古歌-イニシエノウタ-【四の歌】

 

 

67 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/12011/03/28() 00:15:33

【四ノ歌】

 幸福な日々は河のようにすぎていった。闇に閉ざされた長い年月にささくれた王の心
に、なだめのさざ波のようにやさしく触れながら。彼は息子が成長するのを驚嘆の思いで
見守った。生まれた直後から驚くべき美しさをもっていた彼の息子は、日を重ねるごとに
ますます美しく愛らしさを増した。揺り篭で眠る赤ん坊は聖画の智天使の美をそのまま映
したように、完全で濁りがなかった。玩具のような手に触れ、その指の思いがけない力を
感じるとき、王は第一日目に感じたのと同じ驚嘆と歓喜を心中に抱くのだった。
 母親となったリサは乳母を使わず、自らの乳房を赤ん坊に含ませた。母の腕に抱かれ、
ふくよかな胸に頭を預ける子の姿は、大理石の聖母子像が生きて血肉を持ったかのようだ
った。しかしある日、息子が乳を飲むところに立ち会っていた彼は、眠り始めた子供を揺
り篭に戻し、服を合わせようとしている妻の胸に目をとめて驚愕した。
「血が出ている」
「はい」
 なんでもないことのように妻は答えた。小さな歯が開けた穴が乳首の周囲に点在し、血
がまだ糸を引いて流れていた。彼女は血を拭い、胸元のリボンを結んだ。
「この子は乳と血の両方を必要としています。ですからわたしはその二つを与えるので
す」
「しかし、おまえは傷ついている」
「母親とはそういうものです」
 親指をくわえて寝息をたてる息子のやわらかい髪に指を通しながら、妻は微笑んだ。
「子供の必要としているものを与えることができなくて母親と呼べますでしょうか。ご心
配には及びません、貴方さま、わたしはこの子のためならば、命も魂も与えるのです」
 吸血鬼と人とのあいだに生まれた子は、成長するためにもまたその双方の糧を必要とす
るのだった。妻のもとから自らの城に戻った王はうちしおれ、妻子をこのような運命に引
きずりこんだ自分の愚かさを、何度目ともわからぬほど呪った。そしてまた、どのような
運命が息子に用意されていようとも、母親がこの世にあるかぎりは人間として育てるのだ
という決意を新たにしたのだった。

68 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/22011/03/28() 00:16:12

 子供の成長は、澱んだ時の流れに流れこんだきらめく清流のようだった。やがて乳離れ
した子供は揺り篭を出て元気よく床を這いまわり、目についたものをなんでも口に入れて
は、世話をする侍女たちと母親を笑わせた。夜ごとにやってくる父親にも無邪気にまとわ
りつき、膝に這いあがってまわらぬ舌で何事か話しかけ、黒髪の房を不思議そうに弄ん
だ。子供を抱く父の手は魔法の品物を抱くように恐ろしげで、怯えてすらいるようだっ
た。
「そんなに怖がらなくてもよろしいのです。子供というのは、意外に丈夫なものですわ」
 妻に笑われても、自らの息子というあまりにも小さく不思議な奇跡を目の前にすると、
これまで破壊と憎悪を無造作にまき散らしてきたこの手が、膝の上の愛くるしい子にまで
害を与えるのではないかと感じられてならないのだった。
 しかし、子供は臆することなく父親になつき、呼びかけ、体温を持たない青ざめた肌に
ふっくらとした頬をすりつけてきた。おそるおそる抱きしめると、細い骨とふっくらとし
た肉付きの下に、力強く脈打っている心臓と生命の炎が見えた。純粋な人間のものとは違
っていたが、それはまぎれもなく、自分と、妻との血と魂が混ぜ合わせられて生まれた
存在なのだということを実感させた。王は頭を伏せ、霞むような巻き毛になりはじめた息
子の銀色の髪に、祈るように顔を埋めた。
 赤ん坊は成長し、つかまり立ちを始め、やがてよちよちと歩き出した。静かな精霊界の
離宮の庭が、走りまわる子供のせわしない息づかいと笑い声に騒がせられるようになるの
にいくらも時間はかからなかった。子供は精霊の侍女たちや、翅をもつ小妖精たちを相手
に、人間の子供がけっして知ることのない奇妙で謎めいた遊戯をした。しなやかな手足は
日ごとに若木のように成長し、銀の髪は長くふさふさと伸びて、背のなかばを越すまでに
なった。
 薔薇と薬草の園の世話を母とともにするのも大きな楽しみだった。母は手作りの菓子や
飲み物を篭に入れて野に出、幼い息子にひとつひとつの薬草の名前や効力、組み合わせに
よって生まれるさまざまな薬効、毒であっても使用に気をつければ奇跡的な妙薬となる植
物のことを教えた。授業が終わると食べ物の篭を持って薔薇園に座り、侍女たちの給仕を
受けながら、母子二人で午後の茶会を楽しんだ。あたりには小鳥にまじって、小公子がす
っかり気に入った妖精たちが蝶や蜂の翅で群れ飛び、こぼれた菓子やパンの分け前を狙っ
ている。母子は笑い声を上げながら甘い蜂蜜菓子や砂糖煮の果実を手に乗せてさしだし、
取り合いの喧嘩を指先で引き分けて、仲良く分けて食べるようにいってきかせた。

