あの娘は主と同じく、永遠の生を得よう。
「死者の生をか? 血に飢えた怪物の生をか?」
 苦々しく男はののしった。
「〈死〉よ、余は確かに汝の手から生命の与奪を奪うためにいまのこの身となった。だ
が、わが身に使用した法はただ一度のみ、ほかの者には使えぬ。汝の進言のとおり、娘に
わが口づけを与えたならば、なるほど、娘は永生を得よう。しかしそれは歩く死者の負の
生命だ、血を求めて飢えかわく悪鬼の生命だ。そこに人としての魂は一片として残らぬ。
そのことを知らぬ汝ではあるまい」

42 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】4/182010/07/12() 22:26:43

 ──しかし娘は生きるであろう。いまの姿そのままに、従順なしもべとして。
「余はあの娘にしもべたることなど求めておらぬ!」
 叫んで、彼はそれがまさに自分の本心であることを知った。この長く沈滞した時間の中
で、突きささっていた棘のひとつはそれであった。自分はなぜあの娘の血を啜って従属者
のひとりに加えないのか。
 これまで、同じように近隣の村から捧げられてきた娘や子供はおおぜいいた。その時の
気分にしたがって、男はその者の血を吸っては愚鈍な吸血鬼としてもとの村に放ち、村が
壊滅するのを楽しんだ。また、特に気に入ったものであれば吸血のあと城におき、みずか
らの血のしもべとして、玩具のごとく扱った。
 しかしそのどちらも、あの娘に対してしたくはないのだった。いったん彼の口づけを受
ければ、人間の魂は蝋燭の炎のように吹き消され、かわって、吸血鬼の本能と残忍な血へ
の衝動が魂のあった空洞を埋める。あの夏空の色をした瞳が、地獄の炎の紅に染まるとこ
ろなど見たくはなかった。城の後宮には彼に血を吸われた美女たちが数十人、主人の血の
口づけを待ちながら、投げ与えられる人間の男をからからに吸いつくしてもてあそんでい
る。あの中に、あの清楚な娘が加わることを考えるだけで嘔気がした。娘はあのままでお
かねばならぬ、否、あのままで、ただ、あのままでいてほしいのだ……
「去れ、〈死〉。あの娘の処遇は余が決める。汝の口出すことではない。失せよ」
〈死〉は一瞬なにか言いたげにその場に留まっていたが、やがて一礼すると、かき消え
た。男はなおもしばらく、玉座のひじ掛けに手を乗せてあごを支えていたが、やがて、思
いきったように裾を払い、大股に玉座を降りて広間をでた。


 娘の居所へ向かう足取りは奇妙にも重かった。心は一刻も早く前へとはやると同時に、
娘が先ほど聴いたとおり穏やかにいるならば、姿を見せて怖がらせてはならぬという思い
が枷のようにまつわりついた。はじめに顔を合わせたときはまだ気を張っていても、日が
たてば、自分が人外の城にいるのだと思い出す瞬間もあろう。どれほど大事に扱われてい
ても、これは玩具を飾りたててもてあそぶも同じ、あるいは、家畜を肥えさせてよろこぶ
も同じという考えが、しだいに娘のなかに起こっていはしまいか。そう考えると、いても
たってもおられぬ気持ちが彼の中に起こり、ふたたび、先へ進むのと後へ下がるのと、相
反する衝動で苦しめるのであった。

43 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】5/182010/07/12() 22:27:17

 また奢侈に慣れ、媚をうるような娘も見たくはなかった。そうなれば自分は娘を殺すだ
ろうという予感もあった。しもべにするのですらない、ただ、もっとも醜く下賤な虫けら
を踏みつぶすがごとく殺すのだ。自分の前から消してしまうのだ。この夜の王の心を惑わ
せた罪、かつての幸福のまぼろしとなって現れた罪、愛するエリザベータの思い出を汚し
た罪、さまざまの罪をもって、娘は消し去られねばならぬのだ。
 王の通過は城のあちこちに台風のような効果をもたらした。彼の通りすぎたあとには震
えあがった妖物や、あまりの恐怖の圧迫に自ら潰れた小妖の死体が散らばった。多少なり
とも知恵のある魔物は息をひそめて主の精神の嵐が過ぎるのを待ち、さして賢くない妖獣
は、蛇の尾を股のあいだにはさんでこそこそと汚泥の中にもぐりこんだ。
 そうした嵐をあとにひいて、彼は娘の居所と魔城とをへだてる扉に近づいた。彼自身が
ほどこした封印がちりばめられた、重い扉であった。手をかけて、押すのにはいつもより
力がいるように感じた。細くあいた扉の隙間から、精霊界の微光と、楽しげに笑いあう振
鈴のような声が流れこんできた。


