古歌-イニシエノウタ-【三の歌】

 

 

57 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】1/102010/11/24() 22:47:01

【三ノ歌】

 それは嵐の夜であった。稲妻が木々の梢をかすめ、はげしい雨脚が、幽霊のような白い
影をそろえて湖面をさわがせる一夜だった。陋屋をゆるがす風雨と雷鳴のただ中に、その
女は、割れんばかりに戸を叩く鉄の拳の音をきいたのであった。
 扉のところへ行くまでもなく、戸はあっけなく内側へひらいた。恐怖にとらわれて震え
る女が見たのは、戸がまちを圧するばかりの黒衣に身を包んだ大男と、頭巾の下で昏く燃
えるふたつの眼のみであった。震えおののく女にむかって、男は、雷鳴をも圧する轟々た
る声をとどろかせた。
「この近辺でいちばん腕のよい産婆とはうぬか」
 女は声も出ぬまま何度も頭をうなずかせた。これまでの人生で幾度も赤子を取りあげ、
そのほとんどを生かしてのけてきたのは彼女のひそかな矜持であった。魔女の評判を立て
られることをおそれて、表むきには単なる洗濯女として生計のみちを立てるように見せか
けていたが、その実、彼女は近在の貴族の夫人でさえ、評判を聞きつけて産の手伝いに呼
ばせる腕利きの産婆であった。
「わが主の奥方様にこよい御子がお生まれになる。汝はおれとともに行き、奥方様の御子
のお生まれを手伝うのだ。無事にすむならわが主は汝に大いなる褒美をお与えになるであ
ろう。しかししくじった折りには」
 そこで男は言葉を切った。なんとも不吉な沈黙であった。女は顎をふるわせて何度もう
なずき、言葉にならぬ承諾をつぶやきながら、用意をしようともがくように粗末な寝台か
ら立ちあがりかけた。
「用意などいらぬ。必要なものはすでに用意されている。ただうぬがおれに同道すればよ
いのだ。来い」
 一陣の颱風のように男の黒衣がひるがえった。
 夜着一枚のまま小屋の外へ引き出された女の眼に一瞬映ったのは、全体が鋼鉄でできた
かのように黒光りする、一輛の巨大な馬車であった。はげしい雨の中で、その四方には蒼
白い鬼火がおどり、繋がれた黒い馬の眼は血色に爛々と輝いている、──と見たとたん、
乱暴に馬車の中に放りこまれ、戸が閉まった。恐怖のあまりかぼそい悲鳴をもらして身を
丸めた女の周囲で、熱のない火をやどした水晶の灯火がゆれた。身体をささえる贅沢な座
席は、古血を思わせる黒に近い紅のビロウドであった。

58 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】2/102010/11/24() 22:47:34

 外で雷鳴がとどろいた。雷鳴よりなおすさまじい、黒衣の男の叫び声であった。男は御
者席にあがり、外套をひるがえして鞭をふるった。蒼白い鬼火の光に、女はその手に人な
らぬ刃物のようなかぎ爪と、もつれた獣毛を見たと思った。
 しかし血色の眼の馬があがき、駆けだすと、もはや何も見る余裕はなかった。猛烈な速
度で馬車は迅った。雷鳴も嵐も、その速度には追いつけぬようであった。むしろそれ自体
がひとつの嵐であり、竜巻に運ばれる地獄の車であった。女は座席にうずくまり、震えな
がら、口中に必死に祈りの言葉を唱えつづけるしかなかった。
 どれほどの時間がたったのか、女は感覚しなかった。気がつくと、馬車は停まってい
た。扉は開き、黒衣の男が、その横に佇立していた。
「出ろ」唸るように男は言った。
「主は奥方様を案じておいでだ。行け。迎えが来ている。よいか、必ずやりとおせ。しく
じろうものなら──
 頭巾の下で刺すような瞳が光った。その下で、突き出た口と牙が期待するように鳴るの
を見たような気がして、女は震えあがった。夜着の前を押さえ、神に助けを祈りながら、
今にも怪物の牙にとって喰われるにちがいないと信じて、鉄の馬車からおそるおそる足を
踏み出した。
 しかし、何も起こりはしなかった。そこは豪壮な城の門前で、荒々しい石組と高い尖塔
がいくつも夜の空を貫いているばかりだった。門は開いており、そこから、ひとりひとり
が高位の貴婦人のような装束を身にまとった美貌の女たちが、心配と気づかいを顔にあら
わして、流れ出るように現れるところだった。
「よくぞおいでくださいました」
 女の手をとり、彼女たちは口々に言った。
「さ、お早く。御子様はもうすぐお生まれになります」
 男と馬車はいつのまにか姿を消していた。女は侍女らしき美貌の女たちに、巻きこまれ
るように城内に連れこまれた。汚れた夜着を純白の麻の着物に替えさせられ、裸足の足に
やわらかい羊毛の靴が履かされる。
「お早く、お早く」と女たちはせかした。
「奥方様はお苦しみでございます。主様にはたいそうなご心痛。どうぞお早く、御子様を
無事に取りあげてくださいませ」