69 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/32011/03/28() 00:16:49

 そして夜になれば、黒衣の長い裾を引いて父がやってきた。精霊界には人界における意
味での夜は存在しなかったが、父の吸血鬼としての性質は、人界の太陽の存在に影響を受
けずにはいられないのだった。誰にも告げられることはなくとも、子供はそのことを察し
ていた。父から受けついだ、吸血鬼の血が語ったのかもしれない。夜しか自分たちのもと
へ来られないことを、父が悲しんでいることも知っていた。そこで子供は飛びつくように
して父を迎え、その日にあった楽しみ事をすべて報告するのだった。母に教わった薬草の
知識や、爽やかな森の空気や、薔薇に囲まれた午後の茶会や、小妖精たちにきちんと行儀
よく食べるように説教してやったことなどを。すると父は蒼白な顔にかすかな笑みを浮か
べ、大きな手で髪を撫でてくれるのだった。口数の少ない父ではあったが、母と同じく、
心から自分を愛してくれていることを、本能的に子供は悟っていた。


 そして同じころ、領主の暴政と、狭量な聖職者たちの貪欲に苦しみ続けていた村のひと
びとに、不思議な噂が拡がりはじめていた。
 話の中で、その男はあまりにも追いつめられ、ついには家の中には麦粒ひとつ、赤ん坊
に飲ませる水一滴すらなくなってしまったため(井戸の使用には税金がかけられ、使用量
は厳密に役人によって量られていた)、絶望の極に達し、このような人生を続けるなら森
の魔物に喰われた方がましだと考えてただ一人、夜の森に入った。明かりもないまま、月
明かりに照らされた木立を抜けて歩いていくと、しだいに木々は密になり、闇の天蓋のよ
うに空を覆った。しかし奇妙なことに足もとの道だけは彼を導くように蒼い光を放ちつづ
けていた。心をなだめるようなその光に導かれて歩きつづけていくと、行く手に、鋼鉄と
黒い石でできた巨大な城門が、霧と木々の間から姿を現した。門は夜の中でさらに昏く、
陰鬱で、影と闇から編まれているように見えた。その後ろに控えた城の影はさらなる威容
を誇り、岩の巨人のような輪郭はいくら見あげても天守のありかが目に入らないほどだっ
た。

70 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/42011/03/28() 00:17:24

男は震えあがった。自暴自棄になって森へ入ったものの、いざこうして昏く闇に属して
いると一目でわかるものを目にすると、弱い人間の魂は本能的に頭をかかえて縮こまろう
とした。けれども彼が回れ右をし、その場から走り去ろうとするより先に、鎖の音を立て
ながら城の跳ね橋がおりてきて、地面についた。中から明るい光を手の上に浮かべたこの
世ならぬほど美しい女が出てきて、白い手をのばしてゆっくりと男を差しまねいた。
 男がなぜそれに従ったのかはわからない。女の美しさに惑ったか、それとも、森に入っ
た当初の目的を思い出し、恐ろしい怪物に喰われるよりも姿なりとも美女であるものの手に
かかりたいと願ったのか。いずれにせよ男は美女に連れられて城の中へ入った。外部と
同じく陰鬱な部屋部屋のいくつかを通りぬけたが、薄明に浮かびあがるその調度や装飾
は、彼がいかなる教会や王侯のもちものにも見たことのないすばらしさだった。足音だけ
が響く長い通路をぬけると、女は男を、何本もの蝋燭で照らされた美しい小部屋に導い
た。
 あまい薔薇と蜜蝋の香りが部屋を充たしていた。おおぜいの、いずれ劣らぬ美しい侍女
たちに囲まれて中心に座しているその貴婦人を見た瞬間、男はうたれたように跪いた。天
使のような、いや、天使よりも美しい銀髪の幼児を膝に抱き、五月の空のように青いドレ
スの裾を長く引いたその貴婦人は、聖母マリアの地上に降臨なされた御姿に間違いないと
思われたからだった。
 這いつくばって震えながら聖母の祈りを捧げる男に、貴婦人はヴェールの下から笑みを
含んでやさしく、何も怖がることはありません、と告げた。それから、わたしは聖母様な
どではありません。あなたと同じ、ただの人間の女です。
 俺に何のご用でしょうか、とおそるおそる男は尋ねた。貴婦人は見るもまばゆく、侍女
たちの美貌もその前では満月の前の星のように薄れて見えた。
 あなたにお願いしたいことがあります、と貴婦人は言った。
 貴女様のお言葉ならどんなことでもお聞きいたします、奥様。
 わたしの夫であられる方は、と彼女は、その一言に無限の愛情をこめて告げた。
 人の血を飲まなければ身を支えていけないお方です。今は人ではなく、ほかの動物や鳥
の血を飲んで渇きを癒しておられますが、そのためにあの方が苦しまれているのをわたし
は知っています。わたしはあの方のお苦しみを少しでも軽くしてさしあげたい。