「ああ、尊いお方」
 娘は聴かされた通り、白い衣に裸足のままで、青草の上に座りこんでいた。跳ねるよう
に立つと、やわらかな金髪が翼のように宙を舞った。
 周囲で同年代の娘のように笑って花飾りを編んでいた樹精や水精の侍女たちが、あわて
て立ちあがって礼をとる。珍しげにそばにとまったり、あたりを飛びかっていた羽根ある
小妖精が蜘蛛の子を散らすように逃げ散る。輝く鱗粉がこぼれて木々や下草に飛んでい
き、いくつもの小さな頭がおそるおそる様子をのぞいた。
「ようやくいらしてくださいましたのね。お待ちしておりました。もしかして、お怒りに
なっておられるのではないかと、そればかり心配しておりました」
「余が?」
 ようやく、彼はそう言った。スカートを払った彼女ははじめてやってきた日と変わら
ず、明るくまっすぐな瞳をしていた。
 夏空の瞳。自分が二度と見ることのかなわぬ色。彼はまるで人間のように目まいをおぼ
えた。その瞳が、彼にむかってほほえんでいた。

44 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】6/182010/07/12() 22:27:51

「はい。命をお助けくださった上、これほどまでにいろいろとしていただいたのに、わた
しがわがままを言うせいで、感謝を知らぬ不届き者だと思っていらっしゃるのではないか
と思っていました。そうではないのですか?」
「余が?」
 痴呆のように彼はくり返した。よく見れば、以前に見たときより娘は血色がよくなり、
痩せた身体に女らしい曲線があらわれているようであった。人間の世界にいるときには、
ろくに食物すら与えられなかったのであろう。ふっくらとした頬にほんのりと赤みがさし
て、咲きそめた薔薇のつぼみのようであった。
「そなたが何もほしがらぬと聞いてきた」
 何をいってよいかもわからぬまま、彼はつづけた。
「与えた着物に袖を通さぬとも、宝石にも黄金にも興味を示さぬとも。余には、ほかにど
うしてよいかわからぬ。そなたは、いったい余に何を望むのだ」
「望むなどと」
 言われた娘のほうが驚いているようだった。
「もはや亡いものと思っていた命をお救いいただいた上に、この上何を望むことがござい
ましょう。このように立派な住まいに、楽しいお友だちやかわいい妖精たちと毎日暮らさ
せていただいて。人里にいたころには、このような暮らしなど想像したこともございませ
んでした。他に何を望むものがありましょう」
「衣装は気に入らぬか。宝石は。女というのはああいうものが好きではないのか」
「美しいものだとは存じます。人間の世界ではきっと、とても珍重されるものなのでござ
いましょうね。けれども、わたしはそのような着物に慣れておりませんし、着てもきっ
と、無様なところをお見せするだけです。宝石も、黄金も、同じこと。わたしはこの身を
覆うこの衣一枚でよいのです。これは軽くて動きやすくて、手入れもかんたんです。あの
すばらしい衣装の数々は、一人では着ることも脱ぐこともできません」
「そのために侍女がいるのだ。この者たちに申しつければよい」
「あら、わたしは子供ではありません! 他人の手で着物を着せてもらうには、もう大き
くなりすぎました」

45 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】7/182010/07/12() 22:28:29

 そう言って、また娘は鈴のような笑いを響かせた。
「起きてすぐに動きまわりたいわたしのような落ちつきのない娘は、このような簡単な衣
がいちばんよいのです。さいわい、こちらの大地に生える草は、これまで踏んだどんな布
より絨毯よりもやわらかくて、靴をはくなど勿体なくてとてもできません。そんなことを
すれば、このひんやりして心地よい露に濡れた草の感触をなくすばかりか、葉陰に隠れた
小さな花や虫を、うっかり踏んでしまうことにもなりかねません」
 そう言いながら娘はかがんで、下草の裏にかくれた小さな虫を見せた。金属質の輝きを
持つ緑色の甲虫は、一瞬透明な下翅を硝子のようにきらめかせて飛び去った。
「それで、そなたは何もいらぬというのか」
「生命をいただきました。それ以上、何を望めとおっしゃるのでしょう」
「それでも、何かあるだろう。言うがいい。なんでも叶えてくれよう。城から出すことだ
けはならぬが」
 彼は言いつのった。妻と暮らした日々ははるかに遠く、また、目の前にいる娘は確かに
亡き妻ではなかった。淑女としてきびしく育てられた彼女は、裸足で草の上に坐り、妖精
に囲まれて花を編むことなどけっしてなかったろう。彼は心底とほうにくれた。
「それでは、地面を少しくださいまし」
 しばらく考えたあと、思いきったように娘は言った。
「地面?」
「はい。それと、種と、苗、小さな鋤と、こてと、水やりのための桶と柄杓を」
 なんのために娘がそんなことを言い出したのか見当もつかなかった。娘はつま先だって
身を翻すと、踊るように周囲の草地を指さした。
「まだ両親が健在でしたころ、わたしの母は花や香草、薬草を育てて売っては、世過ぎの
助けにしておりました。わたしもそれを手伝って、植物の世話をするのが大好きになりま
した。こちらの世界では、草や花は人間の世界よりもずっと大きく、美しく育つとか。も
し少しの地面を掘りおこすご許可をいただければ、母のものと同じような、小さな花園を
作ってみたいのです」