59 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】3/102010/11/24() 22:48:05

 いくつもの昏く、そして豪奢な部屋を通りぬけ、いつの間にか開けた別の宮居に連れこ
まれていた。それまで通りぬけてきた陰鬱な城とはちがって、そこは居心地よくしつらえ
られた、貴婦人のための住まいであった。
 これほど美しく、心をこめて仕上げられた室内を、女はそれまで見たことがなかった。
侍女たちのそよ風のような手に導かれて奥の間へと入ると、広い寝台の上に、あざやかな
金髪を枕の上に広げた、目もさめるばかりに美しい婦人が、出産の苦痛に汗をうかべて、
侍女たちにとりまかれていた。
 侍女たちひとりひとりも美しかったが、この婦人の美貌に比べては、みな太陽の前の星
にひとしかった。苦痛の中でも貴婦人はやってきた女をみとめ、涙ににじんだ目を微笑ま
せて、手を差しのべた。
「貴女がわたしに力をかしてくださいますのね」
 細い声で彼女は言った。
「どうぞ、お願い。この子に、生命を与える、お手伝いを」
 銀の糸をはじくようなその澄んだ声に、女の恐怖は一瞬にして吹き飛んだ。あまりに異
常な体験も、周囲の異様さもすべて忘れて、目の前の婦人の苦しみを少しでも軽くするこ
とでのみ頭が充ちた。「奥様」と思わず駆け寄って女は貴婦人の手を取った。
「どうぞあたしにお任せを。御子様は必ず、ご無事に生まれておいでなさいます」
 貴婦人は弱々しく微笑んで女の手を握りかえすと、ふたたび襲ってきた陣痛に、白い喉
をのけぞらせて悶えた。
 女は半白のもつれ髪をきりりと布で縛ると、周囲であたふたしている侍女たちに次々と
指示を飛ばした。熱い湯と布、舌を噛まぬように咥える手巾、御子が出てきた時に受けと
められるようやわらかな産着の用意。「ゆっくりと息をなさいませ、奥様、」と女は枕頭
に寄りそって励ましの声をかけた。
「御子様は必ずご無事にお生まれなさいます。元気にお生まれなさいます。もう少しのご
辛抱でございますよ、さ、息を吸って、吐いて、さあ」
 貴婦人は言われるがままに乱れる息をととのえ、しだいに間隔を詰めて襲ってくる痛み
に蒼白になりながらも、女の手に寄りすがって呼吸をした。
「さ、今でございます、奥様、力をお入れになって、そう、下腹にでございますよ、あ
あ、御子様です、御子様の頭が見えました、そう、もう少し、もう少し」

60 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】4/102010/11/24() 22:48:38