71 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/52011/03/28() 00:17:59

 それではここが、噂に聞く吸血鬼の魔王の城なのか。男は総毛だったが、目の前に腰か
けて顔を俯けている貴婦人の優美な姿と声から、とうてい離れることはできなかった。
 あなたが辛い暮らしをしていることは知っています、と貴婦人は続けた。家族に着せる
布一枚ないこと、食べさせるパンも、麦も、水一滴すらないことも。絶望してこの闇の森
に入ってきたことも、わかっています。
 もし、あなたがこの城に来て、わたしとわたしの夫を助けてくださるのならば、城はあ
なたと家族の暮らしを支えることを約束します。住む場所も、着る物も、食べ物も、必要
なだけ与えましょう。畑を作って、自分たちの食べる分だけの作物をこしらえることも許
しましょう。ただ一つ、ある義務を果たすことだけを約束してくださるならば。
 その義務とはどんなことでございましょうか、奥様。
 月に一度、と貴婦人は、いくらか悲しげに目を伏せて言った。
 月に一度、盃に一杯の、血を絞ってわたしの夫に捧げてくださるならば、あなたの暮ら
しは必ず守られましょう。これは魔法や魔術ではありません。また、いかなる闇の契約を
も意味しません。わたしはただ、夫を、そしてわが子の父親を愛する人間の女として、あ
なたにお頼みしているのです。
 貴婦人はひたむきな眼差しを男に向けた。その瞳はドレスと同じ、明るい五月の空の色
だった。
 血を捧げたからといって、闇に対する忠誠を求められることはありません。もしそのつ
もりならばミサを唱え、聖なる方への信仰を維持することもできます。血はただこの城に
とどまり、生活を支えるための代償であると、そう考えてください。あなたの生活を食い
荒らし、水の一滴からまで貢ぎ物を搾り取ろうとする領主や聖職者のかわりに、わたしが
求めるのは夫のための血をほんの少し、それだけです。
 男が答えられないでいると、貴婦人は微笑を浮かべて、もちろん、強制するつもりはあ
りません、と言った。
 あなたはいつでもここから出ていっていいのです。考える時間もあげます。これをおと
りなさい、と差しだされたものは、摘み取られてまだ間もない、朝露に濡れた一輪の白薔
薇だった。

72 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/62011/03/28() 00:18:32


 もし、わたしの願いを聞いてくださるのであれば、いつの夜でもいいのです、また森に
いらしてください。そしてこの薔薇を、森の大地の上に置いてください。城の門はあなた
のために開かれるでしょう。家族ももちろん、いっしょに連れてきてかまわないのです。
どうぞ、落ちついてよく考えてから、取るべき道をきめてください。
 言葉を切ると、貴婦人は侍女たちを従えて立ちあがり、銀髪の子をあやしながら、衣擦
れとともに出ていった。茫然として取りのこされた男に、ふたたび、明かりを持った侍女
の一人が近づいてきた。彼女は一言も口をきかぬまま男をもとの門まで送り、外へ出し
た。
 後ろで巨大な扉が閉まる轟音が、男の正気を呼びもどした。ふり向くと、そこにはうっ
すらと霧の漂う森の闇があるばかりだった。手には馥郁と香る白薔薇が露にきらめき、ふ
ところには大きなパンのかたまりとチーズ、葡萄酒の革袋が詰めこまれていた。茫然とし
て顔を上げると、自分があとにしてきた村の入り口が、すぐそこに見えていた。かすかな
薔薇と蜜蝋の香りが、服や髪に染みついていた。