46 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】8/182010/07/12() 22:29:06

 あまりにも想像とかけ離れた要求に、彼はしばらく答えることができなかった。娘が少
しも彼を怖れるようすを見せず、ただ、救ってもらったという感謝の念をのみ向けてくる
のも信じがたかった。
 手を泥に汚して土仕事をしたいという娘はエリザベータではない。しかし、何にも怖じ
ないまっすぐな視線、淡くゆるやかに流れる金髪、堂々とそらした胸は、確かにかつての
貴婦人エリザベータのものだった。耐えられずに彼は目をそらした。
「叶えよう」
 ようやくそれだけ言うと、彼は長衣をひるがえして向きを変えた。
「どこでも好きなところを好きなだけ掘るがよい。種苗と道具はすぐに届けさせる。本当
に望みがそれだけだというのならばな」
「よろしいのですか? ああ、感謝いたします、尊いお方!」
 娘の声が喜びに弾んだ。怯えて縮こまっていた侍女たちも徐々に頭をあげ、不思議そう
にひそひそとささやきあっていた。逃げ出した小妖精たちも少しずつ近づいてきて、きら
きらと鱗粉をこぼしながら目をまるくしている。
 逃げるように扉を抜けて、彼はひどい疲労を覚えた。閉じた扉に背をもたせて、暗黒に
閉ざされた魔城の穹窿を見あげる。恐ろしげな偶像や黒い石組みに閉ざされた城が、ふい
にたまらなくおぞましいものに思えた。青草の上で踊っていた娘の、白い細いつま先が瞼
の裏でひるがえった。彼は額に手をあて、眼を覆った。自分がどうしたいのか、あの娘を
どう扱うべきなのか、まったく考えられなかった。


 その後もいくどか男は娘のもとを訪れた。扉を押し開ける寸前まで行こうか行くまいか
逡巡しつづけ、それでも、行かずにいられずに精霊界の微光のなかに足を踏みいれるのだ
った。娘はいつも彼を見てよろこんだ。その表情には一片のくもりもなかった。夏空の色
の瞳はいよいよ澄み、胸苦しいほどにあざやかにきらめいていた。
 訪れるたびに娘が女らしくなっていくことにも気がついていた。時間の流れは彼を置き
去っていったが、人間である娘の上には確実に成長をもたらしていた。まだ子供のあどけ
なさを残していた頬はほっそりとし、胸のふくらみは優雅な曲線を描いて簡素な衣装の下
に息づいていた。白い素足は軽い靴に覆われるようになり、奔放に草原を駆けまわるしぐ
さは、しとやかに侍女たちをつれて散策する貴婦人らしい歩みに変わっていった。

47 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】9/182010/07/12() 22:29:37