 噛んだ布の下から漏れる呻き声に、侍女たちはほとんど貴婦人が死ぬのではないかと思
ってでもいるように手を握り合って揺れている。「何をしておいでだい」自分も汗まみれ
になりつつ、女は寝台の足もとにしゃがんで赤子を受けとめる用意をして叫んだ。
「お湯のたらいと、それから布だよ。早くおし。ほら、もう一息でございますよ、奥様、
御子様はもう肩まで出ていらっしゃいます、ああ、もう一息、もう一息」
 ふいに、ざわめきを打ち破るような高い泣き声が響いた。産婆の手の中にすべり落ちた
赤子が、この世の空気をはじめて吸って上げた、勝ちほこるような産声だった。慣れた手
で臍の緒をくくって断ち落とし、侍女たちがあわてて捧げた盥の湯に、小さな足を蹴って
泣く赤子を、そっと浸す。
「男の子でございますよ、奥様、ご立派な若君でございますよ」
 夢中で女は口走った。血と粘液を洗い落とされた赤子は、もう泣いていなかった。湯の
中に、母とよく似たあわい金髪がゆらゆらと広がり、ぱっちりと開いた澄んだ淡青の瞳
が、不思議そうにこちらを見あげている。
 その瞳に思わず吸いこまれる心地がして、なんと美しい御子だろう、と女は心中に独語
した。白い小さな顔はまるで名工の手になる人形のように整い、生後間もない赤ん坊とは
思えないほどの完璧な美に輝いている。瞳は二つの宝石のよう、白い肌は磨いた大理石よ
りなめらかで、わずかに開いた口には真珠のような白い歯がそろい、やわらかい金髪が雲
のように小さな頭を取りまいて、聖堂の天使の後光めいて輝いている──
 その時とつぜん、冷水を浴びせられたように女の頭上に恐怖がなだれ落ちた。
 ああ違う、これは人間の子ではない。人間の赤子が、生まれ落ちた直後にすでにこのよ
うに美しいはずがない。髪の毛も歯も生えそろい、瞳を大きく開けて、見えるものすべて
にけげんそうにまばたいている完璧な子など、いるはずがない。これは何か魔性のもの、
この世ならぬ生き物の子供、在ってはならぬ異形の存在。
 恐怖にひきつった手から赤子を取り落とさなかったのは、ひとえに、ここで恐怖をあら
わにすれば何をされるかわからぬという本能の警告であった。ここへ連れてこられたとき
のあの鋼鉄の馬車と、黒衣の御者の雷鳴にも似た声がふたたび脳裏にこだました。
 女の恐怖を知ってか知らずか、おそらくはこれも人ではないのであろう侍女たちは、無
事に産を終えた女主人の手当てに大わらわであった。汗にぬれた額を冷水で吹き、風のさ
さやきに似た声で何事か語りかけながら、着物を替え、乱れた髪をくしけずり、血にぬれ
た寝具や布を取りかたづけて、寝心地のよい新しい品になおさせている。

61 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】5/102010/11/24() 22:49:10

 貴婦人は出産の疲労にほとんど喪神しているようであったが、それでも侍女たちの心遣
いにうなずき、微笑を返してしているようである。手の震えをなんとか隠そうとしなが
ら、女は盥から魔性の子供を引きあげた。ここで、この悪魔の子の首をひねって息の根を
止めることこそ、神の御心にかなうしわざではないかとの考えがふと頭をよぎった。
 ああ、そのようなことをすれば、どんな災いがわが身に降りかかることか! しかしこ
の魔物の子がこの世に生まれ落ちることを阻止することが、自分がこの場に呼ばれたこと
の神のご意志でないとどうして言える? 悪魔の子! 怪物の子! どれほど美しく、目
に快くとも、それが地獄の生き物の眷属であるのなら、この場で始末することこそが、神
が自分に求めておられる奉仕というものではないのか?
 だが、そのようなことを実行する暇は、女には与えられなかった。婦人の周囲に集まっ
てざわめいていた侍女たちがうたれたように動きを止め、いっせいにその場に膝をついて
頭を垂れた。まるで風になびく花々を見るようであった。
 同時に、すさまじいばかりの威圧と、それまでとは比べものにもならぬ強烈な畏怖が、
女の身体を金縛りにした。赤子の首にのばしかけた手はその場で凍りついた。
 産着にくるまれ、はや眠たげに目を閉じかけている赤子を、わきから伸びた手がさらい
とった。星々のようにまたたく多くの指輪と、蒼白な皮膚の、王侯の手であった。
 衣擦れの音がさらさらと鳴り、衣装の金糸が薄闇にちらついた。豪奢な黒衣と黄金に身
を飾り、ゆたかな黒髪を垂らした美丈夫が、路傍の石を見るように女を見おろしていた。
 またたきひとつしないその双眸に捉えられたとたん、自分が子供を殺さなかったこと
を、女は心底安堵した。もし殺してなどいたならば、この男、おそらく子の父親であろう
この蒼白の帝王は、泣きわめく女の魂を死よりもさらに悪い運命に放りこみ、二度とそこ
から出しはしなかったことだろう。
「汝か。我が子を取りあげたのは」
 魂そのものをうち震わせる声で王は言った。
「では、受けとれ」
 膝の上に重い革袋が投げ出された。金属のぶつかり合う音がした。
 女がそれをふところにかいこんだのは、欲というより、むしろ恐怖からであった。もし
この報酬を断れば、即座に八つ裂きにされるであろうという考えが真紅のまぼろしとなっ
て脳裏を支配した。王はすでに人間の産婆のことなど眼中になく、息子を抱いて、寝台の
上の妻のもとに歩み寄っていた。貴婦人は疲れ果て、血の気を失いながらも、夫と、生ま
れたわが子に手を差しのべ、輝くばかりの笑みを見せた。