 この話を隣に住む同じような境遇の友人にして聞かせたあと、男は村から姿を消した。
妻も子供たちもいっしょに。
 薔薇はいつまでたっても新鮮さを失わず、汚れきった小屋の悪臭さえ消し去るほどだっ
た、と男は友人に聞かせた。与えられたパンとチーズは家族全員が十二分に食べるまでな
くならず、葡萄酒の袋はいっこうに空になることがなかった。信じようとしない友人に、
男は咲きほこる白薔薇を見せた。真珠母とエメラルドで刻まれたようなそれは、たった今
切りとられてきたかのように朝露にしとどに濡れ、甘やかな芳香を放っていた……
 そのようにして、噂は少しずつ広まっていった。城に招かれ、貴婦人を目にすることが
できるのは、罪がなく、ごく正直で、しかも、どうしようもなく追いつめられている者に
かぎられた。飢えのあまりに領主の森の鹿をひそかに殺した若者は、そのために凶暴な猟
犬に追いつめられ、八つ裂きにされるところを貴婦人に救われた。無慈悲な親に売られ、
娼婦として男の慰みものになる運命から森へ逃げこんだ娘は、明かりを手にした人ならぬ
侍女に迎えられた。食いつめた親から口減らしのために捨てられた子供は、星のように輝
く翅のある妖精に導かれて、鉄と黒曜石の城の大門の前に出た。

73 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/72011/03/28() 00:19:07

 泥棒や強盗、人殺し、詐欺師や奴隷商人などは、いくら望もうともけっして招かれるこ
とはなかった。村人たちが消えてゆくという噂に苛立った領主や、これは悪魔の仕業に違
いないと断じた修道士たちも同様に。彼らは大勢で隊伍を組み、松明と十字架を振りまわ
して声高に聖句を唱え、聖水をまき散らしたが、それはただ森の動物たちを不必要に驚か
せたばかりだった。しまいに、酷使された領主の馬が闇で地面の穴に前脚をひっかけ、乗
り手を地面に放りだした。これに驚いた修道士たちの驢馬がいっせいに走りだし、木に突
進して修道士たちのつるつるした剃髪をもう少しで割りそうになったところで、捜索は中
断された。
 消えた人々はだれ一人、その後姿を現すことはなかった。村長たちは彼らを死人として
扱うことに決めた。彼らは森の獣か、さもなくば魔物に喰われたのだ。ほかにどう考えよ
うがあっただろう?

 闇の城のまわりに、小さな、あたらしい集落が生まれはじめていた。家々はどれも質素
だが快適にしつらえられ、そばには住むものの人数に見合った小さな畑も添えられてい
た。精霊界と人界の境界におかれたそこは、精霊の見える人間なら見ることができただろ
うが、入るには、そこの女主人の許しがなければけっして足を踏みいれられなかった。貴
族や修道士などは言うまでもない。はじめは数人だった住人の数は、少しずつ増えていっ
た。
 彼らの熱烈な賛仰の対象は、自分たちを救ってこの地に迎え入れてくれた貴婦人その人
だった。彼女は彼らにとって、何もしてくれない聖堂の冷たい像よりもはっきりとした存
在を持ち、しばしば村の小径を歩いては、われがちに出てきてひと目でも救い主の姿を見
ようとする村人たちにやさしく声をかけ、手をとり、困ったことがないかどうか問いかけ
た。
 唯一の条件として提示された、月に一度、杯いっぱいの血を差しだすという約束は、肉
どころか骨の髄まで搾り取っていく外の世界の統治者たちとくらべれば、天国のようなも
のだった。人々はくじ引きで順番を決め、当番にあたった者は誇らしい気持ちで手首を傷
つけて血をため、貴婦人にささげた。いくらか悲しげに微笑み、傷ついた肌をさすって丁
寧な感謝の言葉を口にした。傷に塗るようにと渡された軟膏はさわやかな香草の香りがし
た。

74 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/82011/03/28() 00:19:43

 貴婦人と、その夫である「尊いお方」に、人々は心から感謝した。たとえ血を飲むこと
が必要であろうと、支配者であるその王は彼らを生かし、外界の圧政から救い出してくれ
たのだ。彼らは血のほかにも、作った作物からささやかな献上品を捧げた。素朴な焼き菓
子や刺繍をした毛織物、木ぎれから刻んだ子を抱く貴婦人の像。子供たちは野に咲く花を
集めて花束や花輪を作り、やってきた貴婦人にわれがちに投げかけた。貴婦人は笑って子
供たちを撫でてキスし、いい子ねと話しかけて、赤い頬をもっと赤くさせた。村のあちこ
ちに薔薇の生け垣ができ、四季を問わず咲き乱れた。貴婦人を表す白薔薇と、そして、そ
の夫である血の王を示す紅薔薇が、常に並んで植えられていた。