 それでも、娘のもっとも根底たる部分は少しも変わらなかった。よく笑い、微笑み、嬉
しいことがあれば、素直な態度で率直に感謝した。彼が魔性の者であり、闇を統べる王で
あることも、ほとんど忘れられているようであった。丁寧な態度はつねに崩さなかった
が、そこには、多少のいたずらっぽさと、彼には理解できない何か、思いやりとも、同情
とも、つかない何かがあるように思えた。
 愛情、という言葉が脳裏をかすめたが、自らを嗤って彼は否定した。何の、人間の娘
が、魔物とわかっている暗黒の王に愛情など抱くものか。もし好意に近い何物かがあった
としても、それは気まぐれに生命を救い、人形のように自分を飼っている闇の王への感謝
と、おそらく畏怖、つきつめれば、恐怖にすぎない。
 いっそ、あからさまにおもねられたほうが楽だったかもしれない。そうすれば彼は躊躇
なく娘を捨てたろう。しかし娘はそんな態度を一度も見せなかった。彼が来ればよろこん
で出迎え、彼が与えた道具と種から育てあげた花園を、先導して案内するときの誇らしげ
な顔は、無邪気な喜びと誇りに満ちていた。
 幾度となく彼は尋ねた。もっと何か欲しいものはないのか。魔界の竜の額にしか生まれ
ない炎の宝石はどうか。いまだ人間の知らない技術で取り出された秘密の金属は。それは
どんな上質の糸より細くやわらかく、それで布さえ織ることが可能なのだ。地底の溶岩の
奥で生まれる炎の鳥の雛は。氷河の奥に眠る古代の幽霊船から持ち帰られた、ひと抱えも
ある珊瑚と金剛石の椅子は。
 いいえ、欲しくはありません、といつも娘はかぶりを振るのだった。それでも彼が言い
つのると、それでは、と代わりに持ちだされるのは、いつも拍子抜けするようなものばか
りだった。花園の手入れをするための剪定鋏。採れた香草や乾燥した花びらをしまってお
くための素焼きの壷。糸を紡ぐための紡錘と羊毛。紡いだ糸を布に織るための織機。織り
がった布を裁って仕立てるための裁縫道具と色糸。薬草や香草を煮つめたり、パンや菓子
を焼いたり、果物を砂糖煮にするための、小さな厨房と竈……

48 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】10/182010/07/12() 22:30:15

 はじめ、女王のための小離宮のようだった建物は、いまでは居心地のいい、働き者の郷
士の女主人の家のようになっていた。華美な家具や場所を取るばかりの飾りものは片づけ
られ、実用的ですっきりとしたしつらえの品物ばかりが並んでいた。壁の上には金糸銀糸
の綴織のかわりに女主人自らが刺繍した美しい壁掛けがかけられ、長椅子には思わずその
上に横たわりたくなるような、優しげな色合いのクッションが置かれていた。
 飾り気のない食卓の上には焼きたての温かいパンや菓子が並べられ、いつでも誰でも食
べてよいことになっていた。その周りを妖精たちが花にとまる蝶のようにひらひらと飛び
まわり、香草の芳しい香りがいつもあたりにただよっていた。そして女主人その人は、花
園の世話をしているときは咲きほこる薔薇のあいだから、内にいるときは指から糸くずや
紡錘の棒をすべり落として、喜びの声とともに彼を迎えるのだった。
 召し上がってみてくださいな、と差しだされる食物はすべて彼にとっては意味のないも
のだった。彼の食物は血であり、血の中に脈打つ生命力と恐怖とその他あらゆる昏い感情
が彼の身を支えていたのである。それでも彼は食べた。舌は味を感じず、灰のかたまりを
食するも同然だったが、それでも彼はいくつもそれを口に運んだ。娘が目をかがやかして
手ずから差しだす心づくしを、断ることがどうしてもできなかった。
 自分は血をすする魔物だ、闇の王なのだと、娘にわからせてやることは簡単だった。し
かし、こうして花の咲く庭に座り、味のしない菓子と茶を前にして腰かけていることは、
はるか昔に人間であったころの甘い思い出を喚び起こした。それは舌に感じる味よりもは
るかに甘く、芳しかった。妻と向かいあって座り、とりとめもない会話をかわしながら軽
い食事をとるのは、彼が何より愛した習慣の一つだった。
 まるで自分自身に鞭打つように、その当時の幸せをまねたままごとを、ままごとである
と知りつつやめなかった。娘の小鳥めいた話し声に短くあいづちを打ちながら、その場を
離れなかった。あまりにここで長く刻を過ごしてはならぬと、理性が残酷な警告を発する
まで、座りつづけた。


 ある日、娘はいつになく青ざめた顔で彼を出迎えた。
「どうしたのだ。気分でも悪いか。何か無礼を働くものにでもあったか」
「いえ、そうではありません。……この子たちから聞きました。尊いお方、わたしが以前
住んでいた村のあたりで、疫病が流行しているというお話は、本当でございますか」
「そのことか」

49 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】11/182010/07/12() 22:30:48