62 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】6/102010/11/24() 22:49:54

──余の子か」
「貴方さまの御子です」
「そなたが産んだ」
「貴方さまが産ませてくださいました」
 王はしばし黙した。産まれて間もない息子の顔に目を落とし、やわらかい髪を梳き、完
璧な額と見事にそろった白い歯を、ほとんど怖れているかのようにたどった。子供は小さ
な手をのばし、父の指を珍しげに、ぎゅっと握った。造りもののようなその手の思いがけ
ぬ力強さに、父たる王は、たじろいだように手を引いた。恐れなど知らぬはずの王の瞳
に、ほんの一瞬、戦慄めいたものが駆けぬけた。
 蒼白いまぶたを固く閉じると、父王は産着の中の子供を高くかかげて、「見よ!」と
朗々と轟く声をあげた。
「見よ、そして聞くがよい、わが力に従い、わが王座に臣従するすべてのものどもよ! 
 これはわが血を分けた息子、わが血の血、わが肉の肉なり! この幼き息子をわが血と
権能を継ぐものと認め、今ここに名を与える! 子はアドリアン、アドリアン・ファーレ
ンハイツ・ツェペシュがその名! 勇猛なる古のわが祖の名、またこの子を産みしわが妻
の名において、以後この者に一指すら指すものは、すべて直ちに、わが怒りのもとに打ち
倒されると知るがよい!」
 轟々ととどろく王の叫びが駆けぬけ、こだましながら城館の奥に沈んでいくと、やがて
地の底から、その命令に応じるさまざまな声が、何重もの合唱となって応、応、とささめ
き昇りきて、地を揺るがすばかりの大合唱となった。
『ああ、王よ、われらを統べる偉大なる主よ、われらは王の子の誕生を言祝ぐ。その血と
受けつがれし権能に忠誠を誓う。王の子に闇の祝福を、王よ、われらが王、暗黒の主』
 人間の言葉ではない咆哮も多く入りまじる讃仰の声を、王は黙して受けていた。子はす
でに産着にくるまれて寝息をたてている。もう一度その幼いながらに完璧な顔に目を落と
し、頭を垂れた侍女に子を渡すと、もう一度妻の額にそっと手を置いた。
 青空の色の瞳がやわらかく微笑みかえすのを見て、王はつと踵を返し、敷居をこえて出
ていった。背後で報酬の袋をかかえたまま失神している人間の産婆には目をくれもせず。

63 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】7/102010/11/24() 22:50:33