 妻がしいたげられた人間たちを救い、彼らから血を受けとっていることを、むろん王は
知っていた。その相談を持ちかけられたとき、彼は反対した。反対したというより、拒否
したのだった。人の血をすすることは、彼にとっていまや恥ずべき所行となっていた。裏
では悲鳴をあげる家畜の血を絞って飲んでいたとしても、せめて妻の前では、何もかわら
ぬ人間のふりをしていたかったのだ。
「でもわたしにはわかります。貴方さまのお苦しみが」と妻は言った。
「恥ずべきは人に害を与え、理不尽な苦痛を与える行為のみです。生きるために糧を必要
とするのは、なんら恥ではありません。わたしたちが食糧として肉や野菜を口にするよう
に、貴方さまは血を必要となさるというだけのこと。もし誰にも害を与えず、納得の上で
血を与えてくれるものがいたとしたら、貴方さまのお苦しみも少しは楽になるでしょう。
どうぞやらせてくださいませ。わたしの主人は、貴方さまでいらっしゃいます。貴方さま
のお許しがなければ、なにひとつ、できないわたしなのです」
 そして彼は妻の懇願を受け入れたのだった。
 妻はしいたげられた人々を集め、城の周囲に住処をあたえて、月に一度、彼らから受け
とった血を夫に届けさせた。息子が生まれて以来、動物の血しか口にしていなかった彼
に、人間の血は確かな活力と、深い満足を与えた。

75 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/92011/03/28() 00:20:18

 しかしそれは、自分が人の血をすするおぞましい生き物であるということを再確認する
ことでもあった。その苦悩も、妻は察しよく受けとめていた。空になった血の盃を陰鬱な
顔つきで見つめている夫に近づき、その手をとって、彼が血を欲すること自体は何も悪い
ことではないともう一度語ってきかせた。圧政から救われた人々が、どれだけ彼に感謝し
ているかをも。そして村人たちから捧げられたささやかな手仕事の成果や、菓子や花輪を
見せ、紅薔薇と白薔薇を上手に組みあわせて編まれた花冠をも見せた。かぶる者を傷つけ
ないように、薔薇の刺は注意深く削り取られ、茎はしっかりと編まれて凝った網み目で周
囲を飾っていた。妻はそれを夫の額に乗せ、髪を撫でつけた。
「貴方さまは彼らの救い主なのです」と彼女は言った。
「その冠はそのしるし。どうぞ彼らの気持ちを、無駄になさらないでくださいまし」


 そしてまた、時は流れた。銀髪の美しい子供が七歳になろうとするころ、城に新しい来
訪者がたてつづけにやってきた。
 一人はやせ細ってほとんど裸の、今にも息絶えそうな傷ついた少年で、汚れてもつれた
髪の毛はくすんだ銀色だった。背中には鞭で叩かれたあとが縦横に走り、腹にも頭にもは
げしい殴打のあとがいくつもあった。火を押しつけられたらしい火傷痕が脇腹や内股の柔
らかいところに残り、額は割れてまだなまなましい傷が口を開いていた。
 侍女たちの手で城内へ運びこまれ、手当てを受けた彼は、どうしてここへやって来たの
か覚えていないと言った。ここから遠い、ある村で暮らしていた彼は、幼いころから動物
の言葉を理解し、人の思いや先に起こることを見通す不思議な力の持ち主だった。そのた
め、悪魔の子供と怖れられた彼は、小さいころから呵責ない虐待を受け、ついにある日、
住んでいた家に火を放たれて焼かれそうになった。唯一、ずっと彼の味方でいてくれた母
親が、自らを犠牲にして彼を逃がしてくれた。そこから先はよくわからない。ただ苦痛と
悔恨にさいなまれ、自らの運命を呪いながら死を願って歩き回り、力つきて倒れたあと、
この城で手当てされている自分に気がついたのだと。
 城主たる闇の王は、この少年に秘められた生まれつきの巨大な魔力を感じとった。磨き
をかければおそらく、闇の貴族にも匹敵するであろう大きな力に。その力がおそらくこの
城を引き寄せ、招きもしないのに城門を自らのもとに出現させたのだ。生きるために。