 人間の上に病や災害の種をまき散らして悦に入ったことも何度かある彼だったが、この
数年、そういった興味はまったく失せていた。彼の興味、彼の想念を占めていたのはほと
んどこの娘ひとりだけであり、他のことなどほとんど忘れ去っていたのである。娘をさし
だしてきた村のことさえ、気にしたこともなかった。
「配下のものがそのようなことを言っていたらしいな。余には関係のないことだ」
「お願いがございます、尊いお方」
 いつになく性急なようすで、娘はその場に膝をついた。
「わたしをほんのしばらくの間だけ、お城から出してくださいまし。村の人々に、病気に
効く薬を届けたいのです。この地で育てた薬草は、人間の世界で育てたよりもずっと効き
目があります。この薬を呑ませてあげれば、死んでいく子供たちや老人が、どんなに助か
るかしれません。お願いでございます。どうぞ、わたしを村へ行かせてくださいまし」
「ならぬ!」
 彼の咆哮は雷鳴のように周囲をゆるがした。後ろで心配げに控えていた侍女たちはおび
えた声をあげて縮こまり、同じく少し離れていた小妖精たちは、吹き消されるように姿を
消してしまった。
 花々は怯えて丸まり、草木も身をかがめてちぢこまった。微光に充たされた精霊界は、
闇の王の怒りによって世界そのものが針で充たされたように肌を突き刺す空気に変わって
いた。彼の目は久しく忘れていた血の色に爛々と燃えていた。娘だけが怖れなかった。
「きっとお怒りになることとは存じておりました。けれども、わたしが行かなければ、た
くさんの弱い人々が死ぬのです。子供や年寄りがまっ先に病に倒れました。そうでなくと
も、世話をする大人が倒れれば、誰も面倒を見てくれない子供も死ぬしかありません。罪
もない人々が苦しんで死んでいくのを、わたしは黙って見てはいられません」
「薬を届けるだけならそこにいる侍女どもに持っていかせるがよかろう。なにもそなた自
身が持っていく必要はない」
「あの村には魔物よけの札と浄めの茨が張りめぐらされています。疫病の侵入を、魔物の
しわざと考えた人々が、教会のお坊様のご指導でしたのです。そのために、彼女たちでは
中に入れないのです、この小さな子たちではなおさらです。人間のわたしでなければ、あ
の中に入って薬を置いてくることはできません」
「ならぬと言ったぞ、娘!」
 ふたたびの怒号が轟いた。びりびりと天地が揺れ、精霊界の緑の茂みは今にも枯れそう
な灰緑色に色をなくした。

50 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】12/182010/07/12() 22:31:25

「忘れたか、そなたは、あの村の人間どもから吸血鬼の餌になるがいいと放り出されて、
ここに来たのだ。そなたはあの村の人間に殺されかけたのだ、そんな相手をなぜ気にかけ
る? 放っておくがいい、奴らなど勝手に死ぬに任せよ。人間はどうせいつか死ぬのだ。
早いか遅いか、楽か辛いかなどささいな違いでしかない」
「それでも少しでも長く、健康に、しあわせに生きたいと願うのも人間です」
 闇の王の怒りに燃えあがる目に互して、娘の瞳も一瞬たりともゆるがなかった。
「わたしは確かにあの村の人々に捨てられました。けれどもわたしが生まれ、育ったの
も、あの村なのです。わたしの父の墓も母の墓も、あの村にあります。以前親しくしてい
た隣人たちもたくさん苦しんでいます。わたしは死ぬべき命を、貴方さまのお慈悲に救わ
れて、今このような暮らしを与えていただいております。それはある意味、彼らに捨てら
れたからこそ得られた幸運なのです。わたしは今、とてもしあわせです。ですから、彼ら
に恩返しをしたいのです。たとえ、その意図が間違っていたとしても、彼らがわたしを捨
てたことがわたしのいまに繋がっていることは間違いないのですから」
「心の寛いことだ。自分を放りだした輩に逆に感謝するとは」彼はあざけった。
「余の前で言葉を飾るな、娘。そなたは人間の世に帰りたくなった、そうなのだろう? 
血をすする怪物の人形として扱われ、篭の鳥として暮らすのが嫌になった、ただれそれだ
けのことなのだろう、それならばそうと言うがいい、人間め」
「いいえ、いいえ」
 跪いていた娘は、身を乗り出して彼の長衣の裾にすがった。身をちぢめている侍女たち
の間から恐怖の悲鳴があがったが、娘は怖れるようすもなかった。
「今の暮らしはしあわせだと申しあげました。貴方さまが与えてくださるすべてのもの
に、感謝していないなどとはけっしてお思いにならないでくださいまし。ただ、ほんの少
し、少しだけ、かつての同朋に救いの手を差しのべることを許していただきたいのです。
 用事がすめば、必ず戻るとお約束いたします。わたしは捨てられた身です、そのことは
忘れておりません。わたしを拾って、生かしてくださったのは貴方さまです、尊いお方。
わたしの居場所は、ここにしかありません。あちらでは誰ももう、わたしのことなど必要
としていないのですから」
「必要とされていない場所になぜ構う。ただ逃げたいばかりの口実であろうが」
「逃げなどいたしません。必ず戻ってまいります。貴方さまのもとに」
「余のもとに?」
 闇の王の笑い声をまともに浴びて、花園の花の一輪が耐えきれずに枯れ落ちた。