 女は自分の小屋の自分の寝台で目覚めた。朝の陽光が小窓から弱々しく這いずりこんで
いた。はじめ固いわら布団に背をもたせたまま、嵐の音で悪い夢を見たのかといぶかしん
だが、すぐに自分の身につけている真新しい麻の服と靴、そして、枕元に置かれた膨らん
だ重い革袋に気がつき、同時に、昨夜の恐ろしい体験がすべて真実であったと知って、恐
怖のあまり動けなくなった。
 しばしのち、勇気をふりしぼって革袋を開けてみると、名も知らず、読むこともできな
い文字で銘を刻まれた古代の金貨がざらざらとあふれ出た。また、荒い造りの皇帝や神々
の肖像を刻印された装飾品のほかに、鳩の卵ほどもある一対のエメラルドの裸石も含まれ
ていた。どちらも瑕ひとつなく、五月の木々輝きを内部に閉じこめたように鮮やかな碧に
輝いていた。
 女はこれほどの富と、それが想起させる恐ろしい一夜の記憶にほとんど押しつぶされそ
うになったが、与えられた財宝と衣服一式を持って外に出、村の教会に駆けこむことで折
り合いをつけた。教会の神父は要領を得ない女の話を辛抱強く聞き、それが悪魔のもたら
した財宝であるなら、神の家に納めることによって浄めることは自然であると教えた。女
は胸をなで下ろし、罪の赦しとひきかえに、莫大な財宝を神のしもべに渡した。
 ふたたび粗末な身一つになって足取りも軽く女が帰っていくと、袋を受けとった神父は
すぐに金貨を机の上に開け、存分にその輝きと手ざわりを楽しんだ。
 それから慎重に溶かして地金に替え、一部を自分用に取りのけておいて、黄金の十字架
を鋳造させて、教区の大司教のもとにうやうやしく送り届けさせた。一対の巨大なエメラ
ルドが、神を讃えるふたつの瞳のように上部に輝いていた。この贈り物を嘉納した大司教
は、神父をやがてもっと大きな教区の教会に転任させ、司教の位階を与えた。これには神
父がこっそりふところに入れた金の残りも大いに役だった。
 そして正直な産婆は変わらずつましい暮らしを送りながら、しばらくの間は悪夢にうな
される夜をすごしたが、それもやがて忘れっぽい人間のこと、異様な一夜は夢の奥に遠ざ
かり、忘れ去られた。

64 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】8/102010/11/24() 22:51:11



 しかしこれらは闇を統べる王にとってまったくかかわりのないことであった。産まれた
ばかりの息子と、愛する妻の元からもどった王は、陰鬱な玉座に崩れるように腰をおろし
て顔をおおった。
 幼子の澄みきった瞳と絹糸のようなあわい髪、神授のように粒のそろった美しい歯並び
が彼を苦しめた。それはまさに、彼の子が人でないものの血を引いたあかし、尋常の生ま
れではない徴にほかならなかった。子供の見惚れるような真珠色の歯の列に、すでに、小
さな犬歯のような異常な尖りをもった歯が存在するのを、彼ははっきりとみとめていた。
『我が主よ。何をお悩みか』
〈死〉のいんいんとした声が響いた。
「余はわが子にいったい何を与えたのだ」
 顔をおおったまま呻くように彼はいった。
『闇の王冠を』
 間髪入れずに〈死〉は応じた。
『暗黒とそこに住まうものどもすべてを統べる権能を。すべてに勝る力と地獄の恩寵を。
永遠の生と若さと美を保ちうる肉体を。人という塵を越える、完璧なる生命を』
「余はよい。かまわぬ」
 王は従者の応えなどほとんど耳に入れてはいなかった。
「余はみずからの選択によって人であることを放棄し、闇の王となった。それはよい。だ
が、あの子供は、息子は、余の子に生まれるという運命であったがために、生まれながら
に闇の軛につながれることとなってしまった。余はあの子の髪を見た。揃った歯を、すで
に備えられた牙を見た。あの子供は人と余と、昼と夜の血を同時に継いでしまった。選ぶ
ことさえ許されずに」
『人の血など、抜いてしまえばよろしかろう』
 しごくあっさりと〈死〉はいった。
『奥方を人として置かれるのは我が主のご意向。枉げられぬ。しかし御子息は人と魔双方
の血の結晶。放置すればいずれ、御子息自身がお苦しみになられよう。ならば下賤な人の
血など早くに抜きさり、闇の貴公子としてお育てなさるがよろしかろう。すでに人には遠
いお生まれ。人は、少しでも己らとはちがうものを怖れる』

65 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】9/102010/11/24() 22:51:48