76 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/102011/03/28() 00:20:57

 そしてこの少年がようやく起き上がれるほどになったころ、また新たな訪問者があっ
た。
 これは兄と妹の二人連れで、忘れ去られた古代の呪法を使い、闇の城の存在する次元へ
の扉を開いて、やってきたのだった。兄は燃えるような赤毛と刺すように鋭い瞳をした少
年、妹は、怯えた顔のまわりに明るい金髪を垂らして、心細げに兄の服の裾を握ってい
た。
 少年は闇の王の前で怖れげもなく名を名乗り、自分たちは太古から連綿と繋がる魔力を
継承する一族の、その生き残りだと告げた。
 一族はかつては人々の中に生きていたが、しだいに魔物や悪魔の使いとして排斥されは
じめ、山奥の隠れ里に身を隠すようになった。だが、ついにその里も見つけだされて焼か
れた。生き残ったのは自分と妹二人だけ。もはや人間の世界に、兄妹の生きる場所はな
い。一族に伝わる伝承の中に、闇の世界を支配する王と、その居城への門を開く呪法があ
った。それを使って、自分たちはここへやってきた。どのような条件も受け入れる。どう
か、自分たちをここに受け入れ、魔術と闇の力の修行をさせてほしい。
 これらの闖入者に対して、はじめ王はどのような態度をとるべきか決めかねた。境遇の
違う少年ふたりと少女ひとり、しかしその秘められた魔力には確かなものがある。先に現
れた少年──ヘクターと名乗った──は、生存本能に押されてとはいえ、呪法に頼らず闇
の世界の扉をこじ開け、城を引き寄せるだけの潜在能力を持っている。そしてもう一人─
─アイザック、と胸を張って言った──は、太古から引きつがれてきた強力な魔力の血筋
を確かに受けついでおり、狭い里で何代も重ねて練りあげられてきた魔力の高まりは、赤
毛の少年の燃えるような目に如実に表れている。
 彼らを城のまわりの村に住む人々に交ぜるわけにはいかなかった。彼らはある程度魔法
を受け入れてはいるが、この少年たちは、結局はただの人間でしかない彼らとは根本的に
ちがう存在だ。いずれ外で受けたのと同じ恐怖と疎外が、彼らを外へはじき出すだろう。
 何よりも、野放しにされた魔力ほど危険なものはない。ヘクターとアイザックの持つ力
はまだ未完成で、あやうい均衡で爆発から遠ざけられているだけだった。少しでも扱いを
誤れば、人間というもろい殻は一瞬にしてはじけ飛び、盲目にして貪欲な力の塊が、犠牲
者を捜して世界をさまようことになるだろう。それは人間たちにとっても、また闇を支配
する王たる彼にとっても、避けなければならない事態である。

77 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/112011/03/28() 00:21:30

「でしたらあの二人は、貴方さまのもとで教育なさればよろしいでしょう」
 考えあぐねた彼に助言を与えたのは、やはり妻だった。
「余のもとで。余が教えるのか。子供を」
「子供というほど幼くはありませんわ」ヘクターは十歳、アイザックは十一歳だった。し
かし厳しい暮らしが彼らの魂を大人びさせていた。
「二人は魔力を持っています。誰か導いてやるものが必要です。そして、この世界に貴方
さま以上に魔術の扱いに通じた方がいらっしゃいますでしょうか。この先彼らが幸せに成
長するにも、立派な大人になるにも、貴方さまのお導きがあれば安心でしょう。あれだけ
の力を持つのなら、大きくなればきっと貴方さまのお力にもなります。それに」
 抱いた子供をあやしながら、彼女は悪戯めかして微笑んだ。
「この子にも、そろそろ人間のお友だちが必要ですわ。──いっしょに勉強したり、遊ん
だり、取っ組みあって喧嘩したりできる誰かが」
 妻の真意がどこにあったにせよ、彼はこの忠告を受け入れた。ヘクターとアイザックは
小さな部屋をそれぞれ与えられ、新しい衣服と靴をひとそろい貰った。小さな公子の小姓
となるのに恥ずかしくない小綺麗な服だった。身に秘めた魔力のおかげで、彼らはなみの
人間の入り得ない闇の城を自由に歩き回れた──主たる魔王の許しがあってこそだった
が。
 また妹──ジュリアといった──については、妻が自ら手もとに話し相手として引き取
り、礼儀作法とともに、薬草の知識や賢女としての心得、女性の手仕事などを教えた。精
霊の侍女たちははじめこのおびえた顔の少女を軽蔑していたが、そのうち、彼女にも兄ほ
どではないが、太古の魔力が宿っていることを知って、ささやかな魔法を──もつれた糸
を使って人を惑わす方法や、人の瞼に振りかけて眠り込ませたり、自在に恋に落ちさせた
りする不思議な粉薬の作り方を伝授しておもしろがった。
 七歳になった小公子は、城の図書館に棲む老爺から初等教育を受けはじめたところだっ
た。ヘクターとアイザックもそれに加わった。ほとんどの庶民と同じくヘクターは読み書
きができず、アイザックは一族の口承で呪文を教わっていただけで、文字についてはヘク
ターと同様だったので、七歳の子供の勉強仲間としてはちょうどよかった。