51 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】13/182010/07/12() 22:32:01

「そなたを食う怪物のもとにか、娘。そなたは生贄としてここに差しだされたことを思い
出せ。余はいつでも、この瞬間にでも、そなたの血を最後の一滴までしぼり取って、その
瑞々しい身体を枯れ木に変えることができる。余はたわむれにそなたの命をのばした。た
わむれに取りあげることも、簡単にできるのだぞ」
「承知しております」
 さすがに恐怖の色がさっと額をかすめたが、娘はひるまなかった。
「わたしの命は貴方さまのもの、どうぞ存分になさってくださいませ。けれども今は、今
だけは、ただ一度の願いをお聞き届けください。お約束いたします、必ず戻ると。戻りま
したらどのようなあつかいを受けても構いはいたしません、けれども、どうぞ、ほんの少
しだけ、あの村へ薬を届けるしばらくの間だけ、城を離れることをお許しください」
 彼は口を開いた。許さぬ、と一言吐きつけて、そのまま背を向けるつもりだった。
 しかし、その前に、こちらをひたと見つめる娘の視線に出会って、言葉を失った。言葉
を奪われたのだ、闇を統べる王が、たかが小娘のまなざしひとつに!
 娘は闇の王の黒衣の裾にすがり、必死のおももちでこちらを見あげていた。小さな唇は
見えないほどに噛みしめられ、頬は紙のように血の気をなくしている。しかし目ばかり
は、大きく見開かれたその双つの瞳ばかりは、地獄の火をともす闇の王の目に相対してな
お、まばゆい夏の空と澄みきったその輝きに、同じくまばゆく燃えていた。細い首も肩も
手も、木の葉のように震えていたが、片手で握りつぶせそうなその小さい姿に、彼は、ま
ったく言うべき言葉を見失ったのであった。
「……好きにするがよい」
 ややあって、彼の口から出たのはそんな応えであった。長衣の裾をはらって娘を突きは
なし、背を向けて足早に城へとむかう。
「なんでも好きなものを持っていけ。どこへでも、好きなところへゆけ。余は知らぬ。た
かが人間の娘ひとり、失ったところで余に何ほどの損失でもない。戻る必要もない。勝手
に、どこへでも、好きなところへ行ってしまえ」
「貴方さま!」
 何事かを叫びかける娘の声が聞こえたが、もうそれ以上は聞かなかった。彼は城内へ戻
り、扉を閉ざした。暗黒と、静寂と、地の底から立ちのぼる瘴気が闇の王を包みこんだ。

52 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】14/182010/07/12() 22:32:36




「……貴方さま」
 やさしい声がそう呼びかけたとき、彼は我にもなく幻聴を耳にしたのだと思った。
 娘が城を出たという報告を受けて、どれくらい経ったのかは記憶になかった。いずれに
せよ城の混沌のうちでは時間の流れは意味をもたない。彼自身の記憶も、あいまいになっ
ていた。鬱々とした数日を玉座に座り通して過ごした気もする。かと思うと苛々と立ちあ
がり、意味もなく衝動的な怒りの発作をほとばしらせて、城内の魔物どもを震撼させたお
ぼえもある。
 しかしもっとも頻々として頭に浮かぶのは、ただこの主人のいない精霊界の離宮の庭に
来てひとり座り、世話をする者のない花園と、食物の並ぶことのない石の食卓をぼんやり
と眺めているおのが姿だった。
 それは想像だったろうか、それとも事実だったのか? 実際に自分はそこへ行って、帰
らぬとわかっている鳥を待つように、ただ茫然と座りつくしていたのだろうか? いずれ
にせよいま彼はそこにいて、からの食卓の前で、心なしか元気のない花園の薔薇をうつろ
に見つめていたのだった。そしてその声はやわらかな風のようにやってきて、思わぬ愛撫
を彼の聴覚に与えたのだった。
「ただいま戻りました。遅くなりまして申しわけございません。できるだけ、人に見つか
らぬように歩かねばならなかったものですから」
 長い金髪が流れて頬を撫でた。娘は軽い足取りでそばを通りすぎ、彼の前に膝をついて
両手を取った。
 少し疲れているように見えた。指先は荒れ、頬は泥や枝がかすってできたらしい傷に汚
れていたが、仕事を果たした安堵と満足感が、以前よりもまして彼女を輝かせていた。
「薬は村の教会の、聖母御堂の祭壇に置いてまいりました。なくなった場合の処方と、与
え方を記したものもいっしょに。聖母子像の足もとに、白百合といっしょに重ねてまいり
ましたから、きっと村人たちは、天なる母が村の窮状を救うために、奇跡によってもたら
してくださったと考えることでしょう」
「そなたは、それでよいのか」
 口から出た声は驚くほどしわがれていた。これほど長いあいだしゃべらなかった期間は
絶えてないような気がした。
「薬を置いたのは造りもののマリアではない。そなたであろう。かつて吸血鬼に食われる
ようにと、奴らが差しだした娘が救いをもたらしたのだ。そのことを知らしめずによいの
か。奴らに以前の行為を後悔させてやろうとは思わなんだか」