 王は答えなかった。妻から、リサから子ができたと知らされたときの歓喜と、同時に身
をつらぬいた恐怖と不安がよみがえった。思えば遠い昔、かつての妻エリザベータは、そ
の身のうちにわが子を宿したまま死んだのであった。妻と子を同時に喪ったと知った自分
は神を呪い、策略を弄して闇の帝王となった。
 そのことはよい。自ら望んだことである。しかし妻がぶじ子を産み、その子を目にした
とき、彼は胸にこみあげる大きな愛情とともに、かつての自分の呪いが、すべてわが身に
はね返ってきたことを知ったのであった。
 わが息子、血をわけた愛しいわが子。しかしその血のために、子は望みもせぬのに人で
も魔でもないたそがれの生を歩むことになってしまった。人はおそらく、あの子を受け入
れまい。しかし闇に身を浸しきることもまた、なかばを流れる人の血が拒むであろう。そ
うしたすべてが、父たる自分のもたらしたことなのだ。父として祝福と愛を注ぐかわり
に、呪われたこの身が贈ったのは、闇にも光にもなれぬ幽明の生命とは──
『我が主よ。どうぞご決断あれ』
──あの子供は、人の子として育てる」
『なんと申された。御子息は闇の王の子。人の子などに身を落とす必要がどこにあろう』
「あれはリサの子だ。リサが人であるなら、その息子も人として育つべきだ」
 語気をつよめて彼はいった。
「余は父としてあれに生を与えた、だが、望みもせぬものまで与えてしまった。あの子が
成長し、みずから望んでそれを選ぶならばよい、だが、望まぬのならば、母と同様ひとと
して暮らさせてやるがよい。それが父の愛であり、せめてもの償いだ」
『償いとは、なんの償いか。御子息は闇の帝王の嫡子、望むなら、天地のすべてさえ統治
する御力をお持ちになろうものを』
「煩い、〈死〉」
 片手をうち振って、王はかたかたと音を立てる従者を払いのけた。
「余が決したことだ。主が余であることを忘れるな。さがれ、〈死〉。貴様の骸骨顔は見
たくもない。余はもはや血をすすらぬ。人の血はわが糧とはせぬ。妻と子とが人としてあ
るならば、せめてはこの身も、あらんかぎりは人としてふるまおう。たとえ餓えかつえよ
うとも、少なくともわが妻が人としての生を終え、息子がおのれの道を選ぶまでは、余は
ふたたび、人としてあれらの前にありたい」
『それでは御身が保ちますまい』

66 古歌-イニシエウタ-【三ノ歌】10/102010/11/24() 22:54:04

「それが何だ? どうせこの身は不死なのだ。飢えようが渇こうが、人が食物をとらぬの
とは訳がちがう。そう、兎や鳥の血をすすってもよい。それなら人が家畜の肉を喰らうも
同じであろう」
『人の血は御身の単なる糧にあらず。そこに含まれる恐怖と混乱、憎悪と死へ向かう生命
の最後のひらめき、それこそが御身の御力の元なれば、獣の血では身の養いにしか』
「ならば力などふるうまい」
 なかば恍惚として彼はいった。
「余が望むのは永遠の中のただ一時、人としてわが妻と息子と暮らすことのみだ。力など
要らぬ、支配など望まぬ。余は喪ったものを取りもどした。今は少しでも、あの者たちと
ともに生きたい。欺瞞に過ぎぬとは承知している。だが、ひとときの夢を余は見たい」
〈死〉は何もいわなかった。
「余を裏切った神が、奪ったものをこの手に返してきた」
 うっとりと彼は両手をあげた。かつてそこから引きちぎられた、愛と幸福をなつかしむ
かのように。
「もう一度、あの憎悪と絶望の前にこの手にしていたものを、胸に抱くことを許された。
 哀れな子に黄昏の生を与えたのは、父たるこの身の罪だ。母が人としての死を迎えるま
では、あの子も人として生きさせよう。選ばせるのはそれからでよい。いずれ人とは生き
られぬ運命ならば、ただこの城でそばに置き、心のなぐさめともしよう。母に似た子だ。
やさしい心の子であろう」
〈死〉は姿を消していた。暗い玉座の間に、王は独り座していた。血の気のない両手は虚
空に向かって差しのべられ、離宮に眠る妻と息子を、いつくしむように抱いていた。