78 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/122011/03/28() 00:22:06

 気がやさしい素直なヘクターに、小さな公子はよく懐いた。手をつないで歩く銀髪の公
子とヘクターは、公子の髪が月光のように淡くきらめく銀、一方ヘクターは少し錆びた銀
という違いはあったが、実の兄弟のように仲睦まじく見えた。多少狷介な気のあるアイザ
ックの崇拝の対象は常に師であり、闇と魔術の王である魔王その人にあった。公子はその
師の息子であり、それ以上のの存在ではなかった。公子に対して大仰なまでにうやうやし
く接することで、彼は愛情の代わりに礼儀を払って公子に接した。
 午前中彼らは図書館で老爺の出す課題を解き、午後には精霊界の離宮の庭で、剣や組み
手の訓練をした。そして三人が疲れて空腹になると、いつも離宮から公子の母君が輝くよ
うな姿で進み出て、少し休憩になさいとやさしい声で呼びかけるのだった。侍女たちが五
人分の食べ物と飲み物を運び、行列の最後には、大きすぎる盆をかかえた小さなジュリア
が真っ赤な顔で身体をそらして、慎重に歩を運んでいた。
 ジュリアを含めたみんなが席についてしまうと、奥方は侍女たちを下がらせて、四人の
子供たちの本当の母のように菓子を切りわけ、飲み物を注いで、勉強の進み具合を尋ね
た。この菓子も飲み物もみんな、母上がご自分でお作りになったのだと公子は自慢げに言
った。ジュリアもよく手伝ってくれましたよ、と横から母がやさしく口を添える。みん
な、ほんとうによい子たち。アドリアン、スプーンで悪戯をしてはいけません。ヘクター
にアイザック、その果物を食べてしまって、もう一つケーキをお取りなさい。
 庇護者である魔王に強い忠誠と尊崇の念を募らせていたアイザックも、このやさしい奥
方に関しては特別な思慕を抱かずにはいられないようだった。公子を除いてここに集まっ
たのは、みな親のない子、親をなくした子、誰からも愛されず人から憎まれてきた子だっ
た。奥方の笑顔と隔てない愛情は、彼らの乾いた心に慈雨のように降りそそいだ。ジュリ
アが女主人を見あげる目は、まさに女神を見るようだった。剣の訓練でできたかすり傷に
やわらかい指で薬をつけてもらうとき、アイザックの尖った瞳は年相応にやわらぎ、魔王
に愛された女性の輝く顔を、あこがれの目で見あげた。
 そして夜になると、少年たちは城の一室に顔をそろえ、闇の王が現れるのを待った。夜
の訪れとともに目覚める王は、黒衣に暗い色の紅玉と黄金をきらめかせてゆったりと歩ん
でくるのが常だった。自らの息子とその二人の学友の顔をじっくりと見回し、前夜までの
課程を一人ずつ復唱させると、その夜の授業にとりかかった。どれをとっても人間のいま
だ触れたことのない秘密の扉が、少年たちの前で次々と開かれていった。水を吸いこむ砂
のように、少年たちは秘密の知識を貪欲に吸収していった。