53 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】15/182010/07/12() 22:33:16

「そのようなことをしてどうなりましょう。わたしはもう、あの村にとっては死んだも
の。幽鬼が薬を与えたとしても、信じてなどもらえません。聖母の奇跡と思ってもらった
ほうが、村人のためでもあり、わたしのためでもあります」
「薬を与えたとなれば、今いちど村に迎えられるかもしれなかったではないか。なのに、
何故戻った。ここは人食いの魔物の城」
「お約束いたしましたもの」
 握った手を、娘はそっと頬にあてた。吸血鬼の冷たい、血の匂いのする手を頬に当て、
安堵するかのように微笑んだ。
「必ず戻ると、お約束いたしました。それに、あそこではわたしは用のないもの。必要な
のは薬であって、わたし自身ではございません。ここには、わたし自身を必要としてくだ
さる方がおられます」
「余か」
「貴方さまです」
「口幅ったいことを。人間が」
「無礼と思われたならば、お許しくださいませ」
 闇の王の手を両手で包んで、娘は彼を見あげた。ああ、夏空の瞳、あの日の妻と同じ。
彼はふたたび混迷に落ちこんでゆく自分を感じた。
「貴方さまがわたしをなぜ救ってくださったのか、わたしの上にどなたを重ねておられる
のか、それはわかりません。けれども、わたしがここにおりますことで、貴方さまをお慰
めすることができるならば、わたしはそれでよいのです」
「余を慰めると?」
「はじめてお見受けしたとき、なんと悲しいお顔をなさる方だろう、と思いました。村人
が噂していたような、血に飢えた恐ろしい化け物ではなくて」
 冷たい手のひらにむかって、娘はそっと囁きかけた。
「そうして貴方さまはわたしを生きながらえさせてくださいました。さまざまなわがまま
も、聞いていただきました。わたし自身に目をかけていただけたなどとは、うぬぼれてお
りません。けれども、わたしが貴方さまにとって何らかの意味をもつのであれば、それ
が、わたしにとっては嬉しいのです。
 両親が亡くなって以来、よこしまな心でわたしに近づいてきた者はいくたりかおりまし
た。けれども貴方さまのように、まるで壊れ物を扱いかねる少年のように、こわごわとわ
たしに触れてくださる方はおりませんでした。貴方さまはあまりに長く孤独でいらっしゃ
ったので、ご自身のお心すら扱いかねていらっしゃるように感じます。それほど感じやす
く、さびしいお方を、どうしておひとりで置くことなどできましょう」

54 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】16/182010/07/12() 22:33:48

 彼は口を開けた。この思い上がった人間の娘に向かって、きわめて辛辣な言葉を吐いて
やるつもりだった。けれどもそんな言葉は何ひとつ出ず、ただ彼は、崩れるように身を折
って娘をかき抱いた。
 娘はしなやかで温かく、やわらかな髪は樹と花の香りがした。闇の王の頭はゆたかな胸
に預けられ、黒髪と金髪がもつれるように混じりあってこぼれた。
「ここに──いてくれ」
 ややあって、ようやく呻くような声がもれた。胸の奥、自分自身でさえ忘れ去ってい
た、はるか遠くの過去からこだましてくるような、かすれがちなそれは囁きだった。
「余から──離れるな。どこにも行くな。ここにいてくれ──ずっと。虜囚ではなく、自
由な意志をもって。ここにいると、どこにも行かぬと、言ってくれ。どうか」
「行きません」
 幼い子供を撫でるように、娘は闇の王の髪をやさしく梳いた。
「どこにも、行きません。けっして、離れはいたしません──貴方さまがそうとお望みに
ならないかぎり、また、どうにもならぬ人の定めが、死が、わたしを連れてゆかぬかぎ
り、おそばにおります。貴方。愛しいお方」
 ああ、と彼は吐息をついた。エリザベータとエリザベート、ふたつの影が、彼の裡でひ
とつに重なった。彼は妻を愛し、この娘を愛していた。二人は魂を同じくする違う人間だ
ったが、魂の根幹において、彼女たちはひとつだった。そしてそのひとつの部分におい
て、彼女は彼を愛し、彼は彼女を愛していた。今にして、それがわかった。
 吸血鬼は涙をもたぬ。泣くときは血の涙を流す。娘の衣を汚すことを怖れて彼は顔をそ
むけようとしたが、娘は自ら手をのばして、油のようににじんできた、古血の色の涙をぬ
ぐった。
「愛しい女よ」彼は呟いた。
「エリザベータ──エリザベート。リサ。わが妻よ」
 彼らは長いあいだ抱き合ったままでいた。枯れて丸まりかけていた花園の植物が、少し
ずつ生気を取りもどしつつあった。長いあいだ庭を離れていた小妖精たちが集まってき
て、木々のあいだからおっかなびっくり、戻ってきた娘と、その腕に抱かれてぴくりとも
せぬ闇の王の姿を、目をまるくしてのぞき込んでいた。娘は十七歳になっていた。

55 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】17/182010/07/12() 22:34:23

 婚礼の準備は慌ただしく行われた。女主人が戻ってきたことに有頂天になった侍女たち
は、ここぞとばかりに彼女を飾りたてた。これまで与えられたすべての衣装が引き出さ
れ、点検され、縫い直されて、新しいものが仕立てられた。黒小人たちは花嫁のための華
麗な装身具を作るのに必要な宝石と貴金属を手に入れるために、行ったことのないほどの
地下深くにまで潜らねばならなかった。軽やかな空気の精たちの手で休みなく織機が動
き、またたくまにまばゆいばかりの花嫁衣装が縫い上がっていった。
 列席するのはごく少数のものに限られた。闇を統べる王が人間の妻を娶ることを、快く
思わないものも多かったからである。〈死〉もそのひとりであった。
 ──賢い判断とは思われぬ、我が主。
 準備を指図する主に向かって、陰気な顔を黒い頭巾に隠した〈死〉はうつろな声で進言
した。
 ──あの女は人間、いつか老いて滅びるとはすでに警告した。そばに置くならば、血の
口づけを与えて闇の花嫁となされるべきであろう。よいことではない。
「汝の主は余か、それとも汝か」
 不機嫌に彼は答えた。
「かつて奪われた者を、運命が返してよこしたのだ。なぜそれを闇に引きずりこむことが
ある。余はエリザベータを人として愛し、喪った。リサもそうする。いずれ喪うとして
も、余は彼女を人として愛する。闇に彼女を染めることはせぬ、決して」

56 古歌-イニシエウタ-【二ノ歌】18/182010/07/12() 22:34:51

 ──今いちど考え直されよ、主。後悔なさるのは主となろう。
「汝の陰気くさい顔にも言いぐさにも飽き飽きだ、〈死〉よ。あちらへ行け。余は余が決
めたように事を運ぶのだ。汝は従者であり、主が余であることを忘れるな」
〈死〉は消え失せ、その後、しばらくは姿を現さなかった。
 婚礼は暗い城の中ではなく、花嫁の住まう精霊界の庭で行われた。純白に真珠と金剛石
を飾った花嫁は、朝露に揺れる咲きそめたばかりの白百合のようであった。またかたわら
に寄りそう花婿たる王は、黒と金に、血の紅に燃える紅玉を飾っていた。
 これほど対照的でありながら、まるではじめから一対であったかのように似つかわしい
組み合わせであった。介添えを務める精霊の侍女たちは口々にほめそやし、列席を許され
た数少ない闇の貴族たちでさえ、人間の花嫁の汚れない美しさに圧倒された。小妖精たち
は飛びまわって花びらをまき散らし、花嫁と花婿の進む先に薔薇色の道を造った。
 神の前で誓う人間のそれとはちがって、この不可思議な婚姻はただ双方の誓いと口づけ
のみがしるしであった。問いかけがあり、答えがあった。指輪のかわりに、ひとふりの剣
が取り交わされた。それはかつてある騎士のものであり、妻の身の護りとして託されたも
のだった。子孫に伝えられた剣はいまその本来の持ち主のもとに戻り、再び、花嫁の手に
渡された。新たな妻の護りとして、新しく結ばれる絆の証として。夫から渡された剣を両
手に受けて、花嫁は嬉しげに剣を抱いた。
 闇の王は数百年前の人間の青年に戻ったように、ふるえる指先で花嫁の面紗をあげた。
小さな白い顔が微笑みかけた。うすく上気した頬と、夏空の色の瞳が見つめていた。
 王は身をかがめ、ようやく取りもどした愛する花嫁に、想いをこめて口づけた。