79 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/132011/03/28() 00:22:40



 やがて公子は十歳になった。父たる王は息子を正式に騎士として叙任し、成人たること
を認める儀式を執り行った。彼がまだ人間であったころ、息子を持つことを夢見ていたこ
ろに、思い描いていた式典が華麗に繰り広げられた。
 城の玉座の間の一角には一時瘴気を追いはらうための徹底的な結界をほどこした観覧席
が設けられ、人である妃が式典に列席できるように、特別な配慮が払われた。同様に式典
に出席した闇の貴族たちにとっては憤懣の種だったが、この人間の女性にどれだけ王が愛
着を抱いているか、またその身にいかなる形であろうと非難や攻撃を浴びせたものがどの
ような目にあうか知りつくしていたので、不満は態度に出さず、王妃として、また公子の
母として彼女が粛々と席につくのを、貴族らしい鷹揚な慇懃さで迎えた。
 十歳の公子はすらりとして美しく、しなやかな若木のように高く頭を上げて頬を上気さ
せていた。母の見守る前で、玉座にかけた父の前に跪き、剣を肩に触れられながら、誓い
の言葉を澄んだ声で述べた。父は儀式に使った剣を鞘に収め、騎士の最初の佩剣として、
また成人を迎えた子への父母からの贈り物として、その場で息子に与えた。
 その剣こそ、かつて彼が人であったころ、妻であった女性のもとに自らの代わりとして
遺した剣であり、その血を引いた現在の妻の守り刀でもあった。剣は長い時間を経て幾人
もの人々の手を過ぎ、もとの持ち主の息子の手に戻った。
 十歳の公子にとってその長剣はまだ少し長すぎ、佩くと鞘の先端が床に届くほどだった
が、父母の心のこもった贈り物を受けた少年は成人を認められた誇らしさと喜びに目を輝
かせ、着せかけられた長衣をさすっていた。身につけるにはまだ大きい鎧や盾も剣に合わ
せた意匠のものが造られ、同じく贈り物として、玉座の間の片隅に安置されていた。また
城の周囲に住む村人たちからも、救い主であり寛大な支配者である王の子息の成人に際し
て、心づくしのパイや菓子、花、素朴な彫刻や刺繍が山と捧げられていた。
 この場で同時に、公子の二人の従者の成人の儀も行われた。それぞれ十三歳と十四歳に
なっていた彼らは、正式に闇の宮廷での地位を認められ、人間でありながら王のかたわら
で今後も魔術の奥義を究めることを承認された。これもまた列席した貴族たちにとっては
不快のもとだったが、王手ずから教育したこの二人が、人間としては驚嘆すべき魔力を持
つに至っていること、闇の者でさえ手の届くもののほとんどないような高度な魔術でさえ
使いこなすようになっていることを考えると、表立って文句の言える者はなかった。

80 古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/142011/03/28() 00:23:13

 この日を境に、公子と従者たちの道は微妙に分かれた。それまで三人兄弟のようにいつ
もともにいた彼らは、二人と一人にわけられた。
 王の息子として、成人した公子は高貴の生まれに義務づけられた教育、王たることの意
味、真の高貴さと誇り、勇気と力の意味を学ばねばならなかった。生まれながらに身体に
流れる闇の王の血、その強大な力を制御する術は、人間のそれとはおのずから違ったもの
にならざるを得なかった。
 また、そうした闇の帝王学を修めるとともに、知らなければならない知識も膨大にあっ
た。父の統べる闇の世界に巣食う魔物と有力な貴族たち、その名と力、性向、勢力と本体
の能力、詰め将棋にも似た闇の者の手口とその交渉の方法、また闇の世以外にも数多く存
在する異界、そこに棲息する想像を絶した異質な存在、彼らを利用し、あるいは交渉する
特別の言語、数多く存在する異界の通路と落とし穴、戦いの方法……
 兄同然に慕う二人とともにいられないことを公子は悲しんだが、身につけた剣を撫で、
もう大人なのだからと自らに言いきかせた。辛いときにはいつも母がいて、やさしい声と
手で涙を拭ってくれた。
 そして二人の従者たちは、将来、公子が王たるときに備えて、ますます魔術の研鑽に励
んだ。気がつけば彼らは、無から有を生み出す究極の禁術──悪魔精錬術をさえ、その身
につけるようになっていた。自らの魔力を結晶させ、そこからまったく新しい生き物を造
り出すこの禁術は、闇の貴族の中でもごく限られた者しか使えず、しかも、生み出すばか
りかその生き物を成長させ、はるかに強力に進化させるなどという技を使えるようになっ
たのは、闇と人の二つの世界を通じても、この二人しかいなかった。
 二人はいつしか、ほかの貴族たちを押しのけて魔王の側近となり、二十歳にも満たない
身ながら、その双の腕として働くようになっていた。兄同然の二人が父に信任されている
のを見て、公子はよろこんだ。
「私も父上のように立派な王になるから、二人とも私にも変わらず仕えてほしい」と無邪
気に公子は頼み、実直なヘクターは感極まって幼い主を抱きしめた。
「もちろんです、若君はいつでも俺のご主人です。いつまでも、俺はあなたに心を込めて
お仕えします」
 アイザックはいくぶんさめた目でこれを見守っていたが、公子の明るい目を向けられる
と、瞳をなごませ、胸に手をあてて軽く礼をすることで返事に代えた。